英雄伝説 天の軌跡 (完結済)   作:十三

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「それなら、私があなたにその心を贈りましょう」

「あなたは私に光を教え、私はあなたに恋を教える。その尊さ、素晴らしさを十全に」

   by クラウディア・イェルザレム(Dies irae ~Interview with Kaziklu Bey~)








断章 想い想われ、月恋焦がれ ※  ーin クロスベルー

 

 

 

 

 

 

「駄目だな。話にならん。出直して来い」

 

 某国の深い森林地帯の中で、そんな声が低く響いた。

 その声を発した男は、ポケットから徐に煙草のケースを取り出し、愛用のジッポライターでその先に火を点ける。黒ずんだ血のような色の髪が木々の間を抜ける風に煽られる様を見ながら、その眼前で地に沈んだ黒装束の人物は震える足で何とか立ち上がろうとしていた。

 

「実力はまぁ、”準達人級”の入り口ってトコか。そこは認めてやるよ。まだそんなに歳も行ってねぇだろうに大した練度だ。

 だがな、お前さんには圧倒的に実戦経験が足らなすぎる。こんな小賢しい方法で達人級()を殺せると思ったら大間違いだ、馬鹿」

 

 そう言いながら、アスラ・クルーガーは足元に落ちていた札の一枚を掴んでヒラヒラと揺らした。

 

「『爆雷符』つったっけ? まぁそこそこの威力だわな。そこいらの奴らなら一撃でK.Oできるだろうよ。だけどあれだ、こんなモンで俺を殺したかったら、()()()()()()()()()()()。そうしたら本気で対処してやる」

 

 不遜にして強者。そもそも”彼ら”はそういう存在だ。

 武芸を極め、そしてその先に至った条理より外れた人間たち。彼らにしてみれば例え常人から見れば常識はずれな事であろうとも、それが”普通”と罷り通る。

 

 呪符を媒介にした至近距離での爆裂。単純ではあるが、それが『爆雷符』の効果だった。

 大抵の人間が相手ならば、確かに一撃で仕留める事ができる。だが、目の前のこの人物はそれをまるで鬱陶しい蠅を振り払うかのようにして弾いた挙句、爆風に巻き込まれても尚無傷のままに平然と煙の奥から出て来たのだ。

 

 

「俺ぁ別に敗者に鞭打つような性格でもねぇんだがな。それでも言わせてもらうとお前、てんでなってねぇ。早いうちに”先代”とまでは行かなくとも格上相手の戦闘も慣れとかねぇと《(イン)》の名前を地に貶めるぞ」

 

『ッ……‼』

 

 己に対しての辛評については、とやかく言うつもりはなかった。

 結果的に自分は負けており、その状態で勝者である彼の言葉に対して反論を返そうものならば、それはただの負け惜しみになる。それは、卑しくも”凶手”の一角として殺しを生業とする者として越えてはならない一線だった。

 だが、《(イン)》の名について、部外者であるこの男にとやかく言われる謂れはなかったし、ただ単純に癇に障った。

 

『お前に、何が分かる‼ お前が《(イン)》の何を知っていると言う⁉』

 

「いや、知ってるんだよなぁそれが。元々ウチの爺様と先代の《(イン)》が良い感じのライバル同士だったみたいでよ。話だけは昔っから聞かされてたんだわ。

 んで、俺もちょいと昔《(イン)》のオッサンと戦りあう機会があったんだが―――ありゃあ強かったわ。邪魔が入らなかったら俺負けてたかも知れんね。流石、《鋼》の姐さんに膝つかせたことがあるっていう絶技の持ち主は格が違ったわ」

 

 ケラケラと笑いながらそう言っていたが、その声色の中にはどこか悔しさのようなものが滲み出ていた。

 恐らく彼は、いずれ先代《(イン)》と再び戦り合うつもりでいたのだろう。血沸き肉躍る生死の境を彷徨う闘争を望んでいたに違いない。

 

 だからこそ、次代の《(イン)》の弱さに失望を禁じえなかった。

 同じ黒ずくめの装束と同じ得物を使っているというのに、練度も気迫もまるで違う。アスラとしては未熟な身の上の人間を蔑むつもりなど微塵もなかったのだが、それでもやはり見比べてしまうのは仕方のない事だっただろう。

 

 故にアスラは、次の言葉を出すことに躊躇いはなかった。

 

 

「んー……よし、分かった。お前さん、次からいつでも何度でも俺を殺しに来い」

 

『……は?』

 

「いやだから、命令だとか仕事だとか関係なく、いつでも俺を襲撃しに来いって事だよ。俺ぁ今回のお前さんの仕事の失敗を口外する気はサラサラねぇからさ、もしその中で俺を殺せたら、お前さんが初めて受けた依頼は結果的に”成功”に終わるって寸法だ。悪くねぇ話だろ?」

 

『……待て、お前にメリットが欠片もない。何故、そんな事を提案する』

 

 極度の戦闘狂(バトルジャンキー)なのか? と半ば本気で問うと、彼は「まぁ、否定はしないがよ」と苦笑してから短くなった煙草の火を靴の裏で揉み消した。

 

「我慢ならねぇんだよ。俺の観点から言わせて貰えば、このままだとお前さんは近いうちに死ぬぞ。裏家業ってのはそういうもんだ。

 東方には『井の中の蛙大海を知らず』って諺もある。だから俺がお前さんを井戸の中から引っ張り出して海の荒波に慣れさせてやろうって言ってんだよ」

 

『質問に答えていない。それが、お前に何のメリットがあると言う?』

 

「んなモンねぇよ。ただの俺の矜持だ。まぁ、強いて言うなら―――」

 

 ニヤリと、それこそやはり強者の余裕とも取れるような笑みを浮かべ、アスラは自らが叩きのめした”才能の塊”を見やる。

 

好敵手(ライバル)が欲しいんだよ。《結社》抜けてからこの方、本気で戦り合える奴がどうも見つからなくてな。見つからないなら自分(テメェ)で育てるのも一興ってモンだろう?」

 

『……その未熟者が、いずれ貴方を殺したとしても、ですか?』

 

「一向に構わねぇな。寧ろそこまでする気概がねぇとこっちが困るってモンだ。まぁ、これでも納得行かねぇってんなら先代のオッサンに対する義理だと思ってくれ。あの人にゃあ随分と学ばせてもらったんでね」

 

 そこまで言い切るとアスラは、はたと気付いた様子になって徐に未だまともに動けない《(イン)》の額を仮面の上から小突いた。

 

「あぁそれと、”暗殺者”になるならもっとなり切れ。ところどころお前さん”素”が出てるぞ。―――まぁ、年頃の娘にそれを強要するのも酷か」

 

『ッ……‼』

 

 自分の正体が、性別が気付かれていたという事に対して内心で狼狽した。

 伝説の凶手《(イン)》は不死の存在―――たとえ幾程の月日が流れようともその技は衰えず、その姿は老いず、闇の世界に君臨する畏れでなくてはならない。

 それを父から言い聞かされてきた為に、その名を継いでからは内功を操って体格を変え、声も男性のそれに偽装した。余程の事がなければ気付かれるはずがない―――そう思っていたが、ここで彼女は重大な事に気付いた。

 

 そも、目の前のこの男は自分以上に氣の扱いに長けている武人だ。

 それも”達人級”ともなれば、拳を一合交わすだけでも違和感に気付くだろう。恐らく相対した初期の段階で彼はそれを看破しながら、しかしそれでも戦いを続けた。

 男も女も関係ない―――まるで言外にそう言わんばかりに。

 

「関係ねぇんだよ。殺し合いの場であれば、男も女も関係ねぇ」

 

 アスラはそんな心の中の言葉を察したようにそう言った。

 

「世の中にはたとえ生きるか死ぬかの瀬戸際であってもフェミニストを貫く野郎もいるがな、俺にしてみりゃそいつは馬鹿馬鹿しいにも程がある。女を殴れない? 殺せない? あぁ、平時ならそりゃあ大切だろうよ。実際俺もそうしてるしな。

