壁時計が進む。針の動く、音がする。
聞き逃してしまいそうな小さな音も、今ここではよく聞こえる。
放課後の図書室。
貸し出し手続き用のカウンターから見渡せる室内には、いつも通り私の他に誰もいない。
廊下に響く様々な話し声も、グラウンドに響く部活動のかけ声も。
別世界のように、遠く聞こえる。
静けさの中に、スパイスのように僅かな騒がしさが心地良い。
放課後に図書室を利用する生徒は、あまりいない。
自習室は別にあるし、大半の生徒が部活に行くか早く帰りたい時間というのもある。日中の休み時間に比べたら、利用者が来るのはごく稀だ。
図書委員が退屈かと言われたら、そうでもない。
賑やかなのが嫌いとは言わないが、静かな方が正直好きだ。それにこうして、好きな本を読んでいられる。私に合った時間と役割、なのだろう。
また、頁をめくる。
「世界の夕暮れ百景、ありますか~?」
突然声をかけてきた相手は、今まさに私が頁をめくる本のタイトルを口にした。
その声で、誰が来たのかはすぐに分かる。
「こんにちは、
「やっほ~、このちゃん」
顔を上げれば、いつもののんびりとした表情で。
制服の上に重ね着したカーディガンの、やけに余った袖をひらひらとさせて。
彼女は今日も、私のところにやって来た。
「今日も図書室はカンサンだねぇ。…んぁ、カンサン?サンカンだっけ?」
「最初の方で合ってるわ、逆立ちしなくていいのよ」
もう一度本に目を落としながら、訂正を入れる。
…少しして、なんとなくこちらに視線を感じて。
また顔を上げると、どこかにやにやとした表情の佐奈川さんと目が合った。
「…何?」
「ん~。いや、逆立ちってなんか可愛い表現だなって」
「………そうかしら」
「…あ、ちょっと赤くなってる?」
「なってないわ」
「可愛い」という言葉は、言われ慣れてない。それが何の気なしに発した表現に対してのものでも、少し気恥ずかしいのが本音だ。
だからたぶん、彼女の指摘は当たっているのだけど。
認めるのも癪だから、ぷいと視線を切ってまた本に戻す。
頁をめくる。
世界中から百の夕景を集めた写真集。次の頁で、ちょうど五十番目に差し掛かった。
「佐奈川さん、これ借りるのかしら?それなら一度貸し出しするけど」
「いいよ~、このちゃん読んでる途中なんだからさ」
またぱたぱたと長く余らせた袖を振って、佐奈川さんは緩く笑う。
「じゃあ待ってる間…わたしも
カウンター近くに設置された、おすすめ本のコーナーから一冊を取り、そう呟く佐奈川さん。
「『読書に耽る』をあまり倒置法で言う人、いないと思うわ」
「えへへぇ」
正論のツッコミを入れれば、なぜかやたらと嬉しそうな笑顔が返ってくる。
「このちゃんの隣、座っていい?」
「…ここ、貸し出しカウンターの中なんだけど」
「まあまあ、固いこと言わずに~」
確かにカウンター内には、私の隣にも椅子があるけれど。およそ訪れる機会の見通せない、二人体制で貸し出し業務をする時用のものが。
…まあ、他に利用者もいない図書室で、そこまでルールに準ずる必要もない、か。
少なからず目の前の自由人に影響されている気もしながら、ため息を吐きつつカウンターの入り口を開ける。
「…機械の方は、触らないでよ」
「やった~」
わざとらしく両手を挙げて、喜びを現す佐奈川さん。
このちゃんは優しいねぇ、などとやや掠れ声で言ってくる。たぶんお婆さんの物真似なのだろうが、確認も面倒なので受け流す。
「このちゃんスルーはひどいよぉ」
「…ページ、その袖でめくれるの?」
「ふっふっふっ、ちょちょいのちょいですよ」
