一次選考に落選するのは、「日本語になっていないレベル」と言われていますので、「日本語になっていない、駄目な小説」とは、どんなものか知りたい方は、読んでみるといいかもしれません。
作者はもう、小説の応募をする気はないので、応募した記念として、墓標を晒すことにしました。
ちなみに、作者の好きな小説は、小島信夫とか、サミュエル・ベケットとか、イワン・ゴンチャロフとか、特殊な嗜好の作家ばかりですので、ワクワク、ドキドキとか、読んで為になる、感動する、とかいう類の作品ではありませんので、ご了承ください。
ポル・ポト派がまだ武器を持ってジャングルの奥に潜んではいたものの、選挙の実施によって内戦終結に一応の目途がつき小康状態にあったプノンペンへ到着して、空港から市街地へ出る外門ゲートには、ロシア製と思われる携帯型の対戦車グレネードランチャーを持った民兵ゲリラ風の兵士と弾痕だらけの装甲車が警備を行っていて、一泊四ドルちょっとの安宿の一階にある、街路から出入り自由な広い食堂のカウンター・テーブルの隅に雑誌置き場のような籠があって、不要になった日本語ガイドブックやヌード写真だけ切り取られ読み古された週刊誌が何冊か入っていて、どういう切っ掛けで始まったのか、誰でも自由に書き込める日本人バックパッカーのための情報ノートがあり、世界の他の国でも日本人バックパッカーの溜まり場には情報ノートが置かれていることがあって珍しくはなかったのですが、インターネットや携帯電話が世界的に普及する以前は旅の知り合い同士の伝言板のような機能も果たしていました。食堂のすぐ外の未舗装道路を、旧式のスーパーカブや使い込まれて錆びたような小型バイクが、土埃と煙とエンジン音を立てながら無秩序の中の秩序を保って無数に行き来していて、スコールが降っても往来はそのまま途絶えることなく、子供の泥遊びのように道路のあちこちでバイクが大きく泥水を跳ね上げるのを、食堂から飽きずに眺め続けたことがありました。食堂に置いてあった情報ノートは大学ノートと同じ様式で、表紙には誰かの手書きで『情報ノート』と大きく書かれボリューム番号が振られていました。私が手に取ったノートには確か、『vol.6』と書いてあったと思います。情報ノートはその一冊だけで、それ以前の番号の情報ノートはどこにも見当たりませんでした。情報ノートには実際上、役に立つことはまず書いてありません。例えば、現地の物価情報が書き込んであったとしても、カンボジアのような世情の変化の激しい国では、すぐ過去のものとなってしまいますし、現地語ができず経済事情に疎い外国人旅行者では「外国人価格」を鵜呑みにしただけかもしれず、ガイドブックの情報でさえ、それは何年も昔の価格だ、と店の人に言われてしまうことがあります。正当な価格なのか不当にぼられているのかさえ判断できません。旅の途中で出会う長期滞在のバックパッカーから直接話を聞いて確認する方が有用でした。それでも、プノンペンの安宿の食堂にあった情報ノートには、真偽不明の旅の体験談や怪しい噂話、旅の途中で喧嘩別れした誰かへの悪口、カンボジアとカンボジア人への罵詈雑言などが、日本の常識から解かれ、忖度なく自由に書いてあって、一体どこから溢れてくるのか自分でも分からない無為で無気力な時間を潰すには不可欠なもので、食事をする度に丹念に目を通し……そうそう、思い出しました。その情報ノートには、売春街への行き方と略地図、バイクタクシーの交渉の仕方と値段の相場、良心的な売春宿とお薦めの少女の名前などが、罫線に沿った几帳面な字面で数ページに渡って事細かに書かれ、スワイパー村で言い値でぼられて日本人価格が高騰しないよう一致団結して協力しましょう、という熱心で切実な呼び掛けをしていました。誰かがポエムを書いていました。こんな感じではなかったかと思います。
『スワイパーに舞い降りた天使』
目覚めると天使を見つけた。
枕に顔を半分埋めて
天使のように無邪気な寝顔で僕の隣で寝ていた。
緩やかな朝の光がおんぼろ窓の隙間から差し込み
少女のしなやかな裸身を照らしていた。
それはどこか遠い夏休みの思い出のように
僕に懐かしい感じを与えた。
少女はベトナムから売られて、ここに来た。
昨夜の薄暗闇の中で
まだ膨らみの穏やかな乳房が震えるのを僕は確かに見た。
拙い英語で十四歳だと答えた。
本当だろうか?
もっと幼く見える。
大きく開かれたあの場所へ顔を付けてみると
さらさらと産毛の感触があった。
それほど少女は伸びやかで、繊細な身体をしていた。
少女は僕の求めるがままに純粋無垢な奉仕を与えてくれて
僕は天国に連れて行かれた。
天使の与えてくれた早朝の至福に包まれて
僕は少女の安らかな寝顔をいつまでも眺めていた。
もっとナルシスティックで長い文章だったはずですが、何となくでしか思い出せません。ノートの見開きを一杯に使い、横罫線に横書きで左から右へと書くべきページに、わざわざ縦書きで右ページの右端から左へ、少し右へ歪んだ大きなボールペンの字で書かれていました。余白には、「ロリコン野郎」「日本の恥」「恋愛のつもりか? 金で買ってるだけだろ!」「少女買いの中年オヤジが村上春樹気取り?」「はずかしくないのか、はげオヤジ」「ウジ虫は死ね」など、多くのコメントが多種多様な筆跡で寄せられていました。一つだけ「鹿野さん、ナイス」という賞賛コメントがありました。
カンボジア流チャーハンの昼食を終えて、開け放たれたままの食堂の大扉の一つからバイクが騒々しく行き交う道路へ出て、部屋へ戻るために建物の脇にある階段を上り始めると、階上から日本人らしい寝惚けたような顔をした小太りの男が下りて来て、赤の他人だが同じ日本人同士だ、というような、外国にいる時の独特な共感力にお互い囚われ、無言で目を逸らせないまま、相手は上から見下ろしながら、私は下から見上げながら階段をお互い一段ずつ進んで近付いていき、顔を見合ったまま、もう少しで擦れ違いそうなところで、短い連続的な銃撃音が響いてきました。建物の外からでしたが、近くです。映画やドラマでない、軽やかで渇いた本物の銃撃音を初めて耳にしました。二人共、階段で足を止め、息を潜めて耳を澄ませました。車やバイクのエンジン音が止み、人の騒めきだけが聞こえ、一度、泣きながら抗議するようなカンボジア語の甲高い女性の声がしましたが、しばらくすると、次第にエンジン音が道路を行き交い始め、いつもの騒音へと戻っていきました。私は小太りの寝惚けたような顔の男と思わず顔を見合わせ、男は人懐っこい笑顔で、「ダダダダダダダって。聞いた?」と興奮気味に言い、私はもっと軽やかな音だったと思いましたが、反論するようなことでもなく、曖昧な笑顔を作りました。
「まだ戦争みたいなことやってんだな。見えないところで……」
小太りの男はそう言いながら階段を下り始め、私の横を擦れ違い、「見えない銃撃戦かー。あははははは」と作りものみたいな笑い声を残して、一階へ下りて行きました。
私の愛読する日経新聞の訃報掲載欄でW教授が亡くなったことを知りました。それなのになぜ、大学時代のW教授の思い出ではなく、卒業して八年は後のカンボジアのことを思い出したのか、自分でも分かりません。教会での葬儀とは別に、お別れ会が催されるということです。なぜ日経新聞なのか、どうして読売や朝日でないのか、理由を説明するのは難しくはないのですが、大元の経緯まで遡ってしまうと、カンボジアの内戦の始まりから終結に至るまでのように、以前の仕事を辞めた後からの十数年の歴史があって長くなりますし、記憶が曖昧なところがあるので省略させていただきます。ただ、読売や朝日の執拗な勧誘を断るのに大きな効果があることは強調しておいて良いでしょう。戸口の外の新聞勧誘員に――言葉遣いの雑な若者の声だったり、うらぶれた中年の呟くような声だったりするのですが、「うちは日経とってますから」と言うと、「あ、すんません」とか言って、あっさり諦めるのですから不思議です。それにしても「お別れ会」とは何なのでしょう? 私は床の上に新聞紙を開け広げ、腹這いになって顔をぴったり付けるようにして記事を読んでいました。新聞紙のたわみで活字が読み難く、紙面の上を掌で撫でるようにして平らに直したのですが、産毛のような黒く短い体毛が生え揃う、第一関節と第二関節が節くれだった細長い指が何本も並んで新聞紙のざらついた紙面の上を動くと、感覚毛で覆われた節足動物が移動しているように見えてしまい、私自身がゴキブリか何か、昆虫にでもなったみたいに感じ、まあ、気のせいでしょうが、私は新聞紙をしっかり手で押さえて考え込んだのです。W教授はカトリックでしたので、教会で葬儀が行われるのは当然のことではあります。良くは知りませんが、外国映画やテレビで見るように、司祭が聖書を引用した説教をしたり、合唱団が讃美歌を歌ったりするのでしょう。それはいいのですが、葬儀とは別に、お別れ会なるものが必要なのでしょうか。少し前のことですが、私が生まれる以前から活躍していた有名俳優が亡くなって、そのお別れ会の模様をテレビのニュースでみたことがあります。テレビでお馴染みの大御所演歌歌手や芸能関係者達が、情感を込めて弔辞を涙ながらに読み上げていて、普段からよく目にする有名人がやっているだけに、大仰な演技のように見えてしまって、別れを惜しむというより、お別れ会の出し物をしているように思えてしまいました。W教授のお別れ会でも出し物をするのでしょうか。私は讃美歌など歌えませんし、御免被りたいものです。広くもない床の上に何日分もの新聞紙が折り重なって散乱し、私は部屋の真ん中辺りで一番上になっていた新聞を広げ腹這いに寝転がって読んでいて、私が姿勢を変えると、折り畳まれたまま下敷きになった新聞紙の中で、がさがさと何かが蠢いたようでした。私は短い毛に覆われた細長く節くれだった指をくねくねと動かして、縒れた紙面の端を押さえて伸ばしました。
W教授の訃報が掲載されていたのは、おそらく二週間は前の新聞で、読まずに床に放っておいたのを気が向いた時、大抵は歩くのに邪魔になった時なのですが、纏めて読んでから片付けるのです。お金を払っているのもありますが、一通り全て目を通しているのだから愛読者ではあるのです。折り畳まれた新聞紙を広げた時に、中からゴキブリが走り出てきたことが何度かありました。さっき下で動いていたのはゴキブリだったかもしれません。W教授はどんな顔をしていたのか? W教授を思い出すことなど、大学卒業以来ほとんどありませんでした。銀フレームの眼鏡。絶壁のような長い頬をした面長な顔。きつく引き絞るように閉じた口。七・三に乱れなく整えられた黒髪。W教授は近代哲学史と原文を読むためのドイツ語の講義を担当されていました。皺一つないスーツに、鏡の前で点検されたであろう真っ直ぐなネクタイを着け、まるでイマヌエル・カントが生まれ変わってきたかのような正確さで五分前に教室へやって来て、教壇に立つと直立不動で授業開始のベルを待ち、鳴り終わると教室によく通るバリトンの声で挨拶の言葉を口にしてから、間を開けず出席を取り始め、終わるとすぐ前回の講義を振り返りつつ授業を進めていくスタイルでした……ああ、だんだんと思い出してきました。確か学科長になったばかりで、四十代の学科長は学科設立以来の最年少だと聞いたように思います。学科の教授達は六十代、七十代の引退を前にした老教授がほとんどでした。私にはW教授は新進気鋭の少壮の学者のように見え、今考えると、学科内で世代交代しようとしていた時期だったのかもしれません。私は十八歳で、世間知らずの田舎者のアイデンティティーを持て余したまま、一人で東京にやって来たのでした。几帳面さという範疇を越えて、規則への信奉と言った方が正しいほど隙の無い仕草、ドイツへ留学して哲学の博士号を取ったというW教授の切れ長の細い目が私へ向けられ、「君、私が今言ったことを自分の言葉で説明してみたまえ」と響き渡る力強いバリトンの声で指示された時、自分と相容れない何かに対する恐怖に縛り付けられたようになって、私は下を向いて黙り込んでしまったのでした。あのよく通る声は、ドイツ留学中に本場のオペラを習われていたのでしょうか? その頃、海外留学というと、アメリカが真っ先に連想され、オーストラリアやニュージーランドが費用の安さで台頭してきていましたが、まだ「アメリカン・ドリーム」が死語になりきっていない時代で、ドイツ留学と聞いて、明治時代に逆戻りしたような時代遅れな感じがしたのを白状します。当時はまだ、ドイツは東西に分裂していたように思います。まだ国外へ出たことがなかった私は、地元の知り合いでアメリカへ留学した人が何人かいましたが、真面目で朴訥だった人達が自由というか、ざっくばらんな感じになって帰国してきたので、海外留学とはそういうものだと思い込んでいました。他学部、他学科の教授や講師はサンダル履き、ノーネクタイが当たり前で、工学部とかだとTシャツとジーパンの教授もいたくらいでしたが、私の学科の教授と講師だけ一様に礼儀正しくスーツを着用して、出席に厳格な先生ばかり。やはり皆ドイツ留学だったに違いありません。そういえば、学科にはドイツ人とメキシコ人の教授がいました。二人共、日本語がとても上手でした。ドイツ人教授は始業ベルが鳴る前に入室しなかった学生――教室の外で煙草を吸ったり、お喋りをしたりして、慌てて駆け込んでくる学生――をしっかり確認していて、授業を受けても出席扱いにしませんでした。鉄の規律、権威的な気風、それがゲルマン魂とかいうものなのかもしれませんが、私は自覚もなく場違いな学科へ入学してしまったわけで、周りの空気を読むことができない私は、言葉にできない何か間違った感じを持ちながら、毎日、真面目に授業へ出席していたのです。そんな私がおよそ十年後に、世界中を目的もなくふらふらと根無し草になって一人旅したのですから、未来は予測不可能です。ヨーロッパにも行きましたが、ドイツへは最初から足を向けませんでした。南欧のスペインやイタリアは、春真っ盛りの過ごし易い季節でした……四国の小さな町の夜のアパートは静かです。東京では考えられませんが、町中全ての信号機が夜の十時を過ぎると朝まで点滅状態になります。町は文字通り寝静まり、どこか地の果てのような遠くから響いてくる暴走族のエンジン音が、誰にも相手にされない孤独な負け犬の遠吠えのように、悲しく染み渡るように聴こえてきています。再び訃報記事を読み返してみたのですが、W教授は副学長にまでなっていました。私は少し乱暴な手付きで読み終わった新聞を折り畳んだのですが、柔軟性のない紙質のせいでガサガサと紙が縒れる大きな音がしました。雑に折り畳んだ新聞紙は、部屋の角の方へ投げました。そこだけはまだ床が少し見えていたからです。捨てるのはまだ先のことです。下敷きになっていた別の新聞を開きました。また新聞紙の上で腹這いになって、昆虫の感覚毛のような黒い毛が生えた節くれだった指で、紙面を上から押さえました。幸いなことに、ゴキブリは出てきませんでした。
W教授のことに戻りましょう。W教授はドイツ的生真面目さを持っていましたが、決して冷淡なわけではなく、時には冗談めいたことを言うこともあったのです。W教授は講義でいつものように抑揚のついた、はっきりした声で理路整然と話し続けていたのですが、話に区切りがついたところで、銀フレームの眼鏡を外して目を擦ってから掛け直し、三年前に学科を卒業した女生徒が昨日挨拶に来たんだがね、と何気なく穏やかに話し出しました。君達は哲学を学ぶために四年間ドイツ語を学習するわけだが――W教授は溜息のような小さな呼吸をしてから、微笑むような表情で続けました――彼女は卒業してすぐ、何の専攻だったかは答えなかったが、ドイツの学校へ一年間留学したらしい。そしてドイツ留学という経験をアピールして、千葉の地方テレビ局のニュース・アナウンサーになったそうだ。成績優秀な生徒ではなかったが、芸能人みたいにお洒落になっていて、確かにテレビ映りは良さそうだ。千葉から来ている講師に訊いてみたのだが、なかなか人気があるらしい。彼によると、地方局で人気が出れば二、三年で全国放送へ移籍するのが普通らしいから、来年か再来年には私も彼女をテレビ・ニュースで毎日見ることになるだろうと言われた――教室は五階か、六階かにあって、眩しいくらいの日の光が差し込んでいたのを憶えていますので、初夏のことだったのかもしれません。W教授は窓の外の光の方へ視線を向け、彼女は勉学より学生生活の方を優先して楽しんでいたから、彼女が読むニュースを信用して良いものかどうか、その時が来るのを心配している、と言って、困ったような顔をしました。ぽっかりとした静けさが教室を覆い、それから忍び笑いのような控えめな苦笑が後ろの席から聞こえてきました。私はそれが冗談だとは認識できず、笑いそびれたのでした。
大学では講義毎に教室を移動し、一般教養の講義では他学部の学生と一緒になりますが、学科の専門過程の同級生だけの講義では、最前列左側の席が私の指定席のようになっていました。どこの学科の講義でもそうだと思いますが、教壇に近い席は誰も座りたがらず、後ろの席の方から埋まっていくものですが、同じ学科の同級生だけのクラスでは私が知らないうちに友達グループがいくつかできていて、後ろの方の席はグループ毎に仲間で座席を占有するようになりました。私が先に後方の席に座っていると、彼等が何も言わないまでも煙たがられるのは感じられ、時には席を移動するよう要請されることもあって、私は前方の座席へ講義毎に押し出されていき、一ヵ月もするとクラスの各人の指定席が確定し、最前列の私の近くに二人の男子学生が座ることになりました。自然と会話をするようになり、二人共、三度浪人した年上の地方出身者だと知りました。二人は一学年の後期になると欠席しがちになり、翌年には同じ講義にはいなくなり、私は最前列に一人で座って講義を受け続けたのでした。二人のことはずっと忘れていて、今思い出したのですが、プライベートに関することはほとんど知らず、落第しながらも卒業したのか、退学したのかも知りません。私はW教授の近代哲学史の講義内容を、ほとんど理解することができませんでした。きちんとノートを取って、テストの時は暗記したことを書くことはできたので、単位を落とすことはなかったのですが、偉大な哲学者達がそれぞれの思考方法で、お互いに批判したり批判されたり、それぞれ違った「正しさ」を主張していることに、大きな矛盾のような不可思議さを感じていました。私の平凡な現実生活とは乖離した、非日本的な思考と論理に煙に巻かれるようで、W教授のドイツ・ゲルマン的な謹厳な態度とバリトンの声に説得されるように言葉をそのまま鵜呑みにして、鸚鵡のように言葉だけなぞることに徹するしかどうしようもなく、今は理解できなくても、いつか理解できる時が来るだろう、そう思って、世間知らずの田舎者の素朴さで、講義をサボるなど思いもせず、W教授の講義、そして他の教授たちの講義も、ほぼ毎日、最前列で聞き続けノートを取っていたのでした。冬に三十八度の熱を出して一度だけ休んだことがあります。後日、同級生達から聞かされたことですが、W教授が出席を取った時、私の名前を呼んで返事がないのに驚いて名簿から顔を上げ、最前列の席を見て、それから教室を見回し、教室に響く大きな声で、「本間君!」とまた私の名前を呼び、「……いないのか。誰か理由を聞いてないか?」と誰へともなく尋ね、皆沈黙し、「彼が休むとは、信じられないな。鬼の霍乱というやつか」とW教授が言うと、教室の学生全員が爆笑したそうです。普段会話することもない複数の同級生――なぜか女子学生ばかりだったのですが――が私を見つけると、わざわざ近付いてきて同じ話を私にしたのですから、事実に間違いないでしょう。無個性で目立たない私ですが、別の意味でW教授の意識に、あるいは同級生達の意識に、留まっていたようです……言い忘れていましたが、私は今、会社で仕事をしていて、パソコンのキーボードを叩きながらW教授のことを思い出していたのです。出入口の玄関ドアへ一番近いのが私の座席で、人が出入りすると外気が吹き込んできて、まともに当たり、雨の時には霧のような水滴が当たることもあります。そこが今の私の指定席です。長年パソコンでの作業ばかり続けてきて完全に両手がキーボード入力に馴染み、頭の中で別のことを考えながらでも、キーボードを打ち続けることができるようになりました。誰にも自慢できない特技ですが、腱鞘炎に二回なったことがあります。黒いキーボードの上に置かれた私の節くれだった細長い指が小刻みにそれぞれ上がり下がりし、指には昆虫の感覚毛のような短い毛が生えていて、私の思考と関係なく、別の生き物が私の代わりに仕事をしてくれているように感じられます。小さな事務所の少し奥で、席が隣同士の女の子二人が、さっきからずっと休憩時間でない小休止を続けて話に花を咲かせています。一人はストレートの黒髪で薄化粧の疲れた顔をした眼鏡の女の子、もう一人は茶髪に染めたショートヘアのキャバ嬢のような厚化粧ですが、目がとろんとしてあどけない感じのする女の子で、二人共、自炊をしているようですが、スーパーの作り立て惣菜とコンビニのレンジ用惣菜を比較して、価格と利便性と味覚について熱心な議論をしています。私はスケベ心もあって、そちらへ視線を向けました。もちろん両手の指はずっとキーボードを叩いていましたが、右側の茶髪で厚化粧の可愛い方の女の子とばったり目が合ってしまいました。私は慌ててパソコンモニターへ目を戻したのですが、「本間さんは、自分で食事を作ったりとか、掃除したりしてるんですか?」と女の子は私へ話し掛けてきました。なんて良い子でしょう。予期しない質問に私が、「やっ、まあ、あんまり」としどろもどろに答えると、厚化粧の女の子は、「それじゃあ、部屋が大変なことになってませんか?」とからかうように言いました。滅多にないことなので、私は意気込んで、「大丈夫。大丈夫。夜寝ているうちとか、部屋を留守にしている間に、親切な妖精さんがやって来て、掃除してくれたり、テーブルに食事を用意してくれるんだよ」と少し気取った感じに答えました。女の子はとろんとした目で、何を言ってるのか分からないという顔をし、「もう、いいです。訊きません」と言って、隣の眼鏡の女の子と顔を見合わせて小声で何か囁き、頷き合いました。気の利いた冗談のつもりだったのですが、嫌われてしまったようです。自覚はないのですが、こういうのがオヤジギャグというものなのでしょう。仕方ありませんから本論の方を続けましょう。
