いつもの様に露伴はスケッチをしていた。駅前で行き交う人々を観察しては、その様子を軽やかなタッチでスケッチブックに写し取っていく。
ふと腕時計を見る。気づけば時刻は昼を少し回っていた。
「ふむ、何か食べておきたいところだが……いつもトニオさんの店っていうのも芸が無いな。と言ってもカフェで済ますには少し減り過ぎている気もするが……」
この空腹をどこで満たすべきか。少し勇気が必要だが、知らない店に飛び込んでみるか。そういえばここ最近は漫画が原作のそういうグルメ番組なども流行っているらしい。おじさんが食事して独り言を言ってるだけの番組だが、不思議と魅力がある様で今ではシーズン8まで制作されていたっけ。
そう思うと露伴は腰掛けていたベンチから立ち上がり、早足で店を探し始めた。
──どこがいい? この場合どういう店を選ぶのが正解なんだ?
和食、中華料理、洋食。どれも違う気がする。だいたい洋食の気分なら大人しくトラサルディーに行っている。
──意外と難しいな。胃袋の機嫌を伺うってのは……。
気づけば駅前からも、大通りからも外れて見慣れない路地にまで来ていた。どこか懐かしい気持ちがする不思議な路地だ。遠い昔に来た様な気がする。そう、ちょうど今と同じ様にいい香りがしていた。
露伴の目の前には一つの食堂があった。暖簾が出ていて営業中なのがわかる。薄汚れた暖簾だが、この場合の汚れはむしろ信頼の証とも捉えられた。長年愛されている地域の大衆食堂、その様な印象を受ける。
それによく見れば入り口の引き戸に設けられた磨りガラスは、今では珍しい模様入りの物だ。この手の模様入り磨りガラスは、技術の進歩と共にいつしか作られなくなってしまった類の物で、この店の歴史の一端をそれとなくアピールしている様だった。
「なるほど、こういうのが『正解』の店って事か。目立たず、しかし確かな味を保証する、まるで長年連載を続けている新聞四コマみたいな存在感だな」
今日はこの店だ。意を決した露伴は引き戸に手を掛けて静かに開く。「いらっしゃい」と落ち着いた店主の声が響いた。
職業柄、初めて訪れる場所は観察を欠かさない。
モルタルで作られているであろう土間は人の出入りの為かツヤがある。10坪ほどの土間にはテーブルが4脚、それぞれに丸い椅子が4脚ずつ置かれている。最大定員は16名か、なるほど大衆食堂としては平均的なところだろう。店の奥は少し暗くなっていてよく見えないが、おそらく厨房がある。先ほどから鼻腔をくすぐっている香りも奥の方から漂ってくるからだ。
「どこでも好きに座ってください」
店主の声は聞こえるが姿が見えない。厨房の奥で仕込みでもしているのだろうか。
まぁいい、それよりも今はこの空腹を早急に満たす必要がある。店を見つけてやっと食事にありつけると思ったら、ますます腹が減ってくる様だった。
露伴はメニューを見ようと席に着く。しかし、妙だ。このテーブルには何かが足りない。そう、大衆食堂のテーブルなら有って当然のものが。
──うん? メニュー表がない、だと?
であれば、壁に掲示されていそうな物だが、ぐるりと見渡してもそんなものは一切無い。額に入った写真がいくつか飾られているだけだ。おかしい。この様な形態の店ならズラリとメニューが張り出されていたりしそうなものだが。
「すまない、メニューはないだろうか」
「ないよ」
にべもなく答えられてしまった。これでは何を頼んでいいかわからなくなってしまう。
しかしそこは発想を逆転させる。"何を頼んでいいかわからない"のではなく、この場合は"何を頼んでも良い"ということだろう。どんな客の無茶振りにも対応できる程の自信があるのだと、店主の態度を露伴はそう解釈した。
「まるでトニオさんばりの自信だが……逆に『信頼感』が湧いてきた。どんな無茶振りにも対応するだって? なら思う存分注文させてもらおうか」
露伴は思い浮かべる。今食べたい物、あるいは過去に食べられなかった物。逆にここでは絶対に出てきそうにない物。
「……そうだな、じゃあ……むっ」
店主に注文をしようとした時、露伴の目の前には既にオムライスが置かれていた。それも思い描いた通り、シンプルな昔ながらのオムライスが。中のライスを丁寧に巻いて、ケチャップをかけたこれ以上ないビジュアルのオムライスだった。
──なんだ……この異常な提供速度……。店主の姿も見えなかったし、第一僕は『まだ注文すらしていない』……ッ!