 だけどな、どっちも覚悟決めてる状況でンな事考えるのはただの侮辱だ。馬鹿げてる。たとえその後にテメェで首括りたくなるような後悔に襲われても、その状況に首突っ込んだ判断を呪って殺すべきだ。業は墓の中まで持って行く。教会連中が謳ってる天国とやらに行けなくても、俺は一向に構わねぇしな」

 

 あぁ、と彼女は理解した。

 この男には決して揺るがない”覚悟”がある。闇の世界で生きていく上で最も必要となるそれを、彼は確固たるものとして固めている。

 それは、自分自身とは大違いだった。常に心の中に細波のような揺らぎがある自分とは、何もかも違う。

 

『―――いいだろう』

 

 それならば、もし、彼を狙い続ける中でその心中を更に推し量る事ができるのならば。

 

『夜道、寝所には気を付けろ。私はこれから幾度もお前を狙う』

 

 自分は”暗殺者”として完成できると、そう信じた。

 

 その宣言は、今の自分が可能な限り醸し出せる殺気を込めた。しかしやはり、彼はそよ風に煽られた程度の感触しか持たず、良い笑顔を浮かべて音も立てずにその場から去った。

 

 

 長い、長い付き合いになる。

 そのことを《(イン)》―――リーシャ・マオは心のどこかで理解していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――*―――*―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少し歩こう。リーシャはミシュラム・ワンダーランドで休暇を過ごして帰ってきた自分を迎えに来てくれたアスラにそう言われ、彼女は頷いた。

 

 翌日からはまた公演に向けたハードな練習が始まるとはいえ、休養そのものはたっぷりと取らせてもらった身としては疲れは全く残っていない。それに、大好きな男性に誘われたとあっては、彼女が断る理由は何一つとしてなかった。

 リーシャは港湾区でロイドたちに別れを告げ、まず向かった先の『龍老飯店』で昼食を済ませた後、二人は東クロスベル街道を悠々と歩いていた。

 

 天気は快晴。夏もそろそろ終わりに差し掛かってきたとはいえまだまだ暑さは変わらないが、それでも外を歩く分には草々の間を這うように駆ける風が心地よく、不快には感じられなかった。

 

 

「どこに行くんですか? アスラさん」

 

「ま、ちっとな」

 

 曖昧な返事を返しながらアスラが足を進めたのは、クロスベル市内からそれほど離れていない場所に建っている、エルム湖の観測施設。とはいってもこの場所は既に封鎖も同様な環境になっており、ここを目的に立ち寄る人物などそうそういない。

 しかしアスラは勝手知ったる場所のように口笛を吹きながら施設内に入っていく。リーシャは不法侵入も同然の行為に一瞬だけ中に入る事を躊躇ったが、手招きをするアスラに着いて行き、施設内に入っていった。

 

「ここには、よく来るんですか?」

 

「あぁ。誰にも邪魔されずにボーッとしたい時なんかはな。街中はなんつーか、色々ゴチャゴチャしてて落ち着かない時がたまにある」

 

「あー……ふふっ、分かります。今では結構慣れて来たんですけどね」

 

 そう言いながら施設内の階段を上がっていき、上階に辿り着いたところで再び外に出た。

 一瞬だけ強い風が吹き抜け、咄嗟にリーシャは目を瞑ってしまったが、目を開けると眼前には予想以上の光景が広がっていた。

 

「わぁ……っ」

 

 クロスベル市より高台に位置するこの観測施設からは、市内の様子が一望できる。

 エルム湖の様子から、IBCとオルキスタワーという大陸最先端のビルディングが並んで見える光景、2年間暮らしてきたクロスベルという街を、こういった形で俯瞰するのはリーシャは初めてだった。

 

 

「こうして見ると良く分かる。大陸の最先端を極めた都市ってのが、どんだけ煌びやかなモンかってのがな」

 

「えぇ、そうですね」

 

「……逆に言えば、その煌びやかな平穏ってのがどれだけ危ういかってのもまた分かっちまう」

 

 スッ、とアスラが指を指した先。西の方向に視線を向けると、地平の彼方に小さく見える軍事施設。

 クロスベル側にあるそれとは違い、エレボニア側にあるそれは―――余りにも圧倒的で、巨大だった。

 

「……ガレリア要塞、ですね」

 

「少し前、通商会議に”邪魔”が入ったのと同時期に、あの場所も帝国側のテロリストに襲撃されたらしい。―――情報に寄れば《結社》の”武闘派”執行者二人も加勢したんだと。全く、よく生き残ったモンだぜ」

 

 現実的な問題に話を引き戻すのはアスラとて本意ではなかったが、それでも起こった事は純然たる事実である。

 クロスベルは謂わば、西ゼムリア大陸に於ける火薬庫だ。帝国か共和国か、どちらかの内戦の火の粉が漂って来ただけで大爆発を起こす恐れがある。

 そしてそれは逆も同様。クロスベル内で”放火”が起きて一つの爆発が起これば、それは連鎖的に帝国と共和国にも飛び火する。

 

 猟兵団などの戦争屋や各国の軍事参謀などは恐らく大半が気付いているだろう。

 西ゼムリア大陸は、そう遠くない内に安寧という仮初の姿を打ち破って戦火に巻き込まれる。それがどのような形であれ、今のままではクロスベルという地が一風変わった名前となって地図上に載るハメになるだろう。

 

「さて、優等生のリーシャ・マオ君に質問だ。―――タイムリミットは後どれくらいだと思う?」

 

「―――恐らく、年内には大きく動くと思います。或いは全部、終わるかもしれません」

 

「及第点だ。俺もそう思う」

 

 悩む様子もなくリーシャがそう言ったという事は、彼女も彼女でこれからのクロスベルの姿をシュミレートしていたのかもしれない。

 ”クロスベルの国家独立宣言”などという、火薬庫に自ら火を放り込む真似をすれば、必ずや二大国が動く。経済的に、そして或いは軍事的に。

 

「んじゃあ、それを踏まえてもう一つ質問と行こうか」

 

「えっ?」

 

「そういった状況の中で―――()()()()()()()()?」

 

「――――――」

 

 《黒月(ヘイユエ)》に雇われているカルバード伝説の凶手《(イン)》として動くか。

 劇団《アルカンシェル》のアーティスト、リーシャ・マオとして動くか。

 

 それは、最近リーシャが常に悩み続けていた事であった。

 本来の自分の姿は凶手―――暗殺者だ。《(イン)》として生き、そして《(イン)》として死ぬ。奪った命と魂の嘆きを全て背負って、闇の世界をただ生きる。それが彼女の本来の生き方だったはずなのだ。

 だが、”太陽”に照らし出されてしまった今、彼女は光の一面も持って生きている。それは決して消し去る事のできない色鮮やかな記憶であり、これを抱えたままでは、闇の世界は生き抜けない。

 

 もし彼女が、ただの一人で抱え込むことになっていれば、それは恐らく激しい葛藤を生んだ事だろう。

 だが、違う。彼女の隣には今、これ以上ない程に頼もしい―――恋人がいる。

 

 

「……アスラさん」

 

「ん?」

 

「もし私が、《(イン)》としての役目の何もかもを投げ出して、ずっと光の世界で生きていたいって言ったら―――どうします?」

 

 卑怯な質問だと、彼女自身分かっていた。

 自分が答えを出さねばならない葛藤を、恋人に委ねる。他力本願と誹られても文句は言えないと分かっていても尚、そう訊かざるを得なかった。

 しかし、アスラは―――。

 

 

「何言ってんだアホ。ンなもん俺もお前に着いて行くに決まってんだろうが」

 

 一瞬たりとも悩む様子など見せず、逆に呆れたような口調でそう返してきた。

 余りにもサッパリとしすぎたその答えに、逆にリーシャの方が呆けてしまったほどだ。

 