大学時代は、世間に知られた学者の著作を何冊も読みました。向学心からではありません。同級生達が日常の話題の中で、何気なく著名な学者の名前を挙げたり、著作の文章を当然のように引用したりするのに私はとても驚き、仲間外れになったような、自分が人より劣っているように思えて焦り、同級生の口にする学者と著作名を必死に記憶し、大学生協の本屋へ走っていくようになったのでした。内容の理解はさっぱりで、当時は構造主義だとかポストモダンだとか、さらにはポスト構造主義だとか、違いの良く分からない新思想のブームがあったらしく、私はそんなことを知らず、虚栄心と同級生への見栄、承認欲求に駆られ、自分も学術的な書籍を読んでいることを、恥ずかし気もなく折に触れてアピールしていたのです。それらの学者や著作は、今はもう全く耳にすることがなくなりましたが、どこへ消えてしまったのでしょう。ブームというものの宿命で、歴史の営みの中で淘汰されてしまう程度の意味しかなかったのかもしれません。そういった経緯で、私はフロイトの『夢判断』を読んだのですが、文庫本の上巻と下巻、それぞれ四百ページか五百ページあったはずで――余談ですが、誰ぞが触ったか分からんもんはばっちいよ、という幼い頃に刷り込まれた迷信深い祖母の言葉に無意識に縛られ、本は全てお金を払って店頭で購入していました。祖母の言葉は黴菌が移るとか不潔とかいうより、エンガチョのような感覚だったと思うのですが、そのため、百万冊以上の莫大な蔵書を擁した五階建ての大学図書館は、友人と待ち合わせするだけで、本を借りることのないまま私は卒業することになり――そんなに長大な活字の本を読んだのは生まれて初めてだったのですが、たしか上巻の半分近くへ差し掛かった辺り――夢は実現されなかった欲求の充足で夢の内容は歪曲され圧縮されていること――を夢の分析で例証しているのを読み進めている間、頭の核から全体へ、何かが染み渡るように広がって拓けていく感じがしたのでした。心理学が何であるか分かったわけではないですが、大学で勉学をしているのだ、と私が実感できた唯一の出来事でした。下巻は付け足しのような感じで読み終え、私と話をしてくれそうな同級生を捉まえては、その神秘体験を伝道していったのですが、皆迷惑そうな顔をしただけでした。
学術的な書籍を読んでいると、「~するところのものである」という訳文をやたらと目にしたのですが、ドイツ語からの翻訳であることが多く、翻訳が古く、現代日本語としてこなれていないためかと私は思っていたのですが、出席に厳しいドイツ人教授が授業中に仰ったことがありました。私はW教授の近代哲学史での一度の病欠を除いて、講義を皆勤出席したおかげで落第はせず専門課程に進み、授業でドイツ語の原文を読むようになっていました。ドイツ人教授はバスケットボール選手のように背が高く、金髪が白髪に変わった薄い髪の毛を、それでも細心の注意でもって丁寧に整え、いつも深い紺色のスーツに柄のない単色のネクタイをし、高い鼻筋に分厚いレンズの眼鏡を掛けた顔は、どんな時も波立つことがなく、感情を窺い知ることができませんでした。ハイデガーだったと記憶していますが、講義ではドイツ語原書からコピーした部分テキストを使用し、ドイツ人教授がセンテンスを読み上げ、指名された生徒が――もちろん予習して準備してきます――日本語へ翻訳し、教授が間違いの訂正と内容の補足説明をしていくというものでした。ドイツ語どころか、辞書を引いて訳した日本語の意味することを理解できませんでしたが、他の学生も大差なかったらしいのが救いです。教授が目標としていた一講義分の一ページを進んだことは、一度もありませんでした。学期末の試験を次の週に控えた講義のことでしたが、余談や雑談を一切せず、淡々と講義を進める教授が、授業中にしばらく目を閉じて沈黙し、それから呟くように言ったのです。昔の、大学教授になるような頭の良いドイツやオーストリアの学者先生達は、一つのセンテンスがコンマや関係詞で区切りながら続く、長い長い複文を書きました。普通のドイツ人はこんな長いセンテンス、書かないです。副詞節や形容詞節が入り組んで修飾関係が分かりにくいですが、学者先生達は途中で混乱せずに頭の中でセンテンスを作れるのですね。現代のドイツ人でこのテキストを読んでそのまま理解できるのは、百人もいないでしょう。日本の先生方は途轍もない苦労をして、そんなドイツ語を翻訳なさっています。それを日本で、ドイツなら小学校レベルの語学力の君達へ教えている私は何をしているんだろう。そう仰って、教授は優しく微笑んだのでした。それを聞いた私は、ドイツ人がドイツ語を理解できないという話が腑に落ちずにいたのでしたが、教授の論点はそこではなく、日本人の生徒の能力の方へあったことを、今になって気付きました。それから九年は後のことですが、アンコール遺跡のあるカンボジアのシュムリアップに私は滞在していました。カンボジア人の村の中にいくつかあった、木造平屋の古い民家を板壁で仕切った個人経営のゲストハウスには冷房はありませんでしたが、蒸し暑さを我慢すればホテルより格安でした。まともな設備のホテルは町には数えるほどしかなく、停電が起これば、どうせ冷房は機能しなくなります。ゲストハウスでは、若いのか年を取っているのか判断し難い無口な奥さんがクメール風朝食を作ってくれて、テーブルで宿泊客が食事をしている横で短い竹箒で熱心に掃除を始め、幼い姉と弟が家中を裸で走り回り、父親を一度も見掛けませんでしたが、出稼ぎに出ているのか戦争で殺されたのか、尋ねるのは憚られました。夜にはゲストハウスの軒下にある裸電球の電灯の周りを虫がぶんぶん飛び回り、宿泊客だったフランス人がそこに吊るしたまま置いていったというハンモックに私は横になって、ゲストハウスから少し離れて横に伸びているはずの街灯の全くない村のメインストリートの方の暗闇を、ぼんやりと眺めていました。月明りと星明りだけの人の気配が消えたように静かなシュムリアップの村を一人歩きする勇気がなく、私の他に宿泊していた日本人の若者二人はバイクタクシーで置屋へ少女を買いに行って、話し相手もなく、テレビもなく、昔の日本の農家のように台所と土間が一体になった家の奥では、奥さんがクメール語のラジオ放送を聴いていて、東南アジアでよく耳にする木琴のような打楽器の音楽が流れ、早口のクメール語のコマーシャルの後でカンボジアの歌謡曲が流れると、無口な奥さんが曲に合わせて若い娘のように朗らかに歌う声が聞こえました。裸の子供達――もちろん全裸です――が玄関のドアの陰からハンモックに身体を預けた私をじっと見つめ、私が顔を向けると、きゃあきゃあ声を上げながら中へ逃げるということを何度も繰り返していました。半袖Tシャツは汗でべっとりと貼り付き、チノパンの股間周辺もべたべたして、できれば私も裸になりたいくらいの蒸し暑さで、板で仕切られた部屋のドアには鍵がなく、子供達は出入り自由でやって来るので、寝付くまで待つしかありませんでした。小型バイクのエンジン音がメインストリートの左の方から響いてきて、それから闇夜の中でライトが近付いて来るのが見えました。ライトはゲストハウスの正面まで来ると、急角度でこちらへ曲がってメインストリートを外れ、私へ向かって直進してきました。車体がバウンドするのに合わせて激しく揺れるライトと頼りないエンジン音、丸いライトがどんどん近付き、眩しくなって私は目を右手で隠しました。バイクは、私がハンモックに宙吊りになっているゲストハウスの軒下の手前でライトを私へ当てたまま止まり、エンジンが切れライトが消え、古びたスーパーカブに乗ったカンボジア人の若者がスーパーカブのスタンドを立てて降りました。もちろんノーヘルで、奥さんの親戚か知人だろうと私は思いました。
「ここに日本人いる、聞いてここに、来ました」アクセントと分節の区切りに特徴のある日本語で若者は言いました。「トーキョの大学でフィロソフィ勉強した、とても頭いい人いる、聞きました。あなたですか?」
見知らぬカンボジア人の若者がなぜ私のことを知っているのかと驚きましたが、東京の大学を卒業したことはイエスで、頭が良いというのはノーで、遺跡巡りに雇ったバイクタクシーの男から英語でいろいろ尋ねられた時、大学のことを答えたような気がしますが、自分のことを頭が良いと言ったはずはありません。私は困惑したまま愛想笑いをしました。白シャツに紺の長ズボン、サンダル履きの若者は、ハンモックに寝そべった私へ近付いて来て、「日本語、教えてください。分からない文章あります」と言いました。私はもがくようにして身体を起こし、軒先の板張りの床へ両足を付けてハンモックに座り直しました。
「日本人のあなたならゼッタイ、分かります。頭いいですから」
若者がそう断言し中腰になって差し出したのは、私も持っていた日本語ガイドブックで、それなら毎日どこかしらを読んでいるので難しくはありません。
「わたし日本語ガイド、なるつもりです。本、全部、暗記しています」
カンボジア人の若者は細長い痩せた顔できっぱりと言うと、栞を挟んだページを開いて私へガイドブックを手渡し、指差しました。
「ここです、ここ。辞書に載ってない単語、が、たくさんある。この漢字、読むが分からない。それと、文章、意味も分からない」
そこは観光情報とは関係ない、アンコール遺跡に彫られた様々な文様に関する小さなコラムでした。専門書から書き写したような文章で、専門家しか使わないであろう用語が頻出し、私は一瞥しただけで、読みもしていませんでした。漢字は表意的な文字ですから、字の見た目の偏やつくり等から意味をある程度推量することはでき、文様の形態か特徴をあらわした用語だろうとは思ったのですが、日常生活では使うことのない漢字の正しい読み方が分からず、コラムを読んでも、文様がどういった形と模様をしているのか、遺跡巡りで私も目にはしていたでしょうが、イメージできませんでした。今思えば、それらしい読み方と当て推量のいい加減な説明をしておけば良かったのですが、私は、「分からない」と正直に言ってしまいました。カンボジア人の若者はぽかんと口を開けて、放心したようにしばらく私を見つめ、「あの、これ、日本語です。分からない?」と言い、私は情けなさで打ちひしがれ、それ以来、私は大学の専攻が何であったか、話さないようにしています。
私はまるでドイツ人学者のように長ったらしく、ごちゃごちゃと入り組んだ語り方をしていますが、ドイツ人学者と違って、語っているうちに思い出したことや思い付きをそのままつらつらと述べてしまっているだけで、話に脈絡や繋がりがなく、取り留めがありません。W教授のことでした。話を続けましょう。W教授のこと……私は教室の最前列で黙々とノートを取っていた……ドイツ語を母国語とするドイツ人さえ理解できない学問を日本語で勉強するなんて、今更ながら絶望するしかありません――『絶望』で思い出しました。その日の講義は、数年前に出来たばかりという、細長い十階建ての高層校舎の教室でした。縦に長い教室の右側面は一面が大きなガラス窓になっていて、夏には眩しくてカーテンを閉め切るしかなくなるほど外光が差し込んできた五階か六階の教室で、W教授の淀みないバリトンの声が響き、私は教室の最前列の指定席で黙々とノートを取っていたのですが、「あっ」「あっ」「えっ」という声が、私の背後の別々の席から幾つか上がりました。振り返ると、教室の後部席の右端に座った男子学生が窓の外を指差して隣の男子学生と顔を見合わせ、右の窓の方へ放心したように顔を向けている者、私と同じく状況を把握できず周囲をきょろきょろと見回す者、隣や後ろの席の学生に何があったか訊く者、教室全体が騒めき、W教授は直情的に怒鳴る人ではありませんでしたが、眉間に皺を寄せ、「静かに。何があったというのかね」と張りのあるバリトンの声で言い、窓近くの席の女子学生が、「いま、上から――」と言って絶句。「大きな影が――」と隣の女の子。「何か気になることがあるのか? 誰か窓を見てあげ――」言葉の途中でW教授は何か気付いた様子で、「いや、いや、見なくていい」と慌てて取り消しました。雑談が許可されたかのように教室中が騒がしくなったのですが、私はしばらく何があったのか分からないままで、皆の言葉を幾つか耳にして、やっと事態を理解したのでした。W教授はそのまま授業を続けたのでしょうか。それとも私達を残して外へ出たのでしょうか。それからのことを、どうしても思い出せません。憶えているのは、高層校舎の玄関口から外へ出た時、校舎前のコンクリートタイルの路面にブルーシートが広げて敷いてあったことです。わざわざ夏休みに大学へ登校して、強風が吹いていた日だったのか、校舎の正面ではなく、横側にあった鉄板で仕切られた資材置き場の空き地へ落ちていて、新学期になって発見されたこともありました。毎年二、三人はいたようです……突然ですが、『いかりや長介』のことを思い出してしまいました。いかりや長介が亡くなったことを私が聞いたのは、中米のグアテマラにいた時でした。日本人の個人旅行者――いわゆるバックパッカーというやつですが――の溜まり場で、大学卒業後すぐ旅へ出たという女の子が明るくサービス精神旺盛に、自分の旅の体験を話していた途中――その子は東南アジアから始めて、インド、中東、北アフリカ、ヨーロッパ、アメリカ大陸まで二年近く掛けてやって来ていました――ふと思い出したように、「ナイロビのニャンダルワ・ロッジで知ったんですが、いかりや長介が死んだの、知ってますか?」と言ったのです。「えっ、本当?」「もう歳だったからなあ」などと、その場に居合わせた日本人達が口々に言いました。その女の子は、「湾岸署、どうなっちゃうんでしょうかね。いかりや長介がいなかったら、続編作れないですよ」と心配していました。私は『湾岸署』が何のことか知らなかったのですが、小学生の頃、『8時だョ! 全員集合』を毎週楽しみにしていて、家族全員でテレビを見ていたのを思い出します。その一年くらい後だったでしょうか、日本に帰国した時は驚きました。ゴールデンタイムのテレビ番組に、死んだはずのいかりや長介が出演していたのですから。命日か何かに因んだ再放送かと思ったのですが、いかりや長介はまだ生きていました。どうやら日本人バックパッカーの間でだけ、全世界的に『いかりや長介死亡説』が広まっていて、その時もまだ世界のどこかで信じられていたかもしれません。まるで日本の戦争勝利を信じていたブラジル日系移民の『勝ち組』みたいですが、旅の間、私も嘘の伝搬に加担していたわけで、他人の言葉を鵜呑みにしてはいけないということです。W教授もまだ生きているのではないでしょうか? 日経新聞は日本株や投資信託が将来有望だというシンポジウム風の広告を、紙面を何枚も使って載せ、その翌日や翌週に相場が大幅低下するなんてことはしょっちゅうですので、当てになりません。今ではそれを楽しみに読んでいるくらいです……W教授のことでした。W教授のことで忘れられないのは、何といっても卒業論文の面接審査です。私はイマヌエル・カントのあまり学問的とは言えない薄い小冊子のような著書を要約し、何とか規定枚数を埋めて提出していたのですが、高層校舎の地上八階にある、学科研究室として通常使われている窓を閉め切った小部屋の中で、私は部屋の中央の素っ気ない簡易机に持参した論文のコピーを置いて着席し、壁際のデスクに鎮座した銀フレームの眼鏡に絶壁のような頬をした細長い顔のW教授が、私を静かに見つめ、一対一でW教授と相対して会話したのはこの時だけで、W教授は合図のように頷いてから、論文の要旨を十分間で簡潔に説明するよう私に促しました。私は子供の頃ひどい上がり症で、成長してある程度は改善したのですが、面接審査へ呼ばれるまで同じ八階の別室で待たされている間、喉がからからになり、何度もトイレへ行って、顔だけは見知っていた研究助手に案内されて小部屋へ入った途端、私は完全に上がってしまって、今すぐ窓を開けて外へ、空気を吸いたい、とばかり思い、教授の指示にしどろもどろで準備していたことは吹き飛んで、口が勝手に思ってもいなかった言葉を喋り出し、慌てて軌道修正しようとして、またあらぬことを言いだし、意味も良く理解していない専門用語を連発することで体裁を取り繕おうとしましたが支離滅裂になり、何を論じているのか自分でも分からなくなって、時計を見る余裕などなく、十分間を過ぎても私は堂々巡りのように同じようなことを繰り返し繰り返し喋り続け、W教授は銀フレームの細い目を閉じていて、必死に話し続ける私の言葉を途中からもう聞いていないのは分かっていましたが、卒業するためにはとにかく話し続けるしかなく、おそらく規定時間の終わりが迫ったからでしょうが、W教授は机の上で両手の指を組み合わせたまま、「君、就職先はもう決まっているのかね?」とオペラ歌手みたいによく通る声で言い、説明を途中で遮られた私は何のことか分からず教授を放心したように見るだけで、再び、就職先は決まっているのかね、とW教授は繰り返し、私が、はい、と何とか言葉を絞り出すと、深くゆっくりとした溜息をW教授は吐き、私は卒業することができたのでした。
