英雄伝説 天の軌跡 (完結済)   作:十三

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リィンの抱える”弱さ”は何なのか。


それを、自分なりに書いてみました。


勿論、それが全部ではないけれど。


弱さの発露

古今東西、”市”という催しは程度の差こそあれど、開けば少なからずの金銭による潤いを(もたら)すものである。

しかし、個々の売店が稼いだ売り上げの純利益の全額を、その店主が懐に収めるという事は有り得ない。市があるところ、必ずそれを主催する”元締め”がおり、また国による税金もかかるものなのだ。

 無論、商人たちもそんな事ぐらいは承知の上。多少の金銭が飛んで行こうとも、それを上回る売り上げを叩き出せればよいと、そう言った前向きな感情がなければライバル店が(ひしめ)く激戦区で商売などはやっていられないだろう。

 

 だが、それにも程度と言うものは存在する。

 

 必要以上に商人たちを税金、または土地(ショバ)代という鎖で締め付けてしまえば、利益を出せる見込みがないと判断され、商人は遠のいた上にそれに比例して市を訪れる消費者も減ってしまう。そうなってしまっては元も子もない。

 だからこそ、市の統括者は経済の手腕と人望が必要不可欠になって来る。そういう点では、ケルディックの大市を統括する人物は、極めて有能な人であると言えた。

 

 長年ケルディックの経済の基盤を支えてきたオットーという老識の男性は、どんな素人目から見ても只者ではないという雰囲気を纏わせていた。

物腰こそ柔らかいが、佇まいとそれに伴う”商い”への熱情は、確かに幾多の商戦を潜り抜けてきた人物のそれである。大市に店を構える商人が彼を慕い、また頼りにしているその意味が、レイにはひしひしと理解できた。

 

 

「どうやら、君たちには面倒をかけてしまったようじゃな」

 

 

 時刻は黄昏時。とある一件の影響で大市の元締めであるオットーの自宅に招かれたⅦ組A班一行は、その一言と共に頭を下げられた。思いがけない重要人物からのその態度に若干たじろぐリィンたちとは別に、レイはオットーという人物をじっと見据え、「一つ、宜しいですか?」という丁寧な言葉の後に疑問を投げかけた。

 

「先程のような騒ぎはこれまでにも? 商人同士が場所の取り合いでもめるというのは、市にとっては見逃せない事件ではあると思いますが」

 

 

 

 

 時間はつい十数分前に遡る。

 

 東ケルディック街道の手配魔獣を完勝にて討ち果たしてケルディックに戻ってきたレイたちは、大市の方から怒号が聞こえるのを感じ、リィンの提案で直ぐに向かう事になった。

 そうして駆けつけた先にいたのは、市の中央部、最も客足が良さそうな位置にある店の前で胸ぐらを掴み合って互いをあらん限りの罵倒で罵り合う二人の男性。

このままでは流血沙汰になりかねないと懸念したレイとリィンは顔を見合わせて一つ頷くと、喧嘩をしていた二人をそれぞれ背後から羽交い絞めにして押さえつけたのだ。

押さえつけた当初こそ互いに興奮状態で部外者の話など聞く耳持たずだったが、アリサの「大人なんですから、もう少し理性的になったらどうですか?」という静かながらも的を射ぬいた言葉と、羽交い絞めにしていたレイの「このまま腕の一本くらい逝っときましょうか?」という限りなく冗談に聞こえない冗談によって沈黙した。

 

 その後、騒ぎを聞きつけて駆けつけたオットー元締めによって事態は一時収まりを見せ、ひとまずは市に平和が訪れた。

 

 二人の商人が殴り合いの直前まで発展した理由。それが、大市における店舗の位置だった。

それだけならばどちらかの手違いだという事で解決を図る事ができただろうが、奇妙なのは二人ともが同じ場所の店舗の設置許可証を持ち、それがどちらも本物であったという事だ。

 しかし、このままでは事態は平行線を辿るばかり。元締めがそこで出した結論は、”同じ店舗の場所を時間で区切って交互に使用する”というものだった。

落としどころとしては妥当なその判断に、これ以上騒ぎを大きくしては売り上げにも響くと考えた二人は素直に従った。その後、騒ぎを始めに収束させてくれたレイたちに礼をしたいと、オットーが大市からほど近い自宅へと招待したのである。

