やっと自己紹介が出来そうです。
「はい先輩、もうすぐ時間っす」
「どう?形になった!?」
「落とさなくなってきたんで一応は。後は五メーター八歩で歩きながらキャッチ出来るかどうかっすけど」
場所は自転車置き場の日が傾いた放課後。頼まれて一週間にも満たない期間ではあったものの、先輩のドラムメジャーとしての技術はみるみると上達していた。教え甲斐があるからでも才能に依るものでもなく、純粋に吉川先輩の努力が実を結んだ結果がそうさせていた。これに加えて吹部全体の練習も含まれているとなると本人のポテンシャルが窺える。
「今日もまた歩行練習なんでしたっけ」
「そうね、全員に身体で歩幅を覚えて貰うまで楽器すら持たせないわ。初心者の子は勿論、経験者も勘を取り戻さないといけないし」
「地獄っすね」
「立華よりは天国だと思うわよ」
「立華……」
それはそうと北宇治に入学してからの日々は知らない事ばかりの連続だ。特に周辺の学校の話がそう。どこの中学から進学してきただとか、立華とやらがマーチングで強いだとか。マーチングそのものなら黒江がそれなりに教えてくれるが、その立華がどう地獄なのかを知らない。中学時代は他所の都道府県の学校なんて興味も無かったし、今も立華が何処にあるのかも分からない。恐らく今後もそういう認識になる。
「まだまだ歩き方すら覚束ない子もいる、そんな状態で楽器を吹いたって音に出るのよ。アンブシュア以前の問題ね」
「一応全国まで行ったんですし演奏は問題ないんじゃないんすか?」
「あんたそれ、本気で言ってる?晴香先輩の代がごっそり抜けて半分以上は一年生になったのよ、その一年生も経験者ばかりじゃない。それに……」
「それに?」
サンフェスに向けた全体練習も重ねた上の話の流れで、先輩は愚痴めいた嘆きを零した。言い淀み方が泥や藻で濁る池みたいに淀んでる。同級生や後輩達へ極力傷つけない言葉を探していそうだ。
「……当然曲の練習だってしてるけど、卒業生が抜けたレベルで満足しちゃってる子が結構いるの。良く言えば納得だし悪く言えば妥協してる、その現状で楽器を持たせても目に見えてるわ」
「そんな段階なのに楽器ありのマーチング練習をしても、文字通り足元が覚束なくなると」
言いたい事は理解出来る。一昨年の堕落した北宇治から一転、曲がりなりにも全国大会まで駒を進めた吹部の、その核となるメンバーが卒業してしまった。田中先輩や小笠原先輩だけじゃない、パーカッションでも田邊先輩に加山先輩が卒業していた。他のパートにも然り。新入生にも高坂さん並の実力者がいるかもしれないとしても人数だけなら上級生達を上回る数だ、比較してしまうのも無理はない。
これは半年以上滝先生の指導を受けてきた部員にしか分かり得ないだろうけど、あの指導を乗り越えた在校生の大半にとってサンフェス前の現状はぬるま湯も同然で、新入生側も全国出場校の一員になれたというある種の高揚感に包まれてしまっている。そんな浮ついた雰囲気を吉川先輩は俯瞰し、既に掴んでいる。
「サンフェスは皆が楽しみにしてるイベントの一つだけど、同時にコンクールへの通過点でもあるのよ。たとえ八歩を正確に歩く練習であっても本気で臨んでほしいってだけ。少なくとも私はそういう北宇治が作りたい。この前言ったでしょ、部長として威厳を示したいの」
威厳を示すならパーカッションでいう橋本先生みたいなプロを招いて、全員の前で上達する姿を見せるべきとは今更言えなかった。俺が教えといてってのもあるし、部外者という立場もあるし、吉川先輩のやり方もある。素人目線でも先輩は初日と比べて上手くなっていると感じる以上、バトンに関しては何も言えない。
「部長って役職は案外、損な役回りなんですね」
「任命された以上はやり遂げたいの。夏紀とコンビみたいに扱われてるのだけは気に入らないけど」