不自然さは異常さとなり、露伴の心を締め付ける。まさか店主は自分やトニオの様に特殊な能力を持っているのだろうか。客の考えを読み取って、瞬時にそれを提供してみせる様な能力を。であればいつそれを読み取られたのだろうか。料理を提供するには『準備』が必ず必要だ。客に何かを仕掛けるなら『予備動作』も必要なはず。
「わからない……ッ。空腹が思考を邪魔している……、どうしてもこの『オムライス』が食べたくて仕方がない……!」
しかしこの料理を食べても平気なのだろうか。何らかの『攻撃』かもしれないコレを。露伴の逡巡を無視して体は食べ物を求めている。右手が自動的にスプーンを持ち、オムライスを崩し、一連の動作を完了させる。脳の意思と身体の意思が別々に存在しているようだ。口も勝手に開きスプーンの上のオムライスに食らいついた。
「この味は……まさかッ⁉」︎
「い、いやそんな筈はない。しかし間違いなくこの味は『僕の母親の物』だ!」
露伴の脳裏に幼い頃の記憶が蘇る。学校が珍しく正午までに終わったあの日、母親が作ってくれたオムライスの味とそっくりだったのだ。いや、この味を間違えるはずがない。
いくらでも食べられそうな気がする。こんな美味い物が攻撃な筈がない。トニオさんの料理も異常な効果を齎すが、どれも健康に繋がる素晴らしい料理だった。いや少しばかり変な所があったとしても、この味の為なら無視しても構わない。それ程までに美味いのだ。
「こうなってくると他の料理も頼んでみたくなるな。次はいっそ時間がかかる物を……んん?」
テーブルにはいつの間にか皿が増えていた。皿の上には壺の様な食器が乗っていて、そこからはなんとも言えない芳しい香りが漂ってくる。
──まさか、これは……ッ!?
新たな皿に手を伸ばす露伴。手に持った器は想像通りの重さだった。中には液体が満ちているようだ。
壺状の食器の蓋を開けると、芳醇な紹興酒と食材の香りが一瞬フワリと漂った。
「やはり『
仏跳牆。中国福建省の伝統的な料理で、数種の乾物や高級食材を数時間から数日かけて煮込んで作る高級スープだ。日本では著名なグルメ漫画で取り上げられた為、知っている者も少なくない。
下準備に数日かかる上に、客の予算を元に使用する食材を決める為、予約は必至の料理だ。もちろん注文してすぐ出てくる様な代物ではない。先ほどと同じく露伴は注文すらしていないが。
輝く様な透き通った琥珀色のスープ。種々の乾物は丁寧な下準備の上、時間をかけて戻されているのが見て取れる。スープに余分な脂は浮いていない。
レンゲでスープを掬い取るとゆっくりと啜る。瞬間、露伴の脳を旨味の暴力が電流となって走った。
「……そうだ、この佛跳牆は僕が新人漫画家として表彰された、あのパーティーの時の……」
再び露伴の記憶が蘇る。出版社の企画したパーティーだった。偉大な先輩漫画家も勢揃いしていた。横浜の高級中華料理店で開かれたそれは、金の無い新人漫画家だった露伴にとっては初めての世界だった。そこで提供された料理にこの佛跳牆も有ったのだ。
衝撃的な味だった。一口つけただけで虜になってしまうほどに。
懐かしい味と記憶に浸っていた露伴だが、ふと店内の様子が変わっていることに気がついた。人が増えているのだ。露伴が入店した時には自分以外の客は居なかったはずだが、いつの間にか数名の客が増えていた。そして彼らは露伴と同じ様に食事に夢中になっている様だった。
「……美味い、美味い! そうだ、これが食べたかったんだ……!」
客の1人が食事をしながら独り言を呟いている(露伴も人のことは言えないが)。気になった露伴はその手元を見る。
陶器の器に入った、グラタンかラザニアの様な料理。しかしそれはホワイトソースの乳白色ではなく、ビーフシチューの様な深いブラウンソースめいた色をしていた。漂ってくる香りだけでも深みのある肉肉しさを感じる。
──あれはフランス料理の『カスレ』か……? 作るのに2日とか掛かる料理だぞ。まさかアレも僕の時みたいに一瞬で出てきたっていうのか!?
