北宇治のまえせつさん   作:コーヒーまめ

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恐らく一年生編より時間の進み方が早くなると思います。


32 君だって、立派な

 

 なんで俺は、こんな事を率先してやっているんだろう。

 

「──手じゃなくて手首で八の字を描く様に意識してください、肘も曲げながら……先輩下がってきてます、肘の高さはそのまんまっす」

「──分かってるわよ!」

 

 西日の傾く校舎裏、その隅にある自転車置き場。一台たりとも忘れられずに持ち主と帰ったであろうその校舎裏に、管楽器でいう所のベルみたいな、或いはシンバルみたいに銀メッキが弧を描く。

 

「その調子っす、そのまま両手でバトンを……はい、左手で握って捻りつつ背中でも回して……綺麗な円になってません、お腹側とやる事は一緒っす」

「難しいなんて、言ってられないんだから……!」

 

 その銀メッキは黄色い紐が巻きついていて、振り回す度に房みたいに作られたフリンジも踊る。歪な弧であれ、ある程度は踊ってくれる。

 

「勢いも出て良くなってきました、そのまま今度は背中で受け渡して同じ要領でもう一周っす……もう一周したら勢いはそのままに胸元に!その勢いで手を放せばバトンが手を中心に回ります、手の甲に来た瞬間……押し上げるイメージで投げて!」

「押し上げる……押し上げる……」

 

 銀メッキと黄色い紐が描く円運動を、向かいの白線と白線の距離感を保ちながら口を出しつつじっと見守る。

 

「受け止める時は親指と他の指を直角に!水かきの辺りでバトンを迎えて!」

「こうね!?あだっ……」

「触れたら握……って遅かった、先輩、大丈夫っすか?」

「っつ〜……!こ、これくらいなんてことないわよ!もう一回!」

 

 どうして俺は、バイトのない放課後に門外漢のバトン演技の指導なんてやってるんだっけ。それもひとつ上の先輩相手に──若干自業自得ではあるその発端は、少し前。

 

 

 

 

 

 

 

 

 新しい教室と新しいクラスメイトとの交友もそれなりに交わしつつ、三組の雰囲気に段々馴染みつつあった時期の話。昼飯を食べ終えた頃合いで各々が思い思いに過ごし始める昼休み。不貞寝、友達と談笑、宿題の追い込みに他所への出張等々。鬼の居ぬ間に十人十色、そういうクラスに俺は在籍している。

 

「釜屋さん、薬剤師の昔の呼び方って?」

「……薬師、かな」

「しゃもじっぽいけど、味噌汁とかをよそうやつ」

「……わかった、杓子?」

「へりくだる感じの自己紹介で使う一人称」

「……わ、わたくし」

「メロディーに歌詞を付ける」

「それは作詞」

「計画を無かったことにするアレ」

「それは白紙」

「目の錯覚を利用するやつ」

「……錯視?」

 

 次の授業の兼ね合いで音楽室に向かわず昼飯をクラスの友達と食べ、昼練に向かうそいつを惜し気もなく見送ってから日誌を書いていた。そんな折を見計らっていたのか、一人になった俺の元へ新しい副委員長がそそくさとやって来た。

 他の小休憩でも時々来てくれるけど、本人的には今の状況は居心地が悪い……のかもしれない。加藤さん単体なら平気で、そこに川島さんや黄前さんが挟まるとちょっとトーンが下がる。義務的には話せているけど早々に距離は縮まらないらしい。だからこそ座席的に居心地の微妙そうな釜屋さんが休まればと、前の席に座るよう促した。

 それはそれとして俺自身の行いを顧ると、進級してからの昼休みはずっと音楽室に通い詰め。自分のクラスに居てなかった事を内省していた場面で来てくれたのは、まあ嬉しかったりする。

 