夏紀とコンビの部分を矢鱈と強調している。任命権があるのは部長か副部長だとしたら、十中八九田中先輩が面白がって任命していそうな人選。それとこの人は何かあれば夏紀夏紀と中川先輩の名前が出てくる……やっぱり仲良いよなあ、でも言っちゃ駄目なんだろうなあ。
「そろそろ行くわ。矢田、みぞれの一件といいまた借りを作っちゃったわね」
借り、という単語に思わず反応していた。鎧塚先輩の介抱も元を辿れば黄前さんの協力ありきだったし、返してくれとも思ってない。でもこれを借りと呼ぶ程に律儀な先輩なら、俺のちっぽけな我が儘も通してみたい。
「そう思うならこうしましょう。休み時間にピアノ、弾かせてください。もう昼休みになったら弾いてますけど、どうせ弾くなら先輩達にも許可を貰った上で気持ちよく弾きたいですし。それに、全国金に向かう吹部の邪魔はしたくないんで。それでチャラにします」
「あのピアノは吹部の持ち物じゃないわよ?」
「分かってます。先輩が筋を通しに来たのと同じく、俺も俺なりに筋を通したいんです──あ、個人練の休憩中に来て良いんなら遠慮なく行きますけど」
途中まで真剣に言葉を受け止めてくれていたのに、最後の一言で片眉を上げて呆れられた。やがて肺の底から出てきた先輩の溜め息は、バトンの練習を引き受けた俺を想起させる。吉川先輩には俺がこう見えてたのか……。
「あんたが時々あすか先輩に見えてくるわね……」
「んで、どうっすか?」
「…………分かった、美代子にも伝えとく」
「でしたら大野先輩の後輩達にもー」
分かってるわよ、とぽつりと呟きながら先輩は全体練習へと向かい仮の練習場を後にした。頭のリボンすら見えなくなったのを確認してから校舎の壁にもたれ掛かる。疲れているのは吹部の部員達の方だろうに。
こうして放課後に会いつつ言葉を交わしていて思うのは、田中先輩より割と気楽に話せる先輩だって事。吉川先輩もある意味気難しい一面はあるにしても田中先輩程じゃない、教える最中も休憩中も、人として接しやすかった。それなのに何かあればあの先輩を基準にしてしまうのは悪い癖だし呪いだ。きっとそう、多分そう。
腕時計を見る限りだと数分は空を眺めていたらしい。このままのんびりしてても許されるけど、たまには早めに帰ってもいいかと思案し立ち上がり、渡り廊下から下駄箱へ向かう。途中文化系の部活らしき生徒とすれ違ったり、体育館からはボールの跳ねる音がまだ聴こえてくる。下校時刻間際に頑張ってるのは、何も吹奏楽部だけじゃない。
北宇治の頑張りに思いを馳せつつ通学用の靴に履き替えた。昇降口を出て体育館前の広場から階段を下り正門へ。そこから駅まで散歩気分で歩いて帰ろうと、昇降口の扉を開けようと手にかけた時。
「っ、あのっ、矢田先輩!」
後ろから、ソプラノとアルトの中間にありそうな声で呼び止められた。思わず首を傾げる。
一年生と積極的に交流を深める生活を送っている自覚はない、部活には勿論生徒会にも入ってない。そんな日々を過ごす中で名前を知られているのは求しかいない……と思ってたけどそういえばもう一人、北宇治の外で出会った後輩がいる覚えがあった。扉の取っ手から手を離し呼び止めてきた子の方に身体を向けつつ声を掛ける。
「えーっと確か、デルフィニウムの子」
その俺の名前を知っている声の主の正体は、始業式の日にバイト先へ来てくれたデルフィニウムの子だった。知り合いの女子史上一番背の高いその女子は、改めて見ても背が高い。長めに下ろされた前髪がより大人びた印象を強くしている。
俺の中では後輩第一号でもあり、バイト先に来てくれた北宇治高校の生徒第一号でもある。文化祭の演奏でファンだと公言してくれた程の相手、どこか浮き足立ちながら出来た後輩に疲れた顔は見せられない。
「始業式以来だな、元気にしてたか?」
「お久しぶりです!えっと……今も元気に育ってます!」
「育ってます?」
「で、デルフィニウムがです……」