どういう意味だろう。
まあ、捲ればいいのか。と勝手に納得し、また視線を本に戻す。
佐奈川さんも、やはり私の隣に腰を下ろした。長く伸びた彼女の髪が、ふわりと揺れる。
思えば、最初に会った時よりだいぶ、彼女の扱いが雑になってる気がしないでもない。
ツッコミを入れたり、たまにスルーしたり。
それで彼女が嬉しそうなのだから、たぶん良いのだろうけど。
かくいう私も、なんとなく心地良い距離感に落ち着いた気がしている。何かしら弄られそうだから、改めて言葉にはしないけど。
頁をめくる。
写真に収められた、世界の夕景。時折日本で撮られたものも混ざっているが、どこも高校生には簡単に行ける場所ではない。
だからこそ、想像する。
飛行機に乗って、電車に乗って、もしかしたら自分で車を運転して。辿り着いた先で、夕陽の見える場所を探して。
家々の並ぶ坂道を登る。緑豊かな小高い丘を登る。
そうして疲れも滲ませながら。
オレンジの光に、少し目を細めて。
一日の終わってゆく寂しさを感じながら。
近づく明日に、想いを馳せながら。
ゆっくりと沈む陽を、眺めるのだろう。
頁をめくる。長くて短い、想像の旅が一つ終わる。
本の中に吸い寄せられていた意識が一度現実に戻ったことで、また視線に気づいた。
「…佐奈川さん?」
「なぁ~に~、このちゃん」
「何、は私の台詞なのだけど…」
ぶかぶかの袖のまま、頬杖をついて首を傾げる佐奈川さん。
明らかにその視線、というか首の向きは本ではなく、私の方を向いていた。
「このちゃん、すっごい集中して読んでたからさ。キリッとしてるこのちゃんを見れるの貴重だなーって思って」
「…凝視してた、のね」
「凝視まではいかないよ~。ちらっと、いやキョロっと?」
「読書に耽るんじゃなかったの?」
「読んでたよ~読み終わっちゃったんだよ」
佐奈川さんがパタンとハードカバーを閉じ、表紙が見える。
ミステリー小説の、しかも下巻だけ。
…ぜったい読んでない。
「見るな、とは言わないけど…少し面映ゆいわよ」
「ちょっと赤くなってる?」
「なってないわ」
同じやり取りを、さっきもしていた気がする。
佐奈川さんは、私を照れさせるのが好きなようだ。
やれやれと、席を立ちかけて。
「でもね~、やっぱりわたしは」
不意に、佐奈川さんが声を切る。
妙なところで区切られ、つい私も彼女の方を向いてしまう。
いつもと変わらない、緩い笑みを浮かべたのんびりとした表情。かと思えば
「笑ってる時のこのちゃんが、好きだよ」
急に、そんなことを言ったりする。
席を立ちかけた微妙な姿勢で、固まるはめになった。
ただののんびり屋さんに見えて、この人は…。
笑ってる時の私が好きと言いつつ、その言葉でまた私を赤面させてくる。
今のは、狙って言ったのか。
…それとも、私が照れやすいだけなのかな。
表情は、硬い方だと自覚している。
でも、たぶん。
佐奈川さんに出会う前の私はもっと、感情を出せていなかったんじゃないかって。
振り返るとそう、思えてくる。
立ち上がり、鞄を肩に掛ける。
時計の針は、いつの間にか下校時間を示していた。
しばらく針の音が聞こえなかったのは、相変わらずのんびりと笑う誰かさんのせい、なのだろう。
決して。
好きだから、と言われたからではないけれど。
「帰りましょ、佐奈川さん」
少しだけ意識して、笑顔をつくってみた。
・佐奈川さん
のんびりとした自由人。
袖を長く余らせたカーディガンがトレードマーク。
本名、
・このちゃん
ちょっとお堅い、真面目な子。
眼鏡っ娘。
本名、