M県S市杜王町から電車とバスを乗り継いで、およそ一時間。T大学附属植物園に露伴の姿があった。
敷地面積約52万平方メートル、東京ドームに換算すると約11個分。植物園としては、日本で初めて天然記念物として登録された歴史深い場所でもある。
「ほう、今の時期はカタクリにシャクナゲ……。やはり春は花の季節だな」
入り口のラックに並ぶパンフレットを一部手に取り、露伴が小さく呟く。ページをめくると、館内地図が現れる。一般公開温室、薬用植物区画、民俗植物資料室、研究棟、森林観察ゾーン。今回、露伴が取材対象としているのは「民俗植物資料室」だ。
担当の神林教授には、既にアポイントメントを取っている。現在は、正門を入った先の玄関ホールで待ち合わせの時間を待っているところだった。
腕時計をチラリと確認する。時刻は9時55分。約束の時刻は10時なので、少し早い。
「少し資料写真でも撮っておこうかな」
ポケットからスマートフォンを取り出し、カメラを起動する。画面の中に、初老の男性がこちらへ歩いてくる姿が映った。
タイミングを見計らったような登場だった。
男は中肉中背の、一見するとごく平凡な印象だった。
しかし、よく見ると、薄くなりかけた短髪、剃り残しのある無精髭、くたびれた白衣のポケットには乾燥した葉や紙片の様なものが詰め込まれている。眠たげな目はどこか焦点が合っておらず、足取りもどこか不安定だ。
露伴の第一印象は『覇気のない人物』だった。
もしかすると、それ以上に『疲れすぎて感情がすり減ってしまった』ような印象すらあった。
「やぁ、岸辺露伴先生ですね。神林です」
男は目を細めて、確認するようにこちらを見てから、わずかに口元を歪めて笑った。
その笑みにはどこか、形式だけで心がこもっていない様な、疲れた人間特有の空虚さがあった。
「漫画家の岸辺です。今日はよろしくお願いします」
露伴は観察を切り上げ、短く挨拶すると、右手を差し出した。神林は一瞬、驚いた様な表情を浮かべたが、すぐにその手を取って握手に応じた。
彼の手のひらは乾燥していて、やや骨ばっていた。
握手を終えると、神林は軽く頷き、身を翻す。
「では、こちらへどうぞ。研究室はすぐ奥です。……先生からご連絡をいただいたとき、正直ちょっと驚きましたよ。漫画家の方が、こんな地味な分野に興味を持たれるなんて」
「『禁断の植物』というテーマで読切を描く予定でね。怪しい響きがついて回る植物というのは、想像をかき立ててくれる。とても創作向きのテーマだ」
「それは確かに……研究対象の多くも、『薬』と『毒』の境界を彷徨ってきたような植物ばかりですから。文化との関わりがとにかく深い。ああ、ここです」
木製の扉を開けると、乾いた空気がふわりと頬に触れた。
露伴は、室内の独特の匂いに鼻をひくつかせる。
薬草とも古紙ともつかない香り。人為的に整えられた空調の下で、無数の標本が沈黙している空間。
「随分、乾燥しているんだな」
「標本は基本的に乾燥しています。なので、湿気に弱くて。適切な温湿度を保つのも研究室の仕事のひとつなんですよ」
室内は思ったより広く、壁面のほとんどが棚になっていた。
棚には瓶詰めや封筒に入れられた種子、乾燥した葉、ラベルのついた紙束などが、ぎっしりと並んでいる。
種類ごと、地域ごと、用途ごとに細かく分類され、丁寧にタグ付けされた標本の数々。
「なかなかのボリュームだな」
露伴が感嘆するように言うと、神林は小さく肩をすくめた。
「集めるだけが目的じゃないんですけどね……この分野、あまりにニッチで、誰もやりたがらない。気づいたら私のところにばかり集まってきたんです」
神林は棚を眺めながら、苦笑ともつかない笑みを浮かべる。
露伴もその視線を追い、資料棚を改めて見渡した。
「ここには、どのくらいの植物標本がある?」