「お前がアーティスト一本で生きていきたいってんなら、あぁ俺も裏家業は引退だな。誰も殺さねぇし、そういった世界に関わらねぇ。

 つっても今までの業が消えるわけでもねぇから死んだ後は煉獄行きだろうが……まぁそれは別にどうでもいい。お前と一生生きていけるだけで、俺は充分だしな」

 

「え、ちょ、ちょっと待って‼ あ、いや、待ってください‼ アスラさんはクルーガー家の当主で……」

 

「生憎と俺はこんな性格だからな。名門のお家の当主とか死ぬほど似合わねぇんだわ。ま、当主になりたいって言ってる有能な分家の奴らは腐るほどいるし、爺様もそれは了承済みだ。

 無位無官なんざ上等だよ。どうやら俺たち姉弟は揃いも揃って愛に生きる阿呆だったらしい。俺の人生の隣にゃ、お前がいてくれるだけで良い」

 

「あ、う、うぅ……」

 

 相も変わらずの直球の告白に、堪らずリーシャの頬に熱が灯る。

 しかし、アスラの方はと言えば気恥ずかしさの欠片も見せていない。歳はたった4歳しか違わない筈なのに、どうしてこうも違うのだろうか。

 

 何故か悔しくなったリーシャは、しかし言い返せる言葉を持たず、拗ねたように視線を再び絶景の方へと向けた。

 高い場所に居るせいか、頬と髪を撫でる風も、些か涼しく感じる。山岳地帯から直接流れ込んで来るから、余計にそう思うのだろう。

 

 そういえば、あの日もこんな風が吹いていたなと、リーシャは思わず懐古に耽るような仕草を見せた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――*―――*―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 次からいつでも俺を殺しに来い―――そんな挑発的な言葉を受け入れてから随分と時間が経った。

 

 

 《(イン)》―――リーシャ・マオはその通り、幾度もアスラ・クルーガーという青年に対して奇襲・夜討ちを仕掛けた。

 酒場で良い感じに酔っぱらって帰っていた夜道、寝息を立てていた安宿の寝所、豪雨の日の森林地帯、果ては何の変哲もない時間帯でのすれ違いざまなど、ありとあらゆる時間帯・場所で彼の命を狙い続けた。

 

 報酬も何もない。ただ彼女が《(イン)》という名を確固たるものにするためだけの、言ってしまえばプライドの行動だ。

 

 誤解がないように言っておけば、彼女は何も殺人と言う行為そのものを愉しんでいるわけではない。寧ろ任務外の殺人は忌避しているくらいだ。

 だが同時に、結構な”負けず嫌い”でもあった。自分を徹底的に叩きのめした挙句、とどめを刺す事無く「好敵手が欲しい」という戦闘快楽的な理由だけで見逃され、放置されたのだ。卑しくもプロの末席を担うものとして、その軽薄な行動原理に忌避感を覚えたのも事実だが、それよりもまず「ここで退いたら一生負け続ける」という思いが彼女の中にあったからである。

 

 

 そして当然のことながら、アスラはそんなリーシャの多種多様な奇襲を全て難なく回避してみせた。

 

 たとえどれだけ泥酔している状況を狙っても、彼は暗器の攻撃を確かな体捌きで避けてみせた。そして、仕掛けてきたリーシャの方を向いて、()()()()()()()()微笑んだ。

 たとえどれだけ爆睡している状況を狙っても、彼は大剣の一撃を二本の指で挟みこむだけで止めてみせた。そしてでわざと大欠伸をかましてから「良い夢を見てたんだ。遮らないでくれ」と冗談交じりに言った。

 たとえどれだけ視界が悪い中を狙っても、彼は視覚などまるで最初から頼りにしていないとでも言わんばかりに対処してみせた。そして撃退した上で「はい不合格」と軽妙な口調で突きつけた。

 

 

 皮肉な事だが、アスラへの襲撃回数をこなすごとに《(イン)》としての彼女の力量は上がっていった。

 

 困難な仕事を依頼されても難なくやり遂げる。凄腕と呼ばれる用心棒を前にしても難なく打ち倒す。

 それらの仕事は常にどのような方法でアスラを驚愕させようかと考え、それを実行し、悉くが失敗している彼女にとっては”温かった”。

 

 ”達人級”の強さは嫌という程痛感して来た。或いは最初の一戦で徹底的に身に刻まれたと言っても過言ではなかったが、襲撃の回数を重ねるごとにその恐ろしさは骨身に沁みた。

 まさに”理不尽”だ。彼女の父もそうであったが、一体どのような修練を積めばあのような人外じみた身体能力を持つに至るのか見当もつかない。

 そんな人物に較べれば、不特定多数の人間が”凄腕”と評する人間の強さは大したことはない。いつの間にか彼女の中での「難しい仕事」と「簡単な仕事」の線引きは、アスラ・クルーガーという青年を基準に引かれるようになっていった。

 

 

 

「毎回毎回、ようも飽きんねお前さん」

 

 そう呆れ半分、感心半分に言いながら、アスラは安物のティーパックで淹れたアイスティーをリーシャに差し出した。

 毒や催眠薬の類は入っていない。つい数分前まで本気で命を狙われていたというのに、彼の心は全く動じている感じはなかった。

 

『当たり前だ。お前を殺すその時まで、私は諦めない。―――あ、コレ美味しい』

 

「市場で見つけた良い感じのレモンを入れたからな。後お前さん、また地が出てる」

 

『っ―――ゴホンゴホン』

 

「ったくよー。結構長い付き合いになるんだし、そろそろ顔くらい見せてくれてもいいんじゃねーの?」

 

『……お前の実力なら仮面を剥がす事くらい容易にできるだろう』

 

「そういうのは趣味じゃねーのよ。一度レイ―――あ、俺の弟分ね。そいつと協力して《鋼》の姐さんの兜を破壊した事はあったけどな。ありゃあ例外だ」

 

 呵々と笑いながら、彼もまたアイスティーを啜る。カラン、というグラスの中で踊る氷の音がやけに空しく聞こえた。

 

 

 襲撃が失敗に終わった後にこうして場違いなお茶会に突入するようになったのはいつくらいからだっただろうか。

 暗殺に失敗して、悔しさを滲ませながら早々に撤退しようとしたときにアスラが「あ、オイちょっと待て。良い感じの茶が手に入ったんだけどよ、一杯どうよ?」などと素っ頓狂な提案をして来た時は、余りの場違いさに怒鳴り散らしてしまったほどだ。

 

 馬鹿にしている。侮辱している。―――最初の方はそう思って憤懣やるかたない感情を引きずっていたのだが、その後も襲撃失敗の度に毎度毎度茶に誘われ続け―――気付けば根負けしていた。

 傍から見れば、これ程珍妙な様子もあるまい。命を狙った側と、命を狙われた側の”暗殺者”同士が向かい合って茶を飲んでいる光景など、同業者が見たら目を疑うに違いない。

 

 最初はリーシャも警戒した。飲み物に薬の類が混入されているのではないかという至極まっとうな警戒心だ。

 しかし結局一回も、彼は飲み物に薬の類を入れてはいなかった。ただ単純に他愛もない話を喋り、或いは襲撃の失敗理由などを真剣に話し始める。

 そうした事を繰り返すうちに、リーシャもそれ程思考を巡らす事もなくなった。有体に言えば「考える事そのものが阿保らしい」と思うようになったのだ。

 

 

「しかしまぁ、最初の頃に較べりゃあ随分と巧くなったよなぁ。最近じゃ半径300アージュくらいまで近づかれないと気付かなくなってきた」

 

『あの、それもう暗殺者の射程範囲じゃないんですけど……』

 

「加えて、体捌きも巧くなった。もうお前さん、”準達人級”の中でもそこそこの階梯に居ると思うぜ?」

 

 いつものように銜え煙草をゆらゆらと揺らしながら言っていたが、言葉そのものは真剣だ。軽口ではない。

 ただ純粋に、自分の成長を認めてくれている。―――そう思った瞬間、リーシャは胸の内に何かモヤモヤするものを抱えるようになった。

 

