目の前には戦いで汚れきったであろうお兄様が、両膝を地面についておれを見上げていた。
見たことのない簡素な服を着ていて、悲哀のこもった表情でこちらを見ている。
『お兄様』
喋りかけたはずなのに、声は自分の体から出なかった。
あれ? と疑問に思った瞬間、色々とおかしな状況であるのに気がつく。
周りは白いもやがかかっていて何処にいるのか分からないし、目の前にいたお兄様はよくよく見るとお兄様に似た別の人だった。
おれ自身の体は思い通りに動かず、意識だけが存在している不思議な状態だ。
訳が分からず困惑していると、おれ……の口が勝手に開いて喋り始めた。
「────、私が成してみせます」
「駄目だ! そんなことをしても終わらない!」
「少なくとも止められるはずです。……その猶予をもって、止める術を探すのです」
「でも──が犠牲になる必要は……っ!」
「誰かがやらねばならないのです。それが、私だった」
目の前の男性に背を向けて、後ろに広がる光景を眺める。
白ではなく黒いもやが辺りを支配していて、背筋がゾッとするほどの悍ましさが伝わってきた。
『おれ』はため息をひとつ吐き、静かに首を横へ振って懇願をする。
「──二度とこのような事態が起こらぬよう、皆を導くのです」
「違う、一緒にやるんだ! お願いだから急がないでくれ……!」
「……もう、立ち止まれる時間はないのですよ。────」
聞き分けの悪い子を諭す声色で事実を告げる。
諦めきれないと男性は追い縋ろうとするが、『おれ』は振り返ることなく前へと進んでいく。
暗闇の中へと進めば進むほど心が重苦しくなって辛さが増していった。
黒いもやは悍ましさだけではなく、悲哀が入り混じっている。
おれはこんなにも苦しいのに、『おれ』は全く気にすることなく背筋をピンと立てたまま歩いていく。
『おれ』の表情は見えないが、きっと覚悟を決めた顔をして進んでいるのだろうと簡単に想像ができた。
「この身に流れる血潮よ、この身に宿る楔よ」
聞き覚えのある詠唱──あの心臓を繋ぐ禁術がその口から紡がれる。
深い闇へと押し進め、全身が黒に包まれるかと思った矢先に、胸元から赤い光が辺りを照らしていく。
闇の全てへと手を伸ばすかの如く、光は四方八方へと勢力を伸ばしていった。
「うっ……」
『おれ』は全身に灼熱の痛みを感じて膝をつきそうになったが、根気で耐え光を更に大きくしていく。
「汝らの想いは我らも同様。しかしながら、汝らの悲憤慷慨は災いと相なった」
身体が痛みで痙攣して声が乱れるのは当然だというのに、『おれ』は喉と腹に力を込めて言葉を続ける。
「……嚮後ある者達の為、此と共に、……眠りましょう」
全てを包み込む慈愛の声が発せられた瞬間、赤が全てを覆い尽くして黒を塗りつぶす。
「ごめんね、ア────」
呟かれた謝罪を最後に、おれの意識が遠のいていった。
◆
「カテリーネ様、……カテリーネ様」
呼び声が聞こえ、重たい瞼を少しずつ開けて目の前の光景を見る。
真っ暗な自室をぼんやりとした小さな明かりが照らしており、心配そうな表情でこちらを見つめるリージーさんがいた。
眠っていたのを起こされたようだ。
リージーさんはこんな夜中にわざわざおれを起こす人ではないから、何か理由があるのだろうと体を起こす。
ちょっと体が汗ばんでいて気持ち悪い。
「……なにか、ありましたか?」
「カテリーネ様が魘されていらしたのです。……お身体に痛みなどございませんか?」
どうやらまた魘されていたらしい。
夢の内容を思い返そうにも、なんだったのかあまり思い返すことができなかった。
お兄様が……、……いたような気がする。少なくともあまりいい夢ではなかったのは確かだ。
大きく息を吐きながら念のため手足の変色を確認するが、更に伸びてしまったなどの異常はなく、痛みもこれといってない。
つまり、おれはだいじょうぶだ。
顔に流れる汗を手で拭おうとすると、リージーさんがタオルをすぐ様取り出して代わりに拭い始めた。
「ありがとうございます。……痛みはありませんし、問題ないです。……近頃は慣れない事ばかりで、少し疲れが出てしまっただけです」
急激に生活が変わったので、ちょっと魘されることくらいあるだろう。
本当に疲れているだけだと思うし、過剰に心配をしないでほしい。
そう伝えると、リージーさんが汗を拭いていた手を一旦止めて提案をしてくる。
「ヴァルムント様をお呼びしましょうか」
「いえ、やめてください。今はそれぞれが役割に集中すべき時であり、これ以上負担を増やす訳にはいきません」
前以上に忙しい中で、ほんのちょっとの時間であっても合間を縫って会いに来てくれている。
会わないで休んでくれていた方がおれとしては嬉しいのに、ヴァルムントは断固として譲らなかった。
もし魘されているのを伝えてしまったら、更におれとの時間を作ろうと頑張ってしまうのが見えている。
あのヴァルムントでさえ少し顔色が悪くなっているのに、もっと悪くさせるなんてしたくない。
「ですが、」
「絶対に駄目です。ヴァルムント様にもお話しないでください。これは命令です。……妙な噂を立てたくないのです」
「……カテリーネ様」
リージーさんが言葉を続けようとして止めたのを感じ取った。
……おれを心配してくれているのは分かっている。
でも、ここでリージーさんに気を使ってヴァルムントに負担をかけるのは嫌だ。
それに代理とはいえ頂点に立っているから、変な噂を立てられてこれ以上の面倒事を増やしたくない。
あのお姫様は兄が昏睡状態なのにイチャイチャしていた! だなんて言われるのはまっぴらごめんだし、いらない怒りの感情を生むハメになる。
なにより、お兄様に面目が立たない。
「……暖かいお茶をいただけますか?」
「かしこまりました、少々お待ちくださいませ」
少しでも心を落ち着かせるのと、リージーさんに余計な心配を生ませないようにとお茶を頼む。
テキパキとお茶を用意しにリージーさんがタオルを脇に置いてから動き出し、端の方で待機していたらしい侍女さんが代わりに近くへと寄ってくる。
そうして別の新しいタオルで、拭いきれていなかった汗を丁寧に拭い始めた。
「ありがとうございます」
「いえ……。他にも気になる点がございましたら仰って下さい」
侍女さんは元々おれのお世話役として夜勤待機しているとはいえ、本来なら発生しない余計な仕事をさせてしまっている。
職務なんだからやるのは当たり前だからって、ないほうが良いに決まっている。
ままならない現状に感情が澱んでいくのを感じながら、お茶がくるまでじっとしているのであった。