続いているので実質前後編ですが、タイトルは変えています。
「花を……探しに来たんですけど……」
冷やかしであれ本当のお客さんとしてであれ、母校北宇治の生徒がバイト先にやって来た。ただそれだけの事で浮き足立つ自分が、どこか滑稽に映っていた。
「あの……えっと」
目の前の女子が一人目の来客だとかそもそも花屋に花以外を探しに来る方が変だ、とややこしい思考を思い巡らせる俺をその後輩から現実に引き戻される。
いらっしゃいませと声を掛けておいて放ったらかしにされかけたんだから尤もだ。急いで脳内のスイッチを接客モードに切り換える。別名滝先生風敬語モード。
「失礼しました、どういった物をお探しで?」
「その……品種とか名前はよく知らないんですけど、何かを部屋に飾りたくて」
「そうですか。よろしければどのようなお部屋に飾られるのか、お伺いしてもいいですか?」
「親戚が集まる為の和室があって、そこの床の間を飾れたらと思ったんです」
床の間は確かあれだ、これぞ和室って感じの場所に掛け軸があったりするあの空間。それから外で花壇に植えるガーデニング目的と違い、どちらかと言えば室内の観葉植物を求めている。だとしたら苗よりは切り花を求められていて、それらしい花瓶があると良い。
「でしたらそうですね……お花もですが、花瓶等があればより綺麗に飾ってあげられるかもしれません。ご自宅にそれらしい花器はお持ちでしょうか?」
「実はその、花を飾るのは初めてで……花瓶も花屋さんで買えるのかなと」
「花瓶もこちらでご用意出来ますよ。お部屋や花に合わせた物を後程選んで頂ければ」
「あ、ありがとうございます」
そうなると問題は主役の花そのもの。親戚が集まる和室に沿う空気感とか、この子自身の好みに合わせた品種を考えてあげたい。周囲の趣向を反映させたいのか、自分の好きに選びたいのかで方向性は全然違う。品種も名前もよく知らないのなら、求めている色とか形を知りたい。
「肝心の飾られるお花ですが、お客様の好きな色や雰囲気があれば教えていただけると幸いです」
「色……雰囲気……」
「はい。お買い求めになられるのは初めてだと仰ってましたので、よりお花選びがしやすくなればと」
ところで一通り任される様になったとはいえ、未だに片手で足りる程度の経験しかない。見てきた花屋の仕事の流れを思い出しながら接客をしているが、ほぼ自己流の接客になっている気がしなくもない。店長曰くオッケーらしいけど、お客さんの求める物は千差万別。品種も本数も、その目的すらバラバラなのが花屋のお客さんだった。
そんなバイト生活で培ったアドリブで好みを聞いてみると、歯切れの悪そうにしていた目の前の後輩がしおらしいというより、独り言に近い掠れ気味な声で語ってくれた。
「…………青」
「はい?」
「っ、その……濃い青色、群青色が好きで。こういう感じの色なんですけど」
こっちがアドリブで接客をしているなら、高校生になったばかりのこの子もまたアドリブ。群青色がどんな色なのかを伝えようと、新しい通学鞄から本を取り出しその表面を指差した。
どんな本なのか分からないのは、指を差している本そのものにブックカバーを被せているから。きっとこの子は、群青色はこういう色なんだと俺に教えたかったんだろう。お陰でどんな花を勧めるか想像しやすくなった。
「少々失礼しますね……なるほど、こういう色がお好みでしたら丁度入荷したばかりの品種がございます」
この場で待ってもらう様に言い残し、入学式の荷物を置いたバックヤードに戻る。慌てる必要はない、勧める品種も決まっているし、それが置いてあるのもこの目で確認しているからだ。
先入観で語るなら、花にも野菜や果物みたいに鮮度や開花する時期がある。梅雨に咲く紫陽花とか、夏場の日照りを求めて咲く向日葵とかがそうだ。他の花にもそういう季節がある物ってのがバイトを始める前の先入観。
でも近頃はそうでもないらしい。開花時期がずれていても温室栽培だったり管理が行き届くようになった結果、年間を通して欲しい品種を仕入れられる事が増えた。個人でも管理さえ出来れば、種の段階から育てられるんだとか。
「よいしょっと」
