短めです。
「失礼しまーす」
進級して二年生としての自覚が芽生えたり、様々な覚悟を決めつつ過ごしてきた一週間。四限目までの授業ですら知恵熱を加速させてきたのに午後も授業がある来週の俺はどうなってしまうのか、本当に悩むべき事はあるとしても微睡みをより克服する方法を頭の隅で模索し続ける一週間だった。少なくとも、黒江との勉強会は再び開く必要がありそうな予感がする。
「松本先生、こちら今週分の日誌です」
「うむ。ご苦労だったな」
「それじゃ俺はこれで」
学級委員長再びと言ってもやるべき事は然程変わりなく、特別緊張感のある実務は今の所なし。微睡み対策に知恵をより絞れたのは自ら申し出た人間としては救いだった。言わば慣れってやつだ。
新しく始まる授業やクラスメイト達の雑記等を纏めた日誌を確かめ持っていく傍ら、早速微睡み対策を試みている。緩い雰囲気の滝先生と真逆な松本先生と話すのはその一環だ。でもこんな事を言ったり日誌に書こうものなら早速馬鹿者と叱られるだろうし絶対に口にしない。
その微睡みが蹴散らせたのを確かめた直後、松本先生が視線を日誌に落としながら俺を呼び止める。今から叱る口調ではなさそうだ。
「少し待て、矢田に聞いておきたい事がある」
「聞いておきたい……なんです?」
「どうだ去年の委員長から見た三組は、やっていけそうか?」
「そうっすねー、先生の飛ばした喝が効いてるんで大丈夫だと思いますよ。去年の今頃と違って何度か将来の話で盛り上がったんで」
「それは嬉しい報せだな、だがそうではない。私は矢田自身がやっていけそうか?と聞いている」
その口ぶりから去年の一年五組と比較してどうなのかを聞かれたと思って返したが、先生としては違ったらしい。俺個人の居心地を知ろうとしている。生徒個人にはほぼ無関心だった滝先生とは方針までも真逆だ。どう答えようか。
「それって……クラスでの居心地的な意味で合ってます?それとも学力的な?」
「居心地の意味で合っている。学力で問題視するなら進級前に呼び出しているからな」
然りげ無く怖い話をされた気がする。何人か呼び出した人間の台詞だろ今のは。多分、進路の話を考え始める時期ならではだと思いたい。
「……まあ悪くはないっすね。五組の連中とはほぼ別のクラスになりましたけど、話せる奴もいましたし。孤独ではないと思ってます。元々五組だった奴も少なからず同じ三組になれましたし、それ以外でも気楽に喋れる奴と同じクラスなんで」
「そうか」
「なんにしても、修学旅行が楽しみっすね」
「あまり気を緩めすぎるなよ?学生の本分を疎かにされては敵わんからな」
「そこは吹部の連中が示してくれたんで」
提出した日誌に目を通しながらこちらに釘を差してくる。去年の今頃と比較してもあり得なかったやり取りに不思議と襟元が正される。
「もう一つ聞かせてほしい」
パタン、と軽く黒表紙の日誌を閉じでこちらに視線を合わせてきた。受け応えを欠かさなかった松本先生が目を合わせる程の内容、本命はこっちか?
