ある日のこと、岸辺露伴はS市立美術館に向かっていた。
吐く息は白く、乾燥した冷たい空気が露伴の肌を刺す。コートとマフラーを着ていても体の芯まで冷え込むような日だった。
「寒い所、ご足労おかけします」
少しふくよかな体型の女性職員が微笑む。彼女の名は月島。この美術館で展示会の担当をしているという。
「いや、構わない。実際に展示会場を見たいと言ったのは僕だしな」
露伴は出されたコーヒーを一口啜った。よくあるコーヒーメーカーで抽出された、可もなく不可もない普通のコーヒーだった。
露伴は、再来月にS市立美術館で開催される「岸辺露伴展」の打ち合わせにきていた。担当者の月島はオンラインでも構わないと思っていたのだが、露伴がそれを許さなかった。来館者の視点、感覚は実際に現場に赴かないとわからない、と頑として譲らなかったのだ。
「しかし、この寒さはなんなんだ」
「今シーズン最低らしいですよ。夜にはもっと冷え込むとか」
「マジか」
露伴は窓の外を少し憂鬱そうに一瞥した。空は灰色で、今にも落ちてきそうなほど、雲が厚く垂れ込めている。雪こそ降っていないが、その空気にはどこか不穏なものを感じた。
月島が資料の束を机の上に広げる。展示の詳細や、予算、予想される来場者数などが箇条書きにされている。しかし露伴はそれにあまり興味を示さなかった。彼が考えているのは、来場者がどこで、何を見て、どのように感情を動かされるか、のみだった。資料などという、それこそオンラインでも良いものより、会場の様子の方を見ておきたかった。
「展示のイメージ図なんかはあるかい」
「ございます。こちらの資料になるのですが……」
束の中から一枚の資料を取り出す月島。露伴はそれを受け取りつつも、その瞳は既に資料を通り過ぎている。
「ふむ……確かによく考えられているが、やはり実際に見てみないことには最終的な判断はできないな」
露伴が椅子から立ち上がり、コートの襟を直す仕草をした。
「見に行こう、案内してくれ」
「承知しました。では、こちらへ」
月島が席を立つと、2人は事務室を出て美術館の廊下を歩き始めた。照明は控えめで、外の寒々しい灰色の光が窓から差し込んでいる。館内は静かで、2人分の靴音が反響するのみだった。
「フゥン、展示の導線はよく考えられているな。悪くない」
「ありがとうございます」
展示室を一通り確認した後、露伴は満足げに腕を組んでつぶやいた。それに月島がホッとした表情を浮かべる。
「そういえば、僕はここにあまり来たことがないな。他の展示品なんかはどこにあるんだ?」
月島は露伴の言葉に少し間を置いてから答えた。
「常設展示室には、地域ゆかりの作品や古美術品が展示されています。それ以外の所蔵品は、保管室で管理されていますね」
「なるほど、保管室も案内してくれるか?」
「いえ、それは出来かねます。保管室は関係者以外立ち入り禁止でして」
月島は丁寧だが、キッパリと断った。
「じゃあ所蔵品に関しても?」
「はい、基本的には公開の予定があるもの以外は、お見せすることができません。規則で厳しく定められておりますので」
「そうか、なら仕方ないな──」
と言いながら露伴が月島に、流れるようにヘブンズドアーを発動すると、彼女の手足から力が抜ける。月島がその場に崩れ落ちかけるが、露伴がそれを支える。
その瞬間を見られていたのか、警備員がひとり駆け寄ってきたが、これもヘブンズドアーで『露伴を見ても通報しない』と書き込んで、その場を取り繕った。
「──さて、所蔵品に関してのページは……」
月島の体を支えながら、本になった彼女の記憶をめくる。美術館の所蔵品に関しての情報が、詳細に書き込まれていた。丁寧に表形式で記載されていて、月島の几帳面な性格が垣間見えるようだった。
「顔のない仏像……『虚観音(うつろかんのん)』、か」