「あっはは、そりゃ良かった!」
二つの意味で一先ず安心した。この時期までデルフィニウムが元気ならゴールデンウィークまで保つだろうし、高校生活を上手くやれている。最も、この子自身が見栄を張っているだけかもしれないが。
「放課後にしては遅いけど、今帰りなのか?」
「は、はい!」
「ふーん。じゃあ途中まで帰るか、一緒に!」
「──えっ」
「──あ」
目の前の女子の反応で、出会って間もない後輩に掛ける言葉としては微妙な台詞を口走った事を自覚した。ざっくり言うならナンパ。慌てて軌道修正を図ろうとして言葉を付け足していく。
「あーいやほらあれだ、一人で帰ると寂しいし!そっちも一人みたいだから危ねえから途中まででも一緒に帰れば危なくないぞーって意味で!俺は駅まで歩くけどそっちが何処まで帰るか分かんねえから、あくまで途中までな!」
「……」
俺らしくない慌てぶりなのは自覚してる、黒江相手でもここまで緊張した記憶は無い。だからこそ言葉数が増えている訳だけど……周りに人がいないのがせめてもの救いだった。
「け、結構です」
「だよな、そうだよな!悪い悪い忘れてくれ!」
「でも……私も六地蔵まで歩くので、途中までなら」
「……そ、そっかそっか。じゃあ駅までは一緒に帰るか!」
これはギリギリセーフと言っても良いんだろうか。良いとしてもこの後の対応を間違えるとこっちの高校生活が危ぶまれる。昇降口の扉を開けて入って来た隙間風に、駅まで綱渡りになりそうな春先らしからぬ寒気がした。
「あーこんな時間まで学校にいたって事はあれか、バスケ部にでも入った?それとも放送部?」
「いえ、どっちも違います……」
「そ、そっか」
「はい……」
階段の途中で会話のネタが尽きた、下手すれば一人で帰るより気まずいかもしれない。こういう時塚本とか瀧川辺りならもっと話せるのに困っていた。これまで部活に入ったりしなかったツケのせいで、後輩という立場の女子と下校中に何を話せばいいか分からない。まだ田中先輩の方が喋れている気がしなくもない。
正門までのアプローチを歩く最中も無言が続く。せめて正門をくぐった後のなだらかな坂道を歩く前に何か話題を、そう思って悩みに悩み抜いた結論が。
「そうだ名前!まだそっちの名前を知らねえんだわ!」
「名前?」
自己紹介だった。あまりにも安直すぎるし、初対面で済ませなさいと言われそうな奥の手に冷や汗をかいた。グラウンドでマーチングの練習をしている吹部の皆に、勝手ながら救われた気がした。
「いやほら、俺としてはデルフィニウムを買ってくれた人って認識だけだからさ!そっちは多分名札で知ってくれたんだろうけどあの時は店員と客だったし!」
「あ──すみません!私から名乗ってませんでした!」
「いいのいいの、バイトしてる時に客の名前を聞く方が変だし。こっちこそデルフィニウムの子とかいう覚え方しててごめんな?」
「先輩が気にしないで下さい……鈴木、鈴木美玲です」
「そっか鈴木さんな。改めまして、北宇治高校へようこそ!」
「もう正門から出ましたけど……?」
既に北宇治の敷地外だけどギリギリ間に合った事にしておこう、名前さえ聞ければ大体の会話のハードルが下がるし駅までの道のりが少しはマシになる。帰路を辿る足取りが少しだけ軽くなった。
「鈴木さんもこんな時間まで残ってた訳だけど、部活に入ってないなら何してたんだ?」
「あっ、部活には入りました」
「そうなのか」
「えっと……吹奏楽部に」
「ふーん?」
吹奏楽部に入った、その鈴木さんの言葉は俺の頭を混乱させてきた。吹部なら今歩幅を合わせる練習をしている筈なのに。まあ、早引きとか居残りとか事情は色々あるか。
「吹部なら楽器は?トランペットとかトロンボーンが似合いそうだよな」
「ていお、えっと……チューバです。南中でも三年やってたので」