 

 

 

 

「うむ。大市の出店場所を決める許可証を発行しておるのは公爵家なのじゃが、些か問題が起こっておっての」

 

「問題?」

 

 オットーは頷く。リィンたちも真剣に耳を傾けていた。

 

 

 曰く、最近になってクロイツェン州を収めるアルバレア公爵家が大幅な売上税の引き上げを敢行し、前年度に比べて収める税の割合が格段に跳ね上がってしまったという。

 儲けの割合が少なくなると分かれば、当然商人は売り上げを伸ばそうと躍起になる。そう言った雰囲気が蔓延して、先程のような騒動が間々起きるようになってしまったらしい。

商売人の観点からすれば、売り上げが伸び悩むという事は死活問題だ。同時に純利益が少なくなると言うのも同等。市に来てまで元が取れないと分かれば、感情的になってしまう理由も分からないでもない。それでも、最低限の節度は守るべきだとは思うが。

 

 しかし、オットーも元締めとしてただその状況を黙して見ていたわけではなかった。

 

 本日の外出がそうであったように、オットーは頻繁にバリアハートのアルバレア公爵家まで赴いて何度も陳情を行っているらしいが、その都度門前払いを食らっているらしい。

その期間は2ヶ月。仮にも土地を収める大貴族にしては冷遇に過ぎる対応だ。

 

 

「ふーん。成程な」

 

 だがレイは特に憤りの感情を示す事もなく、むしろその言葉を聞いて合点が言ったという具合に頷いた。

何故公爵家が陳情に取り合おうともしないのか。何故証明書の発行に際して致命的とも言える手違いを行ったのか。そんな疑問から構成されたパズルのピースが、心地よい音と共にカチリと填まったのだ。

 

「オットーさん、今回のような騒動の取り締まりは、本来領邦軍の役割だったんじゃありませんか?」

 

「その通りじゃ。近頃は、動く気配すら見せなくなってしまったがのう」

 

 そこまで聞いて、リィンとラウラが気付いたような表情を見せた。次いでアリサも「もしかして……」と言葉を漏らす。

 

 

 『領邦軍』―――帝国政府が抱える正規軍とは違い、これは『四大名門』の四大貴族が有する私設軍の俗称である。

領地内の治安を維持するという名目で各地に常備軍として展開しているそれは、当然ケルディックにも駐屯していた。

 ただし今回の件、並びにここ2ヶ月の過去の騒動において領邦軍は一切動こうともしていない。それが指す意味は、至極単純だ。

 

 

「領邦軍が動かなくなったのは増税に対する陳情を取り消すため。それが行われない限りは公爵家はケルディック……いや、大市に対しての”嫌がらせ”を続けるという事ですか」

 

「む…………」

 

「ちょ、ちょっとレイ!?」

 

 率直であり、ものの見事に的を得ていながらも露骨過ぎるその物言いにエリオットが慌てる。

だが、それがこのケルディックで現在起きている紛れもない騒動の真実だ。レイは、それを簡潔に言い現わしたに過ぎない。

 故にオットーは、図星を突かれてもなお動揺する気配は一切見せず、逆に讃嘆の意を込めた視線をレイに向けた。

 

「レイ君、と言ったかな? 君はとても柔軟な考え方を―――いや、違うな。様々な価値観をその身に持っているようじゃのう」

 

「生憎と様々な人物と接触する機会がありましてね。こういった厭らしい考え方は自然に身に着いてしまったんですよ」

 

「フフ、君は案外商人に向いているかもしれんな。僅かな情報からすぐさま推論と結論を導き出すと言うのは、商人にも必須な能力じゃからのう」

 

 若干仄暗い笑みを浮かべるレイにも一歩も引くところを見せずに対応するオットー。後者の方は年の功が生んだ余裕であったとしても、レイのそれは違う。自分たちとは違う場所で積み上げてきた経験が、今帝国最大の市場を取り仕切る人物と渡り合わせているという事を理解すると、自然と四人の背がうすら寒くなった。

 しかしその空気は長くは続かず、レイがテーブルの上に置いたままだった紅茶を一啜りすると同じくして霧散した。オットーも、良いものを見たと言った風な満足した表情を見せて、再びリィンたちへと視線を向ける。

 