「えぇと、ざっと……乾燥葉でおよそ1,200種、種子だけで500種近くあります。もちろん、大麻やコカなど、所持そのものが違法なものは除いてますけど」
散らかりながらも、ある種の秩序が保たれた研究室の中へ、神林は先に歩みを進めた。
露伴もそれにならって入室する。
小さな電気ポットのスイッチが入り、神林は棚の脇にあるコーヒーメーカーに手を伸ばした。
「神林教授の専門分野は?」
「民族植物学です。特に薬効や精神変容作用を持つ植物と、それをめぐる民俗文化や信仰の関係を調べています」
「ふむ」と露伴が手帳を取り出して、走り書きをする。
「まあ簡単に言えば『幻覚作用を持つ植物と人間の歴史的関わり』を洗ってるようなもんです。いわば『禁断の草』の民族史、ですね」
神林がコーヒーを二つのマグカップに注ぎ、自分の分に一口つける。
ほっと息をついた後、研究机の隅に置かれた標本瓶のひとつを指差した。
「この植物もね、一時は『悪魔の飲み物』なんて呼ばれたこともあるんですよ……今や、誰でもコンビニで買える代物ですけど」
「毒と蜜の境界線ってのは、案外曖昧なんだな」
露伴が呟くように言った。
コーヒー──かつて『悪魔の飲み物』とも呼ばれたそれに口をつける。深い苦味と、わずかな酸味が舌に広がる。
「……コーヒーは文明に許された『麻薬』の一種ですが──」
神林は一拍置いて続けた。
「煙草なんかは、今でも非常にポピュラーな『禁断の草』と言えるでしょう。葉や種の所持は合法でも、その依存性は、大麻やコカインと比較してもずっと高い」
「ふむ。確かに、一度吸ってしまえばなかなかやめられないと聞く。うちの担当編集も、もう何度禁煙に失敗したか」
神林は苦笑しながら、棚から小瓶と封筒を取り出した。中には乾燥したタバコの葉と、小さな種子がいくつか。
「古代では、シャーマンたちが『他界』──精霊の世界にアクセスする手段としてタバコを使っていました。もっとも、当時使われていたのは今の市販タバコに使われる改良種ではなく、ニコチン濃度の高い『野生種』です」
「ふむ……。その野生種の香り、嗅いでみてもいいか?」
「どうぞ。乾燥葉を嗅ぐくらいなら、依存症にはなりませんから」
神林が笑いながら露伴に小瓶を手渡す。ラベルには「Nicotiana rustica」──ニコチアナ・ラステカ、野生のタバコを意味するラテン語が記されている。
露伴は瓶の蓋をわずかにひねり、化学薬品を扱うように慎重に匂いを嗅いだ。
「……香りはほとんどないな。だが、鼻の奥にざらついたような刺激が残る。不快というほどでもないが、どこか異質な重さがある……これが野生の香りか」
「タバコの香気成分のピラジン類やフェノール類は、基本的に熱分解によって生成されるものですから。火をつけると、一気に『匂い』が立ちます。まあ、ここではやめておきましょう」
露伴が野生種の乾燥葉の匂いを嗅いでいると、ほんの少しの違和感に気がつく。
「……ん?」
眉をひそめる。鼻腔の奥に、何か異質な香りが混じっているのを感じたのだ。タバコの野生種特有の苦味とも土臭さとも異なる、言いようのない甘ったるい匂い。どこか誘われるような、しかし不穏な感覚を含んでいた。
「神林教授。この瓶……他の標本と一緒に保管していたのか?」
「ええ。すぐ隣に同属の標本があったかと……」
「見せてもらっても?」
神林が少し渋い顔をしながら、資料棚の奥から小瓶を取り出す。ラベルには『Nicotiana daemonis』──見覚えのない名が書かれていた。
「これは……?」
「ダエモニス、という仮称で呼ばれている植物です。極地に近い乾燥地域で、偶然採取されたものですが……詳細はほとんど不明でしてね。古い文献の断片にその名があり、『吸うと悪魔を見る』と書かれていたことから、そう呼ばれている」
神林が説明を続けるが、その言葉の途中で、露伴はふと視線を落とし、小瓶を持つ神林の手を見つめる。
「……どうも、話が煮え切らないな。あなた、本当は何を知ってる?」