吹部に入ってる、というしてもいない憶測よりもチューバを担当している事に納得がいった。入学式特有の大荷物でもびくともしない子ならあの大きな楽器を吹いていてもおかしくない。
「チューバかあ、俺は管楽器自体持った事ねえけど重いだろ?マーチングだとスーザフォン背負わされてるし。あれが肩痛そうでなー」
「いえそこまでは……チューバもスタンドがあるので負担にはなりませんし、スーザフォンも重くはないです」
「へ、へ〜……」
涼しい顔で言い切られたけど、スーザフォンって十キロはあるとか聞いた事あるぞ?三年も吹けばなんでもなくなるのか?どの部活でも即戦力になると見込んだ通り、有望な後輩が入ったんだなあ。
「……矢田先輩は、この時間まで何を?」
間を保たせようとしてくれたのかはさておき、鈴木さんから話し掛けてくれたのは嬉しい誤算だった。去年の今頃の釜屋さんとも違う類いの踏み込まれたくない性格だと見ていただけに、話題を振ってくれたのは有難かったりする。下校時間の頃合いに帰る真面目そうな子が一緒に下校してくれるだけで、相当奇跡みたいな一件だし。
「俺?俺はちょっと人助けというか……色々上手くいかないって言う子がいたもんだから、予習復習の手伝いをこの時間までな。どうせ部活には入ってねえし」
「予習?授業のですか?」
「まあな、居残りとも言う」
吉川先輩を『あの子』的な扱いをしたけど許してほしい。先輩のプライドを部活の後輩の前で守る為だ。
それに嘘でもない。サンフェスでやる演技の予習でもあったし、その復習としてこの数日は通しで完成度を高める作業に入っていたから。授業と言われればあれは授業だ。
「居残りですか……」
「そ。バイトの日じゃなかったし、自由に時間を使えるなら誰かの為に使ってやりたくてな!その子の事自体は応援してるし、悩んでるなら手を貸してやりたいのが俺の性なんだよ」
「……」
坂道を降りきって住宅街の中心を喋りながら歩みを進める。閑静な住宅街ですれ違う人はあまりいない。ここは普段一人で帰っても落ち着く空間ではあるけど、喋りながらだと中々に楽しい一路でもある。
「鈴木さんも高校生活が始まってばかりだろ?悩みがあるならなんでも相談に乗るからな!こういうのをファンサービスって言うんだっけか」
「矢田先輩にそこまでしてもらう必要は……!」
「無理にとは言わねえよ、あるなら相談に乗るぞってだけでな。もし本当にあるなら案外話しやすいかもしれねえぞー?どの部活にも入ってない人間だからこそぶつけられるって評判なんだぜ!」
「……」
本当に評判かはともかく、そこそこ人の相談には乗ってきたつもりだ、俺だって去年は色々悩みを抱えていたし。京都に馴染めるのかとか勉強とバイトが両立出来るのかとかがそう。それを経て今があるから鈴木さんに示してみせた。
喋りながら住宅街を抜けて再びなだらかな坂道の手前に差し掛かった頃、鈴木さんの足取りが重くなっていた。足音が遠くなっていたのを察知して振り返ると、数歩手前で歩みを止めている。
「おーい鈴木さん、どうかしたかー?」
「…………」
「鈴木さん?」
経験上、鈴木さんは何かを思い詰めた時の顔をしている。何を思い詰めているのかまでは尋ねられないのが、後輩という立場に俺が建ててしまう壁のせい。そしてこれも経験上、それなりの鬱屈とした感情を抱えていると感じ取れる。いずれにせよタイミングがあると考え、副委員長の言葉を待つように鈴木さんの言葉をじっくり待った。何もここで話してくれる必要もないし。
「…………私、去年北宇治のコンクールでの映像を観て憧れて北宇治に入学しました。吹奏楽部に入ったのも同じ理由なんです」
鈴木さんが、ゆっくりと口を開く。何かを捉えた、捉えてしまった感覚は嘘をついていなかった。
「……うん」
「もっと、一生懸命部活に打ち込めると思ってたんです。もっとチューバが上手くなれると思ったんです」
「うん」