これから勧めるこの花もそういう管理が行き届いた結果、通年での仕入れを可能にした品種らしい。置いた際にイメージしやすくなればと考えて売り物の花瓶に水を張り、その花を一輪挿してから持ち運ぶ。そうしてバックヤードから群青色の花弁が顔を出す。
「こちらなんて如何でしょう、お客様が見せて下さった色見本に最も近い色のお花かと」
「可愛……綺麗……」
「デルフィニウム、という品種です。花びらが白や紫の物も存在しますが、本日仕入れたばかりなので新鮮ですよ。花瓶もお花の雰囲気に合わせてみました」
このデルフィニウムは本来、一ヶ月は後が主な開花時期の品種。花屋で売られる春の花といえば、チューリップとかスイートピーにミモザ。ガーベラなんかもよく注文が入ったりする。どれもこれも青系統の色とは遠いからこそ、今日仕入れたばかりのデルフィニウムは割と珍しくて貴重だったりする。
「本来開花時期は来月なのですが、温室栽培によって時期を問わず流通するようになりまして。その中でもスプレー咲きという咲き方をしているんです」
「スプレー咲き……?」
「細い茎が枝分かれした先に小さな花弁が付いていますよね。このような咲き方をスプレー咲きと呼んでいます。それを利用してブーケやアレンジメント、一輪挿しに多く用いられる事が多いんです。他にも太い茎に稲穂みたいに付いている品種もございますが、お客様のご要望にはこちらが合うのでは、と。如何でしょうか」
花瓶の底から花びらの先まで、そのお客さんはまばたきを忘れてまでまじまじと見つめている。真面目そうに見えて可愛い物が好きなんだろうか。
数秒だけ見惚れているような表情になったと思えば、何を思ったのか顔を振り、凛とした顔でこちらを見た。その表情や佇まいからは普通の高校生よりも大人びた雰囲気を漂わせている。
「…………これ、ください。その花瓶も、一緒に」
「本当にこちらでよろしいですか?群青色に近いお花でしたら他にもございますよ」
「これがいいです。きっと、部屋にも合うので」
「畏まりました」
どうやらこの子のお気に召したらしい、他にも青系統の花はあるのにこのセットがいいと言い切った。その言葉を聞いてから売り渡す為の準備に取り掛かる。
「飾る時の注意点とか、長持ちさせる方法とかがあれば……」
「そうですねー……ご自宅に持ち帰っていただいた後ですが、茎の切り口を斜めにカットして下さい。水の吸い上げが良くなります。それから水換えは一日に一回されるといいですね、その際に食器用の洗剤なんかを一液垂らすと菌の繁殖を防げて効果的です」
脱脂綿を湿らせ茎先を包みアルミホイルで覆って輪ゴムで括る。その上から透明なフィルムで包み込む。生花を飾るアドバイスもこの手順も、これまでバイトで見てきた物の受け売りに過ぎない。でもきっと、上手くやれている。
「水は少量で構いませんが、高温多湿にならないよう注意していただけるとより長持ちします。床の間と仰られていたので日光は直接当たらないかと思われますが」
「そこは大丈夫だと思います、丁度日の当たらない場所なので……」
「でしたら良かったです。それでは準備が整いましたので、支払いと商品のお渡しをあちらで」
レジまで後輩を案内し、会計に取り掛かった。カウンターには包装された一輪のデルフィニウムと、和室に合いそうな陶器の細い花瓶を並べてある。店頭に陳列する前の商品だったので、手打ちで金額を打ち込んだ。
「あの……」
金額を打ち込む最中、おずおずと後輩が俺に話しかけてくる。
「どうかなさいましたか?」
「その、どれくらい日持ちしますか?世話を欠かさなかったとして」
個人的に一番悩む質問が飛んできた。俺自身は家で花を育てている訳じゃないし、それこそ受け売りの知識しか持ち合わせていない。裏で作業中の店長ならパッと答えられるだろうけど、今は手が離せない量の注文を捌いている。
「デルフィニウムはですね、所謂一年草となってまして、言ってしまうと発芽や開花にエネルギーを沢山使う品種なんです。頑張ってお世話をしても数週間、でしょうか」
「そう、なんですか」
「本来の見頃を迎える来月、再来月もありますのでこのデルフィニウムも頑張ってくれれば……もう少々長持ちするかもしれません」
花の寿命の話を聞いて、何処か思い悩む表情をしている。その雰囲気は何処となく他人を寄せ付け難い、ある種の気難しさをここに来て初めて醸し出していた。なんというか、花を飾るという行為をとても真面目に考えてる。性根が優しい子だ。