「え?」
「ヘブンズ・ドアー」
神林の動きが一瞬止まり、露伴の指先が空を切るように動いた。次の瞬間、神林の体は本のようにパタリと開く。
ページの中には、異様な記述があった。
──あの
「やはり……これは『何か』あるな」
露伴はすぐに持っていたペンで神林のページに書き加える。
『岸辺露伴に嘘をつかない』。
神林が瞬きをしながら目を覚ました。
「うぅ……いったい何が……」
「神林教授。あの標本について教えてもらいたい。ダエモニス──あの葉の正体についてだ」
露伴がすっと顔を寄せて問いかける。神林は一瞬だけ口ごもるが、意志に逆らえないように言葉を漏らす。
「あ、あぁ……。あれは現地で『悪魔のタバコ』と呼ばれている植物だ。香りを嗅いだ者は、強烈な幻覚を見る」
「幻覚……。それは、どんな?」
露伴が眉をひそめる。
「……私自身は試していないが、調査に同行していた助手や案内人たちは、皆一様に同じ『夢』を見たと証言した。赤黒い空と……巨大な黒い影」
その声には微かな震えが混じっていた。
「影……?」
「それは人のような形をしているが、翼を持ち、全身が煙のように揺らめいているという……。そう、あれは『悪魔』だ」
露伴は無言で顎に手をやった。
神林は今、ヘブンズ・ドアーにより嘘をつけない。つまり、これは事実だ。
「その後、彼らに異常は?」
「……最初は何も起こらなかった。しかし数日後には、全員が『悪魔』の気配を現実にも感じるようになった。視界の端に影を見たと訴え、耳元で誰かが息をする感覚を話し……」
露伴の中で、警戒と好奇心が拮抗していた。
だが結論は決まっている。
露伴は立ち上がり、無言で標本棚へと歩く。
神林が慌てて後を追おうとする。
「待ってください! あなたほどの人物が『それ』に囚われてしまったら、もはや……!」
「心配はいらない。むしろ僕は『それ』を求めてきたんだ」
露伴は振り返らずに言った。
「『禁断の植物』──今回の取材テーマに、これほど相応しい素材があるかい?」
その背中には、静かな決意が滲んでいた。
どれほどの危険が待ち受けていようとも、露伴は未知を恐れない。
なぜなら、彼は『真実』にこそ価値を置く漫画家だからだ。
彼の指が、標本棚の一隅、乾いた小瓶にそっと触れる。
手書きのタグが見える。
Nicotiana daemonis
小瓶を持ち上げ、慎重に封を解く。
その内側から、匂いとは呼べぬほど淡い、だが確かに漂う、どこか懐かしく甘い、焦げた蜜のような香気。
露伴がその香気をほんのわずか吸い込んだ瞬間──世界が、暗転した。
赤黒い煙が空を覆い、空気は淀み、時間が止まっている。
その中心に立つのは、黒い影。
角を持ち、翼を持ち、煙のごとく揺らぐ『それ』。
生理的嫌悪。知覚の拒絶。
それは、「見る」だけで脳が焼かれるような、『名前のない恐怖』だった。
逃げろ──
身体が叫ぶ。
しかし、動けない。
それがゆっくりと振り向く。
目など無いはずなのに、確かに見られているとわかる。
精神を、芯から貫かれるような視線。
そのとき、影が一歩──近づいた。
そして──
「ハッ……!!」
露伴はベッドの上で飛び起きた。
室内。夜明け前。汗でシャツが張りついている。
夢。だが、ただの夢ではない。
それは、なんというか『恐怖の原型』だった。
露伴は震える手でスケッチブックを引き寄せ、忘れないうちに影の姿を描きとめた。
あの角。あの翼。あの、目のない視線。
ページの上に浮かび上がる『それ』は、まぎれもなく、現実のどこかに『在る』としか思えなかった。
───
露伴は、再びT大学附属植物園へと向かっていた。
電車と徒歩を乗り継いで約一時間。
その道中、頭から離れなかったのは夢の『影』の事だった。起きてからも背後に、視界の端に、気配を感じる。
胸の奥を圧迫するような焦燥感。
肌の裏をなぞるような、見えない何かに追われている感覚。