露伴は立ち止まるように本のページをめくる手を止めた。記述には仏像の詳細が丁寧に書かれている。
それは、月島が普段どれほど几帳面に職務をこなしているかを物語る内容だった。
『寄贈品。顔が存在しない造形が特徴的。地域における由来は不明。現在は保管室13にて非公開で保存中。曰く付きのため、展示予定なし』
「非公開、ね……?」
さらに露伴が読み進めると、虚観音に関わる「曰く」に関する記録が次のページに記されていた。
『仏像は骨董商より寄贈されたもの。当初は公開予定が検討されていたが、寄贈者が仏像を手に入れた後、精神を病み、現在は療養施設にて治療中』
「精神を病んでいる……」
露伴は声に出して反芻する。
「つまり、これがその仏像の“力”ってわけか……?」
次のページには、所蔵品が保管されている部屋の番号と、それぞれの鍵の場所についての情報が整然と並んでいた。
『保管室13。鍵の所在:職員ロッカー、または警備員が持つマスターキー』
「ふぅん……手間がかかりそうだな」
露伴は月島の記憶のページを閉じると、軽く彼女の肩を支え、眠るような姿勢で椅子に戻した。
「さて、じゃあ見に行くか」
───
夜、美術館の閉館時間が訪れる。ただでさえ薄暗かった館内は照明が落とされ、冷たい闇が支配していた。小窓の向こうでは、シンシンと雪が降っている。
「今シーズン最低、か」
『関係者以外立入禁止』と書かれた扉の前で露伴が呟く。誰に聞かせるでもない呟きは、闇に溶けていった。寒々しい外の様子に比べて、真っ暗な館内は意外なほど空調が整っていた。美術品は、適切な気温や湿度で保管する必要があるため、当然と言えば当然だ。
月島の記憶で見た館内図では、この扉が保管庫へ繋がっていたはずだ。重く冷たい鉄製の扉を開くと、そこには展示室よりさらに寒々しい空間が広がっていた。展示室は、木材を基調とした厳格な冷たさの中にほのかに暖かみを感じる空間だったが、通用路であるこちらはコンクリートやリノリウムを基本とした空間だった。灰色で、個性が全くない。相変わらず空調だけはしっかりと整っていたが、それでも視覚から伝わってくるのは人間味を感じない冷たさだけだった。
目の前の、薄く汚れた案内板に
『←保管室11〜15 保管室1〜10→』
と刻まれている。その書き方に、露伴は微妙な収まりの悪さを感じたが、しかし今はそれどころではない。目的は『虚観音』。曰く付きの仏像だ。
「たしか、保管室13だったか」
コツコツと足音を響かせながら、露伴は保管室13を目指す。数メートル程歩くと、それはすぐに見つけられた。プラスチック製の銘板に『保管室13』とわかりやすく書かれていたからだ。こういうところは、いかにも公立の箱物という感じがする。
扉を開こうと、丸いドアノブに手を触れる。瞬間、露伴の背筋を冷たいものが舐める。
「ッ!?」
声にならない声が漏れ、露伴が背後を振り返る。露伴は無意識にペンを握っていた。本能的な防衛反応だった。
既に、背筋を舐めたモノの気配は無い。しかし『何か』が居た。正体不明の何かが動きを探っている。そんな感覚が露伴を襲う。
「フン……これが『曰く』か? それとも、まだ何かあるのか……?」
しかし、露伴は再びドアノブを力強く握る。そこにあるのは未知への探究心と、剥き出しの好奇心だった。そしてそれ以上のものも必要ない。なぜなら露伴は漫画家であって、霊媒師や拝み屋でも、鑑定士や美術史家でもないからだ。目的はこの先にある『虚観音』とそれに付きまとう曰くの正体のみだ。
保管室13の内部は更に暗い空間だった。照明がついてないのもあるが、それ以上に、闇の塊がそこに鎮座している様な、ただ真っ暗であるのとは訳が違う暗さだった。根源的な闇である様な感覚だった。
──暗いな……、照明はどこだ……?
