岸辺露伴は動かない 偽書   作:八二一

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インフルエンザになりました。


沼男、あるいは二重歩行者

 自己の存在を脅かす『もう1人の自分』の概念は、古来より多くの思想家を悩ませてきた。思考実験として、あるいは市井の人々に伝わる噂話として。それらの代表的なものが、ドッペルゲンガーと、スワンプマンである。

 

 ドッペルゲンガー

 ドイツ語で「二重の歩行者」を意味する伝承。生きている人間と寸分違わぬ分身が突然出現する現象を指す。多くの場合、死の予兆、あるいは魂の不安定さを具現化したものとして、心理的な恐怖を伴う。

 

 スワンプマン

 現代哲学における思考実験。落雷などの偶発的な現象により、元の人間と原子レベルで完全に同じ構成を持つ人間が瞬時に作られた場合、それは元の人間と同一人物と言えるか? という自己同一性の証明を問う概念。記憶のデータは同じだが、そのデータに至るまでの『歴史(因果的連続性)』を欠いている点が核心である。

 

 私の長年の研究テーマは、『魂の連続性』と『自己同一性の証明』にあった。だが、沼の傍で生まれた彼は、記憶というデータを完璧に持つが、魂の積み重ねた『時間』を持たない。彼は、私の理論を嘲笑するために現れた、静的で完全な虚無だ。そして、その虚無を前にして、私は、自分がどちらであるのか、その連続性の証明を見失った。

 

 

 ───

 

 

 そこまで読んで、露伴は手記を読む手を止めた。

 

「フン、馬鹿らしい。全く凡庸な思考実験だ」

 

 露伴は飽きた様に手記をデスクに放り投げた。古本屋で見つけた、名も知らぬ学者くずれの研究手記。戯れに購入してみたが、大したことは書かれていない。

 たかが『魂の連続性』や『自己同一性』などという曖昧なものに、自己の存在意義を賭けてどうなるというのだ。

 

「完璧な物質的コピーが現れたとして、それは結局、その時点での完璧なコピーというだけだ。人間の本質というのは、もっと矛盾に満ちたものだと僕は思うがね。だが……」

 

 ──果たして、自らの目の前に、完璧な複製が現れた時、冷静にいられるか……。

 

 露伴の中に疑念が一瞬よぎった。しかし、それを疲労のせいだと断じる。

 時刻は深夜2時35分。締切を完璧に守る露伴が、この時間に起きていることは稀であった。

 

「スワンプマン? ドッペルゲンガー? いずれにしても、くだらないね。この岸辺露伴にとって、最も恐るべきものとは、僕自身の成長が止まる時。つまり『凡庸な停滞』のみ、だ」

 

 学者の手記からの問いかけを、そう強引に結論づけると、露伴は自らを律して椅子から立ち上がった。完璧な仕事には、完璧な休息が必要だ。

 

 その瞬間だった。

 

 立ち上がった露伴の全身を、疲労感とも全く違う、抑え難い強烈で奇妙な睡眠衝動が襲った。それは、脳の限界による睡魔とも違う、まるで外部から意識のスイッチを強制的に『オフ』にされるような、異質な力だった。

 

「……こ、これはッ。まるで『ヘブンズ……』」

 

 露伴はこれが生理現象ではない、異質なものの干渉だと直感した。

 

 しかし、抗う間もなく露伴の視界は漆黒に染まり、彼は音もなく仕事部屋の床に崩れ落ちた。

 

 ───

 

 

 一瞬、いや数分、数時間かもしれない。意識が混濁し、時間感覚もあやふやな中、露伴は目を覚ました。仕事部屋の蛍光灯が、妙に強く輝いている。

 

「やっと起きたか、『僕』」

 

 倒れ伏す自分に向けられたその声に、露伴は思わず、跳ねる様に飛び起きた。ついさっきまで自分が座っていた椅子には、ありえない人物が座っていた。

 それはつまり『自分自身』。自らと同じ服を纏い、同じ顔、同じ髪型、何もかもが完璧に同一な、もう一人の岸辺露伴だった。

 