「釜屋さんすげーな、割と適当なノリで考えたのに」

「矢田君の雰囲気には慣れてるから、タイミングとかは掴みやすくて」

「……タイミングが?」

「うん。パーカッションとかモナカのみんなとも少し違う、私が喋り終えるのを待ってくれる感じとか。一年生の頃はなんとなくだったけど、ホームルームとかで司会進行を手伝うようになってから……改めて矢田君の喋り方が分かってきたんだ、だからツッコミやすくて」

「そうなのか?まあ、それはそれで」

 

 そんなお笑い好きな副委員長が楽しめればと思って、今日はこちらからボケる流れを仕組んだ。釜屋さんはお笑いが好きすぎる余りチャイムギリギリの日もあるだけあって、かなり的確。狙ったボケは逃さないツッコミの鑑。副委員長としては……まだ分からない。井上さんがその肩書きに似合い過ぎたってのもある。

 

「喋りやすいんなら幾らでも話し相手になるけどさ、ひとつだけいいか」

「何?」

「言いづらいならそのままな。今更だけど、なんで副委員長になってくれたんだろうなーって」

「え、えっと……」

「傷つけるつもりはないのを前提に聞いて欲しいんだけどさ、井上さんと違ってそういうの苦手だろ。だからなんか心境の変化でもあったのかなーって、ゆっくりとだけど誰よりも先に手を挙げてた位だし」

「心境…………」

 

 ナゾナゾじみたボケより答えにくいネタを振った自覚はある、そのつもりで声のボリュームを一対一でやるヒソヒソ話レベルにまで絞った。ただ、それが余計に答えにくくさせてしまったのか、今日の釜屋さん史上一で反応が悪い。初めて一緒に下校した日を思い出す遅さだ。

 別に急を要する話でもないし、お笑いっぽい会話にでも変えるとするか。何をどう話せばお笑いになるのか俺はよく分かってねえけど。

 

「…………話変えて、俺が苦手だった物の話でもするか?」

「う、ううん、大丈夫。矢田君には話した方が良いかもって思ったから」

 

 副委員長の言葉を待った。俺にタイミングがあるなら、当然釜屋さんにもタイミングがある。

 

「……去年、滝先生が言ってたんだ。A編成になれなかった私達に」

「モナカの人達に?どんな事を話してくれたんだ?」

「『貴方達の心にある悔しさや悲しさは、コンクールメンバーは持つことは出来ません。それだけ既に、強くなったとも言えます。その気持ちを忘れず練習すれば、もっと上達する筈です。この経験を貴方達は、自分だけの宝物にしてください』……って。指導そのものは今でも苦手だけど」

 

 今も怪しくないとは断言出来ない。悪意でも皮肉でもないのも分かる。ただ本音で語るのを許されるなら、滝先生らしくない言葉だと思った。去年のオーディションまでの印象だけで語るとそんな気遣いが出来たのかと内心、勝手に驚いている自分がいる。文化祭が終わった翌日、車で黄前さんと送ってくれた時の滝先生がその言葉の中にいる。間違いなく、既にそこにいた。

 

「あの先生が……」

「順菜ちゃんも万沙子ちゃんもずっと、楽しそうだったから。私から手を伸ばせるなら、伸ばしたかったから。そ、それに……」

「それに?」

「コンクールメンバーに選ばれなかった経験が宝物になるなら、副委員長になった経験も……た、宝物になるかなー、なんて」

 

 許されるなら喧伝してやりたい──これが、この子こそがウチのクラスの副委員長だって。井上さんか堺さんが居合わせてれば絶対に撫で回してる光景が想像出来る。が、俺は二人みたいに撫でる訳にはいかないので俺なりの言葉で褒めちぎる。

 

「俺さあ、先週家で映画を観たんだよ」

「急だね……どんな?」

「なんか、飼われてた犬が生まれ変わっても何度でも飼い主に会いに行くやつ。幸せにしてあげたいって気持ちでずっと探そうとしてたんだよな。それを観てて愛くるしいっていうか、なんなら胸が張り裂けたっていうか」