「はい」
「本人より矢田、お前に尋ねるべきだと思っていたのだが……釜屋に何を吹き込んだ?」
「へ?か、釜屋さんに?何の話っすか?」
「三組の副委員長に立候補しただろう、あの釜屋が。一体何があったんだ?」
割と斜め上からの質問を、脳内で処理するのに少し時間を使ってしまった。そう、二年三組の副委員長は他でもない釜屋さんの自薦によって任命されたのだ。
何故釜屋さんの名前を挙げてきたのか、どちらかと言えば俺も気になる節があるから言葉を返す。松本先生から尋ねられたのは流石に寝耳に水だが。
「それは正直……俺も知りたいっす」
「これでも私は吹奏楽部の副顧問だ。コンクールメンバーはほぼ全てに於いて滝先生が指導をするが、B編成は練習も基本私が面倒を見ている。毎年B部門のコンクールも私が主導するのでな」
「それと吹き込む云々がどう繋がるんですか?」
「私の見てきた釜屋はとてもじゃないが……副委員長に立候補する性格ではないと思ってな。しかし、挙がる右手もおどおどしていたが誰より速かった。もし私の知らない釜屋が居たとすれば、恐らく矢田のような存在の影響があったからだという……長年の感だ」
そればかりは俺にも分からない。バタバタしていたせいで成り行きで副委員長としての仕事を本人に任せている。出会い当初の印象なら先生と一致しているけど、釜屋さんなりに心境の変化があったんだろうという憶測に留まっていた。
「吹き込んだか、と問われると首を傾げますけど……釜屋さんなりに何かこう、変わろうとする意志的なのがあったんじゃないですかねえ」
「ふっ、それならそういう事にしておこう」
副委員長を頼み込んではいない。クラスで顔合わせをした日も、係決めの話なんてしていない。俺が立候補しようと思ってる件もそう。ただこれまで関わってきた釜屋さんへの印象で考えると意表を突かれたのは、疑いようのない事実だった。
「それなら俺もその、訊いてはいけない事だとは思うんですけど……」
「答えられる範囲で頼むぞ」
「俺が一年五組から外れて二年三組になった理由とかあったりします?俺だけが五組から外れた訳じゃないのは分かるんですけど、殆どそのままって印象なんで」
一人の人間へと向ける柔らかい視線から、吹部の連中でなくても足がすくみそうな睨みを利かせてきた。まるで蛇や虎でも後退りしそうな、普段の生徒指導で叱る先生とは一段階上の鋭い眼光を向けられている。
背筋が伸びて反射的に返事をする吹部みたいに怖い人とは思わないけど、毎回この視線を向けられたら確かに軍曹先生と呼びたくなってしまう。
「馬鹿者!答えられる範囲でと言っただろう」
「で、ですよねー」
「組分けの基準を聞かれたからと答えていては学校としても教師としても、様々な方面で信頼関係を損ないかねんのでな」
「すみません、出過ぎた真似をして」
「全くだ、教員会議の議題を生徒に話す教師などいないのだぞ」
渡した日誌を机の引き出しに仕舞いつつ呆れたように返事を返された。生徒としては知りたい事ではあるものの、ご尤もである。
「じゃ、じゃあ俺はこれで……」
「──ついて来い」
踵を返して職員室から去ろうとした俺を、溜め息をついた松本先生が呼び止める。そして「ついて来い」とだけ言い放って立ち上がったかと思えば、先導する形で俺を何処かへ連れて行く。
「そこに座れ。コーヒーを淹れてやる」
「あーいや、そこまでして貰わなくても……もう帰りますんで」
「いいから待て」
先導されて訪れたのは、職員室の隅にパーテーションで仕切られた応接間。何かしらの用事で職員室に来ると誰かと誰かがたまーに何かを話していたりする。言われるがまま、渋々と先生の言う通り応接間の椅子に腰を下ろす。窓に向かい合う形で座っているから少し眩しい。
北宇治に一年通い続けた事もありソワソワともせず肩肘をついて待っていると、珈琲の香りが仕切りを越えて漂ってきた。その香りが強くなってきたかと思えば、湯気の立ち上る紙コップを持った松本先生が視界に入る。ご丁寧にホルダー付きの紙コップを両手に持ってきている。
「まるで待ちくたびれたとでも言いたそうだな?」
「すみません、そういう訳じゃ……」
「構わん。待てと言ったのは私だ」
先に俺の手前にコーヒーを置いてから向かい側に先生が座る。去年も似たような時期に呼ばれた気がするけど、その去年みたいに何かをした覚えがない。対面で話す理由に見当がつかずホルダーに指をかけるのを躊躇った。
「あのー先生?これ、頂いても良いんですか?」
「好きにしろ。これから話すのは私の独り言だと思って聞け」