「……ここまでとは」
露伴は独りごちた。
『追われている』。
そうとしか言いようのない感覚。
香りの残滓が、まだどこかに滞っているような気すらした。
神林教授の研究室にたどり着いたとき、部屋の空気はすでに『異常』だった。
扉を開けると、薬品と血の匂いが鼻をつく。
目の前の光景に、露伴は足を止めた。
神林が、壁に何かを描いている。
自らの手を傷つけ、流れ出る血を指先ですくいながら、無心に、いや祈るように曲線と図形を連ねている。
露伴が直感する。これは夢で見た影と同じ物だ。理性のない勢いに任せた線なので、一見するとそうとはわからないが、目の無い頭部、角、そして翼。抽象的だが、たしかにそれとわかった。
描かれたのは標本棚とは逆側の壁。
研究者としての最後の理性が、ぎりぎりの判断を保っていたのかもしれない。
「神林教授ッ!」
露伴が肩を掴むと、神林は振り返った。
焦点の定まらない目。
喉から漏れるような、かすれた声。
「……私だって……研究者だ……ッ」
露伴の視線が、一瞬だけ床を走った。
そこには見覚えのある小瓶。
乾いた封蝋。ラベルにはあの文字──Nicotiana daemonis。
「……まさか……アンタ、嗅いだのかッ! あれほど恐れていたくせに……!」
「知っていた……誰よりも……アレの依存性は……」
神林は、まるで誰かに向かって弁解するように、そしてどこか自分自身に言い聞かせるように、独り言を続ける。
「……だからこそ……止められなかったんだよ……!」
「……!」
「研究者が……他人に体験させて、それで終わるなんて……そんなの、意味がないだろう……!? 私自身が……体験しなければ……『それ』と直面しなければ……!」
その言葉は狂乱というより、ある種の『覚悟』の匂いすら帯びていた。
「バリー・マーシャルのように……! 胃潰瘍の原因菌を、自ら飲み込んだように……ッ!」
「……チッ!」
露伴はすかさず神林の額に指を向ける。
「ヘブンズ・ドアー!」
露伴の指が神林の額に触れた瞬間、彼の体がわずかに痙攣し、その場に崩れ落ちる。
そして、肉体が『本』へと変貌する。ばらりと開いた神林のページに、露伴の視線がすばやく走る。
そこには、狂気と理性の狭間を記録した、克明な記述が並んでいた。
──標本を研究用に、ほんのわずか嗅いだ。
・一服目。影が現れる。目の端に染みのように滲むだけだったが、確かな『実在感』があった。
・二服目。吸引直後、影は一時的に消失。しかし時間経過とともに、むしろ以前より『濃く』なって戻ってくる。視界の大部分を覆うほどに。精神への圧迫感が著しく増加。
・三服目、四服目──吸引を重ねるたび、影は明瞭さを増し、私(神林)本人との『距離』を縮めてくる。気配、足音、吐息──ついには『背後に立つ』と感じるまでに。
以降の思考の一部が、『影』に占有され始める。
その記述に露伴の指が止まる。
次の一節。そこには、神林が自らの知性をもって、あの植物の本質に踏み込もうとした痕跡があった。
──依存とは、すなわち「繰り返したくなること」。
この場合、『悪魔のタバコ』を再び嗅ぎたくなること。
一般的に依存症は、ストレスや現実からの「逃避」が引き金となる。
だが、より効果的に依存させる方法がある。それは、『恐怖』だ。あの香気を嗅いでいる間、あるいは嗅いだ直後だけは、『影』が消える。
脳はそれを『安堵』として記憶する。
そして再び影が現れるたび、脳は『香気を求める』。
恐怖から逃れるために。
──恐怖と緩和。その繰り返しが、強烈な依存を生む。
「……なるほどな……」
露伴の声が、静かに漏れた。
その顔に浮かんだのは、戦慄と理解という名の満足。
『悪魔のタバコ』は、ただの幻覚誘発植物ではない。
生理的な快楽ではなく、『恐怖』を媒介にして依存を生む。それはまさに、飴と鞭を使い分けるような、洗練された寄生戦略。