「い、今の話とどう繋がるの?」

「そうだなあ──もし、もし釜屋さんがその健気な犬だったら、元の飼い主探しを全力で手伝ってた位には愛おしいって意味で繋がるな」

「割と無理矢理……!?」

 

 まだ分からないとは言ったけどもう撤回、釜屋さんは間違いなく立派な副委員長だ。パーカス二年生の二人程とは違う側面からになるけど……釜屋さんは凄い。とにかく凄いったら凄い。今の表情を収められなかったのは、今日カメラを持ち歩かなかった俺の怠慢って事にしよう。

 

「まあ要するに、委員長として釜屋さんが楽しそうで誇らしくて嬉しいよって話だ」

「矢田君もなんか嬉しそうだけどね……」

「まあな!」

 

 この一面をクラス中が知れば絶対人気者になれるし、今の台詞を聞けなかった井上さん堺さん両名が悔しがるに違いない。でもそんな事はしない。釜屋さんには釜屋さんのペースがある。ゆっくりいこう、な!

 

「ところで……先週で全体的に仮入部期間が終わったろ、吹部勧誘を手伝った手前訊きたいんだけどさ、どれくらい入ったんだ?新入部員」

「あっ、うん。それがね────ヒッ」

 

 勧誘の時期の過ぎた吹部の様子を聞かれた釜屋さんが驚きと喜びを一緒に含んだ声色が一転、掠れた悲鳴にも似た声を絞り出した。聴こえたのは俺だけらしい。話す直前に目線が逸れたと思ったら漏れ出たその声の原因を探ろうとして、我が副委員長の目線を辿る。

 

「────」

「ッ…………!」

 

 そこには──右手の廊下側にある開け放たれていた窓のサッシに薄白い指をかけた、目も隠れる枝毛一本見当たらない黒い長髪の女子高生の影が……!

 

 

「……も、もしかして、鎧塚先輩っすか?」

「……見つけた」

 

 

 釜屋さんが悲鳴を上げかけた黒髪の女子高生の正体、それは何時ぞやの夏に保健室までおんぶして行ったり傘木先輩と仲直りしていた北宇治唯一のオーボエ奏者……鎧塚先輩その人だった。随分久々の顔合わせだ。

 気配ゼロ、声量ほぼゼロ、肌の色素、多分ゼロ。寿命が数分縮んだかもしれない。教室の談笑する雰囲気が崩れていないのはこの先輩の雰囲気が成せる技なのかもしれない。遠いと視認出来ないけど、至近距離に入るまで確実に感知させないタイプ……流石に怖かった。

 人見知りと無言が居合わせてしまいここ一帯の音が消えている。流石に挨拶程度は交わしとくか。

 

「こ、こんちわっす……」

「……うん」

 

 再び、窓際の静寂。こういう状況に限りまだ釜屋さんでは対処しきれない。声が出てないし出さない。パーカス唯一のB編成と北宇治唯一のオーボエでは接点が無い以上、話せる俺が出るしかない……本来俺も接点が無かった筈ではあるけど。

 

「あのー鎧塚先輩、二年のクラスに何か用事でも?あー……黄前さんに用事っすか?」

「違う。優子、見つけた」

「へ?優子?」

 

 はっきりと否定され、頭を廊下に沿う方向に向けて人を呼んでいる。その名前は脳内名簿を捲る範囲では目の前の人よりは接点のある──。

 

「ありがとうみぞれ。矢田、あんた三組だったのね。パーカッションの釜屋さんも」

「こんちわっす」

「……こんにちは」

 

 相変わらず、頭部のリボンが大きい吉川先輩。声は鎧塚先輩に合わせて声量を限りなく落としている。

 新歓を中川先輩を通して頼み込まれ、当日に指揮棒を振るっていた今年の吹部の部長。初めて就任したと知らされたのは、卒部会のゲスト演奏を頼まれた寒い二月頃だったかなあ。

 

「吉川先輩、なんか用事っすか?黄前さんならあっちの隅で……」

「違うわよ私もみぞれも。今日はあんたに用事。ほら、みぞれ」

「……あげる」

「あげる?」

 

 鎧塚先輩がサッシを掴んでなかった方の手で無機質に差し出してきたのは、書類とかを入れる茶封筒。あげると言われて目の前に出されたからには、一先ず受け取るしかない。ほぼ無関係の先輩が、ましてや何かをくれる事ははっきり言って異常だ。

 

「はあ……どうも?」

 

 手触り的に、紙の束。束にしては綴じられている感触がするし、本にしては大判な方のタイプ。雑誌か?