微妙にズレた会話を皮切りに、紙コップをホルダー毎持ち上げる。それを見た先生がコーヒーを飲み少し間を取ってから、パーテーションを越えない声量で独り言を呟き始めた。
「本来、矢田は五組に組まれる筈だった」
さっき答えられる範囲だの信頼関係だのと言っていた人と同じ人から出てきた台詞とは思えず、さらっと流れてきた事実に軽く動揺した。取り敢えず冷静に努めようと手前のコーヒーに口をつける。
「進学クラスである七組を除いて基本、進路関係や生徒自身の選択科目の兼ね合いでクラスを職員会議で決める。そこは分かるな?」
「……はい」
独り言だと思えと言われただけに、返事をしていいものかどうかと悩んだけど問い掛けられた以上は返さざるを得ない。
「他にも判断材料は勿論あるが、会議でのクラス分けは淀みなく進み次の議題に進む。そう私ですら思っていた矢先、ある教員からこんな由の問題が提起された──去年保護者とのトラブルがあった滝先生に、その諸問題に巻き込んでしまった当該生徒を再び任せてもよいものか。とな」
保護者とのトラブル、そして当該生徒。その教員が何を言いたかったのかはおおよそ見当が付く。苦い思い出とも鈍色の記憶とも思ってはないけど、問題児扱いされても仕方のない事をした自覚なら……なくはなかった。
「私はその場に居合わせなかったが……卒業した田中あすかの母親と滝先生が、娘の部活での去就で口論になっていたそうだな」
黙って首を縦に振る。
「居合わせた先生達の証言と滝先生自身の肯定もあって、去年その件に関する議事録が作られた。矢田、貴様が介入していた事実もだ」
思っていたより大事になっていたというか、あの日の出来事が大事件扱いをされている。吹奏楽部内のごたつきで済んだと思いきや北宇治の職員間で共有されていたとは、なんだか虚を突かれた気分だ。
「その当時の議事録によれば、田中の母親が娘に暴力を振るいかけたとの報告も纏めてあったのだ。未遂で済んだとは書かれていたが、無関係の生徒に止めさせたという事実から担任を任せるには些か不適格では、という議論に発展してな。相手次第では更に問題がねじ曲がってもおかしくはなかった、と危惧する声も挙がった」
滝先生は時々強情な節があるのでな、とより小さな言葉で愚痴る松本先生。
「…………」
「そこで、私から矢田の担任を引き受けると提案した。これでも教師歴は長いのでな、問題児一人増えた程度さしたる負担ではないのだぞ?」
ただでさえ複雑な出生を気遣われている以上問題児というカテゴリー内に在るとは自覚していたが、お墨付きだとはなあ。
「それからはトントン拍子に事が進んだ。滝先生の了承も含め全会一致で矢田の組分けが三組に変わり、今に至るという訳だ」
「……なんか、去年も似たような事思ったんですけど、随分と護られてるんすね俺。なんて返せば良いのやら」
「長くなったが、これは松本美知恵としての独り言だ。返事など練る必要はないのだぞ?寧ろ練ったり他人に口外してくれるなよ」
二口目のコーヒーを一気に飲んでみる。温くなった香ばしい香りは、優しさの香りだろうか。
「……甘い」
「ガムシロップは要らなかったか?」
「いえ、これくらい甘いのも嫌いじゃないっす。ご馳走さまです」
善意ってのは、色んな種類がある。直球ストレート、捻くれ系、回り道。俺の進もうとする道を固めてくれている。ガラス越しの日差しみたいに、どれもこれもが暖かい。
「言い忘れていたが、そんな渦中の滝先生から先程矢田に伝言を預かった」
「伝言?わざわざ?」
「『音楽室は、昼休みなら何時使っても構いません。ただし鍵は取りに来て下さいね』との言伝だ」
良いのだろうか。でも、良いんだと思った。善意でも巻き込んだ滝先生なりの罪滅ぼしでも、ピアノを弾く大義名分が得られた。これは今日一番の大ニュース。右手が無意識にガッツポーズで喜んでいた。帰ったら早速セットリストを組んでやろう。
「案外大人って、回りくどいんすね」
「私達からの進級祝いと思え、たわけ」
厳しかったりする大人達が不意に見せる優しさを浴びて、こう思った。やっぱり大人って、回りくどいと。
「なんにすっかな〜」
翌週の月曜日。午後の授業が本格的に始まりいよいよ二年生らしくなってきた日の昼休み、廊下を上靴が跳ねる靴音の軽さと機嫌の良さをイコールで結び付けられそうな程に上機嫌だった。理由は単純、左手に握った音楽室の鍵にある。