 いつからだったか、アスラはリーシャの事を「《(イン)》の後継者」として見る事を止めていた。

 彼女自身の成長を褒め、喜び、次こそは俺を殺して見せろと、そう屈託ない顔で言ってみせる彼の姿が、どうにも脳内から離れなくなる。

 

 

「結局、どれだけ強くなれるかってのは、どれだけ覚悟と目的を持ってるかによると思うんだよなぁ」

 

『…………』

 

「目的がなけりゃ強くなれん。俺ぁ爺様みてぇな強さが欲しくて毎日アホみたいに鍛錬繰り返してたなぁ。

 強くなりたいなら何処を目指して、何を目標にいつまで続ける? そこんとこハッキリしねぇと、結局中途半端で終わっちまうぜ」

 

 なぁ、お前さんは何処に行きたいんだ? ―――その言葉は、現在に至るまで耳に残り続けている。

 

 飽くなき勝利の追跡者。ただ純粋に強くなりたいと願い、その為に突っ走ってきた男性。彼は自分を阿呆だ馬鹿だと言いながら、それでも後悔している様子は微塵もない。

 自分より強いやつに殺されるんなら、それも良い。―――本気でそう考えてやまない人物なのだ。そして今、その候補に自分を置いて彼なりに育て上げようとしている。

 

 はたと、根本的な疑問に気付かされた。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()() という、根本的で、しかし一番重要な疑問。

 

 それに気付いてしまった瞬間、リーシャはアスラから少しばかり距離を取るようになった。

 襲撃はやめない。命は狙い続ける。だが、その後に彼と語らい合うのはやめた。

 気の置けない関係に身を置けば置く程、彼女の心が軋み始めた。いずれは殺さなくてはならない相手。殺さなくては前に進めない相手。彼が物言わぬ屍になるところを見届けなければならないのに、だがそれを()()()()()と思ってしまっている自分がいたからだ。

 

 これで良かった。こうでなくてはならなかった。あくまで自分と彼の関係は、殺す側と殺される側でなくてはならなかった。

 余計な同情など無用。馴れ合いなど路傍に捨ててしまうのが一番だと己に言い聞かせ―――しかしその度に胸の奥が切なくなってくる。

 

 それが『特別な感情』の発露であったなどと、当時の彼女は思わなかっただろうし、思えなかったのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、その関係が変わったのは、リーシャが初めてアスラに敗北を喫してから実に1年が経とうとした日だった。

 

 

 

 

 その日も、残暑の熱が未だ残る季節だった。リーシャはいつも通り《(イン)》として暗殺の仕事をこなし、その帰投の途中で次の襲撃計画を頭の中に描いていた。

 仕事を行った場所と、恐らく今彼が泊まっているであろう安宿の距離は幸いにも近かった。時刻はちょうど夜も更けた丑三つ時。タイミングは悪くない。

 さて、どのような形で襲撃を仕掛けようか……などという事を頭の中で反芻していると、不意に、周囲の空気が冷え込んだような感覚がした。

 

 否、その感覚は間違っていなかったのだろう。

 

 リーシャがいたのは、つい数ヶ月前に勃発した紛争の影響で瓦礫の山と化していた地方都市の一区画。見るも無残な建物の跡地だけが墓標のように立ち並び、人の影は存在しない。そんな場所だった。

 通り抜けにはちょうど良い場所だろうと選んだ場所であったが、その月下に照らされた荒れ果てた地面、ちょうどリーシャの目の前に、いつの間にか一人の人物が佇んでいた。

 

 頭から靴先の僅か上まですっぽりと覆い尽くすローブ。色は光すらも反射しない程に黒一色であり、それだけでは何者か窺い知る事はできなかった。

 しかし、首から吊り下げられていた”それ”が、その人物の最低限の身元を証明していた。それと同時に、フードの下から除いた鮮血の如き真紅の双眸が、先程の冷気―――否、寒気の正体を表していた。

 

 黄金に輝く、星杯の紋章。

 巡回神父などでは断じてない。ならば《星杯騎士団(グラールリッター)》の正騎士? ―――否、否。この悍ましさは―――。

 

 

「失礼を。カルバード共和国を拠点に活動している凶手、《(イン)》殿とお見受けいたします。ハイ」

 

 フードの奥から聞こえて来たその言葉は、いやに機械的な声だった。

 それと同時に、この人物が女性であると確信した。月光に照らされた部分をよく見れば、真紅の双眸に、揺れる黒髪。体に纏うものの黒さに比例するように、その肌は褐色肌に焼けていた。

 

『……何者だ、貴様』

 

「所属組織はご覧いただければ分かるかと思います、ハイ。しかしながら所属部門に関しましては口外するのが憚られますのでご容赦くださいますよう。ハイ」

 

 ゆらりと、まるで幽鬼のように体を揺らす。

 まるで柳の枝のようだと、そう思ったリーシャの考えは当たらずとも遠からずといったところだった。しかし、その人物が相当の手練れだという事は一目見て理解してしまった。”死”の臭いが濃すぎるし、何より身に纏う雰囲気が常人のそれとは大きく逸脱している。

 

 ”達人級”―――そう結論付けるのは、難しい話ではなかった。

 

 

『私に一体、何の用かな?』

 

「えぇ、まぁ。”上”の方で近頃貴女の活動が活発になって来たという事が話題に取り上げられまして。ハイ。頭の固ったい枢機卿のハゲ共が「目障り」だなんだと言い始めまして。ハイ」

 

『…………』

 

「貴女が受けて来た依頼。その中に結構な汚職を働いた大司教クラスの元聖職者も混じっていまして。ハイ。……私としてはそんなクソ野郎どもが何人カラスの餌になろうが果てしなくどうでもよろしいのですが、生憎と”上”から命じられた任務に拒否権など存在しないお仕事なのです。ハイ。ですので―――」

 

 

 直後、その人物の姿が眼前数リジュの場所に現れた。

 反応できたのは、恐らくアスラとの幾度となく交わされた交戦の賜物だろう。咄嗟に盾のようにして構えた大剣の腹に、次の瞬間信じられないような衝撃が走った。数アージュ程後ずさりをせざるを得なかった後にその女性の姿を見てみると、その両手にはいつの間にか得物が握られていた。

 

 右手には刀身が漆黒に染まった、櫛状の峰を持つ短剣。俗にソードブレイカーと呼ばれる得物を。

 左手には取っ手の部分と平行になるように太く短い剣身が付いた武器。俗にカタールと呼ばれる得物を。

 

 成程、とリーシャはこの時点で理解する。

 この女性は”同業者”だ。光を好まず、闇に生きる者。絶対必殺を旨とする武人。

 

「……おや、思っていたよりも反応がお早い。ハイ。これは少しばかり本腰を入れねばならないようですね。ハイ」

 

『そうか。そう言えば貴様の名を訊いていなかったな。

 暗殺を行う者が名など素直に名乗らないだろうが、貴様が私の名を知っていて、その逆はないというのは少々不利益だ』

 

 駄目元でそう訊いてみると、女性は僅かに首を傾けて心情が読めない表情を浮かべた後、ぽつりと、呟くように言った。

 

 

「そうですね……ではレシアという名を覚えておいてください。ハイ。―――それでは、”お遊び”に付き合っていただきます。ハイ」

 

 

 そう言い終わると共に、再び月下の戦場跡地に刃同士が軋みあう音が鳴り響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 実際、彼女―――レシアは強かった。

 

 常に神経を張り巡らせている戦闘中だというのに、一瞬でも彼女を視界から外してしまうと、途端に周囲の闇に”溶け込んで”しまう。

 そうなれば目で追って探し出すのは難しい。研ぎ澄ませた判断力と直感を以てして、その攻撃が自分の肌を捕える前に反応するしかない。

 

 以前の、1年前の自分ならば不可能だった芸当だろう。アスラの言う通り「井の中の蛙」でしかなかった自分だったら、文字通り最初の一撃で仕留められていた筈だ。

 