 

「なんすかこれ?」

「あんたねぇ、もう忘れたの?去年みぞれにお礼させてあげるって言ってたでしょ、介抱してくれた件とか探してくれた件に対しての。折角二人で考えたんだから黙って受け取りなさいよ」

「は、はあ……」

 

 ぶっちゃけ記憶の彼方でほぼ忘れてたなんて言えない。介抱した事実までは覚えてるけど、慌ただしさが言葉を一語一句上塗りしていたみたいで思い出せない。言ってたような、言ってなかったような。

 

「優子、先に戻ってる」

「わかった、また部活でね」

「あっちょっ……」

 

 登場もやるだけやって言いたいだけ言って、渡すだけ渡して三組から鎧塚先輩は去って行った。今年のマイペース大賞堂々の一位は間違いなくあの先輩だ。

 となると残されたのは普段より声が控え目の吉川先輩と、俺と聞いていただけの釜屋さん。釜屋さんを置き去りに進んだ会話は、もう次の段階に移行している。

 

「あのー吉川先輩、なんか用事があるとか言ってましたけど……仮入部期間はもう終わったんすよね?勧誘のビラ配りとかは無理っすよ?」

「そうじゃないわ、ちょっと個人的な話よ。釜屋さん、悪いけど矢田を借りてもいい?」

「は、はい……どうぞ」

 

 呆気なく差し出された。吉川先輩なら田中先輩よりはまともな理由だとは思うけど、差し出された。まあまだ昼休みなら半分あるし、中世古先輩も卒業したし、長話にはならないだろう。そう願いたい。

 

「ありがとう。それじゃちょっと着いてきて、歩きながら話すわよ」

「……了解っす。釜屋さん、また後でな」

「うん、また後でね」

 

 一つ上の先輩から直々のプレゼントからの、直々のカツアゲ。貰った直後に奪われる、こういう落差が激しい日もあってもいいかと納得しかけた自分が悔しい。廊下を歩く先輩の歩幅に出来る限りこちらが合わせていった。

 

「あんた、昼休みだし時間あるわよね?」

「出来たら貸し出される前に聞いて欲しかったんすけど……まあはい」

「そう、なら良かったわ」

 

 廊下を並んで歩き、階段を降りながら改めて承諾する。田中先輩より分かりやすいし振り回してこないだけありがたいけど、これから何をされるかが不明瞭。恐らく半分は鎧塚先輩の醸し出ていた雰囲気のせいだと思う、あれで吉川先輩の意図を汲み取りにくくされていた。きっとそう。

 

「あのー先輩、何処まで行くんすか?」

「別に何処でもいいけど、出来れば会話を聞かれたくない場所よ」

 

 なんとなくそんな気がした。徐々に人気のない場所まで連れて行かれるこの状況に、妙な腹の括り方をさせられる。本当にカツアゲとは思ってないし足取りは軽い、個人的な話の中身ってのが気になるだけ。

 

「ここでいいわね」

 

 北棟校舎の裏側、2階のトタン屋根があるゴミ捨て場まで歩いて来た。昼休みにここに来る生徒は滅多にいないし、内緒話をするなら丁度いい。

 デジャヴめいた感情を覚えた頃にはもう、吉川先輩が話を切り出していた。

 

「矢田、新歓の演奏はありがとう。お陰で仮入部を待たずに入部したいって子も沢山きてくれたわ」

「そんなの気にしないでくださいよ、俺なんかより全国出場の実績と実力があってこそっす」

「そうでもないわ。一年生だけで四十三人よ?今の二年と三年を足しても届かない数が入ってくれた。新歓の演奏で入部を決めたって子もいたんだから、あんたに礼を言うのは筋が通るわ」