最近、車のナンバープレートの数字の並びが気になって仕方ありません。何年前からかは知りませんが、ナンバープレートの数字の四桁部分を指定することができるようになったことを、五千円程度の申請料が必要で希望通りにならないこともあるそうですが、昨年、車を買い替えた時に知りました。日本へ帰国して何年か経った頃、地方都市での生活のために免許を取得し、その時購入して十五年間乗った車の前ドアのウィンドーが動かなくなってしまい、生産終了から十年経っていて部品調達ができず買い替えざるを得なかったのですが、最近の車はキーレス・エントリーとかバックモニターとか、知らない間に進化していました。何年かしたらミラーがなくなる、と近所の自動車屋が言っていました。自動運転技術が実用化されてきていて、運転免許証が必要なくなる日が来るのでしょうか? 結局、購入したのはキーレスでもバックモニターでもない安い軽自動車で、ナンバーも指定しませんでした。私は免許を取得する時に、路上での技能試験に三回落ちました。教習所の任意だったのか、必須試験だったのか、心理テストのような適性検査はD判定で、その下のE判定だと免許を取らせてくれなかったかもしれません。「信号を待っていると、いらいらする」のような質問に、まあ、そうだろうなあ、そうじゃないかなあ、と思って、マークシートへ記入していったのがいけなかったのでしょう……ナンバープレートの話でした。毎日、前を走る車のナンバーが自然と目に入ってくるのですが、世間の人々はどんなナンバーを指定しているのかと意識的に見てしまうようになり、今朝、通勤途中に目にしたものでも、『77 77』『・・99』『39―39』『・・・1』『・555』『10 01』等は、指定したナンバーだとすぐに特定できます。『77 67』は微妙です。希望したナンバーが取れずに妥協した形跡が感じられます。しかし、間にハイフンがあったりなかったり、中黒点がついたりするのは、何か法規上の区別でもあるのでしょうか? パスワードを推測しやすいものにしないのと同じで、安易な数字の並びを指定するのはいかがなものかと思います。そういう安易な指定ナンバーを、わざわざお金を払ってまで付けて街中を走っているのを目にすると、自由意志で選択したようでいて実は型に嵌っているというか、人間が類型的思考から逃れられないのを思い知らされるようで、自分のことのように恥ずかしくなってしまうのです――私が大学入学時に与えられた学籍番号は、『888―1234』でした。私が希望したわけではありません。おそらく学部コード、クラスコード、名前順などで機械的に割り振られたナンバーだと思いますが、何と型に嵌った類型的な番号でしょう。「名は体を表す」という言葉もありますし、私の学生生活を予め暗示していたようで、恥ずかしい限りです。
W教授を最後に見たのは卒業式の日でした。大講堂の中央右寄りの学科学生に割り当てられた座席の最前列に、私は就職活動で着たのと同じスーツを着て座り、長い答辞や校歌斉唱――私は校歌の歌詞を覚えないままでした――などを終え、卒業論文の面接審査の時と同じ研究助手に誘導され、高層校舎の五階か六階のいつもの縦長の教室で各々が学位の授与を受け、W教授の労いと激励の言葉を最前列で聞いた後、研究助手が教室の扉を開いて、扉の手前に学科の教授達が並んで見送って下さいました。同級生達は口々にお礼の言葉を述べ、軽くお辞儀をして教授達の前を通り過ぎ、教室を出て行きました。私は皆の真似をして、講義を受けた教授にも受けなかった教授にも礼を言い頭を下げ、W教授の前に来ると深々と頭を下げて、「ありがとうございました」と言い、W教授も「おめでとう」か何か言ったようですが、はっきり聞き取れず押されるように前へ進み、教室の外へ出て、私の大学生活は幕を下ろしたのでした……同級生の女子学生のことを思い出しました。名前は憶えていませんが育ちは良かったようで、いつも小綺麗な服装をしていたように思います。血色の良い顔に低めの鼻、丸顔、細長の一重瞼の目。ぼんやりとした印象は思い浮かんできます。在学中に言葉を交わしたのは、数回しかなかったはずです。私が熱を出してW教授の講義を欠席した翌日、高層校舎の玄関から入った私へいきなり、「ねえ、ねえ、ねえー」と奥の階段手前から校舎ロビーに響く甲高い声を発し、女友達との会話を中断して駆け寄って来たにもかかわらず、私の面前に立つと、「あっ、えっ? えっ? 名前何だったっけ? 何君だっけ? あれっ? 何君?」と突き抜けるような高い声で言い、校舎ロビーにいた学生達から少なからぬ笑いが起こりました。彼女は、私が病欠した時のW教授のことを、頼みもしないのに伝えに来た女子学生の一人でした。優れた記憶力を持ったW教授は、講義中いきなり予測不能の順番で偏りなく生徒を指名し、その日の講義内容を自分の言葉で説明するよう指示していました。一部の学生達の間で次は誰が指名されるか賭けが行われたこともあるほどで、指名された学生は大抵、W教授の顔を窺いながら、たどたどしく言葉を紡ぎ出し、W教授は不十分な所や間違いを見つけるや畳み掛けるように学生を問い質すので、皆しどろもどろになってしまったものですが、彼女だけはW教授に質問された時、「そんな難しいこと訊かれても、あたし、わかんない!」とよく通る高い声を上げ、W教授は呆気に取られ、「あ、ああ、そうか……」と絶句していました。彼女の口癖は、「なに? なに? それ」で、よく通る高い声を教室や大学構内で、よく耳にしました。彼女には、私のようにくよくよ悩むような感じはなく、屈託のない明るさがあって、前述の出来事があってからは、W教授も苦笑するだけで済ませていました。彼女は純粋に東京の学生生活を楽しんでいた風で、学問的なことに興味があったようには見えませんでした。なぜ彼女が専攻学科に哲学を選んだのか分かりませんが、理解できないながらも学業に真面目に悪戦苦闘している私の方がましだとは思っていて、密かに心慰めていたのですが、卒業式では、学科の代表として壇上で卒業証書を受け取る、振袖に袴姿の彼女の姿を目撃することになったのでした。その時まで、彼女が学科の首席――最優秀の成績だったことを知りませんでした。彼女の学籍番号が気になります。類型的な学籍番号を宿命付けられた私と違って、きっと素晴らしい番号だったはずです。何にも考えていないように見えていただけで、彼女の頭の中ではきっと深遠な哲学的思索が行われていたのでしょう……なんだか嫌味な感じになりました。自らの卑屈さを再確認することにしかなりませんから、止めましょう。
W教授と差し向かいで会話をしたのは卒業論文の面接審査の一度だけで、卒業式の日に教室から退出する時、通り縋りに一言お礼を言ったのが最後です。私は四年間で大学を卒業することができましたが、大学で何も為せず、何も果たせないままで終わり、しかし、自分の凡庸さに落胆はしながらも田舎者の呑気さで、まだまだ未知の未来があるという茫漠とした根拠のない確信だけを持って社会人になり、W教授のことは、それっきり忘れたようなものでした。卒業から一年経った頃には、私は働き詰めの毎日が続き、終電に乗り遅れてカプセルホテルに泊まったり、正月も休まず出社したりするようになっていました。未知は無知も同然です……ミチとムチが何か駄洒落みたいですが、偶然です。担当した仕事の顧客の会社ビルが渋谷の道玄坂にあり、最寄り駅から道玄坂へと上りきる手前の――東京に住みながら東京に疎かった私の地理感覚は当てになりませんが――ラブホテル街の中を、私は頻繁に通ることになりました。私はスーツにネクタイで、渋谷の繁華街が近いにもかかわらず人通りの全くない、昼間のラブホテル街の中を通り抜けていたのですが、路上で銀板を高く掲げた男が、三脚で固定された大型ビデオカメラを覗き込むカメラマンの背後に立ち、その斜め横に立つヘッドホンを付けた男は先端に黒い大型マイクが付いた長い金属棒を頭上に持ち上げ、カメラの前では化粧の濃い若い女の子が笑顔でカメラに向かって立っていて、囲いや規制がされていたわけではなかったのですが、私は路上ロケのカメラの向きとは反対の道路脇へ避け、女の子が、「これから何が起こるのか、考えるだけで興奮しちゃいます。それでは、行ってきまーす」と言うと、お尻をカメラへ突き出すようにして、ふわっとしたフリルのミニスカートを持ち上げました。別の時には、事務員の制服を着た黒髪ストレートの女性が前方から歩いて来て、日に焼けた筋肉質の男が女性の後ろから纏わり付きながら話し掛け、女性は厚化粧の顔に不似合いな大きな黒縁眼鏡を掛けていて、「やめてください」と何度か緊迫感なく言ってはいましたが、その右横にはビデオカメラを担いだカメラマン、銀板担当、マイク担当が三位一体となって歩速と足幅を合わせつつ並行して進み、その時も私は脇へ避けて通り過ぎたのですが、思わずくしゃみをしてしまったので、撮り直しになってしまったかもしれません。ラブホテル街の入口にある食堂で遅い昼食を一人で取っていた時に、捻り鉢巻をした白い下着シャツの中年の男が、食堂入口の引き戸を無造作に騒々しく音を立てて開けると汗だくで入ってきて、カウンターに座っていた背が高く肩幅の広い短髪の若い男を見ると一瞬反り返って、「おっ、おお、おお、久しぶり。久しぶり」と馬鹿でかい声を発し、今日はどの女の子の相手か、どんな撮影をしているのかと、声高く業界人同士の会話を始めたり、機材を持った男達が派手な感じの女の子を真ん中にして、私のすぐ目の前で、連れだってホテルへと入ったりしたこともありました。仕事に追われる毎日の私には刺激的で、いろいろと妄想を膨らませ、ちょっとだけ夢のような気分に浸ることができたのでした。現実社会では私の勉強した学問は無力でした。イマヌエル・カントの有名な哲学的定言命法も、それを実際の人生で実行するのは、常に現実との背反と損失を覚悟しなければならず、何の後ろ盾も権力もない普通の人間では簡単に捻り潰され、誰にも顧みられないのは眼に見えていて、それでも幸福や利得を求めない命法に従って意志しようとするのが人間の自由の根拠であるのなら、現実社会には存在しない倫理学的領域で精神的な自由と救いがあるとでも願望するしかなく、新興宗教に走った私の同世代が多くいたのも分かる気がします。地方から出てきた無知な私は、掴みどころのない、目に見えない魔道力じみた社会の流れに従って、東京の片隅でゴキブリのようにかさかさと這うようにして生きていくしかなく、深夜に会社からの帰り道にあるレンタルビデオ店へ立ち寄るのが、日課のようになっていました。
一度目の腱鞘炎を経験した頃のことですが、両手首に力が入らず常に痺れを感じ、それでも仕事はしなければならず、身体が思うように動いてはくれないもどかしさで自分が人間のままでいるのかどうか不確かな感じがしてきて、深夜の帰り道の路地を節足動物にでもなった気分で、かさかさとぎこちなく目立たないよう道路の端を歩いていました。街灯の疎らな駅裏通りが細い道路と斜めに交差した角に、長屋風の古いモルタル塗装二階建ての建物があり、交差した角に面した部分だけが鋭角になった角幅に合わせて狭まり、建物から突き出したようになって、そこの壁には、レンタルビデオ店のオレンジ色のイルミネーションが無言でチカチカと不定期に点滅していて、何とか人が一人入れる狭いドアの扉が、深夜でも大きく開かれたままでした。中へ入るとすぐ、無理矢理作ったような急傾斜の階段がありました。私は雑な作りの急な階段を、段板へ手を突きながら、右腕と右足、次に左腕と左足、という風に交互に動かして這うように上がっていき、階段は二階にある店の床まで直接繋がっていて、腱鞘炎で痺れた両手を床に付けて、身体を床へ乗り出すようにして階段を上がり切ると、二階の床に足を付け、ずっと止めていた息を吐き出しました。レンタルビデオ店は、奥へ細長く伸びた二階部屋でした。階段を上ったすぐ左に狭苦しそうな事務デスクのカウンターが据えられ、左右両側の壁に沿って金属組み立ての大棚がずっと奥まで並んで続き、棚にはビデオパッケージが上から下まで隙間なく詰め込まれていて、部屋の中央辺りで店を前後半分に区切って横向きに、やはりビデオパッケージを詰めた金属組み立ての大棚が置いてあり、そこまでが床の見える、ぽっかりとした空間になっていました。棚に置いてあるパッケージは、DVDがまだ一般家庭に普及していない時代でしたので、全てVHSビデオテープで、ベータ方式はもうどこのレンタルビデオ店にも置いてありませんでした。私は特にビデオを見たいわけでなくても、帰り道にこのレンタルビデオ店へ無意識に足が向いて立ち寄ってしまい、さらに一キロ以上は離れたアパートへ帰ったのでした。
歩くと床がぎしぎし鳴りました。右側の棚の前に、夜遅くにもかかわらず四歳くらいの女の子を連れた若い夫婦がいるだけで、他に客は見当たりませんでした。私はその家族の背後を素通りして、棚一つ空けた横の棚の前に立ってビデオを探す振りをしつつ、それとなく子供連れの夫婦の様子を窺いました。高校を卒業したばかりにも見える若い夫は、髪の毛を金髪に染めた、セメント撥ねの汚れが付いた作業ジャンパーと裾幅の広いニッカポッカという恰好で、頬に吹き出物の痕が目立つ痩せた身体をしていて、口を開けたままパッケージを手に持って、ガンを飛ばすような顔でパッケージのあらすじを読みながら、時々、大きく鼻を鳴らして鼻水を啜りました。妻の方は夫より少し背が高く、猫背なのか前屈みになって腕を組み、バブル期に流行ったトレンディドラマのタイトルの棚へ顔を近付け、視線を動かしていました。背中まで伸ばした長髪を茶髪に染め、着古した薄手のカーディガンを羽織り、太腿が張ったジーンズを穿いて、妻の方もやはり若かったようですが、生活疲れからか、夫よりは老けた顔をしていて、腕組みを解いてパッケージを手に取った時、髑髏や紋章を模った派手な銀の指輪を幾つも嵌めているのが見えました。子供連れの夫婦がすぐには帰りそうにないと見て取って、私はしばらく待つことにしました。子供は母親の足へ抱き付くようにして、「ねえ、ねえ」と何度も下から声を掛けていましたが、母親も父親も振り向きさえしてくれないため、母親の足から離れて反対側の壁の棚の方へ、ちょこちょこと歩いていきました。私はそれほど広くはないレンタル店の、夫婦から棚一つ分離れた洋画・SFの最新作が置いてある棚の前に立って、漫然とパッケージを眺め、面白そうなタイトルを見つけるとパッケージを手に取り、あらすじとキャストを読み、二、三週間して値下げされた時に借りよう、などと考えていました。女の子がいきなり、はしゃぎ声を上げ、ドラえもんかポケモンか、アンパンマンだったかもしれませんが、アニメのパッケージを抱きかかえて母親の元へ駆け寄って行き、パッケージを母親の身体へ押し付けながら、「これ、これ、これー」と子供特有の甲高い声で必死にアピールしましたが、母親は棚のトレンディドラマのパッケージへ腕組みして目を向けたまま、口元だけ歪めて、「やーだよ」と面倒臭そうに答えました。子供の頬っぺたに、大きな絆創膏が貼ってあるのに私は気付きました。女の子は父親の足へ擦り寄っていき、パッケージをまた押し付けながら、「ねえ、これ、これー」と下から声を上げました。棚のパッケージへ手を掛けようとしていた若過ぎる父親は、「うるせえ!」と怒気の籠った低い声を吐くと、パッケージを取ろうとしていた手で無造作に女の子の頭を平手で叩き、ぱしっ、という音が広くもない店内に響きました。女の子は火が付いたように泣き出しましたが、両親は子供へ振り向きもせず、子供も殴られ慣れているのか、ぴたっとすぐ泣き止んで、泣き顔のままアニメのパッケージを抱え、黙って父親と母親の間に挟まるように立っていました。私は階段近くのカウンターのデスクへ目を向けました。眼鏡の大学生とバンド仲間らしいパンクロッカー風の三人の男達が、一人ずつ交代で店番をしていたのですが、その夜は、女のような長髪にちりちりパーマをかけた三十代半ばのパンクロッカーの店員で、デスクの背後の視聴確認用に使うビデオ一体型ブラウン管テレビの方へ身体を向け、小さめの音量で、最新作か準新作のシュワルツネッガーのアクション映画を見ていました。私は子供連れがいなくなるのを待っていたのですが、四歳くらいの女の子の将来の余計な心配をしたり、ニュースで見た事件を思い出したりして、その場に居た堪れなくなり、棚へ身体を寄せて息を殺し、棚沿いに左足、右足と小刻みに奥へ横移動していき、誰も私を見ていないことを確認して、後は一気に、床の音を立てないようゴキブリのようにかさかさと、店内を前後半分に仕切って置いてある大棚と壁側の大棚との隙間へ滑り込んで、表からは見えない店の奥へ入って行きました。そこには先客が一人いて、店を前後に区切る横向きの大棚と背中合わせになった金属組み立ての大棚の前に立って、ビデオパッケージを手に持っていました。寝起きのように髪が乱れた無精髭の男は、臭いそうな上下の黒ジャージの間へ挿し入れた左手で腹を掻いていて、私へ充血してどろりとした目を向けましたが、すぐ手に持ったパッケージへ視線を戻しました。そこは私のお気に入りの、法律上は十八歳以上であるはずの美少女物の最新作コーナーで、男は眼鏡を掛けていませんでしたが、近眼なのか、顔の間近までパッケージを持ち上げ、嘗め回すようにじっくり吟味していて、その横へ並ぶのは気が引けてしまい、私は奥の棚の方へさりげなく寄っていきました……会社の事務所で何か問題が発生したようです。朝早くからお局様――直接年齢を尋ねたことはありませんが、私より確実に十歳以上年下で、勤続年数は中途入社の私より長い先輩なのですが――小柄で目の細い制服の女性が、何かのデータの計算が合ってないと、座席に座った、目がとろんとした厚化粧の女の子にクレームを付けています。私は出社したばかりの仕事を始める前で、キーボードへまだ手を置くこともなく、玄関ドアに近い自分の席で缶コーヒーを啜っていました。給湯室にはインスタントコーヒーと電気ポットがあるのですが、私はカップを洗うのが面倒臭いので、いつも外の玄関脇に設置されている自動販売機で缶コーヒーを買うのです。お局様は、「計算しっ放しじゃなくて、帰る間際だったかもしれないけど、提出する前に一度くらいは再チェックして欲しいのよね」と、いつものことなので諦め口調で言い、「すみませんでした」と厚化粧の女の子が、これもいつものことですが、神妙に謝るのですが改善されているようには思えません。女の子は、缶コーヒーに口を付けながら見ていた私の視線に気付き、とろんとした目を私に向け、「本間さんのせいです。いつも変なこと言うから気が散るんです」と、話の矛先を逸らすためでしょうか、唇を尖らせて言いました。以前は私に気があるのかと思ったこともあるのですが、単に無邪気な性格だっただけで、あどけない顔に危うく騙されるところでした。私は口に含んだ100%ブラジル産豆のブラックコーヒーを飲み下し、糖分なしを飲むのは年齢的にメタボを気にしているからなのですが、「ああ、悪かったよ。ごめんなさい。日本経済がずっと不況なのも、この前、台風で大きな被害が出たのも、世界中でテロが起こって戦争が絶えないのも、全部俺が悪いんだ。ごめんなさい」と素直に謝りました。目がとろんとした女の子の隣のデスクで、叱られている女の子に同情しながら一緒にお局様の小言に耳を傾けていた、疲れた顔をした眼鏡の女の子が、ぼそっと呟きました。
「見掛けと違って、何気に物凄い力があるんじゃね。貧乏神みたいな」
事務所のあちこちから忍び笑いの苦笑が起こり、私はすかさず、「ホンマ、だからね。苗字が。だから本当のことだよ」と得意になって言いました。眼鏡の女の子は、「あー、もう! 気色悪っ」と大人しそうな見掛けと違った柄の悪い声を出し、目がとろんとした女の子は、「本間さん。そういうの、本当、もう止めてください」と文句を言い、お局様が細い目で私を叱るように睨み、計算間違いは私のせいだということになってしまったようです。始業時間には少し早いですが、朝の仕事始めは切っ掛けが大事です。私はキーボードの上に両手を置いて、作業を始めました。そのレンタルビデオ店へ習慣的に通うようになった切っ掛けは、ラブホテル街のロケで見掛けた女優がいないか、作品を見てみたいと思ったからで、一般作品よりアダルト作品の方が充実した店だったので、深夜の帰宅途中の短い間では一度や二度で探しきれるものではなく、何度も通うようになりました。私の背後の横向きの大棚を越えた向こう側から、「おら、うるせえって言ってっだろ」と父親の声がして、ぴしゃっと叩く音、女の子は泣き、またすぐ、びたっと泣き止みました。カウンターデスクのパンクロッカーは何をしているのでしょう。止めないのでしょうか? 見て見ぬふりでしょうか? カウンターデスクにいたのは女のように長髪のパンクロッカーの男で、バンド仲間だと思われる金髪ショートにバンダナの童顔の男ではありませんでした。「あれ? 今日はアイちゃん借りないんですか? 浮気はいけませんよ」とか、彼だけが顔馴染みになった私に話し掛けてくれて、私の数少ない話し相手でした。私の背後には、髪がぼさぼさのジャージの男が立ち続けていました。そっと振り返ると、美少女物の最新作コーナーの棚の前に黒ジャージの背中が見え、男は両手に別々のパッケージを持って、交互に顔を近付けては執拗に見比べていましたが、なぜか不意に振り返って、こちらを見たのです。私は慌てて顔の向きを戻し、正面の棚へ目を向けました。そこはSM・グロのコーナーになっていて、旧作ビデオは縦に詰め込まれパッケージの背のタイトルだけしか見えませんが、最新作はパッケージが横向きに置かれ、ジャケットのタイトルと女優の全身写真、宣伝文句が見えました。美少女には程遠い女優達のパッケージ写真をぼんやり眺めていたのですが、『いいなり就職面接 奴隷志願』というタイトルのついたビデオがあって、美人ではないが、そこそこ若そうには見える女優の顔に見覚えがあるような気がし、細長の一重瞼の目、低めの鼻と丸顔――「そんな難しいこと訊かれても、あたし、わかんない!」という声を思い出し、なぜか彼女だと思ったのです。手に取ってパッケージ写真をよく見るとスカトロ物で、顔を背けてすぐ棚へ戻しました。その後、若い母親の罵る声と女の子の泣き声がしたように思うのですが、私はその日も終電かその前の電車に乗って帰宅したはずで、深夜のうらぶれたレンタルビデオ店に、小さな子供を連れた家族がいるものでしょうか? 自分でも疑わしくなってきました。私は別々の記憶を混同し、無意識に歪曲と再構成を施して、実際にはなかった記憶を作り上げてしまったのかもしれません。二度目の腱鞘炎になった頃、地下鉄のトンネルの奥から近付いてくる二つのライトが何だかぼやけて、妖怪の顔がプラットホームへ現れてくるように見えてきて、私もとうとう会社を辞めました。自律した自由意志による哲学的定言命法に従ったわけではなく、ただ行き詰り投げ出して海外へ逃れたのですが、日本を出発する日の朝、空港行きの特急列車の窓から、円筒型のUFOを目撃してしまいました。