「君たちが思い悩む必要などない。これはワシら”商人”の問題じゃ。君たちは気にせずに、”特別実習”に専念しなさい」

 

 その言葉が、対話の終わりの合図だった。紅茶を御馳走になったことに各々礼を述べてからオットーの自宅を出る。外は、すっかり日が沈みかけていた。

 

 今の話を聞いて、何も思わない人間は幸いにもA班の中にはいなかった。終始落ち着いた物腰であったレイですらもどこか思う所があるようで、腕を組んだまま考え込んでいた。

 だが、あくまで自分たちの身分は”学生”である事もまた忘れてはいなかった。このまま大市の問題に関わるのだとしても、それは越権行為ともなりかねない。下手をすれば、元締めであるオットーに迷惑を蒙らせる危険すら出て来るのだ。

 

 身の程を弁えて引き下がるか。はたまた多少無茶をしてでも自分たちにできる最大限の行動をするべきか。

 

 そんな事を考えていると、突然現れたサラがレイたちに話しかけてきた。どうやらB班の状況が思った以上に芳しくないらしく、これから列車に乗ってパルムへと向かうらしい。

その旨を伝えて駅へと向かう途中で、彼女はレイの耳元に顔を寄せた。

 

「あの子たちの事、頼んだわよ」

 

「了解だ。打てる手はとりあえず最大限は打っておくさ」

 

 リィンたちに聞こえない小声でそんな会話が交わされた後、何事もなかったかのように駅へと向かうサラ。レイはそんな彼女の姿を見送る事無く、リィンたちに提案を投げかける。

 

 

 夕飯時で腹が減った。後の事はレポートを纏めている時にでも考えよう―――と。

 

 

 

 

 

―――*―――*―――

 

 

 

 

「本当、僕たちⅦ組ってどうして集められたんだろうね?」

 

 

 単純ながらも、核心をついた言葉。

 その一言を何気なく口にしたのは、美味な夕食に舌鼓を打ち、食休みを取っている時のエリオットだった。

 

 何故、自分が”特科クラス”と言う場所に選ばれたのか。サラは「『ARCUS(アークス)』の適性」と言っていたものの、それだけが理由ではないという事は各々が薄々感づいていた。

もし本当にそれだけが理由ならば、わざわざ手間をかけてまで”特別実習”などに生徒を向かわせたりはしないだろう。

 ならば、どういう基準で自分たちを選んだのか。

一同が思考を巡らせる中、リィンがポツリと呟いた。

 

「士官学院を志望した理由が基準と言う訳じゃないだろうしな……」

 

 帝国には数多くの学校が存在する。中には、トールズと歴史的にも学力的にも肩を並べる教育機関も幾つかあるものの、何故敢えて”士官学院”を選択したのか。

その”理由”を、各々が肝心なところは伏せたままに一人ずつ話していった。

 

ラウラの場合は、「目標としている人物に近づくため」

アリサの場合は、「実家を出て”自立”がしたかったから」

エリオットの場合は、「元々違う進路を希望していたものの、成り行きで」

 

そしてリィンの場合は―――「”自分”を見つけるため」

 

 

 若者らしく、それぞれが違う志望理由。

どれも悪いと言う訳ではない。形も見えない曖昧とした目標を追いかけるのも、ただ流されて辿り着いたと言うのも、人間らしい在り方だ。大事なのはそうして入った場所で何を見出し、何を為すのか、その一点に限られる。つまるところ、切っ掛けなどどうでもいいのである。

 故に、志望理由が”ない”と言うのも、また立派な理由になれるのである。

 

「ふむ……ではレイはどうなのだ?」

 

「………………」

 

「? レイ?」

 

 顎に指をあてて何かを真剣に考えているレイを不思議に思って軽く肩をゆするエリオット。すると「おおぅ」という声と共に彼の意識が現実へと引き戻された。

 

「え? 何?」

 

「もう……学院に入った志望理由を聞いてるのよ。私たちは皆言ったから、最後はレイの番」

 

「あー、そう。いや悪い。メシがマジで上手かったから明日大市で野菜とかどんだけ買い付けようか悩んでたわ」

 

 あはは、と笑うレイに対して、全員がガクリと肩を落とす。

 

「ま、まったく……」

 

「いや、でも俺たちにとっては重要な事じゃないか?」

 