「随分疲れた顔をしているじゃあないか」

 

 露伴の心臓が激しく高鳴る。目の前の男は、幻影やドッペルゲンガーの様な『不完全な幻影』などではないと、直感的に悟った。学者が手記に記した、原子レベルで複製された『完璧さ』を持つ存在が、今、ここに居る。

 

「……フン、なるほどな。貴様が手記にあったスワンプマンというやつか……。だが生憎と、僕は『普通』の人間とは違っていてね」

 

 露伴は瞬時に右手を構えた。

 

 ──この偽物の『正体』を暴くッ! 

 

「『ヘブンズ・ドアー』ッ!」

 

 しかし、目の前のもう一人の露伴も、全く同じ呼吸、表情で、全く同じ能力を同時に行使した。

 

「『ヘブンズ・ドアー』ッ!」

 

 露伴の能力『ヘブンズ・ドアー』。人間を本にし、その精神の奥底に秘められた秘密をも白日の元に晒す能力。

 全く同質のエネルギーが正面からぶつかり合う。

 結果──相殺。お互いの能力は完全に拮抗し、どちらの攻撃も相手の肉体には到達しない。

 

「何ッ……僕の『ヘブンズ・ドアー』が打ち消された……ッ!?」

 

 露伴の顔に驚愕の表情が浮かぶ。

 露伴の『能力(ヘブンズ・ドアー)』は強力だが、万能、無敵ではない。自分よりも強固な精神を持つ者には、当然効かない事もあったし、そもそも精神そのものを持たない相手には効くはずもない。しかしコイツはそれらとは違う。『能力(ヘブンズ・ドアー)』を同質、同量の『能力(ヘブンズ・ドアー)』によって無効化したのだ。

 

「『唯一性』の証明のための攻撃……防衛本能の表れと受け取っておこう」

 

 もう一人の露伴は椅子に深く座り直し、冷たい笑みを浮かべる。

 

「無駄だよ、僕。君が持つ全ての記憶、癖、そして能力のデータを、僕は完全に有している。君が『真実』だと信じるもの、全てが『静的な事実』としてここに複製されている」

 

「わかるか? 僕と君の間に本質的な違いは無い。僕達を分かつものは『能力』というつまらない物では無いんだよ」

 

 露伴は冷めた空気を吸い込んだ。能力は無効化されると知った今、この複製を打ち破るには、奴自身の論理を突き崩すしかない。それは漫画家・岸辺露伴として『人間性の真実』を巡る、最も知的な戦いだろう。

 

「フン……! いいだろう」

 

 露伴は荒く息を吐き出すと、ゆっくりと立ち上がった。激しい疲労が全身を襲うが、それを無視して、乱れた服の襟を直し、静かにデスクの椅子を引いた。

 

「貴様が問いと答えによる決着を望むなら、僕がそのテーブルについてやろう。貴様が僕の完璧な複製だと言うのなら、貴様を打ち倒すことが僕の『成長』だ。その凡庸な論理を、この岸辺露伴が粉砕してやる」

 

 露伴は、もう一人の自分と向き合う様に座った。その瞳には、恐怖ではなく、獲物を前にした狩人のような、鋭い知的好奇心が宿っていた。

 

「では、まず一つ目の問いだ。君は、君という存在を何をもって証明する? 肉体か? 記憶か? あるいは、人間が『魂』と呼ぶ、過去からの時間の積み重ねか?」

 

 もう一人の露伴が冷たく問いかける。

 

「違うね。そのどれでもない。それは『意志』だ。過去ではなく、未来へと向かう僕の意志による『選択』こそが、僕自身を証明する」

 

 露伴の答えに、もう一人の露伴は期待外れであったかの様に、わずかに落胆の表情を漏らす。

 

「なんとも……つまらない答えだ。その『意志』も、君の脳内の分子の動き、過去のデータの処理の結果に過ぎない。君と原子レベルで同一の肉体──つまり僕は、君と全く同じように『意志』を発動できる」