会社から帰宅する途中に、『41―29』というナンバープレートを見掛けました。作為のない自然な数字の並びに見えたのですが、新聞紙が床に散乱したままのアパートの部屋で着替えている時に、あれは「ヨイニク」をもじった数字列ではないかと、ふと思い付きました。そのナンバーの車は私の軽自動車の倍以上はある大型のファミリータイプのワゴンで、三十代の夫婦と幼稚園か小学校の子供が二人といった家族構成ではないかと推測できます。子供の意見でナンバーを決めたはずはないでしょうから、夫の方の肉をたっぷり食いたいという願望なのか、高級な肉を買いたいという奥さんの夫への期待なのか、夫婦の葛藤のドラマが垣間見えるようで、油断できません。残念ながら、妖精さんは部屋の掃除も食事の用意もしてくれてなかったようですが、出国から二年ほど過ぎて海外から日本へ戻った私は、車が走って来なければ赤信号でも横断歩道を渡る人間へと変わっていました。正確には、赤信号で馬鹿みたいに立ち止まったままでいる大勢の日本人にびっくりした、と言う方が正しいのですが、日本を出る前は私自身が何の疑問も感じず赤信号で待つ人間だったということであり、もちろん信号を無視する人間が日本にいないというわけではなく、赤信号が変わるのを待つ通行人から非難の目を向けられ、何か不道徳なことをしている気分にさせられるのは日本だけではないでしょうか? しばらくは日本の不条理さに戸惑いましたが、日が経つに連れ、私は赤信号で立ち止まる人間へと戻っていき、自分が世間に同調してしまう類型的な人間であることを、はっきり自覚したのでした。私は壁に立て掛けてあった、折り畳み式小テーブルを両手で持ち上げました。細かい体毛が生え揃った節くれだった何本もの指が、震えるようにぴくぴくと小テーブルを掴んでいるのを目にすると、自分の意思と関係なく小動物が動いている感じが捨て切れないというか、深夜のレンタルビデオ店へ通った頃の節足動物の這うような感覚が戻ってくる感じがしてきて、床に散乱した新聞紙を足でがさがさと丁寧に脇へ寄せてからテーブルの脚を伸ばして床に置くと、やっと安心することができました。しかし何故に、車の往来がないのに日本人は赤信号で立ち止まっているのでしょうか? ……視点を変えてみましょう。「赤信号で立ち止まるべし」という決まりを直接的な制止や利得がないのに無条件で守っているのですから、日本人はイマヌエル・カントの道徳的定言命法を国民レベルで赤信号において端的に実践しているとも言えます。お母さん方の躾けの賜物でしょう。道徳的定言命法の実践が現実に有り得るとしたら、「赤信号が変わるまで立ち止まる日本人」ほど適切な実例は他にないのではないでしょうか。だとすると、道徳的定言命法とは、幼い時期に刷り込まれた命令を無意志的に行うこと――お母さんに教えられた躾けに従うこと――となります。しかし、哲学に安易な断定は禁物です。これを、『赤信号が変わるまで立ち止まる日本人問題』として考察してみましょう。イマヌエル・カントの道徳的定言命法は、幸福や利益のためという自愛の原理に基づかない、ただ「~すべし」という命令だというのが、その形式だったはずです。定言命法に従うか従わないかは個人の意志的な選択に任されるので、因果的な必然性にただ従うだけの自然法則とは違って、人間は理性的判断によって意志的に道徳法則を目指すことができる、というところに人間の自由の根拠を見出したカントにすると、ルールに対する盲目的な実行・遵守は、実践理性による意志的な判断ではないので、道徳的定言命法の実践ということにはなりません。つまり、赤信号に出会ったらその都度、「赤信号で立ち止まるべし」と思い浮かべ、それが無条件的な普遍的原理なのかどうか理性判断を行い、車の往来がなく誰が見ていなくとも自らの意志で赤信号で立ち止まることを選択する、ということになります。私の理解ですから全く当てになりませんが、一日中そんな意志的な判断をしていたら精神的に疲れますし、何でもないことで難しい顔をして考え込んでいたら変人だと思われかねません。何も考えずルールに従って、黙ってやり過ごすのが得策です。
私はずっと、くだらないことばかり考え続けています。W教授のことを思い出したせいでしょう。W教授の訃報に接してから、思い付くに任せてきましたが、纏まりを欠いていて、私の人生そのものと言っていいのですが、どこにも着地点が見出せません……ホンジュラスのローカルバスの中で、カップルがいちゃついていたのを思い出しました。お揃いのキャラクターTシャツ、男は膝丈のジーンズ、女はデニムのミニスカートを穿いて、薄茶色のメスティーソの混血の肌をしていました。中米では、アメリカで廃車になった中古のスクールバスが庶民の主要な公共交通機関として活用されていて、色褪せた子供サイズの座席に二人は隣り合って座り、両腕を巻き付けるようにして抱き合いながら、何事か囁き合っては熱烈なキスを交わしていたのです。熱帯のラテン系の国でもあり、時々は目にする、それほど珍しくはない光景ではあったのですが、二人は人目を気にせず、その場で愛し合い始めるのではないかと思うほどで、窓側に座る、整髪料で固めたリーゼントがてかてかと強い太陽の光を反射して輝く、二十歳そこそこの若い男が唇を押し込むように強く口付けしていた相手は、どう贔屓目に見ても若作りした五十代のおばさんで、肌の弛みと肉の弛み、ミニスカートから出た丸太のような脚をありありと思い出すことができます。バスに乗り合わせた現地のホンジュラス人も含めて、国籍も人種も関係なく皆が一体となって、その光景を固唾を飲んで見守っていました……意味はありません。ただ思い出しただけです。食事中に思い出すことでもありませんでした。それにしても、彼女の卒業論文のテーマは何だったのでしょう。今更ながら興味があります。彼女は主席卒業だったのですから、私のようにお情けで――W教授の溜息で――卒業したわけではないでしょう。面接審査で彼女はW教授と、どんな哲学的議論を闘わせたのでしょうか? W教授の質問に、「そんな難しいこと訊かれても、分かんない」とはさすがに言わなかったでしょうが、彼女とW教授との哲学的対話の光景を想像できません。私は和風ハンバーグの皿に箸を置いて立ち上がり、小テーブルの周囲の床に散乱した、折り畳まれたままの新聞紙の上を、かさかさと歩き回って考えました。もう一週間近く経っていますが、W教授の訃報記事の新聞が、まだどこかにあるはずです……ここから一体どうやって私は話を終わらせばいいのでしょう。もう止めるべきなのでしょうし、私の独り言に誰も耳を傾けていないことは分かっているのですが、考えるのを止めることができないのです。どうしてなのか、私自身にも分かりません。思考することは人間の本性である――誰が言った言葉だったでしょうか? 間違えて覚えただけかもしれません。堂々巡りばかりして前へ進めず、行き詰っているのも思考していると言えるのでしょうか? 私の意思ではない、宇宙の果てからの電波かテレパシーみたいなもので操られているだけかもしれません。そもそも私は自律した意識を持った、ちゃんとした人間なのでしょうか? 私は普段の生活では意識していませんが、自分が自律した一個の人間として存在しているという、漠然とした了解というか安心感を持って生きてはいます。ただ、私の節くれだった細長い両手の指が、私とは別の生き物のように忙しなくキーボードを叩くのを見ていると、自分が人間でない何か――大抵ゴキブリのような節足動物のイメージですが――であるような気分になることがあります。その気分は突然じわっと纏わり付くようにやってきて、否定し抑えようとしても、私がコントロールし自由にできるものではありません。もし物理的な外部からその気分がもたらされるのではないとすると、私の中にはコントロールの利かない私でない何かがあり、その何かが私を動かしているとしか考えようがありません。私には、自分に主体的な意識があるという感覚と、意識が借り物の身体に寄生しているだけで気分や衝動として現れてくる何かに動かされている感覚という、二重になった何かがあるように感じるのです。
「君は、『何か』、『何か』とばかり言っているが、余りにも漠然として、馬鹿げた論述ではないかね。それでは卒業させられない。やり直したまえ」
という、W教授のよく通るバリトンの声が聞こえてきそうです。私は自分が人間存在でないかもしれないことを恐れているわけではなく、ゴキブリになっているのなら、それをはっきりとさせて、ゴキブリとして正しく生きていきたいと思っているのです。私が語る話題、意見はどこかで聞き知った、又聞きの類型的な情報ばかりです。世間体とか見栄がありますので、それらしいことを装って語りはしますが、私の主体性とか個性はどこにも見当たりません。しかし、最近はそういう「知性」も枯渇し、専らオヤジギャグばかりを口にするようになっています。ですが、少しでも哲学的雰囲気を醸し出すくらいには哲学用語を使って、私の人間観、人間像を明確にすることはできるかもしれません。そうすれば、W教授は私の話に耳を傾け、具体的な質問をしてくれるかもしれません。
やり直しましょう。私はコンビニで買った、パックのきんぴらごぼうを箸で摘まんで、炊き立てご飯の上に乗せて食べました。『きらら397』で炊いたご飯は粘りが少ない感じがしますが、なかなかいけます。以前は『コシヒカリ』と標準米とのブレンド米を買っていたのですが、北海道産の『きらら397』は値段が安く、名前に数字の並びがあってお気に入りです……なぜか今、ロゴスという言葉を思い出しました。ギリシア語かラテン語ではないでしょうか。どんな意味だったか、よく覚えていませんが、思念、本性、原理とか多義的に都合よく使われていて、おそらく西洋哲学概論の講義で聞いた言葉だと思います。西洋哲学概論を教えていたのは、七十歳のメキシコ人の老教授で、名誉教授ではないにしても功労による定年延長であったらしく、その一年が最後の年度だったのは憶えています。少し癖のある日本語でしたが、おっとりした感じの喋りが私は好きで、もう体力を気力で支えるのも難しかったらしく、講義中に休み休みで話し、学生が真面目に講義を聞いていないのを分かっていて、大学の敷地中央にあった二階建ての古い校舎の教室でも最前列に一人で座ってノートを取っていた私へ、時々、諦めを湛えた優しい微笑を向けてくれました。私もロゴスという言葉を都合よく利用しようと思います。私の自分勝手な定義では、ロゴスとは人間の意識現象全般のことを指す、有ると言えば有る、無いと言えば無いような、明確な実態を把握できない「何か」を指すマーキングとして使うことにしましょう。他人のことは私には分かりませんので、現実に存在するはずの私自身の感覚と認識を基本にして考えるしかないのですが、私自身のロゴスについて語っていけば問題が解決する――ようなしないような、人間それ自体は分割できないので、意識現象も本来、分割不可能なはずで、理性や感性、悟性とか、ロゴスのその時々の働きを個々に言い表すことはできても、厳密に把握できないものを細分化してカテゴリー分類しても限界があると思うのです。哲学的議論では用語や概念の曖昧性は厳禁ですが、そのために哲学は細かく込み入って回りくどい話になってしまいますので、私は逆に、ざっくりと行こうと思います。ところで私の独断ですが、思考は言語で行われると言って間違いではありません。事象の概念規定や論理のないものは思考ではないからです。発話での語り、文字での記述がされなくても人間は言語で思考します。感情、気分といったものは、ずっと漠然とした意識現象ですが、私の意識で把握された時には、一応、言語で表現することができます。回想や想像などは、それらを引き起こす諸衝動があると仮定するとしても、その意識現象は何がしかの関心、意識の指向性があって行われていて、その具体的内容は、記憶を基にした言語的思考で行われます。言語は私という存在ではない、先行して存在する他者群の中で共有され継承されてきて、私へと、両親や家族、学校から直接的に、書籍やテレビなどから間接的に、刷り込まれることによって身に付けます。日本語は私の外部からもたらされて、私は元々自分のものでない日本語を使って思考するようになり、日本語は私の中で単語と文法で定義される狭義の言語の性質を越えて、文化性を含んだ――意味の蓄積を含んだ――ものとして一旦受け入れられ、常に知識と意味を追加、更新し、変形、変質しながら、私は私として思考しているのですが、思考に使う日本語という言語は外部から与えられたものです。何となくこう思うということでしかないのですが、生命体としての諸衝動と志向性を含むかどうかは置いておいて、言語表象とロゴスは、ほぼ一致するように思います。私のロゴスは日本語で構築され、私はその日本語による概念と世界像によってまず思考せざるを得ないわけで、自覚はなくても日本語ロゴスの概念区分の範疇で思考するように仕向けられていると言えます。そう考えると、私の類型性は日本人の類型性と共に分かち難く結びついて存在していて、その類型的関係性によって構築された社会の中で、私が社会的に有用な存在でないにしても――むしろ存在してもしなくてもいい、その他大勢なのですが――私は社会の中に組み込まれていると考えられます。日本語ロゴスは私の外部から継承してきたもので、元々の源泉は私の中にはなく、他者のロゴスと私のロゴスは関係を持ってはいても同一のものではありません。それが、私に自我があるという意識と、自分を自分でないと感じる意識を二重に持つ、理由なのかもしれません。
人類共通のロゴスがあるのか? あるいは、どの言語ロゴスであっても根本的には同一の世界像を構成している――そう考えられなくもありませんが、私の経験からすると、そう単純でもありません。荒唐無稽な臆断であると自覚した上で述べますが、犬には犬の、ゴキブリにはゴキブリの意識世界があるはずです。人間と犬は哺乳類の先祖が同じですし、ゴキブリも生命の進化のどこかで人間と祖が同じです。しかし、それぞれのロゴスは違っているはずです。例えば、それらのロゴスに共通の『善』というものは見出だせるでしょうか? ゴキブリにロゴスがあればの話ですが、私の分身のようなものなので、ないと断定はできません。私はラテンアメリカでスペイン語を勉強し――ナンパ目的だったことを正直に告白しますが――そのため旅の期間が長くなってしまったのですが、予め英文法とドイツ語文法がしっかり頭に入っていたので、同じヨーロッパ系言語で文法の概念とか学習の要領がほとんど同じで、学習目的が明確なこともあって上達は早く、長期滞在するための生活会話は問題なくできるようになり、その成果と収穫は本論から外れますので省略しますが、表面的な意思疎通はスムーズでも、心情や意見表明のようなケースでは自分の伝えたい適切な表現をすることができず、「うれしい」とか「かなしい」とか単純で類型的な単語を使うしかなく、言い足りない、本当はそういうことを言いたいわけではない、という気分を常に拭えませんでした。つまり、私は伝達の道具としてスペイン語を口にしながらも、常に日本語で意識表象、思考していて、スペイン語で思考することができなかったのです。英語を使う時にそんな気分になったことがないのは、英語で女性を口説いたことがない――切符を買うとか道順を尋ねるとか、必要の範囲でしかコミュニケーションしなかった――からかもしれません。私は西和辞書を片手に現地の新聞を読んでいて気付いたのですが、コラムやインタビューなど至るところで『自由』『愛』『革命』といったスペイン語の単語が何度も頻出し、何か社会共通の権威か象徴の落としどころのようなニュアンス――日本での『平和』とか『平等』といった反論さえ許されない言葉と同じように――で使われ、その新聞の名称も直訳すれば『自由報道』でしたが、マヤ原住民系女性の首を切断して死体を木に吊るす、という同じような人種憎悪の殺人事件の記事を何度も目にしましたが、犯人が捕まったことはありません。ラテンアメリカの人々は総じて、自分の『自由』の追求には熱心ですが他人の自由には無関心で、『愛』の獲得には情熱的ですが獲得した後の維持には不熱心で、権力に反抗する『革命』に壮大なロマンを感じつつ自分の利得の反対者には非寛容で残酷な暴力を躊躇なく振るう、私にはそのような類型性があるように見えたのですが、そのような心性=ロゴスを変えない限り、収拾のつかない社会の混乱と悲劇が果てしなく続くのではないかと思ったのです。インドでは、「そのホテルは閉まっている。こっちの方がいい。グッド・ホテル。ロー・プライス」「その値段はずっと前のもので、もう値上がりした」「ステーションはこっちの方向だ。俺に任せろ」等とあからさまな嘘を、インド訛りの英語で毎日、朝から晩まで並べ立てられ、さらには取り囲まれたり、タクシーがいきなりUターンして目的地とは逆方向へ走り出したりしたのですが、適正価格で買い物するため、あるいは目的地へ達するためには、日本円にすれば僅かなお金――時には数円とか十円にも満たない金額――を値下げさせるため大きな労力が必要で、永劫回帰する無限の時間があるのではないかと思うほどの雄大な時間感覚で生きるインド人と格闘し、その度に私の貴重な人生を無駄に浪費してしまったような悔しさ、というより敗北感を味わいました。彼等はヒンディー語のロゴスで思考しながら英語で嘘を言っていたのでしょうか? それとも英語のロゴスで思考して、嘘を言っていたのでしょうか? その他、私の経験から多くの事例を挙げることができますが、何がロゴスに共通する本質なのか、個別の言語ロゴスに依存しない意味や価値が在り得るのか、それぞれの言語ロゴスを検証し比較した上でないと、結論は出せないように思います。言語間の翻訳が可能なのだから、ロゴスの構成的本質は人類共通であると指摘されそうですが、言葉上の共通項が問題なのではなく、意味性、価値の共通性があるかが問題で、各々の言語での世界の意味化において、それが普遍的な価値を構成していることとは違うことだと思います。特に諸ヨーロッパ言語はラテン語方言のバリエーションとも言えますので、日本語と英語のように、文法も単語の成り立ちも含めた文明的背景の違う言語のロゴスを比較する必要があり、もはや英語もスペイン語もドイツ語も忘却しつつある私にはできない課題で、今のところ、私の意識現象では日本語が基底になっているとしか言えず、私は他者にはなれないので私自身のロゴスしか知ることができず、例え、私自身のロゴスを内省して「人類共通の善」があると直観できたとしても、それを検証する方法がありません。しかしながら、もし全ての言語ロゴスに共通の構成的内実が何であるかが明白になったとしたら、人間の類型性というものの源泉が見出されることになり、その時、人間の凡庸さの本質が明らかになるはずです……W教授、どうでしょう。内容はともかく、学究的な雰囲気のある論述ではなかったでしょうか?