そんな事を脳内に浮かべている最中に、金額の計算が終わる。デルフィニウム一輪と花瓶の合算。
「こちら、デルフィニウムが一輪と花瓶の合計金額となります。如何でしょうか?」
「っ、大丈夫です」
「はい、では丁度お預かりします」
そう言うと少し慌てて濃い青色の財布を鞄から出し、お金をトレーにそっと置いてくれた。こうやって思慮深く考えてくれる子が育てて飾ってくれるなら、このデルフィニウムもきっと頑張って長持ちする。高校生活で初めて接した北宇治の後輩に、心の内でそっとエールを送った。
「それではこちら、ご注文のデルフィニウムと花瓶となっております。花瓶は陶器ですので、割れない様に気をつけて下さいね」
「は、はい」
生花用の大きめの袋にデルフィニウムと花瓶を入れて、名前も知らない後輩に手渡した。しっかり受け取ったのを確かめてから、レジ袋から手を離す。
ところで、この子が来店した時から気になっていた事が一つ。平然と喋ってたけど、入学式の直後で教科書から体操服やらの備品も通学鞄とは別に持っているのに、顔色一つ変わってない。財布を取り出す時以外その備品が入った袋を降ろそうともしていなかった。おおよそ女子に言うべきでない言葉を思い浮かべそうになったけど多分、俺より体力はあるかもしれない。仕草やしおらしさは間違いなく女子なのに、凄い後輩だ。
「お買い上げありがとうございます。またどうぞ〜」
「あ、ありがとうございました」
床に置いた備品を再び持ち直し、黒髪の後輩が店を後にする。大荷物だろうにブレない体幹から察するに、体育会系の部活にでも入るんだろうか。どの部活かは分からないけど、この子が入るかもしれない部活の未来は明るい。多分。
「あの……」
店の出口もすぐそこ、といった所でこちらを振り返り、声を掛けてきた。何か忘れ物でもあったみたいな、或いは思い出した、みたいな。
「なんでしょう?」
「えっと、訊きたい事があって」
「大丈夫ですよ、何かご不明な点でも?」
「その、人違いだったらごめんなさい…………もしかして、北宇治高校の人、ですよね?」
花に関する質問だと身構えていただけに、何故か冷や汗が頬を伝う。エプロンの胸元の名札には苗字が書いてある。接客していた短い時間の中で名乗ってないだけで、間違いなく名前を知られている。
「……ええ、まあ」
「っ、あの!去年の文化祭でもピアノを、さっきの入学式でも階段の辺りでキーボードを弾いてました……よね?」
「……えー、まあ、確かに」
「あのっ、私──矢田先輩のファンです!文化祭の演奏で、ファンになりました!」
「……はい?」
「そっ、それだけです!失礼しました!」
言いたい事だけ言ってしまうと、その後輩は駆け足で店から去ってしまった。
去年の時点で北宇治の外にバレていたのは分かっていたけど、それがこうなるとは思ってもみなくて開いた口が塞がらなかった。進級初日からあの田中先輩とは違うベクトルの台風がバイト先に訪れるという、個人的には波乱の展開。さっきの後輩も恐らく狙って探してなかったとは思う。
一先ず、そんな俺がやれる事といえば……。
「……口外も相談もしない方がいいよなあ、此処であった話」
後輩と俺自身の為にも黙して語らず、それだけだった。真面目そうな、それでいて高校生になったばかりの女子が、理由はさておき打ち明けてくれた秘密の話を。
新学期、もとい二年生の一学期の初日。去年とは違う類いの期待やら不安を抱えたまま階段を昇る。二年生の教室は全体的に一階上にある分、廊下や教室から望む景色もこれから一年間違って見えると思うと、それはそれで楽しみにしている。こっちが期待の方。
不安の方もまた、これから一年間通う教室にある。
「おー、ちらほら来てる」
その不安ってのは、昨日発表されたクラス分けにある。去年は滝先生が担任を持つ一年五組だった。それがなんと──今年は二年三組。しかも井上さんや堺さんどころか、塚本も同じ組にならず……ほぼ俺だけが違うクラスに移された事だった。塚本は塚本で六組になったらしいが、同じ吹部の二年男子である瀧川と同じクラスだと明かされた。