「うむ、そうだな。レイが料理を作ってくれなければ、我らは今より随分不自由をしていたに違いない」

 

 入学から3週間と少し経ち、今や第三学生寮では朝食と夕食の二食はレイが作る事が当たり前になっていた。

レイ本人は「それ程のモンじゃない」と謙遜を貫いているが、その完成度は毎回高く、貴族出身のラウラやユーシスの舌をも唸らせる食事を毎回提供している。

最近では「レイ一人に負担はかけさせられない」という事で食事の支度を手伝う人数が増えて来ているが、それでも料理長(コック)は彼に変わらない。

そんな彼が食材の買い付けで悩んでいるという事を責める事はできない。料理の出来如何(いかん)で、これからの寮生活のクオリティーに大きな影響が出て来るのだから。

 

「ハハ、あんがとな。さて、俺の志望理由、だったか」

 

 そのまま再び考え込む事数秒。その後、何もない虚空を眺めながら、あっけらかんと言い放った。

 

「―――ねぇな」

 

「え?」

 

「な、ないの? 本当に?」

 

「あー、いや。俺の場合はちと特殊な方法で願書を手に入れたからな。正直何も考えずに試験受けて、フィーの世話してる内にいつの間にか入学してた、っつー感じだった」

 

「ほ、本当に特殊ね」

 

 驚いたような、それでいて呆れと感心が入り混じった視線でレイを見るアリサ。

しかし流石に”ない”という解答のままでは卑怯だと思ったのか、レイは再び口を開いた。

 

「……ま、入学ってのに限らないんだったら目標はあるぜ。そいつはまぁ、ラウラと同じかな」

 

「む、私と同じか?」

 

 それは即ち、「目標としている人物に近づくため」。しかしそれを言った後、レイは苦笑と共に肩を竦めた。

 

「ま、俺の場合は”近づく”んじゃなくて”超える”事が目標なんだがな。生涯かけて叶うかどうかは分かんねぇけど、ま、やるだけやってみたいってことだ」

 

「ふむ、良い目標だと思うぞ。私も、それくらいの気骨を見せねばならなかったかもしれないな」

 

 同じ目標を掲げていた人物に出会ったためか、その夢に同調するラウラ。

アリサやエリオットも、その不敵ながらも前向きな目標に対して笑みを見せる中、ただ一人リィンは、僅かに落ち込んだような表情を見せた。

 

「……ははっ、凄いな。レイも、ラウラも」

 

 その声色に、レイがピクリと反応する。口元の笑みも鳴りを潜め、無表情のままに横目でリィンを見やる。

 

「俺にも目標にする人はいるけれど、近づこうとか、越えようとか、そう言う事は思った事もなかったな。そう思う事自体、烏滸(おこ)がましいと思っていたし」

 

「……リィン」

 

 ラウラが何かを言いかけたところで、隣に座っていたレイが無言でそれを制した。彼は、いつもの飄々とした表情に戻り、軽く背伸びをしながらやや強引に話題を切り上げる。

 

「ま、いいんじゃね? 人の目標なんてのは人それぞれだ。それよりもホラ、さっさとレポート書かねぇと眠くなってそのまま書けず終いになっちまうぞ」

 

「あ、そ、そうだね」

 

「確かに、ボーッとした頭でやるのは効率が悪いわね」

 

 一日ごとにレポートを製作して後日担当教官に提出すると言うのも”特別実習”中に課せられた課題だったため、改めてそれを思い出したアリサとエリオットがその言葉につられて席を立つ。

それに次いで、残りの三人も食後の紅茶を一気に飲み干すと、直ぐに席を立った。

 

 

「―――待て」

 

 しかし、どうにも抑えきれない感情があったのだろう。ラウラが、リィンを有無を言わせぬ強い口調で呼び止める。

 

 今度はレイも止める気はなく、歩くスピードは緩めない。

ラウラの声を背で聞きながら、足が止まってしまった二人よりも一足先に、部屋へと戻っていった。

 

 

 

 

 

―――*―――*―――

 

 

 

 

 (さえず)る鳥の鳴き声ももはや聞こえなくなり、陽も完全に落ち切った夜更け時。リィンは、ふとベッドの中で目が覚めた。

 不思議な事に眠気は一切なく、完全に冴えてしまっている。上半身をゆっくりと起こすと、他のメンバーが穏やかな寝息を立てて眠っている光景が目に入った。

 