しばらく耳を澄ませてみましたが、W教授は答えてくれません。頑張ってはみたのですが、私が思い付くままに行った論理性を欠いた強引なこじ付けに、呆れて言葉もないようです。宇宙の彼方から電波が届いたのか、愉快な気分が込み上げてきて一人で声を出して笑いましたが、すぐそんな気分は引いていって笑いは止み、私は手元に注意を戻しました。私の部屋のキッチンは一畳ほどの広さしかない横長で、流し台の上に紐スイッチ式の小型蛍光ランプが一つあるだけです。私は節くれだった両手の細長い指で白い丸皿を洗い、プラスチック製の水切りカゴへ皿を縦にして置きました。蛍光ランプが少し弱くなってきたように見えます。日本メーカーはもう蛍光灯の製造を止めるらしいので、次はLEDランプを買おうと思っています。コンビニのレンジ用惣菜の和風ハンバーグはなかなか美味しく、ちょうど一人分の分量で食べ残しが出ず、生ごみを少なくできるのが良いです。あと五十円安ければ満点です。会社の疲れたような眼鏡の女の子の方の意見が正しそうです。次回はロールキャベツか、鯖の味噌煮を試してみようと思います。
日曜夕方のテレビ番組を漫然と見るともなく見始めたのですが、地方版ニュースの、どうでもいいことを郷土の誇りのように贔屓目に紹介するアナウンサーにうんざりし、NHK教育へチャンネルを替えました。教育番組へ特に興味があったわけではなく、見るのではなく漫然と眺め続けるのに具合良いことが経験的に多かったからですが、子供向けアニメだったので、リモコンでチャンネルを次々と替えていって、選択肢は何度ボタンを押しても五チャンネルしかないので、すぐ二巡してしまいました。結局、チャンネルを替え続けるのは止めて、子供向けアニメを放送していたNHK教育へ戻し、音量を下げて、そのままにしました。テレビが面白くなくなったのは、いつからでしょうか? 番組が詰まらなくなったのか、私が詰まらない人間になったのか、どちらなのでしょう? テレビを消してしまえばいいのですが、かといって何もすることがなく、静かなのが気不味いというか、時間が過ぎていくのをただ待っている自分を紛らわす必要があります。私は部屋中央の折り畳みテーブルの横で床に足を投げ出して座っていて、リモコンをテーブルへ置いて意味もなく部屋を見回しました。折り畳まれたままの未読の新聞紙は増え続け、私の類型的な日々の生活導線から弾き出されて、壁際へ吹き溜まりのように積もっています。早めに閉め切った窓のカーテンへ視線を向けて、外の暗さ加減を意味もなく確認し、ふっと緊張を解くように息を吐いた時、その日の昼間、スーパーで買い物した後、同じ敷地内にホームセンターやクリーニング店、接骨院、食事処などが集まった、広い共同駐車場を車まで歩いていて、日曜にも部活があったのか、六人ほどの制服姿の女子中学生の集団と擦れ違って私の目を引き、私が車の中へ入って買い物袋を助手席へ置いてミラーを見ると、同じ敷地内のマクドナルドへ入って行く女子中学生達の制服の後ろ姿があり、もう十年以上マクドナルドへ入っていないことに気付いて自分で驚いたのを、脈絡なく思い出しました。私はマクドナルドを嫌っているわけではなく、あまり外食をしなくなって足が遠のいてしまっただけで、旅をしている間はむしろ、世界各国のマクドナルドを積極的に利用していました。イタリアのどこの都市だったか忘れましたが、日本人が珍しかったのでしょうか、客の女の子からウィンクされたことがありました。マドリッド中心部の大型店舗のマクドナルドでは、セットで注文したフィレオ・フィッシュをなかなか持って来てくれなかったので、カウンターへ催促しに行ったら、席を空けていた間に、誰か店員でしょうか、食べかけのセットのポテトとコーラが片付けられてしまって、その席はスペイン人の客に占有されてしまっていました。ラテンアメリカでは総じて、マクドナルドよりバーガーキングの勢力が強く、さらにファーストフード店としては、現地流の鶏の揚げフライの方がハンバーガーよりポピュラーだったのですが、マクドナルドでもバーガーキングでも、入口とかカウンター脇にはショットガンを持ったガードマンが立って強盗に備えていて、停電すると強盗対策ですぐに店を閉じるなど、先進国では庶民向けに過ぎないファーストフード店が、まるで上流階級向けレストランみたいな対応をしていることに、余所者である外国人の居心地の悪さを感じました。そういえば、ラティーノのガードマンの粗雑なショットガンの持ち方を見て、店内で暴発させるのではないかと、バックパッカーの間で心配する声を多く聞きました。日本でもよく見かけるコーラの配送トラックに、ショットガンを持ったガードマンが後部の手摺りに掴まって警備していましたが、角から走り出てきた通行人を、コーラの配達トラックのガードマンが強盗と思い違いして射殺した事故が、『自由報道』に何度か載っていました……私はまた漫然と、時間が過ぎるのをただ待つようにテレビを眺めていて、旅で出会った日本人の女の子のことを思い出しました。
「夜のジャングルの一本道を歩いていたんです。野生動物の鳴き声が暗いジャングルのどこかしらから聴こえてきて、歩く私の近くでは虫が飛び交う羽音がしてました。ここも暑いですが、それ以上に一日中とても蒸し暑くて、ずっと短パンだったんですが、熱帯の植物に囲まれた夜の暗闇を一人で歩いていると、薄着で肌を曝しているのが心細くなってきて……そんな時、すぐ後ろの草叢で、がさっと音がして、立ち止まったんです。月と星明りだけのジャングルの中で、しばらくじっとしていたんですが、何も起こりませんでした。イグアナかな? って思いました。そこのイグアナは人間を怖がらないで、近くの地面を平気でのそのそ這っていることが多かったんです」
当時の私より七歳くらい年下の女の子は前置きもなく、旅先の初対面同士のお座成りな会話の途中でそんなことを話し出して、ガラスコップのビールを一口か二口飲んだように思います。女の子は酔っていたのかもしれません。女の子の話した様子を細部まで順番通り正確に憶えているわけではありませんが、混血メスティーソのジーパンのウェイトレスへ向かって勢いよく手を挙げスペイン語でビールを注文する姿が、妙にリアルに蘇ってきました。
「それからまた、地肌が剥き出しの一本道を歩き出したんですけど、前方から音楽が聴こえてきて、また先に進むと電灯のぼんやりとした光が見えてきて、メレンゲのスローテンポなメロディーがはっきり聴こえるようになって、そのまま茅葺で横長の建物のある拓けた敷地に出て、南国風に吹き抜けになって壁なしの、その辺り数キロ四方に一軒しかないカフェバーに着いたんです。小階段を上がって、木の手摺りで囲まれた高床の煌々と明るい店内に入ったんです。そしたら、店の右側のテーブルから『コン、バン、ワー』って、私を呼ぶ声がして、私はそれに構わず、サンダル履きの脚でカウンターまで真っ直ぐ歩いて行って、サルバ・ビーダを注文しました」
私はその時思わず、「それ、ホンジュラスのビールだね」と指摘しました。
「国境に近かったからじゃないですか? ガヨだけじゃなく、コロナとかも、その店にありましたよ」
ガヨはグアテマラ産のほとんど唯一のビールで、コロナは日本でも売っているメキシコのビールです。
「あっ、言い忘れてましたが、グアテマラでの話です。グアテマラでジャングルトレッキングをしたんです。コスタリカが定番ですが、コスタリカとパナマはパスしてコロンビアに飛ぶ予定だったんで、穴場というか、安かったからなんですが、一日に二本のバスしかない所です」
女の子の話はジャングルトレッキングや各国のビールの銘柄のことへ、しばらく逸れました。長々と思い出すほど面白い話ではありません。余計な突っ込みをしてしまったものです。
「私が店に入った時、変な日本語で声を掛けてきたのはイスラエル人のバックパッカーで、わざわざカウンターまでやって来て、君が来るのを待っていた、って英語で言われました。そのイスラエル人は十日ほど前、その村に来た白人の若い男で、トレッキングした後も次の目的地へ移動せずに、ずっと滞在してたんです。交通が不便でジャングル以外何もない辺鄙な場所なので、二、三日で出て行くのが普通なんです。バックパッカーが六人いたのが一番多かった時ですかねえ。すぐいなくなりましたけど――とか言いながら私はもう、一ヵ月そこに居たんですけどね。アメリカからずっと南へ移動ばかりしてたんで、数日ぐだーっとするだけのつもりが、夜遅くまでそのカフェバーで飲んで、昼まで寝て、荷物をまとめるのも怠くなってしまって、バラエティーに富んだ欧米の外人と話ができるのも楽しくて。だから、変な日本語の挨拶を教えたのは私だったんですけど、教える時に言葉を区切ってゆっくり発音したのを、そのまま覚えちゃったんです。毎晩そのカフェバーへ来て、昼間何をやってるのか知りませんが、一本のビールを何時間も掛けてちびちび飲んで閉店まで粘って、居合わせた外国人に話し掛けるんです。変な外人だな、と思ってました」
日本人の女の子もそこでは「外人」だったのですが、そういう自覚はなさそうでした。「沈没」というバックパッカー用語があったのを思い出しました。私も何度か「沈没」したことがあります。それからまた、程良く酔った女の子の話が横道へ逸れて、長々と村の様子を、その村に専業の宿というのはなくて、民家の納屋だったか、出入口が別の物置部屋だったかを部屋貸ししていたことなどを語り出しました。
「それでですねえ。何だっけ? (イスラエル人の男が話し掛けてきた、と私は教えました)うん、そうそう、その晩は、私達の他に客がいなくてですね。まあ、だから、私を待ってた、なんて言ったんでしょうが……カウンターの中には、カリブの海岸をイメージしたらしい開放的なカフェバーの雰囲気に合わせて、タンクトップでジーパンの若作りしたおばさんがいて、私はイスラエル人の若い男へ目を向けただけで、おばさんから差し出されたサルバ・ビーダの瓶へすぐ口を付けて、一気に半分くらい飲んだんです。宿から歩いて来るだけで汗だくになって、喉が渇いてたんです。げっぷが抑えられなくて、ちょっと恥ずかしい思いをしました。それはともかく、そのイスラエル人の男は、ちょっと変な外人でですね。その前の晩に、えっと、フランスのバックパッカーの女の人が二人いて、年齢が少し高くて二人共三十過ぎくらいに見えたんですが、英語で話をしている途中にいきなり彼が、僕の秘密を教えてあげる、実は僕、スパイなんだ、って言って、イスラエルのパスポートとアメリカのパスポートを二つ出して見せて、ほら、パスポートを二つ持っているだろ、と自慢するように言ったんです。私はもう四回は聞かされたネタだったんですが、誰もが変な顔をするだけで笑わないのに、彼はすごく満足そうな顔をするんです」
私はアパートの部屋で思い出し笑いのように、一人で苦笑してしまいました。彼の両親は子供の将来を思って、わざわざアメリカで出産したのでしょうが、詰まらないパーティー・ジョークのネタになってしまったのです。
「イギリス人の、正装したらお人形みたいに可愛く見えるはずの白人の女の子がいた時には、その子は意外に酒が強くて、ビールの次にロンのカクテルを――モヒートって名前でしたっけ? グラスで何杯もお代わりして、私もそのペースに付き合ったので、彼もビール一本を舐め続けるわけにはいかず、ビールを三本かな? 最後にモヒートを一杯だけ飲んだんですが、彼は持ち金が足りなくって、私が立て替えたんです。彼はよれよれのTシャツとジーパンでみすぼらしい恰好をしていたんですが、貧乏旅行してるわけじゃなくて、VISAのゴールドカードを持ってたんです。初めてカフェバーで顔を合わせた時にカードを見せながら、ATMがどこにあるか、私に訊いたんです。村にATMがないことを、事ある毎に文句を言ってました。強盗を警戒してなのか、無駄遣いしないためなのか、三十ケツァルしか財布に入れないみたいなんです。次の晩に会うなり、彼の方からすぐ返してくれました。几帳面なんでしょうかね。兵役を終えてから旅へ出たそうです。日本人と変わらない背丈だけど、均整の取れた身体をしていましたが、人を殺したことがあるようには見えませんでしたよ……彼、日本へ行きたいって言うんですよ。その二日前のことだったんですけど、私が日本へ帰国する時一緒に連れて行って欲しい、って彼が言ったんです。私が、これから南米へ行くから無理だ、って答えたら、いつ頃? 帰国までずっとここにいると思った、って言いやがったんです。私むかっときて、数日中に出発する、って言ってやりました。そしたら、一緒に旅行しよう、同じ部屋に泊まって食事も分ければ節約になる、南米を一緒に旅行した後で日本へ連れて行ってくれればいい、なんて言うんです。その時は返事をせずに、サルバ・ビーダをぐっと飲んで――あっ、その時はガヨだったかな? うまく誤魔化したつもりだったんですけど。僕と旅して一緒に日本へ帰国すること考えてくれた? みたいなこと、カウンターの所まで来て、私に訊いてきたんですよ。全く予想してなかったんで、曖昧に苦笑いして、サルバ・ビーダの瓶へ口を付けて黙ってるしかなかったです。日本じゃ当然、彼を家に泊めなきゃいけないじゃないですか。鳥取の実家へ外人の男なんて連れ帰ったら、親が大変なことになりますよ。それにですね。アンティグアの町で、スペイン語を学んでたバックパッカーの日本人の女の子がいて。この国も含めてずっとスペイン語圏じゃないですか。メキシコ、ほとんど英語通じなかったし。私も軽く二週間だけ勉強してみたんですけど、その子は同じ旅行者向けスペイン語学校のアメリカ人の大学生の男と相部屋してて……相手の大学生から提案されたそうです。カフェでその子とお茶した時なんかに、勝手にその子が自分のことを嬉しそうに話すんですよ。その子が言うには、欧米人のバックパッカーは基本、カップル文化で、ステディのいない人は旅行中に恋人でもない、便宜的なカップルを作るんだそうです。カップルで出発しても旅行中に別れることもあって、またそれぞれ別にカップルを作って旅を続けるんだとか、それが欧米では普通なんだって、その日本人の女の子は言ってました。でもですね、好きでもない男と、えっと、その……変な言い方ですけど、タダでエッチするなんて、女の側が一方的に損だと思いませんか? その子、東京出身で、何か自慢されてるような感じがしたんですけど。でもそれから、アメリカ人の学生が学校が始まるから帰国することになって、その子が、アメリカへついて行くって言ったら驚かれて、僕にはアメリカに恋人がいるし、君には君の人生があるよ、だったかな? アメリカ人の男に呆れ顔で言われてしまったって泣いてました……えっ?」
私はほろ酔いで好奇心に勝てず、東京出身の女の子が美人だったか、余計なことを訊いてしまったのです。
「東京っぽい雰囲気はありましたけど、まあ、普通じゃないですか? そんなのどうでもいいじゃないですか」
女の子は不機嫌そうに、ビール瓶を掴んでコップに注ぎ、ぐいっと一口飲みました。
「まあ、それで、彼がまた英語で、考えてくれた? って私に訊いてきて。今考えれば、ぐだぐだ何言われてもはっきり断れば良かったと思うんですけど、英語で申し訳ない気持ちのニュアンスとか、どうやって伝えればいいんですかね? 無下に断るのは悪い気がして。でも、何で察してくれないんだって腹立たしくもなって、とにかく何か言わなきゃって思って、手に持ってたサルバ・ビーダの瓶をカウンターに下ろした時に思い付きで、あなたはパスポートを二つ持ってるけど、どっちのパスポートを使うの? って言ってしまったんです。えっと、ですね。彼のパスポートのことでずっと疑問に思ってたことがあって。旅行中、陸路で何度も国境を越えるわけじゃないですか。この国はイスラエルのパスポート、次の国はアメリカのパスポートでとか、出入国する時に自分の都合でパスポートを違わせても問題ないんだろうかって思ってたんです。グアテマラはどちらのパスポートで入国してたのかな、とか。実際のところどうなんですかねえ?」
原則的には出国した前の国の出国スタンプがないと次の国へ入国できないのではないか、と私はその時答えました。でも中南米のイミグラシオン――ラテンアメリカ滞在が長いバックパッカーはビールをセルベッサとか、頻出語をスペイン語で言う癖がつきます――はいい加減だから、入国税――公式にはほとんど必要ないはずなのですが、必ず係官は請求します――を黙って払えば、手数料を上乗せされる可能性はあるが、簡単に入国できるのではないか、などと私は推測を口にし、「イスラエル人は敵対するイスラム教の国に入国できないから、その時、アメリカのパスポートが使えるんじゃない?」と私が言うと、女の子が、「ああ、そうか、***(レバノンだったでしょうか? 憶えていません)は、日本人でもパスポートにイスラエルへの入国スタンプがあると入国拒否されるから、イスラエルでは別紙を用意してスタンプを押してもらうとか聞いたことがある(いや、融通を利かせていたのはレバノンの方だったでしょうか? 確認のしようがありません)」と言い出して、入国ビザがほとんど必要ない日本のパスポートは最強で、盗まれると中国や北朝鮮にブラックマーケットで売買されるなどという、バックパッカーの根拠のない噂話に花を咲かせました。ここまでの話を私は細部まで正確に憶えているわけではなく、多少の記憶の改竄――と言うと大袈裟ですが、記憶の変質、編み変えがあるかもしれませんが、本筋とは関係ない話題をしばしば挟んで、女の子と話していたのです。その間、ビールを追加で何本も注文しました。
「それでですね。彼は勘違いして――私の英語じゃ上手く意図が伝わらなかったのかもしれませんが、日本にはどっちでも入国できる、問題ない、アメリカの方が日本と親密だからアメリカのパスポートで入国した方が審査も簡単だろうし滞在期間が長いと思う、とかいろいろ先走って、早口で一方的に話し出したんです。私は早口の英語に耳が追い付かなくて、苦い顔して聞き続けるしかなかったんですけど、イスラエル人の彼は全く気付かないで喋り続けたんです。で、日本のことについてくだらないこと質問してきたりして、何でか知らないですけど、東京の人口密度はどれくらいか? って訊くんです。その時は『人口密度』なんて英語知らなかったんで、後で記憶を頼りに豆辞典で調べたから人口密度のことで間違いないと思うんですが、その時は何のことかチンプンカンプンで、東京の人口が何? って感じだったんです。彼は、何で分からないんだ、と言いたそうな顔をしてから、東京には人が何人住んでいるんだい? それと東京の広さはどれくらい? って訊くんです。外人にとって日本といえば東京かもしれませんが、日本人だからって、鳥取の人間がそんなこと知ってるわけないじゃないですか!」