こっちも同じクラスだった友達がいないと言えば嘘になるけど、元一年五組の連中はほぼ二年五組として進級している状況が少し寂しくはあった。同じ五組だったよしみで身を寄せ合って生きるか、なんてそいつと肩を組んで話していた記憶が新しい。
そんなクラス分けも、別に悪い報せばかりじゃなかった。
「お、おはよう矢田君」
「おっ!おはよー釜屋さん、先に来てたんだな」
意外な人達とクラスメイトになれた事。その一人に釜屋さんの存在があった。
「喋れる人と同じクラスで良かったー……本当に」
温かい緑茶を飲んだ後みたいな溜め息を吐き、釜屋さんは心を落ち着かせた。人見知りの気がある子の喋れる人、と表現する所に若干闇を感じるけど、俺がそんな子の喋れる人枠にいるのはまあ嬉しい話だったりする。
「そんなにありがたがる話か?いやまあ分かるけどさ」
「う、うん。一年生の時は話せる人、殆どいなかったから。クラスでも吹部の子とは話せてたけど、B編成で仲良くなってからだったし……その子は他に友達もいたし……」
「あーそういう」
釜屋さんと初対面した頃、井上さんがそれとなく人見知りだから話せなくても気にしないでね?と紹介された覚えがある。それがどの程度だったかと言われると想像でしかない。が、この自己申告は本当だろうという説得力を今の釜屋さんは持ち合わせている。
「まあそのあれだ、少なくともこれから一年間はお互い仲良くしよう。な?俺も今の三組で話せる奴はほぼいないし」
「う、うん。でもそっか、矢田君も順菜ちゃんとか万紗子ちゃんとは別のクラスなんだっけ」
「おう、でも同じ三組になった奴もいるぞ。教壇の所で踊ってるあいつとかな、よく塾の補修を受けてるけど」
「……なんでタップダンスなんだろ」
「さあ?面白い奴なんだけど俺にも分からん、話せば釜屋さんとも仲良くしてくれると思うぞ」
「か、考えとくね……」
自薦も他薦も人見知りな釜屋さんがこれだけ話せるなら、多分大丈夫だとは思ってる。二年三組としても、吹奏楽部員としても。
「でも吹部の奴とは話せてたんなら、今年は大丈夫じゃねえのか?だって──」
「おっはよーつばめ!それから矢田も!」
「お、おはよう葉月ちゃん」
「おはよー加藤さん──ほら、吹部の奴と同じクラスじゃねえか」
新しいクラスには、これまた新しい出会いがある。田中先輩直属の後輩だった加藤さんは、今年から同じクラスになったその一人。
釜屋さんと仲が良いのは、去年同じB編成になったかららしい。俺は殆ど話した事のない子だけど、釜屋さんも加藤さんなら喋れる。そんな雰囲気を昨日の顔合わせでは漂わせていた。
「なんの話?」
「んー、これから一年間仲良くしようぜって話」
「お互いに知らない人ばかりだったから、同じクラスになれて安心してたんだ。だから矢田君とか、葉月ちゃんが一緒で良かったって話をしてたの」
「なるほどなるほどそういう事でしたか……おっけー!それじゃ改めまして、一年間よろしくっ二人とも!」
性格的には正反対な加藤さんと釜屋さんがどうやって仲良くなったのかは謎ではある。でも、釜屋さんの良い味方である事は間違いなさそうだった。
ただし多少気に掛けてあげるべき点があるとすれば、それは加藤さんとの関係ではなく……。
「皆さん、おはようございます!」
「おはよー……みんな早いね」
「おっはよー緑に久美子!重役出勤ってやつですな!」
「そんなに遅くないでしょー、ホームルームはもうすぐだけど」
釜屋さんが川島さんと黄前さん、この二人との距離感を微妙に遠ざけている所。
加藤さん自身はチームモナカであって、田中先輩が居た低音パートの人間だ。そこ同士で仲良くなるのはまあ分かる。
「おはよー二人とも、昨日はありがとな」
「こちらこそありがとうございました!またセッション出来たら緑は嬉しいです!」
「私からも言っとこうかな〜……手伝ってくれてありがとね、優子先輩から頼まれたんだっけ」
「正確には中川先輩を仲介した吉川先輩に頼まれた、って感じだけどな」
「そ、そんなに回りくどかったんだ……」
そのパートがまるで違うと話せないしそもそも話さない、というのが今の釜屋さんの態度に出ていた。