 だが今は、劣勢ながらも着いていけている。単純な速さで先んじる事は敵わないが、それでも反応速度では負けていない。

 凌げる―――そう思ってしまった瞬間、リーシャの腹部に衝撃が走った。

 

「か―――はッ……」

 

 一瞬油断していた隙に、上手く潜り込まれたらしい。見事な蹴りを叩き込まれ、再び紙風船のように軽く吹き飛んでしまう。

 意識を失わなかったのは鍛錬の賜物だが、それでも鳩尾に攻撃を受けた事で僅かに動きが鈍くなる。それは、戦闘に速さを求める暗殺者にとっては致命的だった。

 

 眼前。眉間を縦に割るように突き出されたカタールの刃が視界いっぱいに広がった。

 コンマ数秒以下の速さで繰り広げられる戦いの応酬。それにリーシャは一瞬だけ着いていけなくなり、躱す事はできたものの、パキンという小気味の良い音と共に被っていた面は見事に砕け、フードもすっぱりと根元から断ち切られた。

 

「ッ―――‼」

 

 フワリと、闇夜の中に藍色の髪が泳ぐ。同色の瞳が直接レシアの姿を捉え、内心で歯軋りをした。

 

 確かに、強い。

 七耀教会の中でも武闘派の特色を持つ《星杯騎士団(グラールリッター)》の中にあっても、恐らく彼女の戦い方は異質だろう。

 二振りの武器を主軸に戦ってはいるが、その強みは”手数の多さ”に非ず。彼女の攻撃は常に”一撃必殺”を狙っている。心臓を、頸動脈を、頭蓋を、凡そ人体の急所になり得る箇所を僅かも外さずに攻撃してくる。

 一体今まで、何人の人間を殺してきたのか。彼女のその精錬無比な技は、それを知らしめるには充分だった。

 

 実力・経験・戦場に於ける立ち振る舞いと隠形の練度―――全てに於いて自身を上回る”格上”との戦闘。

 だが今のリーシャには、たとえそうであっても臆さない精神的な余裕があった。

 

「……………――――――」

 

 戦闘開始前のそれ以降、僅かも言葉を発しようとしなかったレシアの表情が一瞬だけ歪んだように見えた。そして、直後巻き起こる連鎖的な大爆破。

 吹き飛ばされた際に、舞い上がった砂埃を利用して設置していた複数の『爆雷符』の時間差起動。アスラに敗北してから自己流に改造を重ねたそれは、単純な爆発の威力ではなく、如何に生命機関に致命傷を与えるかという観点を追求した改良を加えていた。

 その分、製作の費用は嵩むため、普段は乱発して使用する事はあまりない。しかし今回は、そんな悠長な事を言っている暇などなかった。

 所持していた全ての『爆雷符』で以て、僅かでもダメージを与える。設置方法はお粗末としか言い様がなかったが、それでも効果は現れるはずと―――そう思っていた。

 

 しかし彼女は、最も大切な事を失念していた。

 彼女自身が察していた筈の事実。そも”達人級”の武人に―――()()()()()()()()()()()

 

 

「な、ん―――」

 

 爆炎と煙が晴れた中で、リーシャが見たのは有り得ない光景だった。

 破壊された建物の影。幾重も重なったその中の一つから、レシアが姿を現した。文字通り―――()()()()()()()()()()

 

「……おかしな話ではありません。ハイ」

 

 この程度は何でもないと、そう言わんばかりの口調でレシアは再び感情の籠らない声を発した。

 

「”闇”は当兵(とうへい)の領域。―――とりわけ”影”は最も身近な領域です。ハイ。ならば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()? ハイ」

 

 その理屈はおかしい、という反論は今まで幾度もアスラに対してして来た事だ。

 彼ら彼女らに”理屈”などというものはあってないようなものである。『出来るのだから可能だ』という、凡そ一般人には理解し難い難事を何事もなかったかのようにやってのけてみせる。

 

 しかしこれで、劣勢は決定的となってしまった。いや、寧ろ敗北は決定だろう。

 笑えない話だ。ただひたすらに一人の男性を見返すためだけに心血を注いできたと言っても過言ではないというのに、まさかそれとはまったく関係のない場所で、こんなに無様に死ぬことになろうとは。

 

 その時、リーシャの脳裏を過ったのは、襲撃失敗後にアスラが自分を茶に誘った時に見せた屈託のない笑顔だった。

 その後も、走馬灯のように次々と思い出す。交わした他愛のない話から、真剣に話してくれたリーシャの力量についての分析、仮面を取るか取らないかの意味のないやりとりも、今となってしまえば懐かしい。

 ズキン、と。胸中に痛みが走る。それは外傷によるものではない。内側から込み上げてくる切なさを、この時点で漸くリーシャは理解した。

 

「(アスラ()()……)」

 

 焦がれていたのだ。家のしがらみなど知らぬ存ぜぬと言わんばかりに自由に振る舞う彼の姿に、そして何より―――どんな形であれ、自分を想っていてくれていた事に。

 ごめんなさい、私は、貴方の好敵手にはなれなかった。―――迫りくる必殺の刃がやけに遅く感じられながら、リーシャはそんな言葉を心の中で漏らした。

 

 

 だからこそ、一瞬分からなかった。

 自分の命を奪う筈だった刃を止め、レシアの体に容赦のない拳撃を叩き込んだ人物の正体が。

 

 

 

「おぅ、星杯の。テメェ人の女に何手ぇ出してやがるんだ」

 

 

 赤錆のような髪を揺蕩わせて、男は低く、そう言い放った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 七耀教会『封聖省』所属実働部隊《星杯騎士団(グラールリッター)》。彼らを統率するのは、”聖痕(スティグマ)”と呼ばれる紋章を刻んだ特殊な騎士たち、《守護騎士(ドミニオン)》。

 

 《守護騎士(ドミニオン)》序列第十位、騎士団の中に在りながら唯一騎士団長アイン・セルナートの命ではなく、教会最高幹部である枢機卿以上の命により動く異色の漆黒の騎士。

 《闇喰らい(デックアールヴ)》の異名を持つその人物の名は、レシア・イルグン。

 

 ”達人級”の武人にすら、特定の条件下では恐れられる存在であると、リーシャはそう簡単に説明を受けた。

 

 

「まぁ正直、俺もできれば戦り合いたくねぇなぁ。こんな”夜”なら尚更だ」

 

 拳撃の一発で数十アージュ程レシアを吹き飛ばし、その小柄な体を廃屋の中へと叩きつけた。その仕切り直しまでの時間に、アスラはそう言い切って警戒心をさらに強める。

 

 レシア・イルグンが条理の外の体現者である”達人級”にすら恐れられている理由は、己の存在意義(レゾンドール)そのものすらも希薄にさせる精神の透化能力にある。

 彼女は、”己”という”個”の情報を限界ギリギリ―――それこそ自分自身で”己”という存在を見失ってしまいかねない程にまで薄くできる。人が入り乱れる雑多な環境の中で彼女を無意識に発見する事はまず不可能であり、狙って探り当てようにも成功率はコンマ数パーセントにも届かないだろう。探り当てる前に、此方の首が飛ぶ方が早い。

 

 そしてその真価は、夜にこそ発揮される。

 『影の中に潜り込む』という特殊な技能を持つ彼女は、風景にすらも同化できる強力な精神透化能力とも相俟って、”暗殺者”としては最上級の力を有していると言っても過言ではない。

 たとえ”達人級”であったとしても、夜間に()()()彼女と遭遇した際の勝率は―――2割、持って3割と言われている所以だ。まさに『英雄殺し』である。

 

 

「じ、じゃあ何で来たんですか‼ いえ、そもそも何でここが―――」

 

「まぁ後者の方は俺にも色々な知り合いがいるって事で勘弁してもらってだな。前者の方は―――」

 

 その時、リーシャは斜め下から見えるアスラの口元が、いつもより魅力的に笑った気がした。

 

 