昼飯をフライング気味に済ませ、言伝通りに鍵を預かり早速音楽室へと赴く。分かってましたよとでも言わんばかりに職員室で待っていた滝先生の笑顔は……見なかった事にした。これからも鍵を受け取りに来る度そして返す度、あの顔と向き合う羽目になる。
「『月のワルツ』、『海の見える街』、『手紙をかくよ』……どれも良いな〜」
最初の一曲目から結局決められず二年生になって初めての昼休みを迎えたけど、進級したばかりの過ごし方とは違うかもしれない。普通は新しいクラスメイトと机を向き合わせて駄弁りながら弁当を食べ、流れで五限目までの時間を過ごす。その流れからの部分に用事があると新しい友達に断りを入れて音楽室で過ごす事にした。
仮入部期間の練習が手薄な時期が一番、大義名分を得てピアノを弾ける。とにかくピアノの魔力には抗えない。俺はそういう生き物だ。
がらんとした防音壁の音楽室に、意気揚々と踏み入れる。ここまでの数百歩は、奏でる前の助走。鍵盤蓋を開ける動作もピアノ椅子に座る所作も、演奏を楽しむ為の儀式だ。
あれだけ迷っていたセットリストは白鍵に触れた瞬間に決まる。『気まぐれロマンティック』、タイトル通り気まぐれな曲選で。
「ワン・ツー・スリー」
初めてこの曲を聴いた時、底なしの明るさに圧倒されていた。前を突っ走るでもなく、後ろに着いてきてくれるでもなく、隣で肩を組んで歩いてくれるみたいなメロディーと歌にこういう励まし方もアリなのかと思った曲だ。
これを聴いた誰かの昼休みに少しだけ残る気怠さを軽く出来ればと思って、軽い音圧で鍵盤を叩く。原曲のスケールをそのままに、落ち着いたテンポの音が防音壁に跳ねる。ポップスというジャンルはあまり崩さないバラードに近い独奏。それでも時折引き戻される原曲のパワーに、つい耳を震わせた。左手に意識を置いて右手を疾走らせる。低音と高音が混ざって融合する。
途中、ジャズみたいに一瞬だけ音が加速した。自分の両手なのに気まぐれに奏でていた。やがて十六分音符が四分音符になるように、アウトロまでリタルダンドでゆっくりと。
無名のピアニストが、歩くような速さで演奏していた。『全力少年』みたいに溌剌とした演奏になるかと思ってピアノの前に座った俺は、ジャンルという言葉も時間も忘れて自由に白黒の鍵盤を叩いた。なんとなく矢田明宏自身のインプロがそこにあった、そんな気がした。ピアノに、人に、色んな物に向き合ってきた成果なのかもしれない。勝手にそう結論づけた。
まだ昼休みには余裕がある。セットリストから曲を漁って次の曲を、そう思っていた矢先に音楽室に入ってくる人影を視界の隅で捉える。小柄ながらも男子の制服を着た、見覚えのない生徒だった。折り目の少ない制服からして、新入生の装いだ。
「あの……今、いいですか」
「別に弾き終わりだし構わねえけど、どちらさん?」
「……一年、月永求。吹奏楽部に入部希望です、入部届も持ってきました」
自己紹介を済ませながらこちらに向かって歩いてくる新入生。愛想一つ見せず、数度のやり取りですら分かる投げやりな態度の後輩。不愛想というよりは、ギリギリ思春期の抜けきれていない施設の弟がこんな感じだった。初対面の人間への警戒心もセットで醸し出している。
その後輩の手元には一枚の紙切れが。こちらに差し出されたからつい入部届を受け取ってしまったけど、どう考えてもこれは……。
「あー、あのなあ月永」
「すいません、僕の事は求と呼んでもらえますか。その方がしっくり来るので」
「……求、悪いけどさ、これは俺には受け取れねえな」
返した入部届を見つめながら物凄く怪訝な顔をしている求。そしてこっちは食い気味に呼び方を指定されて一瞬戸惑ったものの、これは些末な話だ。
「提出する先が違うんだなこれが」
「はあ?だって先輩は入学式の日も、今だって音楽室で……」
「そもそもなんだけどさ、吹部の部員じゃねえんだ俺。今も単に好きで弾いてただけだから」
「じゃあ、入学式の歓迎会で弾いてたのはなんだったんですか」
「覚えててくれて嬉しいけどな、客演なんだよあれ。要するに助っ人ってやつ」
そもそも部員じゃない事実を明かした途端、警戒心のギアを一段階上げてきた求。デルフィニウムの子がレアケースなんだろうな、という妙な確信さえ抱かされた。
花屋の子といい今まさに混乱している求といい、予想だにしない勘違いを生んでいる事実にこれからどう対応すべきか。既に引き起こした勘違いの数々に、進級早々頭を抱える事態になってしまったのだった。
前回楽器の振り分けが終わりましたが、今回は仮入部期間の話です。なので時系列としては始業式〜仮入部期間終了までを書いています。