 恐らく最初から、眠りが浅かったのだろう。それでも体力を回復させるために何とか眠ろうと無理をして目を瞑り続けていた結果、中途半端に寝てしまったのだ。

こうなると、再び布団を被ったとしても直ぐには眠れないだろう。最悪の場合、朝日が昇るまで眼が冴えている可能性もある。

 

「ふぅ……」

 

 気分を入れ替えるために、そっとベッドを降りて窓際へと向かう。

春もそろそろ終わりを迎えるとは言え夜更けはまだまだ肌寒く、壁のハンガーに立てかけてあった制服の上着を羽織った。

 

「………………」

 

 特にやることもなく、寝つきが悪かった理由を思案して見ると、思いのほか直ぐにその原因は見つかった。

それは誰の責任でもなく、他ならぬ自分自身が蒔いた種。思い出した途端に、また自己嫌悪に陥りそうになる。

 

 

 

 

 

『リィン。そなた―――どうして本気を出さない?』

 

 

 

 夕食後、部屋へと移動しようとした矢先にラウラに投げかけられた、その言葉。

それはあまりにも核心をついた言葉であり、同時にリィンの心の中に(くさび)となって深々と突き刺さっていた。

 

 《八葉一刀流》―――それが、リィンが教えを乞い、太刀から繰り出す剣技の名であった。

 《剣仙》の異名を取る大陸随一の武人、ユン・カーファイが興した、東方剣術の集大成として知られる剣術。

その継承者は大陸各地に存在し、その多くが武人として数々の名を上げている事でも知られ、剣の道に通じる者であれば、必ず一度は耳にする流派である。

更にその皆伝者は”理”に通じる最上級の剣士として、《剣聖》の異名で知られる事にもなる。

 

 無論リィンはその域には達していない。彼は―――”初伝”止まりで師であるユン老師から修行を打ち切られた身であった。

故に彼は、本気を”出さない”のではなく、”出せない”のだ。元よりないものを気合でどうにかできる程、才能があるわけでもない。

 

 だからリィンは偽りなく答えた。「これが俺の限界だ」―――と。

 

 《八葉》の名を穢している脆弱者。まだ見ぬ兄弟子たちに出会った時に、そう罵られる事を重々承知の上で言ったその言葉に、ラウラは特に反応を示す事はなかった。

言ったのは、リィンに背を向けて、漏らしたように呟いた一言だけ。

 

 

「……良い稽古相手が見つかったと思ったのだがな」

 

 

 同じく”剣”を志す者を失望させてしまったという罪悪感と、その後自分の胸中に残った寂寥感。

それらの(わだかま)りが、リィンの心を蝕んでいたのは確かだろう。現に自分は今、形容し難い蕭然(しょうぜん)とした感情を抱いていた。

 向上を受け入れた者と、向上を拒んだ者。

二者は決して相容れないのではないかと、そう思ってしまうまでに憔悴しかかっていた。

 

「(はぁ……ダメだな、これじゃあ)」

 

 これではレイに何を言われるか分かったものではない。

そう思いながら彼が眠っていたベッドへと目をやると―――そこに姿はなかった。

 

「(? 外にでも行ったのか?)」

 

 もしかしたら、レイも自分と同じように寝つきが悪かったのかもしれない。何となく部屋の窓から町を見下ろしてその姿を探してみる。

 すると、見つけた。宿屋の前に設置してあった大きな樽の上に腰かけて、何をするでもなくじっとしているレイの姿を。

流石にこの角度からでは表情までは見る事はできないが、そよ風に棚引く銀色交じりの黒髪が、何故か哀愁を感じさせた。

 気付けば、リィンは部屋を出て、宿の階段を下っていた。

理由は良く分からない。ただ、同じ系統の武器を操る彼にこの心情を明かすだけで少しは楽になるのではないか? と言う浅薄な感情があったことは確かだった。

 

 そうして静かに扉を開けて『風見亭』の外へと出ると、レイは違わずそこにいた。

 ただし、店の前で佇み、リィンを待ち構えていたような形で。

 

 

「よぅ。やっぱり起きて来たか」

 