 

 露伴はその様子を同じ様に冷たい瞳で見ている。

 

「つまらない? それは貴様の方だ。貴様が僕の完璧な模倣だと言うなら、その質問を投げかけた時点で、僕がそう答えることなど知っていたはずだ。何故わざわざわかりきったことを尋ねる?」

 

 ──少しだけ、見えてきた気がするぞ。

 

「『何故』だと? それもまたわかりきった答えだろう? 僕は君の全てのデータを持っている。君の全ての記憶、癖、能力、そして次に取るべき行動の予測も完璧だ。だからこそ、君が『意志』という非効率的な、凡庸な答えを選ぶことも知っていた」

 

「だが……」と、そこでもう一人の露伴は一息つく。

 

「知っていることと、それをこの肉体(からだ)で聞くことは、意味が違う。君の『意志』が『過去のデータの処理の結果に過ぎない』という『静的な事実』を、君自身の口から言わせることに、僕は価値を見出している」

 

 もう一人の露伴は椅子に深く座り直す。

 

「意味……か。たしかに『知っていること』と『自分で見聞きすること』では、その意味合いが全く異なってくるからな。漫画家として、その点は全く同意だよ」

 

 露伴は、もう一人の露伴の『静的な事実を、体験によって動的なものに変える』という行為に、取材者・漫画家としての『リアリティ』への渇望を読み取った。一見、論理の塊の様なコピーの露伴にも、非合理的な『こだわり』が存在する。それこそが、彼の論理の『矛盾』の始まりだ。

 

「だがな、貴様……」

 

 露伴は静かにデスクのペン立てに視線を移す。

 

「貴様は、この問答に『意味』を見出している。ただ意見を交わすだけに留まらない『意味』を。つまり、この問答は貴様にとって『論理的な勝利』以上の『価値』を持つ。その『価値』は、貴様が否定したがる『感情』や『こだわり』から生まれている。違うか?」

 

 もう一人の露伴の冷たい瞳に、一瞬、微細な動揺が走る。彼自身が認めたくない、論理の枠外にある『渇望』を突かれたからだ。

 

「それは言葉のあやだ。僕の行為は、『不確定性を排除する』という究極の論理的最適解を導き出すための、合理的かつ必要なステップだ。『感情』など、介在しない」

 

「フン。ならば問おう。貴様は僕の『完璧な複製』だ。もし、僕が今、この場で『漫画家を辞める』と宣言し、この椅子から立ち去るとしたら、貴様は何を選択する?」

 

 この問いは、複製が持つ『全てのデータ(=露伴の人生)』が、『漫画家・岸辺露伴』の存在に基づいているという最も根源的な事実を突いたものだった。

 

「……無意味な仮定だ。君は『意志』がある限り、辞めない。僕の予測が外れることはない」

 

「ああ、確かに『僕』は辞めない。だが、『論理的最適解』を選ぶ貴様は、僕が辞めるという『静的な事実』が成立した場合に、何を選択する? 貴様も『漫画家を辞める』か? それとも、『漫画家・岸辺露伴』という役割だけを、中身のない抜け殻として続けるか?」

 

 露伴の冷たい視線が、もう一人の露伴を射抜く。

 

「『僕』という存在の『真実』は、『常に何かを生み出し、過去を否定し、苦しむこと』にある。貴様の『完璧な複製』という論理は、『僕がこの場で一切、動かない』という『静的な死』を意味する。貴様の論理の終着点は、凡庸な『死』だ!」

 

 複製の露伴は沈黙した。彼の完璧な論理回路が、『自己の存在を支える根源的な目的(漫画を描き続けるという行為)』と、『論理的な最適解(オリジナルが辞めたら自分も辞める)』という二律背反の矛盾に陥り、一時的に処理不能に陥ったのだ。『静的な死』という言葉は、彼が最も恐れ、同時に彼の存在を定義していたからだ。

 

 露伴は、複製の動揺と沈黙こそが、自身の勝利を証明する『真実』だと確信した。

 