味には文句のつけようもない。しかしこの食堂には不審な点が多すぎる。拭いきれない違和感があるが、その正体はまだわからない。相変わらずの異常な空腹感が、思考にモヤをかけているかの様だった。
──『空腹』……だと? まさか、食べても食べても満たされていないのか……!?
モヤがかかっていた露伴の思考がだんだんとクリアになっていく。この食堂はなにか『異常』だ。そしてその異常さは自らにとって間違いなく『危険』である。そう判断した後の露伴の動きは早かった。
隣で食事している客にヘブンズ・ドアーを使うと、捲れたページを確認する。
しかしそのページには特筆すべき事はない。
そう、何も『無い』のだ。
そのページは真っ白だった。
「何だこれは……ッ! まさか……ッ!」
何かに気がついた露伴は今度は背後で食事している客を本にする。そしてその本もまた何も書かれていない白紙のページのみで構成されていた。
「やはりそういう事か……!」
露伴がこの店に隠された真実に気付いた時、店の奥から店主が現れた。腰の曲がった、人の良さそうな男性だった。
「おや、アンタ生きてるのかい」と店主は驚いた声を出す。しかし同時に妙に落ち着いていて、不思議な雰囲気があった。
「生きてる人がここに居るなんて珍しいね。でもダメだよ。ここは……」
「ここは死者の為の店だって言うんだろう?」
露伴の言葉に店主の表情が一瞬こわばる。気付かれていないとでも思っていたのだろうか。だがあいにくコチラには『特殊な取材方法』がある。本にしてしまえば、ただの一つも隠し事などできないのだ。
ヘブンズ・ドアーで本にした時、何も書かれていないのは有り得ない。例えば生まれたばかりの赤ん坊を本にしたとしても、そのページには胎児だった頃から今までの記憶が刻まれているのだ。たとえ本人が忘れていようとも、体に、魂に刻み込まれた内容が消える事はない。それが有り得るとすれば、その者が『死者』であった場合のみだ。
露伴は店主の変化に気づきつつもさらに続ける。
「アンタの様子で確信が持てた。ここに来る客は皆死者なんだろう。もっと言えば幽霊か。そして彼らに料理を提供してるアンタもまた幽霊……だな」
「……そうだよ。ここは幽霊の為の食堂。未練や後悔を残して死んだ連中に、本当の最後の晩餐を提供するのさ」
「未練、後悔……だと?」
今度は露伴の表情が固まる。
未練や後悔など自らの人生にあるはずがないと思っていたからだ。いつだって仕事は充実していたし、奇妙なことに巻き込まれることもあるが後悔などした事はない。全ては漫画のため、読んでもらう為に全力を傾けていた。その自分に後悔など。
露伴は奥歯を噛み締める。
「店主、一つ頼みがある」
「もう一品、僕に料理を食べさせてほしい」
露伴はそういうと、もう一度静かに席に着いた。店主は驚いた表情をしていたが、何かに気がつくと大人しく店の奥に引っ込んでいった。
「ヘブンズ・ドアー」
自らを本とするのはいつだってこれ以上無いピンチの時だった。状況を打破する為に人智を超えた能力で、自らに『命令』を書き込んだり、あるいは一時的に記憶を封じたり。
──まさかこんな事の為に使うとはな