暗闇の中、壁を手で探る。照明のスイッチはすぐに見つけられた。スイッチを押し込む。照明がともり、部屋が明るく照らし出されると、そこには布が被さった台があった。
布は光沢を帯びており、白色に輝いていた。材質はおそらく絹だろう。絹は天然素材で通気性も良い。湿気を適度に吸いながらも、空気の流れを保つため、美術品の保管には向いている。
しかし露伴はそれを見て、どこか不自然な感覚を覚えていた。一切の汚れがない白い絹と、そして何より『それ以外、何も無いこの部屋』。見たところ、布の下には例の『虚観音』があるのだろう。膨らみから予想されるサイズは、およそ30cm程で、それだけのために保管室一部屋を使っているとは、とても思えない。だとすると何らかの意図があって、この虚観音だけを、この部屋に置いているのだ。それは保管というよりも、もはや『隔離』だ。
それほどまでの『曰く』。呪いだとか超常現象だとか、露伴にとっては日常茶飯事であったが、強烈な好奇心が彼を突き動かした。
布に触れる。ゆっくりとそれをめくり、その下に在る仏像の姿が露わになる。
「これは……」
ついに露伴は虚観音と対面した。
虚観音は立像で、手は来迎印の形で結ばれていた。
古色を帯びた、深い艶のある木材の肌。蓮華座や後光の輪には繊細な細工が施されており、これだけで文化財的価値は計り知れないだろうことが、うかがい知れる。
そして何よりも特徴的な、その顔。
その顔には何も無かった。顔が作られていないとか、削り取られているとか、そういうのとは全く違う。何もない。顔があるはずの部分には、虚な空洞が──『無』が在った。
「来迎印……極楽に導く釈迦の印相だったか。だとすればこれは釈迦如来立像ということになるが、しかし……この顔はなんだ? 真っ黒で、孔(あな)が空いている……」
露伴は訝しげに、じっくりと仏像を観察する。持っていたペンライトを取り出し、虚観音の顔に光を当てる。しかし、そこには何の表情も、何の輪郭も無い。ただ黒く、深く、吸い込まれる様な『虚』が広がっていた。
「妙だな……。これじゃあ、まるでブラックホールだ。最新の塗料でもこれ程の黒さは出せないんじゃあないか」
世界一黒いと言われる塗料は、光を99.9%以上吸収してしまうという。露伴も何かのニュースで見たことがある。その塗料を塗られた物体は、凹凸の情報が失われてしまう程に真っ黒になっていた。
しかし、それでも、完全な黒には至らない。それに塗料の様な物では、どうしてもノッペリとした印象になってしまう。この仏像の顔はそういうベタっとした黒とは違っていた。深く、広く、まるで無限の宇宙がその顔の空洞の中に広がっている様だった。あるいは、星の全てが圧縮されたブラックホールの様でもある。
「不思議だ。底知れないほど不気味なのに、全てを圧倒するほどに美しく感じている……」
観察を続けていた露伴は、その仏像の秘密に気がついた。
──この仏像は『黄金比』だ。いや、『白銀比』かもしれない
露伴の中に蓄積された美術知識が、その秘密の一端を掴み取る。人間が本能的に美しいと感じる比率。自然界に溢れる、美のスケール。それが黄金比や白銀比と呼ばれる、一定の比率だ。特に白銀比は別名『大和比』とも呼ばれ、日本人に馴染み深い。身近な所ではコピー用紙やポスターの縦横などが白銀比で構成されている。
露伴は思わず息を呑む。全体の構成、繊細な細工。その全てが完璧な『美しさ』のスケールで作成されていた。
そして、その美の化身の中にぽっかりと空いた空洞──虚無。
サモトラケのニケ、ラオコーン、ミロのヴィーナス。完璧な美の一部が失われる事で完成する、不完全の美。それは人間の脳が、不完全さを埋めようと想像力を働かせることで完成する。この仏像はまさに『それ』だった。
永遠に完成しない、不完全性。
露伴の脳が、その『虚』の中に顔を描き出そうとする。ありえないはずの『顔』が、彼の中に浮かび上がる。
彼は無意識に、その像の顔をイメージし、脳内で再現しようと反芻し始めた。
次第に時間の感覚が失われ、音も消え、肌の感覚さえ薄れていく。
まるでこの世から岸辺露伴という存在が消え、仏像と一体化するかのようだった。