 掛けられた言葉は軽やかで、いつもと何ら変わりはない。だと言うのにリィンは、何故か言葉を返す事ができなかった。

 その最大の理由は、レイが両手に(・・・)武器を携えていたからだろう。

左手には彼の得物である長刀。そして右手には―――リィンの得物である太刀が握られていた。

 

「とことんまで真面目なお前の事だ。ラウラにああ言われれば悩みに悩んで結局夜中に起きるだろうとは思ってたぜ」

 

「ハハ……怖いぐらいにお見通しだな。……じゃあレイは、俺が外に出て来ることも読んでいたのか?」

 

「いんや、そこは賭けだった。お前が出てこなかったら、俺は晩春の夜空の下で待ち続けて一人寂しく朝日を拝んでいただろうよ」

 

 それは余りにも分の悪い賭けだという事はリィンにも理解できた。逆に言えばレイは、そうしてまで自分に何か伝えたい事があったのだろう。

 するとレイは、リィンに太刀を渡し、着いてくるようにジェスチャーを残すと、そのまま町の中を歩いていった。その方向は、東ケルディック街道方面。

 

「…………」

 

 ここで無視ができる程、リィンは無神経ではない。渡された太刀の鞘の部分を握りしめながら、先行するレイの後を着いていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 煌々と美しい満月が道を照らす中、リィンはレイの後ろをただひたすらに歩いていく。昼間とはまた違う景色を見せてくれている街道を進んでいく中で、リィンはレイの背中を見続けていた。

 決して大柄とは言い難い体躯に幼さの残る顔立ち。おおよそ外見的には闘争とは無縁そうな容姿でありながら、その実、Ⅶ組の中でもフィーと並んで抜群に戦い慣れている。

その確たる証拠が、先日の実技テストだ。その中で彼は、フィーと共に自分たちが三人がかりでようやく勝利する事ができた戦術殻を二体同時に相手し、10秒と経たずに完全に無力化していた。その実力の高さに思わず身震いをしたのは、記憶に新しい。

あの時にはフィーの投擲した閃光弾の影響で全てを視認する事ができなかったが、膨大な光に包まれる瞬間、レイがまるで瞬間移動をするかの如く超人的な敏捷性で動いたのを、辛うじて捉える事ができた。

 

 その強さに、未だ底は見えない。

 

 だが個人的にリィンは、レイに対して友人として好ましい感情は抱いている。入学式の日に彼のペンダントを拾ってから、どこか気の合う同級生だと思っていたし、その後も第三学生寮の炊事当番として日々料理に精を出す姿や、フィーの自由奔放さに振り回されながらも過ごしている彼の姿を好ましく思わない人物は、少なくともⅦ組の中には存在しない。少々口は悪いものの、行動は至って紳士的ではあるし、面倒見の良い性格も何度か垣間見せている。面倒くさいと言いながらもユーシスとマキアスの喧嘩が殴り合いに発展しそうになると間に入ってひとまず落ち着かせるなど、細やかな気配りもできる男だ。

 彼の行動そのものに、虚偽などは含まれていない。それは、十二分に理解しているつもりだった。

 

 だからこそ、時々彼の事が分からなくなる。 

 

 ただ、何が分からないのかが分からない(・・・・・・・・・・・・・・・)。そんなモヤモヤとした疑問を抱えたままに、リィンは歩き続けた。

 

 

 

「さて、まぁ、こんな所でいいか」

 

 レイが足を止めたのは、東ケルディック街道の一角に存在する風車小屋の前だった。僅かばかりに広場のようになっているその場所で、彼は振り向いた。

レイとリィンの距離は、およそ3アージュ。夜ではあったが、月光と街灯からの灯りのお陰で、互いの姿は問題なく把握できていた。

 

「まず、先に俺が言いたいことを言っておこう」

 

 刀を持っていない右の手を腰に当ててそう切り出すレイ。ラウラとの会話の事で何か責められるかと覚悟を決めていたリィンは、次に発せられた言葉に意表を突かれてしまった。

 

 

「俺は、お前とラウラの言い分の、どちらが間違っているとも思わない」

 

「……え?」

 

「お前が今の自分の実力を正直に告白した事、そしてラウラが何故本気を出さないのかと問うた事。どっちも間違った事は言ってねぇって言ってんだよ。ただそこに、見解の相違があっただけの話だ」