正直ご尤もではある。全体練習では態々喋らないだろうし、パート練習ともなると物理的に教室が離れている。同じ楽譜をなぞっても、パート毎に違う時間を共有するのが吹奏楽部だ。現に釜屋さんから挨拶をしようとしていない。正直、もう少し会話のある関係だとばかり思っていた。これじゃあ、あくまでも顔見知りレベルの関係。
「つばめちゃん、おはようございます!部員の勧誘頑張りましょうね!」
「お、おはようつばめちゃん」
「……おはよう」
折角交わされた挨拶も、俺や加藤さんとのそれに比べて明らかに態度が違う。声色も微妙に小さい。まだ呼び方や居心地に戸惑っているのか、目尻を微妙に下げて視線も泳ぎ気味だ。最大限譲歩出来たのが今の挨拶な気がしなくもない。まだ、ぎこちない。
そんな挨拶を交わした直後、朝の始業を報せるチャイムが鳴る。それを聴いた生徒達は一斉に席へと着く。もう少し駄弁るクラスメイトが居てもいいとは逡巡したけど、そうはしてられない事情をその担任が形成していた。
「もう席についているか。昨日と変わらず良い心掛けだな」
二年三組担任、松本美知恵。生徒間でのあだ名は軍曹先生。松本先生が声を発するだけで引き締まるこの雰囲気は、眠気すらも吹き飛ばす。確かに部活の絡まない滝先生と比べれば厳しい先生ではあるものの、そこまでピシッと正さなくても……というのが俺の主観である。眼光の鋭さで固まるクラスメイトもいたが、松本先生は鋭いだけで厳しくはない。その実思慮深い先生なんだからと言って回りたい位だ。
その松本先生は教卓に両手をついて、静まり返った教室を見渡す。
「昨日も似た話をしたが改めて釘を刺しておく、二年生は学校生活にも慣れて進路への焦りも少ない時期だ。その一年間もあっという間に過ぎて行く。だからこそ流されぬよう自分の頭でその生き方を考えろ、悔いのない一年にするんだ。いいな?」
条件反射で「はい!」と吹奏楽部員の皆が返事を返す。昨日の顔合わせでも遺憾無く発揮しすぎているそれに対し一度は半分呆れ、二度目にやっと笑いが起きた。副顧問は副顧問で部活の外での影響力は大きいらしい。
「さて今日のホームルームだが、学級委員長と副委員長を含めた役職を決めて貰う。これも膨大にある時間を無駄に浪費しない為の一環だと思え。他薦でも私は構わんが先ずは立候補を募ろう、この中で学級委員長をやってもいいと手を挙げる者はいないか?」
「──はいはいはい!やります!俺、学級委員長やれます!やらせて下さい!」
先生が台詞を言い切ったその直後を狙い、ほぼ垂直に右手を挙手した。
去年委員長を経験したから、というのもある。それよりも何より、進級してクラスが変わっても俺なりに居場所を作っていたかった。それが学級委員長を引き受ける事で可能にするのなら掴み取るまで。引き締まった雰囲気の中、誰よりも先に先陣を切らせてもらう。
これが俺、矢田明宏の不器用なりの在り方だ。
「ほう、いい返事だな」
先生は表情を崩さず満足そうに頷いた。教壇についたままの手は、所々に皺が刻まれている。
「矢田の他には見当たらないようだが……貴様ら、学級委員長は矢田で構わんのか?構わんのならこのまま名簿に書き込むぞ、本当に良いんだな?」
不思議とさっきより多い「はい!」の数が増えている。明らかに吹部以外からも声が出ている……まあ何はともあれ、背中を押してもらったと思えば立候補した甲斐があったというもの。
「よし、学級委員長は矢田明宏に務めて貰う。次に副委員長だが……名乗りを挙げる者はいるか?名乗りを挙げても他薦でも構わんのだぞ」
去年の一年三組はどうしたか知らないが、五組の方は井上さんがほぼノータイムで手を挙げてくれた。でもその方がレアケースだと経験上体感している。だからこそ、二の足三の足を踏み先生からの檄が飛ぶ──そう思っていた。
「あの、私、やりたいです。副委員長、やらせて下さい」
松本先生からの檄が飛ぶよりも前に、教室の端からゆっくりと手が挙がる。その声は、その手は、俺が想像していたよりもずっと意外な人の、か細いながらもしっかりとした口調で名乗りを挙げた。
府立北宇治高等学校。全国的に目立つような進学実績もなく、また目立つような実績のある部活動も学科すらもない。酷くありふれた公立高校であった立ち位置の北宇治高校には去年、青天の霹靂の如く知名度を上げる出来事があった。それは、北宇治高校吹奏楽部──十年ぶりの全国大会出場という市内でも類を見ない大事件。結果は銅賞で一旦幕を閉じたものの、その快挙は北宇治の横断幕のみならず、コンクールの中継と共に市が発行する新聞や、全国区のニュースでも他校と並んで取り上げられ……。