「ま、らしくねぇ嫉妬ってトコかね。誰だってテメェの好きな女を好き勝手されてたらそりゃあ怒るってもんだ」

 

「っ⁉ え、えっ、ちょ……ええっ⁉」

 

 突然の告白に情けない声を出してしまったリーシャだったが、アスラはいつもの様子でそれを茶化すような事もなく、視線をレシアが吹き飛んだ先に固定しながら再び口を開く。

 

「ん? あれ? もしかして気付いてなかった? 気付かれてなかった? っかしーなぁ。最近はとんと断られてたけど茶ぁ飲んだりしてデートしてたつもりだったんだけどなぁ」

 

「ふぇ⁉ で、デート⁉ 聞いてませんよ私‼」

 

「そりゃ言ってねぇってか、言えねぇっての。俺だってアレだぞ、本命の女をデートに誘う時は緊張するんだよ。言わせんな」

 

「…………(パクパク)」

 

「まぁ詳しい事は後で話すとして、今は戦闘に集中しろ」

 

 その言葉に、危うく別世界に行きかけていた精神を寸でのところで引き戻す事に成功した。

 撒き上がった砂煙の中から、やはりダメージを受けているとは思えない様子のレシアがゆらりと歩いてくる。

 確かに今は、目の前の戦闘に集中しなければならない。聞き逃せない言葉の数々は、後でじっくり問い詰める事としよう。―――そう思い、リーシャは体格を隠すために纏っていた《(イン)》の正装を脱ぎ捨て、身軽な装束姿に着替えた。

 

 

「おや、《死拳》殿。如何なるご用向きで此方に? ハイ」

 

「さっき言ったとおりだ《闇喰らい(デックアールヴ)》。俺の女に手ぇ出すなっつってんだよ」

 

「然様ですか。ハイ。では貴方ごとひっくるめて”遊ばせて”いただいてもよろしいですか? あぁ、拒否権は勿論ありませんが。ハイ」

 

「好きにしろ。つーか元々()()()()()なんだろ?」

 

「―――えぇ。()()()()()です。ハイ」

 

 ダラリと、レシアが両腕から力を抜き、全身を脱力させる。

 瞬間、目を逸らしたつもりはないのに、正面からレシアの姿が消えた。

 

 思わず目を見開いたリーシャだったが、先程の説明を聞く限り、これが彼女の”本気”の一端なのだろう。

 通常、隠形術というものは一度対象に姿を知覚されてしまえば以降の効果というものは限りなく薄くなる。それは”暗殺者”としての常識だった。

 だがレシアは、姿を知覚されているのみならず、視線が自分一点に集まっているこの状況で尚、気配を完全に殺し尽してリーシャのみならずアスラの視界からも外れてみせた。

 

 本当の意味で透明人間になったわけではない、という事だけは理解できているが、こうなってしまっては此方が頼りにする五感の情報もほぼ全てが役に立たない。役に立つとすれば最早―――

 

 

「ッ‼ 伏せろッ‼」

 

 アスラのその叫びにほぼ同時に反応して体勢を低くすると、つい先程までリーシャの首が存在したところを、カタールの刃が容赦なく擦過した。

 一瞬だけその姿を現したレシアは、しかし次の瞬間には再び霞のように消え失せてしまう。その様子を、アスラは既に目で追ってすらいなかった。

 

「アスラさん、姿が見えてるんですか?」

 

「んなワケねーっての。目で見えないどころか匂いもしねぇし足音も一切聞こえねぇ。気配も完全に殺してやがる。クソッ、ヨシュアや姉貴でもここまではできねぇってのに……‼」

 

「じゃあ、何で今……」

 

「勘だよ」

 

 第六感(シックスセンス)。真似しようとしてできるものではない。

 ”達人級”の階梯に至るまで積み上げた修練の数と、潜り抜けて来た死地の数が、知覚不可能な死神の鎌から命を守っている。

 それを踏まえてアスラは、背中合わせで立つ少女に向けてとある提案をした。

 

「なぁ」

 

「はい」

 

「お前さん、本当の名前は何て言うんだよ」

 

「……リーシャ。リーシャ・マオです」

 

「ならリーシャ。ちと賭けに乗ってくれ」

 

 少しばかり怪訝そうな表情を浮かべたリーシャに、アスラは指向性を持たせた声で耳打ちをする。

 リーシャは体感で数秒程逡巡したが、結局首を小さく縦に振った。それしか生き残る道が残されていなかったからだ。

 

「そんじゃ行くぜ。1、2の―――」

 

「3‼」

 

 その合図と共に、互いに逆方向に走り出す。

 無論、レシアの刃はその時点でリーシャを襲うが、来ると分かっている攻撃ならば、一撃くらいは凌げる。―――アスラとの戦いで学んだ意地の悪さだった。

 

 レシアが姿を現すのは、攻撃を行う一瞬だけ。それが失敗に終われば、再び彼女は無意識の領域に溶けて消えてしまう。

 しかし、その”一瞬”だけで充分だった。レシアに確実にリーシャを狙わせ、そしてリーシャが確実に次の一撃を凌ぐ。その工程が終わる数秒の間に、踵を返したアスラの拳がレシアの体を捕えていた。

 

「――――――」

 

「おっと、ドロンするのはまだ早いぜ」

 

 攻撃を当てたところで、再び消えてしまっては意味がない。その為アスラは、右手を拳から人差し指と中指を並べて伸ばした形状に変え追撃の一撃を叩き込んだ。

 狙いは鳩尾より上にずれた場所。そこを突かれた瞬間、レシアは初めてその能面の如き無表情を一瞬だけ崩し、膝を地につけた。

 

 突いたのは人体の中で”本当の意味”で急所の箇所の一つ。俗に『経絡秘孔』と呼ばれるそれの一つを突かれ、レシアは一瞬だけ人体の限界に縛られたのだ。

 その殺人秘孔こそが、アスラがクルーガー家に於いて祖父、コリュウ・クルーガーより伝授された殺人拳の奥義であり、真髄でもあった。

 通常の人間が喰らえばまず即死は免れない必殺技。―――しかし氣力を操作する事に長けた”達人級”は、剄の流れをある程度操作する事で必殺を免れる事ができる。―――今のレシアが、まさにそうだった。

 

 しかし、別にアスラはこの時点で仕留められるなどとは露ほども思っていなかった。むしろ本命は、その次だった。

 

 

「……これは」

 

 レシアが一瞬だけ視線を伏せた瞬間に闇夜の中から飛来して、彼女の四肢を捕縛したのは、鈍色の鋼鉄の鎖。

 その一本一本に氣力が通され、破壊するのも解くのも労力を要するそれを仕掛けたのは、廃屋の屋根に立ったリーシャ。その状態で彼女は、己の得物である大剣を構えた。

 

 決めるつもりか―――そう察して”影”の中に逃げ込もうとしたレシアだったが、その足元にとある物が投げ込まれる。

 地面に落ちて甲高い音を鳴らしたそれは、起動前の閃光弾(フラッシュグレネード)。紛争跡地に近しい街であれば払い下げで売られているそれを投げ込んだ男は、ニヤリと不敵に微笑んだ。

 

 起爆。一時的に大量の光量が撒き散らされ、周囲に影が存在しない時間を作り出す。そのタイミングを計って、リーシャは廃屋の屋根を蹴った。

 鎖は確かに繋がれたまま。その位置が分かっていれば、たとえどれ程気配を殺されたとしても、”そこ”にいるのは分かる。一撃を叩き込める。

 

 

「―――我が舞は夢幻。去りゆく者への手向け」

 

 

 称して『幻月の舞』。必殺戦技(Sクラフト)に相応しく、幾重にも重ねられた斬撃が、レシアの体を捕える。

 手応えはあった。確かに斬ったと確信した。それは間違いなく己の感覚で捉えた事実であり、そこにまやかしなどある筈がない―――そう思っていた。

 

 

 

 

「……今のは、少々焦りました。ハイ」

 

 