そう強い口調で主張した女の子は、鳥取の人口と面積なら答えられたのでしょう。私は十年以上東京に住みながら、一度も東京の人口密度に興味を持ったことがありません。ちなみに、その当時の私は、『人口密度』という英語を知っていました。現在はもう忘却状態ですが、大学受験対策のために通った、地元の予備校の用意した必須英単語集の例文の一つで、三十回書き取りと暗唱をさせられました。
「何でそんなこと訊くのよ、って文句言いたいのを我慢して、『アー……ビリオン?』て笑いながら、適当に私の知ってる一番大きな英語の数の単位を答えたんです。些細なことだし、それで察してくれて、止めてくれると思ったんです。そしたら、イスラエル人の彼は、まるで出来の悪い小学生の生徒を叱りつけるような感じで、それは少な過ぎる、エルサレムでも二百八十万人いるんだぞ、ロンドンは七百万人だ、とか捲し立てて、英語なんで、その数字はうろ覚えですけど、手伝ってやるからもう一度よく考えて見ろ、って私に言うと、バーカウンターの中で黙って立っていた若作りしたメスティーソのおばさんに、召使いにでも命令するような高圧的な態度でボールペンを要求して、紙ナプキンへ都市名と人口と面積みたいな数字を並べて書き出したんです。サルバ・ビーダの瓶で殴ってやろうかと思いましたよ!」
サルバ・ビーダはスペイン語で『命を救う』という意味で、私は愉快な気分になって、笑いながら茶化して言いました。
「いいじゃないか。それくらい。好みでもない黄色人種の女と、お金を節約するために我慢して付き合うつもりだったんだよ。逆に感謝しなきゃ……でも、その男、そこまで日本に拘ったのは、日本で小遣い稼ぎするつもりだったんじゃないかな? 白人女のバックパッカーは日本でホステスのバイトして、旅行資金を稼いでるって話だから。それかさ、ユダヤ人は昔から商魂たくましいらしいから、君のツテでコネを作って、商売をするつもりだったとか……まあ、難しいこと考えないで、白人のいい男とカップルで旅行するなんて若い今しかできないんだから、割り切って楽しめば良かったんだよ。海外だから誰に知られることもないし、日本の常識に囚われず、女の魅力をうまく使えば、逆にそのケチそうなイスラエル人に自分の旅行費用を払わせることもできたんじゃない? 日本へ帰る時になったら、隙を見て荷物を持って逃げればいいんだよ」
そのようなことを言ってしまってから、鳥取出身の若い女の子の表情がかなり険しくなったのに気付いて、私はすぐ口を閉じました。私も酔っていたのでしょう。普段は酒を飲まないので、酔いの勢いで思ったことをそのまま口にしてしまい、失敗することが多いのです。女の子が怒り出しそうだったので、私はすぐ、言い過ぎたことを謝りました。
その女の子と出会ったのは、私の父親世代の昭和の大衆食堂を切り取ってきたかのような、ペルーの古びた日本料理店で、こぶしの効いた昔の演歌をカセットテープで流していました。首都のリマへ到着した私が夕食に久しぶりの日本食を味わおうと店へ入った時、会社勤めの駐在員や在住の日系人とは程遠い、見ただけでお互いバックパッカーだと見分けがつく格好で、先にテーブルに着いていた女の子に声を掛けられ、同じテーブルで旅の情報交換を兼ねて話をしたのでした。日本を出国してから旅が長くなって自分で切ったのでしょう、短いざんばらの黒髪に洗い晒しのジーパンとTシャツを着た二十代前半に見える化粧気のない日本人の女の子で、私はかつ丼を注文し、女の子が注文していた天婦羅定食が来て、最初はお互いの表面的な旅の概略を喋っていたのですが、クスケーニャというペルー産のビールを二人で何本も空けていくうちに、女の子が旅の出来事を語り出したのです。今思えば、クスケーニャのビール瓶で殴られる恐れもありました。キリンやアサヒのビールもありましたが、ペルー産の倍以上の値段でした。ペルーはその夜もTシャツで十分な暑さでしたので、日本はその時期、冬だったのではないかと思います。
「そんな偉そうなこと言うんなら、今度はそっちの話をしてくださいよ。当然、外人の女の人と付き合ったことあるんでしょうね。あっ、違うか。『女の南米』なんだし、毎晩、怪しい所へ入り浸ってるんじゃないんですか? 男のバックパッカーがラティーナに嵌って、旅行資金を使い果たすっていう話はよく聞きますけど、お金で買ってるだけなのにモテてると勘違いするなんて、みっともなくないですか? ……ねえ、どうなんです? 私は理解があるんで、正直に誤魔化さないで話してください」
鳥取出身の女の子は意地の悪い顔で、そう私に言いました。日本だと面食らって誤魔化すところですが、お互いに旅先の、二度と会うことがないと分かっている仮初めの友人みたいなものなので、打ち解けるというのとは違うのですが、日本国内では有り得ない、年齢も性別も出自も全く異なった出会いと人付き合いの雰囲気があり、初対面でも開けっ広げに日本人同士で打ち明け話をすることは、珍しくありませんでした。溜まってしまった長旅の澱、心の淀みのようなものを心から吐き出したいという、無意識の行為だったのかもしれません。
「俺はないなー」と私は答えました。
もちろん私も魅力的なラティーナにはとても興味があったのですが、その頃の私は常にガイドブックで示された目的地があって、目的地がある以上はそこへ向かって慌ただしく進んで行って、毎日のように重くて頑丈なバックパックを背負って外国の未知の町を歩き、日本の生活とは違う「自由な旅」をしていたつもりでした。しかし、ずっと何年も後になって思うようになったのです。誰もが同じようなガイドブックを持って旅をしていて、資金と旅行期間の違いによって多少の違いはあるのでしょうが、結局、皆ほとんど似通った、ガイドブックに導かれた通りの類型的なルートを歩いていたのではないか? それは、自由と言っていいのでしょうか? 取り敢えずガイドブック上の情報選択の自由があるとするにしても、自由はそのようなものである、のか、自由はその程度のものでしかない、のか、私は深刻に考え込んでしまったのです。それはともかく、娼婦を買える場所は当然のことながらガイドブックに載っていませんでした。その上、中南米には、日本のようにコンドームの自動販売機がないので、薬局などでスペイン語を使って買うしかないとか、危険地帯として知られた中南米の貧困街を娼婦のいる場所を探しながら夜にうろつくとか、類型的な人間である私にはいろいろと不都合があって、ハードルが高かったのです。そもそも日本でソープランドへ行ったことがありません。
「あっ、でも――」私は、その時ふと思い出したことを、女の子に話したのです。
エクアドルの個室のない安宿のドミトリー――、シングルベッドが二つあるだけの共同二人部屋で、オランダ人だという白人の少し腹の出た中年男と同室になりました。中年男は英語で親しく話し掛けてきて、私のベッドへ腰掛けると横から私の肩や腕に頻繁に触れ、気に障ってはいたのですが、欧米流の親しみを表すスキンシップなのだろうと思っていました。そうしていると、いきなり抱き寄せられ、「美しい旅の思い出を作ろう」と言われたのですが、英語だったので、最初はその言葉が実際に意味することを理解できず、日本人の悪い癖で、意味が分からないのに反射的に微笑んだのでした。
「ほんとに?」
「そうそう、後で意味が分かって慌てたよ。いきなりだったから驚いた」
「すぐ部屋を出たんですよね」
「いや? 部屋代が勿体ないから次の朝になってから出た。それからは、ずっと個室にしか泊まってない」
「いやいやいや、隠さなくっていいですよ。無理矢理、童貞――じゃなくて、処女ですか――奪われたってことですよね。あははははは」
鳥取出身の女の子は大声の日本語で、はしゃぎました。女の子から指摘されるまでの私は、平和ボケの典型的日本人として、身の危険があったことを思い付きませんでした。女の子にその話をしたのも、大層なことだとは考えていなかったからです。その後、旅を続ける間、男性バックパッカーが強姦された話は世界中の至る所で耳にしましたので、私は幸運だったのでしょう。昨今は、同性愛者への差別問題がよく取り上げられていますが、『差別をしてはならない』というのは、学校で私に刷り込まれた道徳的定言命法で、私があの時すぐ部屋を出たのなら同性愛差別として非難される行為でしょうし、もし何か起こっていたら心身共に一生消えない傷が残ったでしょう。避けられる危険は予め避けておいた方が良いと思うのですが、幸福や利得のためという自愛の原理に基づかない、というイマヌエル・カントの定義に従えば、身を危険に晒すべき、ということになります。差別をするか、身の危険を顧みない勇気を持つか、同性愛差別と異性愛者の安全のアポリアです。
ところで、私と鳥取出身の女の子は周囲を気にせず、酔って幾分大声になっていましたので、日本料理店に日本語が分かる客やスタッフがいて、話をずっと聞かれてしまっていたかもしれませんが、アポリアとは解決不可能な困難、行き詰まりのことです。私は意味もなくチャンネルを替えると、テレビではアデランスのCMが段階式増毛法の解説をしていて、すぐNHK教育へ戻しましたが、何となく気になって、節くれだった細長い指で何度か髪の毛を梳いてみました。私には解決できないアポリアが幾つもあります。大学の講義で初めてアポリアという言葉と意味を知った時に、私がなぜか思い出したのは、ルソーの社会契約論です。中学の公民の授業でのことですが、教科書を淡々と読みながら社会契約論について解説する白髪の教諭に、いきなり手を挙げて、「先生、俺、一度も国家と契約した覚えがないんですけど、それでも国家に従わないといけないんですか?」と言った同級生がいました。教室の生徒全員が爆笑し、なかなか面白い屁理屈だと思ったのを覚えています。その同級生は反抗的でも不真面目でもなく、どちらかというと頭の鈍い大人しいタイプだったので、教諭の言葉を彼のロゴスで素直に受け留め、思い付いた素朴な疑問を、教室の空気を読まずに質問したのでしょう。長年の経験に裏打ちされ自信に満ちていたベテラン教諭が少し狼狽えたように見え、ルソーが歴史的に著名な思想家であり、欧米で高く評価されていることを強調し、学校も警察も国家がないと運営できないし、お前は不満だろうがしっかり勉強するしかないだろう、と説教口調になって、その同級生は納得していなかった様子でしたが、黙って、それ以上は何も言いませんでした。考えてみると、教諭の言葉を通してルソーの社会契約論の理解のとば口に立ったのは、この同級生だけだったのかもしれません。勉強嫌いの生徒は上の空で聞き流し、分別のある生徒は疑問を持つよりもテストの成績を良くするために黙ってノートを取って暗記するだけで、私もそうしていました。私を含めて誰も明示的に国家と社会契約を交わしたことがないのは間違いなく、人間は社会――群れを作る動物なので、群れの中に生まれ出たことが即時に社会契約である、とでも考えるしかなく、何かすごく無茶な、是非のない話ですが、選択の自由を与えてもらうには誰に頼めばいいのでしょう。しかし事実として、一般社会では誰もが暗黙の裡にルールに従って生きているわけで、もし社会契約をしないで生まれることができたのなら、ずっと一人で孤独な人生を送ることになるのかもしれません。人間は孤独な限りで自由でいられる――旅をしている間、私は完全ではないものの、自由を感じていました。それはお金で日々の必要品を購入することができ、家族や仕事の社会関係を失い放浪していて、世間が私を放置してくれていたからです。自由は孤独でいられるための資産の過多で決まる――あまり幸福そうには思えません。そろそろW教授のことに戻りましょう。私にとってW教授は、『真理』と刻まれた白い塔が目の前に聳え立っていて立ち竦んでしまう、そんなイメージで思い出してしまうのですが、W教授なら、このアポリアに答えられるかもしれません。
「ふむ。君の論述を要約すると、『自由は金で買う』と定位することになるが、それは拝金主義に堕するのではないかね。それと社会契約論についてだが、経験的事実に先立つア・プリオリな――先験的な事柄については、『ただ、そうである』としか答えられない」
イマヌエル・カントの用語を断片的に使っているのは真面目にノートを取っていた成果ですが、私の貧困な想像力では、およそW教授らしくない類型的で画一的な言葉しか言ってくれません。まるで出来の悪いAIです。でも、こうやって毎日、W教授のことを思い出していると、W教授が身近な存在に感じられるようになってもいます。W教授はどこからか私を見ていて、時々、私に語り掛けてくれる、そんな気がします。
右手を広げて目の前にかざし、手の甲と指をじっと眺めました。細長い指は関節の節々で不格好に膨れています。手の甲から指の表皮を通って指先まで細かく黒い体毛が生え揃っていて、私は人間でないものに変化してしまったようです。私は人々の中へ紛れ、社会に埋もれて、ゴキブリのように片隅へ隠れるようにして生きています。それに不満を感じていないのは、それが複雑で競争的な社会の中で、私が最も自由に生きることのできる方法だからでしょうか? 社会という他者との関係の網目の中で生きていながら、一方で他者に煩わされずに自由でいたい――それが私のアポリアです。
「ところで、君の言う他者とはどんなものかね? 他者の他者性について説明してみたまえ」
W教授が、私に語り掛けてきてくれました。いきなりのことで答えるどころか困惑して、W教授の質問の意図さえ理解しかねてますが、初めてW教授と哲学的な対話ができそうで嬉しくもあります。とにかく、考察してみましょう……そうですねえ……私にとって他者は、「眼差し」だと言えます。というのは、先週、ファミレスでのことですが、休日の昼食を一人で、若鶏の熟成醤油もろみ焼きのAセットを食べていた時、隣接した前の席には、テーブルの上に置いたスマホに顔を付けるように人差し指で操作する若い母親がいて、母親の向かいの私の席と接した方の長椅子に、二歳ぐらいの女児が背凭れへ手を掛けて私の方へ振り返り、食事をする私をじっと見つめていました。気にしないようにしていましたが、ふっと女児へ目を向けてしまい、女児と目が合いました。女児は満面の笑みを無邪気に私へ投げ掛けてきて、私も反射的に微笑み返したのですが、女児はすぐ無表情になり、ぷいっと顔を背けて母親の方へ向き直り、私は笑顔のまま取り残され、裏切られて心が傷ついたような戸惑いを感じました。この経験の分析から得られるのは、私の意識現象=ロゴスへ現れてくる他者が、私に対して直接間接に気紛れな「眼差し」を向け、私の意思に関係なく強制的に関わりを持ってくる、おそらくは個々の主体的な志向性を持って活動している何かだということ、そのことを私の主観的意識で実感しているということです。他者は、机や椅子といった物体と明らかに違っており、こちらが望んでもいないのに無遠慮に「眼差し」――意識の志向性――を私へ向けてきて、消えるよう願ったとしても消えてくれず、私の意志や願望と無関係にそこにいて、私より上位であったり下位であったり、必ずしも対等な関係ではないものの、私と同等な性質を持つものです。そして、私もまた無自覚に周囲に対して「眼差し」を向け、他者に対して社会関係的な配慮――私にとっては、目立たないように生きること――を行っています。「眼差し」を持たない物体へは、社会関係的配慮を行うことはありません。他者とは意思疎通さえできてしまいます。他者は私の意識世界に複数、別個に存在し、私はそれらの他者と共に暗黙の社会契約で共同体を形成している、と取り敢えず言うことができます。そして、「眼差し」として現れてくる他者存在者と共に、その関係性の中で、私としての今現在を生きている、そのような実感があります。
「本間君。気になったのだが、君は認識の根拠を客観でなく主観に置いて論を進めているようだ。しかし、君の主観的認識が事実であるという保証はどこにあるのかね」
「ありません。私は知覚し思考したことを表象するだけです」
「それと、君の認識――実感という言葉を使っているが、その実感とやらに何か確実性の根拠はあるのかね?」
「ありません。私は時々、この世界は全て私の妄想でしかないのではないか、私一人がいるだけではないか、と思うことがあるのです。しかし、私の意識現象が単なる妄想のような実体のないものだったら、何でも私の思い通りになってしかるべきだと思うのですが、どうしてもそうなりません。私はレンタルビデオ店で両親から虐待される幼い女の子なんて見たくはなかったのですが、心から願っても目の前から消えてくれませんでした。実感とは、そのような私の意思ではどうにもならないという事態を含んでいます。見たくなくても目を開ければ他者は見えてしまうし、消えてくれと願っても消えてくれません。私の意思で在り無しをコントロールできるものだったら、空想の産物、錯覚だと強弁することは難しくないのですが、我意により消す能わぬ故に世界在り、というか、逆説的にですが、世界と現実と言うものが存在する、これ以上の証拠はないのではないでしょうか。私自身が存在してないかもしれません。そうすると、今のこの言葉も存在していないことになりますから、無視してください。私は『私の非存在』を実感できていないのですが、私の存在の有無は、それほど重要ではないように思います。そうだ、W教授。長くなりますが聞いてください」
「私は存在してないが、ちゃんと聞いているよ」
「仕事を辞め、アパートを引き払って、旅へ出た時のことです。出発前日、アパートの部屋を大家へ明け渡してカプセルホテルに泊まり、翌日の明け方、空港行きの特急列車に乗りました。仕事で終電を逃した時の習慣が染み付いてしまっていて、深く考えることなくアパート最寄りの、通勤に使っていた駅の前にあったカプセルホテルに泊まったのですが、その日のうちに成田へ移動して空港近くに宿泊すれば良かったのだと気付いたのは、ずっと何年も後になってからでした。ラテンアメリカを含む熱帯地域にある幾つかの国の入国に必要だったため、事前に黄熱病の予防接種をしたのですが、十年間の効力があるのに、効力をできるだけ後まで長く引き延ばした方がいいのではないかと思い、出発日近くで注射したので、予防接種の注意事項として知ってはいたのですが、出発までの二日間発熱してしまいました。カプセルホテルを明け方に出た時、ちらちらと粉雪が舞っていたのですが、すぐ止みました。私は発熱が去った後の病み上がりのような頭で、眠気もまだありましたが、それでも空港行きの特急の座席に座ると次第に落ち着いてきて、まずメキシコへ行く予定だったのですが、ロサンゼルスでの乗り換えのこと――アメリカに何も用はなかったのですが、空港内での乗り換えであっても入国審査を強制されるので、乗り継ぎに遅れないため、初めての入国審査で止められないためにどうすればよいか、英語で何と説明するかなどと、ガイドブックの会話集を読んで考えていました……W教授、聞いてますか?」
「テレビでアリアナ・グランデのコメディドラマを見ているが、続けたまえ」