「部員じゃないのに……そういうものなんですかねえ」

「そういうものよ」

 

 ざっと一クラス分と少しが入部した計算になる、これなら北宇治で一番の大所帯になるんじゃないか?それはそれで去年と別の揉め事が起こりそうだけど、まあ大丈夫な気がする。吉川先輩も副部長らしい中川先輩も、私利私欲ではなく部の為に動けるタイプだから。そこは部員じゃない俺も信頼を置いている。田中先輩みたいに自らがトラブルの種になる人達じゃない。

 

「本題はここからよ。矢田、あんたドラムメジャーを目指してたって話は本当?」

 

 前言撤回、これはトラブルの種だ。一瞬で頭痛がしてこめかみを抑えてしまった。ドラムメジャー?俺が?

 

「目指してませんけど……どこ情報っすか、それ」

「あすか先輩が私にだけ教えてくれたわ。あんたにはバトンの才能があったって」

 

 おまけに目眩がセットで付いてきた、お土産というよりは置き土産だ。一度しか披露してない演技の話をそこまで膨らまされていたなんて。末代まで呪ってやるとは言われたけど、本当に呪ってたりしないだろうな……?

 

「まだピアノの才能があるって言われた方が肯定出来ます」

「これは部員じゃないからこそ話せる話よ。正直な話、今の私にはなりふり構ってられないの。矢田、私にバトンを教えて頂戴」

 

 バトンの才能なんて俺は知らない、施設の妹がバトントワリングの練習をしていた所にずっと付き添っていただけだ。寧ろ俺が教わる側ですらあった。それを思い出して一度披露しただけで、才能だと持て囃される謂れはない。そもそもトワリング用のバトンとマーチングで使うメジャーバトンはサイズが違いすぎる、ホルンとチューバ並に大きさが違う物を教えろなんて無理難題だ。

 

「知名度は十分上がったんですから、外部からコーチでも雇えないんすか?去年までどうしてたか知りませんけど」

「私達は立華みたいにマーチングがメインじゃないわ。サンフェスまでの短い期間だけ頼みますだなんて、それこそプロには頼めない。あんたに失礼なのも分かる、どうせあすか先輩が尾ひれを付けて話してきたのも分かってる」

「それじゃあ一体全体、なんの為に……」

「──北宇治高校吹奏楽部の部長として、私なりの威厳を示す為よ」

 

 俺の中に溜まりこんだ空気をゆっくりと、トタンの屋根に向かって吐き出した。ゴミというより、その場で生まれた葛藤を。手を胸元に当てながら意地を張る先輩のリボンにも掠らせないつもりで。

 

「毎日はバイトがあるんで無理っすけど、何時頃から見ればいいですか。バトンの練習」

「明日から早速お願い!出来れば放課後を待ってて欲しいわね……矢田に教わってる所を見せる訳にはいかないし、夕方あっちの自転車置き場で頼めるかしら!?」

「変な癖とか付いても知らないっすよー、あと威厳」

 

 こうして先輩の勢いと凄みに気圧されて了承してしまい、流れでバトンを教える羽目になってしまった。こういう熱意に弱いのが俺の悪い所なんだろうか。とりあえず、バトンの教本だけでも借りて読み込んでおこう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「休憩しましょう、トス以外は形になってきました」

「や、やれば出来るわね、私……!」

 

 そんなこんなで下準備をしたり昔の記憶を思い出しつつ、吉川先輩の指導にあたった。マーチングでの基本的な手首を使ったバトンの振り方から盛り上がるサビの所で魅せる演技まで、俺が教えられる限りの事を。

 

「昨日頼み込んできた時の事を思えば滅茶苦茶上手くなってます、後はその……」

 