「答えられないか、凡庸な複製め。貴様には『未来を創造する意志』がない。あるのは『過去の僕のデータを維持する』という、静的な、凡庸な惰性だけだ」

 

 露伴は、畳みかけるように、予測不能な次の行動に移った。

 

「貴様が『予測可能』というなら、この行為は貴様に予測できるか?」

 

 露伴は、再び『ヘブンズ・ドアー』を構えた。その『本』に変えようとする右手は、正面のコピーではなく、自分自身の胸元に向けられていた。

 

「『ヘブンズ・ドアー』!」

 

 複製の露伴の顔に、論理的崩壊を示す激しい動揺が走った。

 

「何を!? 自己破壊は論理の否定だ! 君のデータには……この選択肢は存在しないはずだ!」

 

 複製の能力も発動するが、『自己への攻撃』という非合理的な選択に対し、『相殺する』か『防御する』か、その判断が一瞬、停止した。完璧な複製である彼にとって、『自己破壊』という非合理な行為は、処理すべきデータとして定義されていなかったのだ。

 

 その一瞬の遅延が、勝敗を分けた。

 

 露伴は、自身の身体を『本』に変える。複製が動揺する隙に、ペン先の『真実』がページに書き込まれた。

 

 ──岸辺露伴は完璧な存在ではない。

 

「貴様が完璧な僕の複製だとすれば、『完璧ではない物』の『完璧な模倣』は、もはや完璧ではない! 貴様は矛盾によって生じた『非完璧な存在』だッ!」

 

 この『嘘つきのパラドックス』にも似た矛盾の論理は、『静的な完璧さ』というコピーの存在の根幹を直撃した。

 

「バカな……! 論理が……処理できない……! 僕は……完璧な……」

 

 彼の顔に刻まれた全ての情報、全ての記憶が激しいノイズを立てて崩れ始めた。原子レベルで複製された完璧な存在は、自己の論理的破綻という情報に耐えられなかった。複製の露伴は絶叫を上げることなく、塵となって霧散した。

 

 静寂。露伴の複製が座っていた椅子だけが、虚しくデスクの前に残されていた。彼の論理と肉体の残骸は、空気の粒子となって消えた。

 露伴は床に倒れ込み、自身の体に『岸辺露伴は、完璧な存在ではない』と刻まれたページの感触を確かめた。『不完全さ』を自らに刻みつけることこそが、『完璧な複製』に勝つ唯一の方法だった。

 

「フン。『完璧ではない』という真実こそが、僕の『唯一性』の証明か……。実に矛盾に満ちた、そして、真実……だ」

 

 露伴の意識は再び暗転した。

 

 ───

 

 目を覚ました露伴は、壁の時計に目をやった。時間は、彼が強制的な眠りに落ちる直前の時刻と全く同じ、午前2時35分を指していた。時計の針は、まるで時間が止まっていたかのように、一秒も進んでいない。

 

「……バカな」

 

 露伴が倒れていた場所にも、椅子の前にも、複製の身体が崩壊した痕跡は微塵もなかった。倒れる前と全く同じ、まるでそっくりそのままだった。

 露伴は、自分の胸元に手を当てる。そこには、『ヘブンズ・ドアー』で本に変えられた痕跡も、「完璧ではない」と書き込まれた記憶も、全く残っていなかった。

 

『岸辺露伴は、完璧な存在ではない』

 

 その矛盾に満ちた真実だけが、夢の中の出来事として、彼の意識の奥底に強烈なリアリティを持って刻み込まれていた。

 

「……結局、あれは『怪異』だったのか。それとも、極度の疲労が見せた『自己同一性』を巡る、僕自身の精神の矛盾だったのか」

 

 露伴は、答えを出さなかった。真実を追い求める漫画家である彼にとって、『真実の不確実性』こそが、次に描くべき最も良質な『リアリティ』なのだから。

 露伴は静かにペン先を原稿用紙に落とし、『沼男、あるいは二重歩行者』という、現実と非現実の狭間で生まれた物語の最初の線を引き始めた。

 

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