鼻血が一筋、露伴の顔を伝う。不完全な像を補完しようとする想像力で、脳が限界を迎えつつある証拠だ。
その時だった。空洞の中に見えた顔が、微かにアルカイックスマイルを浮かべた瞬間──。
扉が開く音が響いた。
振り向くと、警備員が保管室に入ってきていた。日中に露伴がヘブンズドアーを仕込んでいた警備員とは別の人物だった。
「貴様ッ! ここで何を──」
警備員の視線が露伴、そして仏像に向けられる。露伴は慌てて、その視線を遮る様に動くが、一歩遅かった。
警備員の動きが止まる。持っていた懐中電灯が落ちる音が部屋に響く。
「……おい、あんた。どうしたんだ」
露伴が警備員に近づく。しかし警備員は止まったまま動かない。それだけではなく、つい先ほどの露伴の様に鼻血を流していた。更に耳から血を流し、滝の様に涙を流している。
「ッ!? な、なんだ!?」
露伴がうろたえる間にも、警備員の様子はどんどんと悪化していく。ついには失禁までしていた。しかしその視線は仏像から離れない。まるで、何かに魅入られたかの様に、仏像を見つめ続けている。
「おい、しっかりしろ!」
露伴呼びかけにも、警備員は一切反応しない。虚ろな目で仏像を見つめ続け、涙と鼻血、耳から流れる血が彼の顔を濡らし、呼吸も荒い。
「くそ……!」
露伴は迷わずヘブンズ・ドアーを発動する。警備員の顔が本のページに変わり、その人生が露伴の目に流れ込んできた。
──この男の記憶を読めば……何が起きたのか……
しかし、ページをめくると、そこには恐るべき異変が起きていた。
美しい
「ハッ!?」
たったそれだけの言葉が、警備員の記憶のほぼ全てを覆い尽くしていた。何十年分の人生が消え去り、ただひたすらに「美しい」という言葉だけが埋め尽くされている。
「ッ……これは……!」
寒気が背筋を駆け上がる。警備員の記憶が、何かに塗り潰されている──いや、『上書き』されている。
──まさか、見ただけで記憶を上書きされたっていうのか……? それも、過去に遡ってこれまでの記憶全てを書き換えていく様だ
驚愕に身を震わせながらも、露伴はすぐにページに書き加えた。
『今夜の事は忘れる。目を覚まし、すぐにここから立ち去る』
しかし、書き込んだ瞬間、その記述も「美しい」という無数の文字に覆い尽くされていく。
「な、なんだとッ!?」
思わず息を呑む。これまでヘブンズドアーが無効化された事は数える程しかない。
その間にも、警備員は相変わらず虚ろな目で仏像を見つめ続け、感情も意識も削ぎ落とされたかのように、ただただ涙を流している。体は震え、まるで抜け殻のようだった。
露伴は直感的に悟った──
このままでは、この男は壊れる。完全に。
露伴はこの現象の原因が仏像だと、直感的に判断した。異変は仏像を見てしまった後に起こった。露伴も仏像を観察した後に鼻血を流していたし、異変の兆候は現れていた。
ヘブンズドアーの記述は消されて、起きてしまった異変には対応できない。であれば、とにかく仏像を見させない様にしなければ。
露伴は元々仏像を覆っていた絹布を探す。その辺に転がしておいた筈なのに、どこにも見当たらない。悠長に探している暇はない。そうしているうちに、この警備員は壊れてしまうだろう。もしかすると、同じ空間にいる露伴ですら。
露伴は咄嗟に着けていたマフラーを、虚観音に乱暴に被せた。
顔が隠れた瞬間、警備員の身体から力が抜ける。まるで糸が切れたようにグッタリとする警備員。意識も失っているようだ。
露伴は気絶した警備員を引きずって、保管室からほうほうのていで逃げ出した。出ていく時、マフラーの奥から視線を感じたような気がする。好奇心を刺激され、思わず見てしまいそうだったが、露伴はその誘惑を振り切った。目の前で血を流して倒れている警備員を助ける方を優先したのだ。
その後、露伴は気絶した警備員を守衛室まで引きずっていき、そこのソファに寝かせた。守衛室にはもう一人の警備員が居たが、それは昼間にヘブンズドアーで書き込みをしておいた警備員だったので、余計なことを尋ねられずに済んだのだった。
「気休めにしかならないだろうが……書き込んでおくか」
寝かせた警備員を本にして、『今夜の事は忘れる』とそっと書き込んだ。