本には全てが書かれている。例え本人が忘れていたとしても体が、魂が覚えている。それは後悔や未練も同様だ。今回は自らの心の奥底にある未練を確認する為に記憶を改めて確認する必要があった。露伴の記憶への挑戦が始まる。
幼い頃、母親が作ってくれたオムライス。必ずコンテストで金賞を取ると意気込んで描いた絵は、結局銅賞止まりだった。幼い頃から絵には絶対の自信があった。誰よりも上手いと思っていた。落ち込む露伴を慰める為に母親は当時好物だったオムライスを作ってくれたのだった。
佛跳牆。期待の新人漫画家としてデビューした露伴は、しかし仕事に恵まれなかった。プライドが高かったのもあったが、担当に恵まれなかったのだ。そんな中、漫画賞を受賞した。努力でもぎ取った賞だと思っていた。だが実際は勘違いだった。独特のクセのある絵柄の露伴の手綱を上手く握り、その賞を取れるまでに持っていったのは苦手だった担当編集者だったのだ。そのことに気づいた時、その担当編集は既に出版社を辞めていた。佛跳牆は苦い後悔の味になった。
その記憶が「料理」という形で目の前に現れた。露伴自身は既に忘れてたと思っていた記憶が、料理を食べる事で鮮やかに蘇っていた。であれば次出てくる料理も、自らが忘れていたと思っている何かだろう。
「しかし、何も恐れる事はない。これは僕自身の物なのだから」
気がついた時、目の前には小皿があった。
露伴はそれを前にして、一瞬だけ戸惑う。
「……未練、か。僕にそんなものがあったとはね。どこかで切り捨てたつもりでいたよ。けれどそれが『こんな形』で出てくるとは驚いたな」
目の前の小皿には大きな『梅干し』が一つだけ乗っていた。
見ただけで喉奥に唾が溢れる。食べずともわかる。これは露伴の『祖母』の梅干しだ。
目の前の料理は、ただの「食事」ではなく露伴自身の「記憶そのもの」だ。それを口にすることは、自分の未練を真正面から受け入れる行為となる。
露伴は箸を取り上げ、静かにその料理に手を伸ばす。
「ふん。どうやら、僕もまだまだ未熟ってことらしいな……いいさ。こんな『不完全な記憶』も、今の僕には必要な栄養分ってことだろう。なら食べてやるとも」
梅干しを口に入れた瞬間、露伴の中に眠っていた記憶が鮮やかに甦る。
ルーブルで見た様な悍ましい祖母の姿ではない。懐かしい、厳しくも優しかった祖母の姿が目の前に浮かんでくる様だった。
忘れていた温かさ、痛み、喜び、そして苦しさ。すべてが混ざり合い、心の奥底を満たしていく感覚を覚える。
「……なるほどな。これが『僕にとって必要だったもの』か」
料理を食べ終わった瞬間、店内に微かな変化が訪れる。先ほどまで食事をしていた幽霊たちが、1人、また1人と席を立ち、静かにその姿を消していく。
露伴が食べ終わると、店主が静かに現れる。
「お客さん、生きている人がここに来るのは珍しいことだ。けど、未練が解消できたのなら、これ以上ここに居るのはよしなさい」
「そういうことか。ここはそういう場所だったんだな。……まぁいい、最高の経験だった。礼を言っておくよ」
露伴は立ち上がり、店を出る。振り返ると、そこにはすでに店の姿はなかった。
彼は静かに歩きながら、スケッチブックを取り出して何かを書き込む。
「……未練か。誰にでもあるものだろう。問題は、それをどれだけ正しく描けるか、だ」
満足そうにページをめくると、露伴の背中は街の喧騒の中へと消えていく。