 

「見解の、相違?」

 

「”剣士”としての在り方の相違だ」

 

 カッ、と、長刀の鞘尻が高い音を立てて地面に叩き付けられる。

ここで改めてリィンは悟った。今のレイは、飄々としたいつもの雰囲気を全く醸し出していない。

 

 

「お前は言ったな。『これが俺の”限界”』だと」

 

 

 例えるならそれは、一振りの研ぎ澄まされた刃。触れれば断ち切れてしまいそうなその正体を、リィンは知っている。

 

 ”闘気”だ。

 

 

「その卑下する”限界”とやらがどれ程のモンか、俺は知らん。事実か、謙遜か、そんなモンは実際に刃を交わしてみねぇと分かんねぇからな」

 

「ちょ、ちょっと待ってくれ。例えそうだったとしても、今ここでレイと戦う理由なんて俺には……」

 

 リィンが何とかその闘気を収めさせようと語り掛けるが、直後に強い風が巻き起こる。同時に大量の砂埃も発生させたそれに、リィンは思わず目を瞑ってしまう。

しかし、風が収まり、目を開けたその眼前にあったのは、漆黒の鞘に包まれたままの長刀の刀身が、自分の首筋にピタリと押し付けられている状況だった。もし刀身が剥き出しだったならば、薄皮の一枚くらいは斬られていたかもしれない。

 

「理由がない? お前、そんな精神的に中途半端な心持ちで実習を続けようってのか?」

 

「そ、それは……」

 

「心が籠っていない剣士が振り回す刀なんざ、(なまくら)と同じだ。仮にも《八葉》の剣士なら、それくらいは分かってんだろうが」

 

 明鏡止水―――即ち邪念のない、澄み渡った心情。

 刀を振るう者がまず持ち合わせなければならないのが、この偽りのない心。リィンとて、それくらいは存じていた。

だが、今の自分がそれを持ち合わせているかと問いかけられたら、その答えは否だ。乱し、揺れ、まるで崩れかけている。

この状態では、とても極限まで研ぎ澄ました一刀など、振るえるはずもない。

 

 

「刀を構えろ、リィン・シュバルツァー」 

 

 再び間合いを取ったレイは、長刀の柄頭をリィンの視界に突き刺さるように突き出し、静かにそう宣言した。

 

「お前の邪念を取り払ってやる。そんでもってついでに、先の発言の一部を撤回させてやるよ」

 

「え? ―――ッ!!」

 

 瞬間、反射的に体の前に構えた太刀の刀身に、大型魔獣の体当たりのような重い衝撃が圧し掛かった。思わず少し後退してしまう目の前には、抜刀した白い刀身を横薙ぎに振るったレイの姿があった。

 

 ―――見えない。ただ単純に、リィンはそう感じる。

姿は確かにそこにあるし、輝かしいほどの純白に彩られた刀身も確かに存在する。

 ならば、”見えない”のではなく”感じられない”と言う表現の方が正しいだろう。

ゆらり(・・・)と漂う靄のような、それでいて掴みどころのない烈風。静と動を併せ持ったそれに、冷たい汗が一筋、頬から流れ落ちる。

 

 

「歩法術【瞬刻(しゅんこく)】―――俺の流派の基礎になる動きでな。修めるに当たっては師匠にこれでもかってくらい厳しくシゴかれた」

 

 チィン、という甲高い鍔鳴りの音を立てて、刃を納刀する。

その音を聞いて我に返ったリィンは、流されるままに太刀を中段に構えた。自然体で構えているレイのそれとは違い、それはどうにも固い。

 

「レイの流派―――つまり、”速さ”に重きを置いた剣術、か?」

 

「ハッ、察しがいいな。できればその洞察力は、できれば自分の心に向けて欲しいモンだが」

 

 戦意を見せたリィンに対して、レイはようやく構えを取った。

腰を僅かに落とし、刀を腰だめに構えて柄にそっと手を添える。それは紛れもない、”居合”の構えだ。

 

 

 

 

 

「《八洲天刃流(やしまてんじんりゅう)》―――俺が修めたのは、そんな名も知られてない剣術だ」

 

 

 

 

 だから、と。

その目に、その口元に、獰猛な笑みを浮かべて、レイは次の言葉を紡いだ。

 