警備員にはある程度、事情を話しておいたが、「仏像を見たら耳や鼻から血を流して気絶した」と言っても信じてはもらえないだろう。それはいい。露伴の取材では、こういうのはよくある事だった。聞かないなら、それもそれでいい。警告するだけなら、ヘブンズドアーで書き込めばいいのだ。
そして露伴は、職員用の出入り口を使って、夜の美術館から抜け出した。
───
一月後のこと。
露伴の姿は、再びS市立美術館にあった。岸辺露伴展の最終打ち合わせのために赴いたのだ。
展示室を抜け、職員用の応接室へと通される。午前の柔らかな光が窓辺に広がり、観葉植物の葉を透かしていた。
しかし、露伴の意識は目の前の光景にはなかった。
「……露伴先生?」
「……ん、あぁ」
美術館の広報担当、月島が怪訝そうにこちらを見ている。
「展示の内容や動線など、変更点はこちらの資料にまとめましたが……。やはり、この間のように『実際に』ご覧になりますか?」
資料の束をめくりながら、月島が露伴に問いかけた。
しかし、露伴は、どこか『心ここに在らず』といった様子で、応えが遅れる。
──まただ。
彼はここに来るまでに、何度も自身の意識が妙な浮遊感に包まれるのを感じていた。
美術館の白く静謐な廊下を歩くうちに、どこか遠く、まるで霧の中にいるような気分になる。
意識の隅に、黒い孔のようなものが張り付いて離れない。
それは──
「……いや、いい。その辺は前回から変えていないんだろう? なら大丈夫だ。君に任せるよ」
「ありがとうございます。では、そのように手配しておきます」
月島は礼儀正しく破顔した。重大な任務がひと段落ついて、やっと肩の荷が降りたのだろう。
露伴はコーヒーを一口飲む。熱が舌に広がるが、味は特筆するほどではない。
──以前にも同じ感想を抱いた気がする。
ふと、そんな思いが脳裏をかすめた。
「……あっ、そうだ。露伴先生」
不意に月島が立ち上がる。「少し待っていてください」と言い残し、奥の事務室へパタパタと引っ込んだ。
──何か気になるものでも見つけたのか?
露伴は窓の外に目を向ける。枯れた街路樹が、冬の終わりを告げる風に揺れていた。
やがて、月島が戻ってくる。その手には、どこかで見覚えのあるマフラーが握られていた。
「これは……」
「露伴先生の物ではありませんか? 落とし物として預けられていたんです。この前、いらした時に着けていらした物かと……」
月島は手渡しながら言う。
露伴はゆっくりと、それを受け取った。
柔らかい手触り。だが、どこか不気味に感じる。
脳裏に、黒い孔の仏像──虚観音の影が浮かぶ。
「……つまらないことを尋ねるが、ここの所蔵品に仏像はあるかい? 例えば『顔が無い』みたいな、妙な仏像だが……」
ゴクリ、と生唾を飲み込む音がやけに大きく響く。
「顔が無い、ですか……?」
月島は目を瞬かせ、少し考え込むように視線を泳がせた。
「そのような仏像でしたら、記録にも残りそうですが……。私には覚えがないですね」
彼女の表情は、ごく自然なものに見えた。虚偽を述べているようではない。
だが、一月前。露伴が彼女の記憶を読んだ時には、たしかに『虚観音』に関する記述があったはずだ。
それが、今はない。
──本にして確かめるか?
一瞬、露伴の脳裏をその選択肢がよぎる。
──いや……
「……いや、別にいい。それじゃあ、また一月後。本番もよろしく頼む」
それだけを言うと、露伴は足早に美術館を後にした。
街路樹が並ぶ並木道を歩きながら、露伴はマフラーを巻き直した。
線香のような、僅かに甘さの混じる、どこか懐かしい匂い。
これは、あの仏像に被さっていたものだ──露伴は確信する。
しかし同時に「深追いするべきではない」と、彼の魂が警告を発していた。
異変は、確かに彼自身にも起こっている。
──もし、あのまま見続けていたら。
露伴も、遠からず廃人のようになっていたに違いない。
背筋を冷たいものが舐める。
──あの時と同じだ。
「……『好奇心は猫をも殺す』か」
自嘲気味に呟きながら、露伴は掌を本にして読む。
そこには、確かに小さな文字で──「美しい」
明らかに、自分の筆致ではない文字。
──虚観音の影響と見て、間違いない。
微かな風が吹く。
並木道を歩く露伴の肩に、冷たい冬の陽が落ちていた。