「それなのに、全国大会まで進んだ部活なのに、私よりも下手な子や先輩ばかりがちやほやされて、みんなその子達に構ってばかりでした。ちゃんと練習で結果を残した人より、下手で居残ってでも親睦を深める方が重宝されていました」
去年の吹部が実力を重んじるとは知っていた俺からすれば、今年の吹部はその実態とかけ離れている。吉川先輩の作ろうとしている吹部とも違う。鈴木さんの言葉通りだとしたら先輩の目指す全国金とは大きく逸れてしまっている。
「居残って練習してる子や下手な先輩への苛つきが抑えられなくて、時間になったら切り上げるんですけど、練習時間に下手な先輩達が和気藹々としてるのを見ると……私の居場所が無いんです。居残りたくないのは、あそこにいてもしょうがないからなんです」
これまで色々悩みを聞いてきたつもりだけど、新しいタイプの悩みだ。答えを間違えば、鈴木さんは吹部を去ってしまうかもしれない。辞めたいと思ってるなら部外者だからこそ止められない。でもそれは、去年の北宇治を繰り返してしまう事になる。危ない相談を前に選択を迫られている。
「私は本当に、北宇治でチューバを続けても上手くなると思いますか?」
言葉をより慎重に、繊細に選ばないといけない。ネタがないと困っていたのとは訳が違う。俺の言葉が後輩のモチベーションに繋がる状況に置かれている。
「……北宇治の吹部が全国大会で金賞を目指してるのは聞いた事ならある。実績も知ってる。ただ正直な所、今年の吹部が社交性を重視しているのか、実力を重視してるのかは分からない。先に結束力を高めようって算段なら社交的な人達が重宝されても当然の話だな」
「だったら──……」
「それでも現状の吹部が、鈴木さんのいる低音パートだけかはともかく和気藹々としてるのと、鈴木さんがやりたいように部活動を出来てねえのは別問題だ」
伏せ目がちになっていた鈴木さんと目線が合う。こういう切羽詰まる悩みを見過ごせないのは俺の我が儘、それは俺が一番分かってる。
「責めるつもりはねえんだけど、鈴木さんだけの問題として考えてるだけじゃ見えない物があるかもしれねえ。それも含めて相談に乗る。勿論何時までも試してはいられない、直近のイベントだとサンフェスが控えてるだろ?それまでの時間を考えりゃ、鈴木さん自身が決めなきゃいけない時は必ず来る」
「……もし、それでもどうしたらいいか分からなくなったその時は?」
「思いの丈をぶつけてやれ、蔑ろにしてきたと思う先輩達に。たとえ出番直前だろうとな」
後輩に向けて根拠のない自信を示すのはこれが初めてになる。でも俺にやれるのはこれくらいだ。
「低音の連中以外にも友達はいるし話を一通り聞いたから答えるけどな。少なくとも、今の鈴木さんの悩みを受け止められない様な小さい器はしてないと思ってるぞ。俺はな」
「…………」
これは、部員じゃない人間からの祈りとか信仰でどうにかなる問題じゃないのは分かってる。でも、部外者だからこそどこまでも、どこまでも祈りとか信仰の話になるんだ。だって、やるだけやった後の俺にはそれしか残されていない。吹奏楽部のあれこれを、客席で観ている事しか。
「騙されたと思って試してみな、根拠はねえけど自信ならあるからよ!」
この手の去就を迫るタイプの真剣な話は、個人的には苦手な部類に入る。これからの経験になるとか打算的な思考は介在していない。だって鈴木さんが自ら作った壁を破れるかってのと、去年から変化しつつある吹部の度量に賭けた作戦だから。
「そうだ!なあ鈴木さん、帰り道にコンビニがあるのは分かるよな?」
「えっ?……はい、ありますけど」
「そこでアイスでもスイーツでも奢ってやるよ!登校中に立ち寄ったけどさ、今日ブルーベリーフェアってのがやってるらしいし見に行こうぜ!」
「い、いえそんな、奢ってもらうだなんて……ましてや矢田先輩に!」