高濃度のニコチン様物質が、脳の深部に刻む『夢』と『悪魔』。
そして、それを打ち消すためにさらに香気を欲するよう、巧妙に設計されている。
「香りが恐怖を生み……香りが恐怖を癒す……」
露伴は眉をひそめながら、スケッチブックを開いた。
さきほど夢の中で見た『あの影』の姿を、できる限り正確に描き留めておくために。
「まるで……『蜜』だな。こいつは知的生命体の『依存』を生存戦略に組み込んだ……」
それは、悪魔の香り。
吸った者の夢に侵入し、依存を促し、じわじわと現実を侵食してゆく植物。
その名も──『Nicotiana daemonis』。
「しかし……どうする?」
スケッチブックを静かに閉じながら、露伴は低く呟いた。
「正体は見えた。構造も、作用も、理解した。だが、それだけで『勝った』とは言えない」
露伴は顎に指を添え、深く思考に沈む。
今、自分が取り得る選択肢は──三つ。
どれも一長一短ではない。一難三短。
踏み誤れば、即座に地獄行きだ。
一つ──燃やす。
「もっとも単純で、手っ取り早い方法だ。『悪魔のタバコ』を火にくべ、灰にすれば済む話。依存も、幻覚も、物理的に消滅する」
だが。
「……煙だ」
問題は『香気』そのもの。
ニコチアナ・ダエモニスは、『香り』で夢を媒介する。
それが煙となって拡散すれば。
「一瞬で『影』が伝染する。無関係な人間たちにまで、あの悪夢が届く」
火にくべた瞬間こそが、最も危険なのだ。
「駅前で見知らぬ十人が同時に『悪魔』に怯え出したら、週刊誌の見出しは『露伴の仕業』になるだろうな」
二つ──保管する。
「このまま誰の手にも渡らないように、厳重に封印しておく」
だが、それは神林の理性に賭けるという選択だ。
あの神林に? 既に四度も吸い、影に精神の一部を侵されている男に?
「無理だ。夢を見るたび、彼はまた『吸いたくなる』。恐怖を消すために、恐怖の元を求める……最悪の循環だ」
しかもそれでは、完全に『ダエモニスの思惑通り』だ。
「禁忌を封じ込めて守る? それはただの『生贄の番人』じゃあないか」
そして何より。
「僕の性分に合わない。真実を知ってなお『しまい込む』なんて、そんな真似は──『記録者』としての敗北だ」
そして、三つ目。
「誰にも頼らず、自分の手で……捨てる。そして、忘れる。神林の記憶ごと、世界から『影』を排除する」
それは、最も確実で、最も残酷な手段だった。
神林から『ダエモニス種』に関する一切を『削除』する。ヘブンズ・ドアーで本にしたら、ダエモニスを嗅いだ後のページを破り取る。
自分にも記録を残さない。『描かない』という選択。
全てを封じ、記憶から追い出す。事象の存在ごと『なかったことにする』。
──これしか、ない。
時刻は深夜。月もない。
露伴は、人気のない自宅の裏山の斜面を一人登っていた。
手にしているのは、小瓶に収めた『悪魔のタバコ』の種と、重たく揺れるバケツ。
中身は生のコンクリート。
袋から出したばかりの乾いた石灰と水を混ぜ、練り上げたものだ。
足元を確かめながら、露伴は黙々と穴を掘る。
深く、誰にも見つからないほどの深さまで。
小瓶ごと、種をコンクリートに沈める。
冷たく、灰色の粘土が、悪夢の核を呑み込んでいく。
それをシャベルで慎重に埋め戻し、上から重石を乗せる。
地面を均し、雑草を引き戻す。
何事もなかった風に整えたその土地は、まるで最初から、ただの空き地だったかのようだった。
──露伴は一度だけ振り返り、静かに息を吐いた。
「……これでいい。これは、『記録されるべき真実』じゃあない」
そして朝の空気を吸い込み、山を降りる。
空は、うっすらと明るくなりかけていた。
だが、その足音の背後で、地中の奥深く、わずかに揺れた『影』が、コンクリート越しに気配を立てた。
完璧な封印に見えたそれは、もしかすると。
──いや、やめておこう。
それはまた別の物語だ。
禁煙と執筆がんばります。