エルフ子育て記録 ~勇者と魔王の親権争いに巻き込まれたフリーター~   作:龍翠

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93 メル(お寿司)

 桶の中から、お魚の入れ物に入った醤油を手に取ります。これも何か名前があったはずですが、ちょっと覚えていません。かわいい形なので、メルはこれがお気に入りです。

 ピンク色のお寿司に醤油をちょっとだけかけて、口に入れて。

 

「んん!?」

 

 メルは目を剥きました。口の中がとても痛いです。メルの様子に、おかあさんが慌て始めました。

 

「メル!? どうしたの!?」

「んー! んんんー!」

 

 どうしたと言われても、少し困ります。とにかく、水が欲しいです。

 

「み、みず……!」

「水ね!」

 

 おかあさんが魔法で水を出してくれます。おかあさんはこの部屋でもちゃんと、魔法が使えるようです。水玉をメルの口元に持ってきてくれたので、メルはそれを急いで飲みました。まだ刺激は残っていますが、少し楽になりました。

 

「はふ……」

「どうしたの? まさか、毒? そこまではしないと聞いていたけれど……」

 

 おかあさんの心配そうな声に、メルは首を振りました。原因は、分かっています。お寿司の一つのネタをひっくり返すと、わさびがしっかりと塗られていました。

 

「これ……」

「え……?」

 

 どうやらおかあさんは、わさびを知らないようです。指先でわさびを取ると、それを舐めました。すぐにおかあさんの顔が引きつります。なにこれ、と。

 

「なんでこんなもの……。嫌がらせなの?」

「おとうさんは、これがいいって言ってたよ」

「ええ……。正直、本気で意味が分からないのだけど」

 

 おかあさんはとても困惑しているようです。メルもおとうさんは大好きですが、このわさびだけは理解できません。おとうさんは大人になったら分かると言っていましたが、おかあさんの様子を見ると大人になっても無理そうです。

 

「仕方ないわね……」

 

 おかあさんはため息をつくと、お箸を手にとって、お寿司のネタを一つずつひっくり返して、わさびを取ってくれました。それでも少しだけ残っていますが、先ほどのものよりはずっと量が少なくなっています。そうしてから、ネタを丁寧に戻してくれました。

 

「これで食べられるでしょう」

「うん! ありがとう、おかあさん!」

 

 にっこり笑顔でお礼を言うと、おかあさんは目を見開き、固まってしまいました。首を傾げるメルに、おかあさんは顔を背けます。それきり、また何も言ってくれなくなりました。

 メルはお寿司をまた食べ始めます。まだちょっとだけぴりぴりしましたが、それでも今度はとても美味しく食べられました。

 

 

 

 それからしばらくの間、おかあさんは一緒にいてくれました。お寿司を食べ終わった後も、何も言ってはくれませんが、側で立っています。何を考えているのか、よく分かりません。

 メルがおかあさんに抱く感情は、少しばかり複雑です。おかあさんはメルのことを道具としてしか思っていないことは、エルフの里を出る前に読心で見たので知っています。だからこそ、メルはおかあさんを、エルフの里を見限って出てきたのです。

 

 でも、なんだかあの時とは様子が違います。何も言ってはくれませんが、心配そうにこちらをちらちらと見ては、メルと目が合って慌てて視線を逸らすということを繰り返しています。初めて見る態度に、メルもどうしていいのか分かりません。

 お互いに黙っているので少しだけ気まずく感じていると、おかあさんが口を開きました。

 

「メル」

 

 短く、名前を呼んできます。おかあさんを見ると、じっと扉を睨み付けていました。扉に何かあるというよりは、単純にメルと目を合わせないようにしているのでしょう。

 

「お父さんは、好き?」

 

 そんな質問。メルはすぐに頷きます。

 

「うん。大好き」

「今の生活は、楽しい?」

「うん。すごく楽しい! 美味しいものもたくさんあるし!」

「うぐ」

 

 あれ。なんだかおかあさんが、頬を引きつらせています。どうしたのでしょう。

 こほん、と咳払いして、おかあさんが続けます。

 

「そう。勇者と魔王の二人は、どう?」

「二人ともすごく優しいよ。よく遊んでくれるの!」

「ぐう……」

 

 あれ。なんだかおかあさんが、頭を抱えています。どうしたのでしょう。

 ごほん、と咳払いして、おかあさんが続けます。

 

「そ、それじゃあ……。暮らしは、どう? 不自由してない?」

「うん! ごはんもたくさん食べられるし、おとうさんがお休みの日は一緒に寝てくれるし、友達もたくさんできたし……。すごく、幸せだよ」

「…………」

 

 あれ。なんだかおかあさんが、手で目を覆って上を向いてしまいました。付け入る隙がないじゃない、とか言っています。どうしたのでしょう。

 はあ、と大きなため息をついて、おかあさんが続けます。

 

「ありがとう。よく分かったわ」

 

 そう言い終えると、おかあさんはドアの方へと歩いて行ってしまいます。お話しは終わりのようです。

 

「メル」

 

 おかあさんが振り返って、メルを静かに見つめてきました。その目からは、以前にはなかった温もりが感じられました。メルが困惑している間に、おかあさんが言います。

 

「もう少し、待っていなさい。もうすぐ迎えが来るわ」

「え? えっと……。うん……」

 

 メルが頷くと、おかあさんは、淡く微笑みました。

 

「え?」

 

 メルが驚いている間に、おかあさんがドアへと歩いて行きます。

 

「ま、待って!」

 

 慌ててメルは呼び止めましたが、おかあさんは返事をすることなく部屋を出て行ってしまいました。そのままドアが閉められて、やがて静かな空間が戻ってきます。誰もいない、メルしかいない静かな部屋。メルはただ、呆然とドアを見つめていました。

 

 おかあさんの気持ちが、メルにはもう、分かりませんでした。

 

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