「その日は平日だったので、通勤と反対方向へ向かう車内はがらがらで、おそらく東京を出て千葉へ入ったからでしょうが、窓の外の風景は山や畑が目立つようになり、茨木には行ったことがあるのですが千葉は初めてで、東京を出ると本当に田舎なんだなあ、と東京という狭い場所に人間がぎゅうぎゅうと犇めき合っているのだという実感を持ちました。人口密度の違いはどれくらいあるのでしょう。イスラエル人が興味を持つはずです。私は車両右側の窓際席から、窓の外の初めて見る千葉をぼんやりと眺めていました。特急は山に囲まれた広い盆地のような景色の中を走り、刈り入れが終わって土の色が露わになった田畑と疎らに点在する人家が、冬の少しばかり曇った空の下に見えました。強い眠気のような気怠さを感じ、目を閉じながら座席に身を委ねると大きくあくびをし、顔だけを窓の方へ向けて外の景色の上方へ目を遣ると、三角の細い骨組みに薄布を張ったような翼の下部へ、簡易座席と小型のエンジン・プロペラの付いたモーター・ハンググライダーが、線路と並行して、右斜め上を飛行しているのが見えました。ヘルメットとバイクレーサーのようなツナギを着た操縦者の姿が座席に確認でき、いささか近すぎるのではないか、安全義務違反ではないか、と私は思い、車体と窓が一体になった開閉できないガラス窓の内側から見上げるようにして、線路と並行して飛ぶモーター・ハンググライダーをしばらく注視していましたが、発熱が治まった直後のせいか軽い疲労を感じて目を閉じ、右手の拳を眉間の辺りへ押し付けて強く揉むように動かして、それからまた窓の外の右斜め上を見たのですが、モーター・ハンググライダーはもういませんでした。窓の外のあちこちへ目を向けてみましたが、どこにも見当たりません。私は不思議に思いながら呆然としましたが、何か上空の方へ意識が曳き付けられるように感じ、そこへ視線を向けると、灰色掛かった冬の雲のすぐ下辺りに、銀色の円筒形の物体を見つけたのです。円筒形の物体は空中に静止したままで、時々、淡く発光しました。私は何度も目を擦って見直してみたのですが、円筒形の物体は雲の下にじっと浮かんだままでいました。私は困り果てて、車内の誰かに声を掛けて確認してもらうことを思い付いたのですが、お互いに接触を拒絶するように距離を置いた別々の座席に三人ほどの出張らしいサラリーマンが、睡眠の続きをしたり、ノートパソコンで仕事をしたり、真剣に新聞を読んだりしていて、気軽に話し掛けられる状況ではありませんでした。私は再び上空へ視線を戻し、ただ見つめるしかできませんでした。すると、銀色の円筒形の物体はいきなり強く発光して、上空の雲の中へ一瞬で急上昇し、雲の中で右へ左へ、高速でジグザグに飛行しては光を放ち、雲の外に出たり入ったりを繰り返しました。私はずっとそれを眺め続けていましたが、また疲れてきて目を閉じ、目を擦った後、また上空へ視線を向けましたが、円筒形の物体はもう消えてしまっていました。ねえ、W教授、聞いてます?」
「話の要点が掴めないので、あまり聞いていなかった。このドラマの頃のアリアナ・グランデは、高校生になったばかりかな? 可愛いね。さあ、続けたまえ」
「アリアナ・グランデはラテン系っぽく見えますが、W教授はラテン系がお好みですか? ラテン女性は嫉妬深いですよ。刃物を持った実力行使も辞しません」
「体験済みかね?」
「そういう話を聞いたことがあるだけです」
「そうか、続けたまえ」
「これまで長々と、くだらない体験談を喋ってしまいましたが、私が論じようとしているのは認識と事実との関係についてなのです。私が目撃したのは、所謂UFOというものでしょう。私も子供の頃は宇宙人とかUFO、ピラミッドパワーなどに興味を持ち、ノストラダムスの大予言が特に好きでした。ノストラダムスが予言した二十世紀末の七月、私は社会主義国のキューバにいたのですが、どこから見ても計画性とは程遠い、温暖な南国気質のキューバ人は、原初的な愛の追求とドル・キャッシュの獲得に躍起になっていました。社会主義が上手くいかないのは、外面的な建て前の理念が先走った計画を立ててしまうから、人間本性が計画へ追い付いていかないためかもしれませんが、ノストラダムスが予言した七月に、私がよりにもよって、なぜキューバにいたのかというと、一旦、ヨーロッパとトルコを経由して東南アジアまで進んだものの、私はそこから逆方向へ引き返し、スペインからメキシコへ渡る途中の、安チケットの乗り換え経由地であるキューバに、無計画の気紛れで二ヵ月滞在していて、日本の情報からほとんど隔絶してずっと旅をしていた私は、ノストラダムスの予言のことなどすっかり忘れていて、気が付いたら、もう八月になっていました。後日知ったことですが、日本のニュースなどで仕事を辞めて山奥へ避難すると言っていた人がいたそうで、世界の終わりが来なかった今、どこでどう生きているのでしょう。なんとか話を聞いてみたいのですが――すみません。本題へ戻りましょう。子供時代とは違って、大人になった私はUFOを信じていませんでしたし、今も信じていません。一方で、客観的事実の言語的表現としては、UFOは『存在する』か、『存在しない』か、二者択一しかありません。これは宇宙人も同じで、人類が確認と証明をできていないとしても、『いる』か『いない』かしか答えはありません。事実性としては、このどちらかに既に決定しています。関心のない第三者的な立場であれば、どっちでもいいことです。私が拠り所にできるのは、私自身の主観的知覚認識ですが、私はUFOを信じてもいないし、見たいと望んでもいないのに見てしまいました。認識の当事者である私は、この実感を否定できません。幻覚であったと考えることは簡単ですが、知的誠実さに従うならば、私の見たものが幻覚であったと判断する根拠が必要です。私は眠気があったものの意識はしっかりしていましたし、周囲の状況もはっきり覚えています。私は実感を伴ってUFOを見たわけで、それを否定することは自分で自分に嘘を吐くことになります。となると、UFOを否定するには私の認識能力自体に根拠がないと考えるしかなく、認識の懐疑に陥ってしまいます。懐疑論者はどんな妥当性の根拠をも否定し、認識を相対化するが、走ってくるバスの前へ、これは本当ではない、と考えて飛び出す懐疑論者はいない、懐疑論者もまた、口先では嘯きながら、主観的には現実認識とそうでないものの区別を行っている――確かそう言って、W教授は講義の中で懐疑論を批判しておられたと記憶しています。ですから、私がUFOを見た経験を否定できないことに、W教授も同意していただけると思います。にもかかわらず、私はUFOが存在することを信じようとはしていません。なぜでしょうか? 私の判断を抑制しているのは、『常識』です。それは抽象的で個別性を失った、多数者としての眼差しの集合体のようなものです。私は他者の眼差しを意識せざるを得ず、私という人間が、刷り込まれた類型的な思考に同調する人間であることの証明でもあり、社会で変人とならずに生きるためには必須のことだと思います。しかしそれは、私が見たものは何か、という説明にはなりません。先にも述べましたが、UFOは『存在する』か、『存在しない』か、どちらかの客観的事実性しかなく、私は主観的認識へ根拠を置いていながら論理を徹底することができず、答えを空欄にした居心地の悪い状態で持ち続けて、生きていくしかないのです。この認識と事実性のアポリアを、私はどう解決すればよいのでしょう。どうですか? W教授。私は間違っていますか?」
「ところで、ロサンゼルス空港での乗り換えはうまくいったのかね? まさかUFOを目撃したせいでアメリカ行きの便に乗り遅れたとか、そういう言い訳をしたかったのかね」
「悪天候でロサンゼルスへの到着が二時間以上遅れた上に、入国審査が長蛇の列で、メキシコ行きに乗り遅れました」
「そうか、続けたまえ」
「先ほどの質問に答えてくれませんか。W教授」
「さあ、続けたまえ」
「あの、W教授……」
「ところで、タラバガニがカニではなく、ヤドカリの一種であることを知ってるかね?」
「いえ、知りませんでした」
「そうか、続けたまえ」
「タラバガニは関係ないと思います。もう二十年くらい食べたことがありません」
「しかしながら、続けたまえ」
いけません。W教授の調子が悪いようです。助っ人が必要かもしれません。別の論者を連れて来ることにしましょう。数日前からアイディアを温めていたのですが、大学で哲学を専攻したAV女優――そうですね。名前はアイさん、としましょう。
「あれ? あなたの顔、見たことある。何君だっけ?」
「アイさんは年を取りませんね。顔も身体も若いままじゃないですか。全身美容整形でもしたんですか?」
「あら、W教授も。お久しぶりです。それとも私の作品見てました?」
「本間君がお世話になっていたようだが、私は見ていない」
「早速ですが、アイさん。主観的認識と客観的事実性の関係についてなんですが、私は主観的認識の立場から論述しているのですが、W教授はどちらかというと客観的事実の方へ肩入れしているようです」
「そんなこと私が言ったかね? だいたい君の論述には概念規定と論理展開の一貫性がない。言葉の適当なつぎはぎではないか。まあいい。続けたまえ」
「えっと、何君だったっけ? まあいいわ。私からすると、そんなの分かり切ってる。主観的認識が全てなんだから、客観的事実がどうだろうと関係ないわ。だってほら、地球は回転してないし、太陽が地球の周りを動いているんだから」
「いや、君。馬鹿なことを言うものではない。逆だろう。地球が太陽の周りを動いているに決まっているではないか」
「W教授は、それを実際に自分の目で確認したことがあるの? ただ教えられて、そう思ってるだけでしょ? 素直になって、太陽と地球の動きを自分の目で観察すれば、誰がどうしたって地球は動いてなくて、太陽が動いてるわよ」
「つまり、主観的認識というものは、それほど当てにならないということだ」
「自分の目で観察した結果なのだから、そのように見えていることを、まずは認めるしかないでしょ? 客観的に地動説が正しいとしても、専門家を別にすれば、天文の軌道計算式を暗記しているわけではないし、証明方法を知っているわけでもない。W教授は、ただ地動説という刷り込まれた常識に縛られて、自分の純粋な知覚認識を無自覚に矯正して、否定しているだけよ。それは知性的な理性判断ではありませんし、無自覚なまま、そこに留まっている限り、人間は自分自身の意志の自由も意味も持つことはできません。もちろん私は地動説を否定してはいませんよ。だけど、肯定するためには内省による思考で太陽系の運行を厳密にシミュレーションでもして、疑似的追体験で理解と実感を得ない限り、それは単なる刷り込まれた知識に過ぎないと思うの。つまり、客観的正しさというのは、ほとんどの個人においては実感を欠いた単なる知識なの。理解も実感もなく受け入れている『常識』へ、機械的に従うのが正しいこと? 人間は自らの認識に基づいた世界を生きるしかないし、『常識』に囚われないところでしか自由や意味は存在しないわ。そうでないと、自由を『常識』へ委ねて漫然と生きているだけになるんじゃないかしら」
「さすが、アイさん。AV女優に思えませんね」
「ありがとう。私のどの作品が好き?」
「『学校で、しちゃおっ!』ですね。ブルマ姿が――残念なことに現実世界の日本では絶滅してしまいましたが――忘れられません」
「アイ君。君の言葉に従うと、私は『常識』に囚われた人間で、現実を直視していないということになる。一旦、君の主張を受け入れてもいい。しかしだね。全ての事柄について検証による実感を持つことが可能なのか? そして、必要なのだろうか? 地球が周っていようが、太陽が周っていようが、一般生活に影響はない。万有引力の法則だって、ニュートンが発見し証明する以前から、リンゴは木の枝から下の地面へ落ちていた。世紀の大発見といっても、リンゴが下から上へ飛び上がるようになったわけでもない。誰もが取り敢えずは『常識』に従うことで、生活を支障なく、効率良く送ることができているのではないか? 特に、生まれた直後から社会契約を強制される人間が、何も知らない赤子から成長するに当たっては、一旦は自由を『常識』へ委ねておくのは必要なことかもしれない。また、主観的認識を絶対視することに問題があることは明らかだ。古来から多くの事実で論証されていると言っていい。主観的認識と客観的事実の一致が保証されていないのに、主観的認識を重視すると独断論に陥るのではないかな? 自己中心性の中から自己を超え出る、他者にまで適用可能な、何らかの原理を導き出せるのだろうか?」
「W教授の言う通りですよ、アイさん。刷り込まれた知識だからといって、悪いとかいうわけではないですよ。誰もが強い人間ではないですし、一々考えてると疲れちゃいますよ」
「私は、そう考えているわけではない。問題提起をしているだけだ。本間君、君も他人の言うことに便乗するのではなく、自分の頭で考えてみたらどうかね」
「じゃあ、思い切って、私も議論に加わることにします」
「鬼の霍乱ね」
「どうでもいい、続けたまえ」
「以前にも論述した私のロゴス思想を使って、ロゴス=ルールブック論という形で考えてみます。以前の私の論述では、ロゴスは意識現象そのものを指し、言語とほぼ同じものだとしていました。私は日本語を習得し、日本語で知識を獲得することで私自身のロゴスを構築してきました。『躾け』は無意識のレベルにありますが、親から刷り込まれた知識として私のロゴス内に存在します。W教授の仰った通り、私達は日常の些末なことに一々思考しているわけではなく、状況認知だけを行い、刷り込まれた知識群である『常識』を無意識に参照し、パブロフの犬のように反応しているだけに思えます。前にも述べましたが、私の日本語ロゴスは元々、私に先行して存在した他者達から継承したもので、この場合、類型性のルールブックとして機能します。分かり易く、ロゴスが蓄積したルールを『社会規範的正しさ』と定義しましょう。全てが、共同体で共有する幻想に基づいた、類型的形式の内にあります。他者存在者との関係において何か問題が起こった時に、主体はロゴスのルールブックを機械的に参照し、他者のルールと一致していれば、それは他者との『落としどころ』として機能し、何をせずとも問題は悪化せず、解決することが見込まれます。そのような類型的な反応の類型的な行為に主体としての自由はなく、倫理的意味もないかもしれませんが、ロゴスが蓄積した類型のルールが正しい知識である限りにおいて、誰にでも簡単に思考抜きで正しい行為が行える、とは考えられないでしょうか? もちろん、間違った常識が刷り込まれていることもあります。私の姉は三十代での挙式に執着していたのですが、式場の手配など諸々の事情でずれ込んで、四十歳での結婚式になってしまいました。結婚披露宴の巨大スクリーンに私の家族の古い写真が映し出され、両親の離婚の危機やスレていた姉の十代など微塵も感じさせない、平和な家族の何気ない物語が、姉の脚色したナレーションで紹介され、その中に、幼い姉と私が頬をくっ付け合って無邪気に笑う写真がありました。私の最も古い記憶は、居間のテーブルの前で、『ぼく、三歳よー』と何度も叫んでいて、母親の声が『早う、ここ座って、食べなさい』と言い、テーブルの上では卓上ガスコンロのすき焼きらしい鍋が煮立っているというもので、大画面へ映し出された姉と私の写真の出来事は、その次に古い記憶です。その写真を撮影した直後、ショートケーキと普通のケーキが親から与えられ、ショートケーキの白さは何となく憶えているのですが、赤いイチゴが乗っていたかどうか、もう一つのケーキが何だったかは憶えていないのですが、どちらがショートケーキを食べるかを争って、私は姉に思い切り殴られたのでした。子供の頃は、三歳違いの姉によく殴られました。その写真が、全く心当たりのない姉弟の美しい思い出として、姉のナレーション付きで物語られるのを、私は来客達の前で否定することもできず、姉の結婚披露宴という公式の場で『常識』となって流通していってしまったのです……すみません。話が脱線してしまいました。世間には多種多様な事象があって、その全てに、はっきりすっきりロゴスの類型的ルールを適用できるわけではありません。異文化との接触のように、他者と私のルールブックが不一致である場合、何らかの対応を考え出さねばならなくなり、初めて思考が必要となります。困ったことに、私のロゴスの中にあるルールブックは外部から刷り込まれたものである上に、無意識のレベルで強固に根を張っていて、私は主にそれを自らの『日本人性』として感じてしまうのですが、私の凡庸さの確かな証拠なのでしょう。それはともかく、『常識』=類型性というルールブックの参照は無意識に行われてしまいますが、類型のルールの検証や書き換えは、自らの意識的な内省でロゴス内の対象を明確に把握した上で、思考を積み重ねるという意志力が必要です。なぜ意志力が必要かと言えば、自分自身の意識現象のことなのですから、他人が代わりに私のロゴスについて思考してくれることはないからで、自分自身へ向かう意識とか、志向性みたいなものなのでしょう。私は外部から与えられる伝聞情報や他者経験の観察を参考にしつつ、私という主体による追体験と有効性の実感を経て初めて、自分のロゴスの新しいルールとすることができるのですが、その先には大きな難関があるのです。私の新たなルールブックは、他者によって有効だと認められれば、たとえ部分的ではあってもルールが共有されることになるのですが、私と他者で似た経験をすることはあっても、同一の経験はありませんから、実感の持ち方も違います。そもそも他人が何を考えているか謎です。私が思考を重ねて正しいと見做したロゴスが、他者へ受け入れられず、他者存在とのロゴスのルールブックの共有――他者存在者達との社会的関係確立――に失敗してしまうこともあるのです。その時、私は、社会で挫折する私という存在を、発見することになります……W教授、ハロウィンって何ですか? テレビや会社の女の子達だけでなく、日本国民全員が祝わなければならないような雰囲気になってますけど、今更、日本人に何の関係があるんですか? 誰か合理的な説明ができるんでしょうか? ――あっ、W教授、聞こえない振りして無視しないでください。誰も答えられないことは、私も分かっています。耳障りなだけで、私のような孤独な人間には、あまり関係ないことでした。とにかく、他者とのロゴスの共有に挫折した場合、他者との接触を断てるのならば、自分のロゴスの凡庸さに閉じこもることは難しくありません。あるいは、思考するという意志力を放棄して、他者のルールブックを自分のルールブックとして無防備に受け入れることもできます。日本ではなぜか、オレオレ詐欺というのが盛んですが、ファシズムは人間の凡庸さによって起こった――だったでしょうか? そんなことを言った哲学者がいたような気がします。しかし、そうだとしても、仕事などで『巧遅より拙速』という言葉が使われるように、実生活においては熟考するよりも、『取り敢えずビールで』というワンパターンであっても、目の前にある事態へ、すぐ対応しなければなりません。赤信号が変わるまで待つことが倫理的に正しいかどうかを思考していって――私は未だにイマヌエル・カントが正しいのかどうか結論を出せないままなのですが――そのまま十数年も信号で立ち止まり続けるなんてことはできませんでした。最近、私は思うようになったのですが、古代ギリシア哲学の『真・善・美』の考えは非論理的で、いささか感性的な理論ではありますが、『取り敢えず』という目の前の問題の判断には有効ではないかと思います。これは正しくもないし、善いことでもないし、美しくもない、と感じたら、それは倫理的にやってはいけないことである可能性が高いのではないでしょうか? また、感性的にそう思うことによって、その理由を求め、思考し始める契機となるでしょう。理屈付けは後で暇な時に、じっくり考えれば良いのです。私はそういったところで、何となく妥協して生きています。それから、自己中心性の中から他者にまで適用できる原理を取り出せるかという課題ですが、私のロゴス論は主観に依拠していながら、ア・プリオリに他者を前提してしまっている、とW教授は批判なさるかもしれません。『眼差し』が良い例だと思いますが、私の毎日の意識現象へ現れてくる他者存在者の移り変わりや、私の言語習得の経験という主観的な経験を分析する限り、過去にも現在にも他者は存在していると実感を持って言えますし、私と他者存在者達の意識現象の場としての世界――客観的実体としての世界ではなく、私の意識現象が認識している世界――もまた、私が存在する限りにおいて存在する、と言わざるを得ません。逆に、他者の間を何世代にも渡って継承されて私へ刷り込まれてきたロゴスの内実に、例え類型的であったとしても、真も善も美も見出だせないならば、それらは存在しないと考えるしかありません…………………………………………えーとですね……………………どうしよう…………そうだ! プラトンのイデア論ならぬ、これがホンマのロゴス論です……なんちゃって! 語呂合わせのギャグになるかと思って言ってみたのですが、分かりましたか?」