 しかし、そんな憔悴した様子など一分も見せない声が聞こえたのは、あろうことかリーシャのすぐ背後からだった。

 そこに、レシア・イルグンは立っていた。ローブは脱ぎ捨て、首元から足の付け根までを覆う漆黒の薄手の戦闘衣(バトルクロス)に、傷一つ存在しない滑らかな褐色肌。控えめながら服を押し上げる双丘と漸く露わになった神秘的とも取れる貌が、ここに来て彼女が本当に女性であったことを如実に表していた。

 そして首元には、先程までローブの上から掛けていた筈の星杯の紋章を象ったメダルを引っ掛けていた。

 

 その様子を見て、自分が今斬ったモノが何だったのかを悟ったリーシャは、下唇を噛んだ。

 

「……『分け身』、ですか」

 

「えぇ。よもや使う事になるとは思っていなかったのですが、貴女が思っていたよりも()()方だったもので。ハイ」

 

 そう言うレシアの両手には、未だ得物が二振り携えられており―――そしてその双眸は更に妖しく輝いているように見えた。

 まだ戦闘は続く。否、もしくはこれからが本番なのだと、空元気にも似た気合を振り絞ると、そんなリーシャの前に、再びアスラが立った。

 

 

「おい、星杯の。もうそろそろ時間じゃねぇのか?」

 

「―――……」

 

 そうアスラが声を掛けると、不意に空が明るくなってきた。

 随分と、そう随分と長い事戦っていたらしい。気が付けば東の地平線の向こうから朝日が顔を出していた。

 

 するとレシアは、まるで日光を嫌う御伽噺の吸血鬼(ドラキュラ)よろしく、ふい、と陽光から視線を逸らし、二振りの得物をそのまま後ろ腰に括りつけた鞘の中へと仕舞いこんだ。

 

「……まぁ、宜しいでしょう。これで当兵の任務は終わりです。ハイ。《(イン)》―――いえ、リーシャ・マオ殿。”お遊び”に付き合っていただき、感謝いたします。ハイ」

 

 そう言って軽く頭を下げるレシアを見て、リーシャはいよいよ呆けた表情を見せた。

 

「……はい? え、えっと、貴女は、その……私を()りに来たんではないんですか?」

 

「……?」

 

 小首を傾げるレシアの姿は、その小柄な体躯と相俟って年齢が判断できない。しかし彼女は、リーシャよりも遥かに落ち着いた口調でその間違いを指摘した。

 

「何を仰っているのか判断しかねますが……当兵は一度も()()()()()()()()とは申し上げていない筈です。ハイ。私の任は、七耀教会に仇為す危険性がある貴女の力量を図れというだけのもので、それ以上でも以下でもございません。ハイ」

 

「……えっ」

 

「それに、幾度も申し上げた筈です。()()()()()()()()()()()()()()()と」

 

 暗殺を主任務とする彼女にとってみれば、ただ対象の力量を図るだけの任務など、それこそ文字通り”お遊び”でしかなかったのだろう。

 虚仮にされた、とは思わない。寧ろ”お遊び”程度の感覚であったとはいえ自分が命を拾えたことが奇跡のようなものであったし―――何より考えてみれば、彼女がもし”本気”であったのならば、最初の一撃で息の根を止める事も充分可能だっただろう。

 

 

「では、当兵はこれにて。……もう二度と相見えない事を祈っております。ハイ」

 

 

 言い残し、レシアは朝日の光に溶けるようにして消えて行った。アスラが煙草を取り出して火を点けたところを見るに、本当にこの場から立ち去ったのだろう。

 精神的にも肉体的にも疲弊したリーシャは、その場にへたへたと座り込んでしまった。

 

 すると、徐にアスラが近づいてきて、リーシャの頭を優しく数回撫でた。

 

「にしても良く頑張ったな、お前。あー、何か誇らしいわ。弟子の成長を喜ぶ師の感情ってこんな感じなのかねぇ」

 

「ちょ、ちょっと待ってください‼ そもそもアスラさん、さ、さっき私の事を、その……す、す……」

 

「あぁ、悪ぃ悪ぃ。それとこれとは話は別だわ。お前が魅力的な女で、俺が惚れたってのもホントの話だぜ?」

 

「な、何でですか‼ 何で私の気持ちも訊かないでそっちの方だけで勝手に―――」

 

「んお?」

 

「あっ……」

 

 勢い余って告白じみた真似をしてしまった事に、リーシャは頬を赤く染め、今まで感じる事のなかったタイプの羞恥心に耐え切れなくなり、そのまま近くの街の在る方へと走り去ってしまった。

 その様子を見てアスラはくくっ、と笑い、自らが()()()惚れた女性の後姿を歩きながら追いかける。

 

 

 ―――この一件を以てして、この二人の奇妙な殺し殺される関係というものは幕を閉じた。

 しかし未だに微妙な距離感を取ってしまっているこの二人が恋仲にまで発展するのは、これより少しばかり後の話だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――*―――*―――

 

 

 

 

 

 

 

 男が女に惚れた理由というものは、あまり口外するものでもないというのがアスラの持論だ。

 

 その性格と振る舞い故に、一晩限りの関係の女性の扱いはそれなりに心得ていたアスラではあったが、それでも自らの恋人、リーシャ・マオに惚れ込んだ理由など、本人以外に誰にも口外した事はない。

 

 自らの好敵手(ライバル)が欲しかった―――という言葉自体は本当だった。実際アスラは、リーシャ以前に自分を襲撃して来た暗殺者の中からそこそこの腕前を持っていそうな輩を選び出して同じような事を言っていた。「いつか俺を殺して見せろ」と。

 しかし総じて、そういった連中は二度とアスラを襲撃する事はなかった。圧倒的なまでの力量差を畏れ、或いは諦め、彼の暗殺を再び執り行おうとはしなかった。そういった輩を責める事はなかったが、物足りなさと寂寥感を感じていた事もまた事実だ。

 

 そんな中で、リーシャ・マオという人物だけは、仕掛けた側のアスラが思わず呆れてしまう程に襲撃を繰り返してきた。

 たとえどんなに打ちのめされても、どれだけ完璧に襲撃を回避されても、彼女はありとあらゆる手段を以て、ありとあらゆる時間に決して諦めることなく襲撃を繰り返した。

 

 変わり映えのない退屈な日々の中で、その襲撃の時だけが楽しみになっていったのはそう難しい事でもなかった。

 彼もまた気付けば彼女の事をふとした時に思い浮かべるようになり、どれだけ茶に誘っても決して拝ませてくれなかった仮面の下の顔を想像しながら、充実した日々を送っていた。

 1年間というのは短いように見えて、人が恋慕の念を募らせるには充分な時間だ。

 

 決して諦めない意志の強さと、努力家な一面。それでいて義理堅く、受けた恩は忘れないし、不器用な形ではあるものの返そうとする。

 そして時々漏れる”地”の言葉の端々からは、彼女が根本はとても優しく穏やかな性格をしているという事も感じ取れた。顔は見る事はできていなかったが、正直それはどうでも良かった。

 

 有体に言えばそれで惚れた。一夜限りの関係などとは断じてなく、恋人として、伴侶として隣に居て欲しいと本気で想うくらいには。

 

 

 

 

 

 今、自分の横で未だ拗ねたように屋台で買ったトロピカルジュースを飲んでいるこの少女が恋人となってくれるまでには、随分と婉曲な道のりを辿る羽目になった。

 

 アスラは元々、自他ともに認める不器用な人間だ。互いの腹の内を探り合う場でもなければ、そもそも遠回しな言い方を好まない。

 だからこそ、レシアとの死闘を終えて街に帰って来た時に、アスラは直球で言い放った。

 

 

『お前に惚れた。本気で惚れた。俺の背を預かって、俺の隣で共に笑ってくれ。俺はお前を、一生愛すると誓う』

 

 

 ロマンも何もあったものではない、ただの愚直な告白。それを受けたリーシャはただ顔の熱を冷ます事にしか集中する事ができず、結局その場は「か、かか、考えさせてください……」としか言えなかった。