「鈴木さんだって吹奏楽部の一員だろ?低音パートの将来有望なチューバ担当!居残りしなくても引き止められない位頑張ってきてるみたいじゃねえか。それに俺に初めて出来た後輩だぞ?だから大人しく奢らせてくれ!」
「────」
「ほら行くぞー後輩、これまでとこれからの鈴木さんの努力に乾杯!」
「はっ、はい!」
去年まではまだ北宇治に居なかった頃から部活全体が空中分解しかけた過去がある、去って行った先輩がいるのも聞いている。陰ながら応援している生徒としてやれる事をやりたいというのもまた、我が儘になるだろうか。
ベリー系のアイスを鈴木さんに差し入れという形で奢り、コンビニ前でその意外な美味さに舌鼓を打っていた翌日。同級生とも友達とも違う、後輩という関係がこれまで部活に入らずにいた俺にとっては酷く新鮮で、昨日だけでも中学時代の心残りが埋まりそうな楽しさが去来した。
弟分や妹分ならこれまでも施設で面倒を見てきたけど、家族的な年下とも違う学校の後輩という属性の鈴木さんは俺が進級した事実を浮き彫りにし、一歩を踏み出す新たなきっかけを与えてくれた。今日はそんな門出に相応しい曲を弾くつもりで音楽室に足を運ぶ……そのつもりだった。
「さて、と」
そんな気が変わったのは、今朝教室に着いた時の事。普段通りに教科書やノートを鞄から出して机に直そうとしていると、通学鞄の内ポケットに入れたままの茶封筒に気が付いた。先輩二人からプレゼントとして貰ったそれの存在を数日間放置していた事実に責任を感じ、一人になれる昼休みの音楽室で中身を確かめようと方針を切り替えた……すみません、鎧塚先輩に吉川先輩。今確かめますんで。
貰った茶封筒には女子らしいマスキングテープで簡単に閉じられていて、開封に少しばかり気を遣った。それでも粘着力自体は大したことはなく簡単に封が開く。
「……やっぱり雑誌か?」
蓋を開いて中身を覗くと本らしき紙の束が見えた。その全容を確かめるべく手を突っ込みその束を取り出す。
「これは……」
鎧塚先輩から手渡されたそのプレゼントの正体は、折り目一つ見当たらない大判で新品の本だった。中身をざっと捲ってみると楽譜、楽譜、また楽譜。目を通す限りはピアニスト向けの楽譜集らしいけどどれも俺の知る曲じゃない。どこか怪訝になりつつ本を閉じてみる。改めて貰った本の青く彩られた表紙を眺めてみると、そこにはこう書いてあった。
「教則本だなこれ……シー、ゼット……ツェルニー?三十番?」
「ツェルニーはですね〜、あのベートーベンのお弟子さんなんですよ〜」
「ほーん、てことはその弟子が後世のピアニストへ上達の為に編曲した──あ?」
あまりにも自然な流れで解説が挟まったせいですんなり受け入れそうになり、補足を飲み込んだ所で固まった。それだけ外部の情報を遮断した証なのか、普段の会話の声量で喋っても気にならない間合いに入られている。恐らく音楽室のピアノのやや左側、黒板に近い所にいる声の正体に視線を送った。
「あの〜、もしかして矢田明宏先輩、ですか〜?」
「そうだけど…………誰!?」
かなり自然に挟んできた言葉を補足された情報から堺さん辺りの言葉だと勘違いし、視覚情報との齟齬で混乱しそうになった。
話し掛けてきたその子は、緩い癖毛か軽くパーマを当てていそうな髪を肩より下まで伸ばしつつ、前髪を後ろでまとめておでこを出している。髪色も堺さんと比べて明るめで、胸元の三角タイはどう見ても緑。つまりは入学したばかりの新入生……昨日の鈴木さんとは同級生にあたる。
「お会いしたかったです〜!あ、はじめまして、剣崎です〜。あと、梨々花です〜」
堺さんとは声質も雰囲気も違うのに勘違いしてしまった事を心の中で謝りつつ、ここ最近色んな出会いがあるもんだと自分で自分に言い聞かせ、話し掛けてきた剣崎さんに向き直る。新しいパズルのピースを填めるような出会いも、進級した人間にはよくある事なんだろうか?
みっちゃんと梨々花とのお話回。