 マーチングというだけあって静止した状態な訳がない。先輩風に威厳を示す為には決められた歩幅を歩き続けた上で華麗にメジャーバトンを操る必要がある。先輩がどこまでの完成度を求めてるのかは分かったけど、流石にそこまでは素人じゃ教えられない。先輩自身がレベルを引き上げないといけない箇所だ。

 

「分かってるわよ、歩幅も合わせながら今のをやれって事でしょ」

「それもありますけど一つだけ。俺が言いたいのはトスの話です」

「バトンを落とさないでって意味?」

「合ってますけど違います。そもそもなんですけど……メジャーバトンのトス行為って、本来のマーチングコンテストじゃ禁止されてる行為なんすよ」

 

 何冊か読んでみて発見したマーチングコンテストに関する項目にはこう書いてあった。危険防止の観点により、メジャーバトンとフラッグのトス行為は禁止されていると。つまりは放り投げるなというルール。それだけ危険な行為を先輩は晴れ舞台にむけて練習に取り組んでいる。

 

「練習を始めた翌日に言うのもあれっすけど、安全を考慮したら止めるべき立場だと思ってます。サンフェスはコンテストじゃないから許されるとか、ルールの粗探し以前の話っす。それを振り回してきた重さとぶつけた時の痛さ、理解してない筈ないですよね」

「分かってるわよそんな事。頼んだ時に言ったでしょ、威厳を示す為に──」

「──田中先輩がやってたからなんて言わないでくださいね、匙加減を間違えば後ろの隊列に飛んでいくんですよ。そのバトン」

 

 本来危険な行為を、去年のドラムメジャーは危なげなく披露してみせた。吉川先輩は練習の節々でトスに拘る様子は見せてたけど、それだけが理由なら最初から止めていたし、先頭に立つのなら魅せ方はもっと他にもある。背中を追う必要なんて全くない。

 

「私は別に、あすか先輩の真似がしたいんじゃない……」

「じゃあなんで、危険な技に拘るんすか?」

「……北宇治が全国で金を獲る為よ。サンフェスはその序奏に過ぎないしコンクールにも関係ない。でもね矢田、私達吹奏楽部はもっと上を目指してる、頂点である全国金。目指すなら去年と同じじゃいられない、その道中で去年の三年生達から与えられた試練を乗り越えるの」

 

 そう語る先輩の目は、本気だ。

 

「全国銅賞で終わってしまったドラムメジャーや先輩達を追いかけて、その上で追い越せなきゃ駄目なの。たとえコンクール以外の所でも、あすか先輩がやり遂げたのなら私もそれが出来た上で進む。晴香先輩みたいに大所帯を率いる。香織先輩みたいに……受け止める、ただそれだけよ」

 

 そう言い切って先輩は日陰に置いていたタオルで汗を拭い、水筒の中身を一口飲んだ。一息ついてすぐバトンを持ち、姿勢を正す。

 

「矢田、私は続けるわ。まだ時間ある?」

「有無を言わさず、かあ……」

 

 去年の小笠原先輩が率いた吹部とは、随分雰囲気を変えそうな先輩だ。どちらかと言えば包み込むタイプが去年だとすれば、グイグイ引っ張るのが吉川先輩。部外者に実際の練習中の雰囲気を感じ取れって方が無理な話ではあるけど。

 

「作ります、時間。でも一応用事があるんで最後に通しで見せてください、去年のドラムメジャーを追い越すんですよね?」

「当然よ!」

 

 吉川先輩らしい吹奏楽部をきっと、作り上げるに違いない。素人なりに飛ばした檄に少しだけ力が入る。水面に落ちる水滴が作る波紋みたいに先輩に、みんなに、そして北宇治に、エールが届くように。




パソコンと共に消えたプロットも含めると3案出来てしまった回です、締めは同じなんですけどそのせいで悩みました。1話にするには長過ぎたので一応区切りを入れてます。

余談ですが、矢田君の育ちに関わってくるある話の特集番組を偶然観たんです、それもあって色々考えたりしてます。
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