W教授もアイさんも、きつい眼差しを私へ向けました。私は居た堪れなくなって、かさかさと何本もある手足を素早く交互に動かして床の上を滑るように這い、部屋に散乱した新聞紙の下へ潜り込みました。私はスリッパで叩かれはしないかと、びくびくしながら隠れていました。先刻まであれほど賑やかだった部屋が静かになって、誰もいなくなったような時間が過ぎていき、私は触角のような睫毛の付いた、もうすぐ老眼の始まりそうな眼を新聞紙の隙間からそっと出して、部屋の様子を窺いました。丸めた新聞紙を振り上げ、裸で待ち構えるアイさんの姿が見えました。
「アイさん。私が大学で勉強したことは、意味があったのだと思いますか?」
「そんな難しいこと訊かれても、わかんない」
アイさんは振り上げていた腕を力なく、下ろしました。
「アイさんの卒論のテーマは何だったんですか?」
「まあ、恥ずかしいこと訊かないで。秘密よ。ヒミツ」
「ところで、サイのあの太くて尖った角は骨ではなく、爪や髭と同じケラチン質だと知っているかね?」
「いえ、知りませんでした」
「そうか、続けたまえ」
「私のロゴスには内実がありません。真も善も美も見出だせません。それでも、生きている限り思考し続けなければならないのは知っていますが、私には辛くて耐えられません。アイさんにお任せします」
「どうだっていいさ、続けたまえ」
「仕方ないわねえ。何言ってたっけ? 何君だっけ? ……まあ、いいわ。それじゃあ、主観的認識の根拠について考えてみる。私が主観に拘るのは――ほら、『己がウンは己が手で掴め』って、大学のトイレに落書きが書いてあったの憶えてない? 主観的認識を事実の認識という観点で考える限り、主観的認識と客観的事実の完全一致は有り得ないわ。W教授も『純粋理性批判』で知っていることだと思います。それを前提した上で、私が主観的認識に根拠を置く理由を補足したいわ。認識論的に言えば、人間は世界の中に存在しているのではなくて、個々の人間がそれぞれ別々の意識世界を持って存在しているの。私がまた、地動説を批判した時と同じことを言っていると思うかもしれないけど、『常識』を一旦捨てて、自分自身の目で素直になって観察しないといけない。関心のない物は目の前にあっても見えてない、というか、『眼差し』を向けないと意識へ現れては来ない。普通イメージされてしまう、実体としての世界が人間より先にあるという考えは、事実認識としては主観と客観の完全一致が有り得ないとカントが指摘したはずなのに、背理の罠へ陥っているだけ。事実認識においては不完全な認識能力しか持たない主観で、実体的な世界の全体を把握できると無意識に考えてしまっているの。それは、刷り込まれて無自覚に適用している思考の型なのよ。主観自身も全体に含まれているのに、全体を対象化して分析できると思ってる。世界という全体を根拠にして人間の存在について論理展開すると、世界という全体をどう理解、把握しているかによって個別に相違してしまっている『全体』の枠組みへ、人間存在を当て嵌めて考えてしまうような結論に向かいがちになるの。主観からは全体という客観を完全に認識することはできないのにね。できたと思ったとしたら、それは主観的な世界理解を客観だと錯覚しているだけ。だからというので、世界に対しての実体的なイメージを避けて考えると、概念的な存在思考に行き付いてしまって、全体を包括する無限な存在性にあやかって個別の存在者が存在している、という考えになる。理論としては都合のいい考えだけど、まあ、よくあるパターンね。そういった主観と客観の認識問題を避けるには、とにかく主観的認識から始めるしかない――えっ、私の主観から認識できないものはどうするかって? 私の意識現象へ現れないものは存在しないのよ。世界の裏側の出来事は伝聞情報としてもたらされれば、それを信じるかどうかは別にして、私の意識内に他者からの情報という在り方で存在することになる。私に認識されないものも存在していると考えることはできるんだけど、それは事実ではなくて想像可能なだけ。宇宙人は存在を想像できるけど、現状では、それ以上有効な論理展開はできないわ。そのことを自覚せず論証を行ってしまうと、フィクションにならざるを得ない。面白ければ多数の支持を得ることはできるかもしれないけど、無意味でしかない。主観は客観を越えられないのは自明なのかもしれないけど、逆に、そうやって主観の不完全さをいくらでも言い立てることができるとしても、客観が主観を越えている根拠もない。客観が絶対正しいというのもフィクションなの。なにしろ客観が何か把握できないんだから。人間の意識現象に先立って実体的世界が先にあるという思考は、まず全体存在があって個があるという枠組みの型になって、人間が良い状態で生きるはずの理想の社会像を思い描いて――社会設計主義とでも言うのかしら――その理想社会像へ人間を当て嵌めて考えることになり易いわ。悪くすると、理想社会の実現へ個人が奉仕するという思想になって、個人の自由が全て社会に良いかどうかへ回収されてしまう。それに反する行為は堕落、間違ったことだと言われて、正しい生き方まで提示されてしまう。良い家庭環境、有名な学校、安定した会社、安心な老後、安らかな死、なんてのもそのバリエーションかもね。客観世界があろうがなかろうが、認識は個人の主観から行うしかなくて、自由も意味もそこからしか生じないと思うの。でもね、意識主体としての人間は、現実感覚として他者と社会関係を持って生活しているわけで、それが主観を離れた客観があると思い込んでしまう原因になっているのは確かよ。単なる自己中心的意識主体の中から、他者存在の根拠と社会関係の根拠を見出だせるのか、と訊かれたら明確に答えるのは難しい。別々の意識世界を持って生きている他者と通じ合えて、意味や価値を交換する場のようなもの――少なくともその可能性について考えないと自己妄想だと批判されてしまうでしょうね…………あっ、ちょっと今、撮影現場でのこと思い出しちゃった……窓がなくて強い照明で眩しいくらい照らされた、ベッドも撮影セットもないスタジオだったわ。撮影スタッフは忙しく動いていたんだけど、私と男優さんは何もすることがなくて、ただ待つだけだった。私は薄いガウンの下は裸で、照明が集中しているスタジオ中央の少し脇の所で、私のために用意された椅子に座っていた。スタジオの床一面にはベージュ色のビニールシートが皺のでないよう丁寧に敷いてあって――汚れ防止だったんでしょうね。きっと――照明が集中する中央のシートの上に、男優さんが裸で正座したまま俯いて、じっとしていたわ。まだ二十代に見えたけど、少し浮腫んだような丸顔に吹き出物があって小太り気味の弛んだ身体をしていて、その当時はなかった言葉だけど、キモ男優として端役とか、いたぶられ役の、普通の男優がやりたがらない役で何度か見たことがあった。私は話をしたことはなくて、要領が悪いのか、監督から怒鳴られたり頭を叩かれたりして、その現場でもスタッフから冷たい扱いを受けていたの。彼は張り詰めたような顔で正座していて、私はその横の方でソファーではなかったけど、ちゃんとした家具の椅子に腰掛けて、正座した彼を見下ろしていると、可哀そうに思えてきちゃって、『どうしてこの仕事をするようになったんですか?』って話し掛けたんだけど、『お金のためです。僕、借金があるのです』って、やっぱり張り詰めた顔のまま彼は答えたの。『アイさんはどうなんですか?』って逆に訊いてきて、『たぶん、あと何作かで引退よ。女優は一年で五歳は老けると言われてる業界だから』って誤魔化したの。実際、作品も少しずつ過激な撮影をするようになっていたし、その作品もそうだった。だからこそ、彼が呼ばれたってことは分かってた。『抵抗はないの?』って思わず訊いちゃった。『選択の余地がないのです。選択肢のない所に自由はありません』『自由って選択肢の問題なのかしら? 自由は孤独のことかもよ。それに、自由がなければ機械的に役割をこなすだけで許されるわけだし、人生に迷うこともないわ』『こんなことが永遠に続くわけじゃない。そう思うようにしてます。人生って、蜘蛛の巣が掛かった、忘れ去られた物置小屋みたいなものだと思います。蜘蛛の巣さえ払えば、また使えます』『永劫回帰を主張した哲学者もいるわよ。ずっと同じ人生を繰り返すの。それでも意味があると思う?』私は微笑みながら、そう言った。『僕はたとえ困難があっても諦めずに、この人生を生きようと決めました』『もうすぐ世界が滅びるとしても、そう言える?』『アイさんのためだったら、言えると思います』彼は顔を上げて、はっきり言った。『だから、僕はアイさんの全てを受け入れます』不細工な彼が、何だか愛おしく思えたのが、自分でも意外だった。『僕は……』――監督から撮影開始の合図があって、彼は言葉を飲み込み、私を見た。私も彼を見たわ。彼の顔には毅然とした表情があって、シートの上へ仰向けに、ぴんと真っ直ぐ横になると天井を見つめたわ。私はガウンを脱いで、シートの上に寝た彼の横に立つと、彼の顔を跨いで両膝を踏ん張って腰を下げ、彼は口を開けて待ち受けた。私が結婚する時には、その映像を披露宴会場の大画面のスクリーンで皆に見せたいわ」
「――本間君。議論はもう、行き着くところまで行ってしまったようじゃないか。つまり、行き詰まりだ。この仮想シンポジウム――孤独な中年男の思考の行き着く果てが、自己中心性を越えた意味と価値を持つとは、私には到底思えない。日経新聞の広告にも劣っているとは思わないか」
私もちょうど疲れて眠くなってきたところで、明日は仕事ですから、W教授の忠告通り、聞き手のいない独り言は止めて、早くに寝ることにしました。
日曜の午前中、スーパーでまた買い物をして車まで歩いていると、離れたところにあるマクドナルドの赤い大きな看板が目に入って立ち止まり、少し思案した後、荷物を車に置いてから広い共同駐車場をずっと歩いて行って、十数年ぶりに、スーパーのほぼ反対側にあるマクドナルドへ入りました。カウンター前に行列はなく、店内は空いていて、私は以前いつもそうしていたように、マックフライポテトのLサイズを、メニューを見ずに注文しました。私は、あのカリカリの細長いフライドポテトが好きで、共同駐車場で看板を見た時、そのことを思い出したのです。
「申し訳ありませんが、只今、マックフライポテトはございません」
私は財布をポケットから取り出そうとしていた途中で、「えっ? ポテト、メニューからなくなったの?」と思わず大声を上げてしまいました。
「いえ、そうではなくてですね、お客様。マックフライポテトはお昼前からしか販売してませんで、今のお時間は朝食メニューだけになっております」
「えっ、そう? 朝食メニューなんてあるの? 昔はなかったがなあ」
「ずっと前から、そうなんですが……」
よく躾けられた犬のように礼儀正しい言葉遣いをする、高校を卒業して間もなさそうな若い女の子は、少し不審そうな顔をしながらも私を真っ直ぐ見て、そう言いました。
結局、私は何も注文せずにマクドナルドを出ました。店を出てすぐの駐車場所に、『・・ 56』というナンバーの白いプリウスが駐車してあって、運転座席全体を覆うシートカバーには、顔が黒毛に縁取られ、額から鼻先まで黒い毛筋が通った、狼を思わせるシベリアンハスキーが大きくプリントされ、頭受けの両端はシートカバーが膨らんで犬の耳を模して上へ突き出ていて、シベリアンハスキーの目がプリウスの正面を横切る私を見つめていました。ハンドルカバーもシベリアンハスキーの柄のように薄灰色と黒が斑模様になっていて、犬の名前は『ゴロー』に違いありません。
最近よく、同じような夢を見るのです。
顔が見えず、確固とした存在だけを感じられるW教授が、私に言うのです。
「ところで、本間君。世界で最も人口密度が高い国はモナコだと知っているかね? また、働きアリの二割が、仕事をサボっていると知っているかね? それとだね。フリーマーケットの英語の綴りは"flea market"で、蚤の市、つまり、『がらくた市』という意味だと知っているかね? 本間君。もう一度、卒業論文の要旨を述べてみなさい。あれでは卒業させられない」
それで私は必至に、記憶の彼方に去ってしまった卒業論文の内容を思い出そうとします。
「イマヌエル・カントは『永遠平和のために』の第1補説で、永遠平和の保証について論じています。それによると、自然の機械的な過程からは、人間の不和を通じて、人間の意志に逆らってでも、その融和を回復させるといった合目的性がはっきりと現れ出ているのであって、その作用法則が我々を強制しているとみれば運命と呼ばれるし、深い知恵とみれば摂理と呼ばれる、としています。理性的な存在者の集まりにおいては、利己的な傾向の力が相互に拮抗して、一方の力が他方の破壊作用を抑制したり、あるいはそれを取り除いたりすることによって、国家の良い組織を作り出すことが可能であり、そうして人間は道徳的に良い人間になるように強制されているわけではないが、良い市民になるように強制されており、悪魔の民族にとってすら、悪魔が悟性を持ちさえすれば、他民族に力として軍事上対抗するためには、それぞれの民族の内部で国家を形成するしかなく、個人的な心情では対抗しあっていても、利己心を互いに抑制しあい、公の場では悪い心情を持たなかったと同じ結果を生ずるような秩序が生じる、とカントは言います。利己的な傾向は当然、対外的な国家関係においても互いに相手の利己的な傾向を抑制しあうという自然の機構が理性によって手段として利用でき、問題とされているのは人間の道徳的改善ではなく、単に自然の機構であって、この手段によって、国家自身の力の及ぶ範囲で、対内的及び対外的な平和が促進され、保証される……面倒臭いので後は省略します。要するに、人間は道徳心に寄らずとも、自分の利益を判断する能力さえあれば、利己心から集団の秩序の強制――他者存在者との社会関係の形成による法的な関係――に入るようになり、このような仕方で自然が、人間の傾向そのものに備わる機構を通じて永遠平和を保証する、とカントは考え、これは実践的見地では十分な確実さを持っていて、空想的でない目的に向かって努力することを我々に義務づけている、とも言っています。しかし、W教授。北朝鮮が日本へ向けてテポドン・ミサイルを発射したことを私が知ったのは、ミャンマーの日本料理店で新聞を読んだ時だったのです。それは何ヵ月も前の新聞で、日経新聞ではなく、朝日新聞だったと記憶していますが、その店に居合わせた日本人の大学生に、そのことを訊ねたのですが、大学生に笑いながら、『いや、別にどうもなってないっすよ。相変わらず平和っす。だから、こうやって遊んでいられるんで』と言われ、その屈託のなさに拍子抜けして、自分が馬鹿に思えてしまいました。私が『いかりや長介死亡説』を女の子から教えられたのは、そのずっと後でしたが、外国にいる日本人旅行者の間で既に『いかりや長介死亡説』が流布していたとしても、朝日新聞に、『いかりや長介死亡説は嘘だった』という記事が載っているわけはないでしょうが、実際の日本の状況が分からないだけに、ミサイルが撃ち込まれても続く平和って何だろう、と不思議な気持ちになったのを憶えています。私はそこから東南アジア諸国を幾つか経由して日本に帰るつもりだったのですが、自分でもよく分からない強い違和感に囚われ、反対方向へ引き返してしまいました……余計な話でした。私が言いたいのはですね、W教授。カントの言うように、道徳心がなくても利己心によって秩序や法的関係が生じるとしても、専制国家が核ミサイルを持ってしまって誰も手出しができなくなってしまうと、国家間の戦争はなくなるかもしれませんが、地獄のような恐怖国家が、この世界に永遠に固定化して存続する危険があるのではないか、と思うのです。それでも、その状態が『永遠平和』だと、やはりカントは考えるのでしょうか? ……窓を開けて外の空気を吸いたいのですが、よろしいでしょうか? この部屋は空気が薄くて息苦しいのです――今、窓の外で人影のようなものが落ちていきませんでしたか? あっ、W教授、窓の外に円筒形の浮遊物体が見えます。W教授にも見えるんじゃないですか? 飛行船? それともUFOでしょうか?」
<了>
※参考文献
執筆にあたって以下の書籍を参考にしましたが、本稿での哲学的記述は全て、内容を換骨奪胎したパロディであり、各書籍の哲学的論述内容とは相違しております。
・『存在と時間』1~3 マルティン・ハイデガー【著】 中山元【翻訳・解説】(光文社古典新訳文庫)
・『ハイデガー入門』 竹田青嗣【著】(講談社学術文庫)
・『永遠平和のために』 イマヌエル・カント【著】 宇都宮芳明【訳】(岩波文庫)