 客観的に見れば、余りにもモラルを度外視した告白だという事は分かっていた。だが、自分はこれまで幾度も幾度も、数え切れないほどにヒトの命を奪って来た外道に他ならない。

 外道ならば外道なりに、不真面目ならば不真面目なりに、不器用ならば不器用なりに、通すべき形の”筋”がある。アスラの場合はリーシャに対して、偽りも衒いも一切ない、心の底からの好意をぶつける事でしかそれを証明する術はなかった。

 

 それから幾許かの時が経って、今はこうして自分の隣で笑ってくれている。―――アスラとしては、それだけで充分だった。

 

 

 ―――だが、時代はそれを許してはくれない。ただ安穏と平和を貪ることを許してくれない時代に生まれてしまった事を恨むべきか、それともこれもまた運命だと思って粛々と受け入れるべきか。

 

 恐らく彼女は、近いうちに大きな決断を迫られる事になるだろう。

 その時に彼女がどんな道を選ぼうとも、アスラはそれを支持すると決めた。闇に生きるも光に生きるも、全ては彼女の在り方の裏と表に過ぎず、その存在そのものが変わるわけではない。

 

 ならば、充分だ。それ以上の幸福など、求めるだけ野暮というもの。

 

 

 

 

「アスラさん」

 

 不意に、ベンチの隣に座っていたリーシャが声を掛けて来た。

 気付けば、空の色は青空から黄昏に変わっていた。銜え煙草の先から伸びる紫煙と灰をずっと眺めていた筈なのにそんな変化にも気付けないとは……耄碌したかと、自虐気味に思ってから恋人の方を見た。

 

「どうしたよ」

 

「あの、その……アスラさんがいつも吸ってる煙草、私にも一本吸わせてもらえませんか?」

 

「んー? どうしてだよ。体に良いモンじゃねぇってのは分かってんだろ?」

 

「えぇ、分かってます。一本だけです。その……私もアスラさんと同じような事をしてみたいなと思って……ダメ、ですか?」

 

 そう上目遣いに言われては断れなどしない。偏に惚れた弱みという奴だろう。

 あまりハマり過ぎると「悪い遊びを教えるな」とイリアやマイヤ辺りから小言を食らうハメになるが、まぁ自制心が強い彼女ならば大丈夫だろうと、胸ポケットに入れていたパッケージの中から最後の一本だった煙草を取り出して、リーシャに渡した。

 

「あ、ありがとうございます。ええと、ライターは……」

 

「あぁ、要らねぇよ。そんなモン」

 

 そう言ってアスラは、顔を一気にリーシャの方に近づけた。それに驚いたリーシャが思わず顔を引こうとするのを後頭部に手を添えて制し、自分の銜えていた煙草の火を、リーシャの銜えていた煙草の先にあてがった。

 ジジッ……というくぐもった音と共に火が移り、新たな煙草の先から煙が浮かび上がる。

 

 しかし所詮は煙草の吸い方など何も分からない素人だ。リーシャはそれから先がどうすれば良いか分からない様子でとりあえず息を吸い込んでしまい、そして派手にむせた。

 

「コホッ、コホッ‼ あ、アスラさん。これ……あまり美味しくないです」

 

「いやだから言っただろ。体に良いモンじゃねぇって。分かったら、金輪際やめときな。お前はアーティストなんだし、体は一番に大事にすべきだろ?」

 

「はい……」

 

 アスラはリーシャから受け取ったまだ長い煙草を近くの吸い殻入れの中に放り込み、「でも」と続けた。

 

「何で俺の真似なんかしようと思ったんだよ。別に無理なんかしなくたっていいってのに」

 

「だって……私だけまだまだ子供で、アスラさんに全然追いつけてないじゃないですか」

 

 それは、涙ぐんでいるのとは少し違う、悔しさが滲み出ている声だった。

 

「私は今まで、ずっとアスラさんに助けて貰ってばかりで……私だって、アスラさんの事を助けてあげたいのに」

 

「アホ。ずーっと助けられてるっての。お前が隣にいてくれてるだけで、俺がどんなに助かってるか知らねぇだろ」

 

 アスラは今も、決して楽ではない橋を渡っている。それはクロスベルの為であり、義弟(レイ)の為であり、そして何より恋人(リーシャ)の為なのだが、そうした危ない橋を渡った後に彼女の笑顔を見るだけでどれだけ精神的に救われているか知らないのだろう。

 尤も、弱音を吐かない彼の性格を分かっていれば、「役に立てていない」と勘違いしてしまうのも無理からぬことではあるのだが。

 

 

「私は……アスラさんの好きなようにして貰いたいんです。心も……その、か、体も……」

 

 どもったようなその言葉が、果たして愛し抜いている男にどのような攻撃力を持つか分かっているのだろうかと思わずツッコみたくなってしまう。

 ……まぁ、分かってはいるのだろう。分かってやっているのなら、それは完全に据え膳状態だ。いただかないのは男としての矜持に関わる。

 

「悪ぃがな。俺はまだ紳士なんだ。お前が色々と乗り越えて成長できた暁には、そん時ゃ化けの皮剥がれて狼になれるかもしれねぇがな」

 

 だが、本気で愛した女に対しては、然るべき”筋”をきちんと通す。

 言葉だけの愛が不誠実だとは思わない。体での愛を伝えるのは―――もう少し先でも構わないだろう。

 

「しっかし、お前も意外と大胆だな。自ら男に送り狼になれとは」

 

「う、うぅ……で、できれば忘れて下さいお願いします」

 

「いーや、もう俺の脳内メモリーフォルダーに永久保存されたしな。そりゃ無理な相談ってヤツだ。

 そら、少し早いが夕飯食いに行こうぜ。いつも通り俺の奢りな」

 

「あ、た、偶には私にも払わせてください‼ 悪いですってば」

 

「残念ながら却下だ。恋人に金を出させたとあっちゃ、男としての沽券に関わるんでね」

 

「……今日こそは必ず私がレシートをレジに持って行ってみせます」

 

「おう、やってみせろ」

 

 屈託のない笑顔を互いに浮かべながら、街中を悠々と歩いて行く二人。

 しっかりと握られた互いの手は、彼らの固い関係を示唆するように、夕日に照らし出されていつまでも繋がれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 はいどうも。現在配信中のFGOイベ『鬼哭酔夢魔京 羅生門』にOP曲を付けるとしたら、アニメ『刀語』OP『拍手喝采歌合』が一番ピッタリなんじゃないかと思っている十三です。いえ、これマジに。

 
 さて今回、アスラとリーシャの馴れ初めなどを書かせていただいたわけですが……なんと驚異の23000文字超え。100話程続けてきましたがこれが歴代最長記録です。私自身ビックリですよ、もう。
 やたら長くなってしまった印象しかありませんが、読者の皆様方はどう感じられたでしょうか。ご感想など、どんどんいただければ幸いです。

 それと今回出て来たオリキャラ、レシア・イルグンさん。《守護騎士》の一人ですが、実は以前、話題にだけは出てきていたのを覚えていらっしゃるでしょうか? 
 レイ君がクロスベルに行く前の話『離れ、東へ』にて、オリビエとレイ君との会話の中に出てきました。それで、オリキャラ一覧のところにも出していました。
 イラストは特急で描いたので荒いですが、こんな感じです。
 
【挿絵表示】


 さて、次からは再び舞台はエレボニアに戻ります。クロスベル側は……まぁ頑張ってとしか言いようがないというかなんというか。いつか彼らの頑張りも書けたらなと思います。
 アスラとリーシャ、そしてマイヤ。そして―――レンの事も。




 今回の提供オリキャラ:

 ■レシア・イルグン(提供者:kanetoshi 様)


 ―――ありがとうございました‼





PS:今回のFGOイベの孔明さんの有能さは異常。あ、酒呑童子ちゃんがそろそろLv.90になりそうです。勿論、フォウはHP、ATK共にMAXです‼


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