「はーい新入生も在校生もちゅうもーく。これでみんなの楽器の振り分けは終わったと思います。希望が叶った人はおめでとう、定員や楽器の都合で叶わなかった人はごめんなさい。今日はこの後、それぞれのパートリーダーや先輩に練習場所となる教室に案内してもらうので、新入生達は迷わないように着いて行ってください。それじゃあ一旦解散!」
北宇治高校吹奏楽部の知名度が大きくなった結果、四十三名もの新入部員が入部する事となった。人数だけなら現二年生と三年生の総数を超える大所帯が一斉に同じ部活になだれ込んだ。
「…………パートリーダー、鎧塚みぞれ」
「「「よろしくお願いしま〜す」」」
その恩恵は木管楽器でもあるオーボエとファゴットを有するダブルリードパートにも等しくもたらされ、オーボエに一人、ファゴットに二人の新入生が加入した。
特に北宇治のファゴットは担当していた二人が卒業してしまった事もあり、奏者の不在を危惧していた部長と副部長の悩みの種の一つでもあったのだが……ファゴットの希望者として名乗り出てくれた新入生が丁度二人現れた為、不安の芽は一応取り除かれたらしい。
「剣崎です、あと、梨々花です〜」
「兜谷えるです!」
「こっ、籠手山駿河ですっ」
「…………練習で使う教室に行くから、ついてきて」
「「「は~い」」」
そのダブルリードのパートリーダー、鎧塚みぞれは無機質な自己紹介を済ませ、席を立つ。あまりにも淡々としすぎているその様は、意気揚々という四字熟語の真逆。後輩が出来たからでも部長命令だからでもなく、あくまでもパートリーダーとしての仕事をこなしているだけに過ぎなかった。その肩書きも内心、どうでもいいとさえ感じている。
そんなみぞれの他人への警戒心から築かれた壁を、同じオーボエの担当になった梨々花は早くも登って仲良くなろうと考え、廊下を歩くみぞれの背中に話し掛ける。
「あの〜、鎧塚先輩、聞きたい事があるんですけど〜」
「…………何」
「入学式の日に体育館前で先輩達が、歓迎の演奏を披露してくれたじゃないですか〜。その時にキーボードを弾いてた男子の先輩の事、知りませんか〜?」
梨々花はパート分けの最中、みぞれやファゴットの二人と喋りながらある人物を探していた。しかし待てど探せどパートの島どころか音楽室に姿を見せなかった事を不思議に思い、直属の先輩となったみぞれに行方を尋ねた。その人物の話題がきっかけで仲良くなる糸口も掴めれば、という画策つき。
「…………知らない。キーボードのパートなんてないし、入学式の勧誘に私は参加してない」
「あ、じゃあもしかして今日はお休み、なんですかね〜?」
「…………だから、知らない。キーボードを弾く男の子なんて吹部にはいないし、興味ない」
「そう、ですかぁ……」
強めの拒絶反応に早くも壁から滑り落ちたとばかりに嘆く梨々花。それを聞いていたファゴットのえると駿河も、額や目頭を抑えている。みぞれという心の壁を築く強敵を前に後輩達はたじろぎ、黙々と先導するみぞれの後を着いていくダブルリードの空気は少し淀んでいた。
しかしそんな壁を築いた本人から、意外な助け舟が出される事になる。
「…………矢田」
「え?」
二階へ続く階段の踊り場で、そんな空気を淀ませている原因であったみぞれから、ある生徒の名前が飛び出した。独自の思考回路と完結していた世界から、鎧塚みぞれという人間を知っている仲の人間から見ればとんでもない発言である事を、この三人は知る由もない。
「何が『やったー』なんですか〜?」
「…………新歓の件は知らない。けど、北宇治でピアノを弾いてる男の子なら、知ってる」
「おぉ〜知りたいですぅ〜!」
「────その子の名前、矢田。矢田明宏。時々音楽室にピアノを弾きに来るって、優子が……言ってた」
矢田明宏十六歳、去年に引き続き本人の預かり知らぬ所で遠回しに巻き込まれつつある事を……彼はまた、何も知らない。
北宇治高校吹奏楽部みんなの話を読んでこれだ!と思った展開です、少々膨らませすぎたかもしれませんが。相変わらず矢田君は傍観者(帰宅部)な作品です。