 

 

「なるべく本気でかかってこい。こんな邪流の剣(・・・・)に一太刀も当てずに負けたとあっちゃ、《八葉》伝承者の名が泣くぜ?」

 

 

 

 

 

―――*―――*―――

 

 

 

 己の心の弱さというものを、リィン・シュバルツァーは充分に理解していた。

 自身が抱える”闇”。それが自身と周囲に与える影響をただ恐れ、護るために学び始めた剣は、いつの間にか己を抑え込む”枷”としてしか見られなくなってしまった。

修行を打ち切られたのは、そんな心を老師から見透かされたからだと疑ってはいなかったし、事実、それは当たっていた。

 以降彼は、自分を”未熟者”だという自虐の念を抱きながら、それでも剣を捨てる事はできずに生きて来た。

 故に剣には、いつも迷いもあった。「未熟者なのだから仕方ない」という逃げ道が常に頭の中にあった彼に、清い剣閃など、繰り出せるはずもない。

 

 

「ぐっ……はっ……」

 

 荒い息を吐きながら、太刀の切っ先を地面に突き立て、膝をつくリィン。

しかし間髪を入れずに、容赦のない一閃が襲ってくる。尽きかけた体力で動かしている体に鞭を打って、懸命に鞘でガードをする。

 

「がっ!……」

 

 無論、威力を殺す事などできるはずもない。吹っ飛ばされて大木の幹に体をぶつけると同時に、再び鍔鳴りの音が響き渡る。

強い衝撃に肺の中の空気を吐き出しながらも、立ち上がる。そうしなければ、一方的に餌食になるだけだ。

 

「―――遅い」

 

 突きつけられる、真実を告げた一言。

その言葉を発した人物は、余裕そうに見えて隙のない足取りでゆっくりと近づくと、鞘でリィンの首筋をトントンと叩いた。

 

「二十だ。10分程度の手合わせの中で、お前は二十回死んだ。まぁ、これが実戦ならの話だがな」

 

「ッ……!」

 

「対してお前の剣は俺に掠りもしていない。これは、実力の差云々以前の問題だ」

 

 射殺すような右目の視線が、容赦なく貫く。歯軋りをするリィンを、レイはただ見据える。

 

「どんなに実力が伴っていなくとも、”覚悟”のある奴なら一刀くらいは届かせる。敗北をとことんまで忌避し、自分の振るう剣が鈍ではないと叫ぶ奴ならば、たとえ両の腕が動かなくなったとしても足掻こうと動くモンさ」

 

「…………」

 

「お前、”自分は未熟者だから、負けてもしょうがない”と思ってんだろ?」

 

 図星だった。

己の剣はただの鈍―――そうレイに言われた時から、その言葉を受け入れてしまった。

 自分は弱者で、彼は強者。決めつけたその時から、リィンの剣は鈍ったのだ。

 勝てるはずがない。だったら負けても仕方がない。

口では否と言えても、そう思ったのは事実だ。それは、確実にリィンの”弱さ”を拡大させていた。

 

「はっ、どこまでも腑抜けた奴だな。負けると分かってて戦意を見せる馬鹿がどこにいるよ? そう思ってる時点で、お前は剣士失格だ」

 

 口では白けたような言葉を吐きながらも、レイの目は未だリィンを見ている。

やや乱暴に胸ぐらを掴み、再び大木に叩き付けた。

 

「お前の剣は、どこにある?」

 

 問いを叩き付けながらも、胸ぐらは未だ掴んだままだ。リィンは、自分を拘束するその右腕を震えながらも掴む。

 

「お前の剣は、”剣の道”はどこにある? ―――答えろ!! リィン・シュバルツァー!!」

 

 眉を顰め、激昂するような口調で更に問うレイ。リィンは驚くほどに重いその腕を何とか振りほどき、右手で地面に落ちた太刀を握る。

 言葉は出さない。言葉にすれば、また偽りの感情を答えてしまうかもしれない。

だから、リィンは鈍色に光る剣鋩(けんぼう)を全力で突き出す事で、その答えとした。

 勿論、レイには当たらない。だが彼は、獰猛な笑みを浮かべなおして、ただ一言を発する。

 

「そうだ、それでいい」

 

 気付けば、彼の左頬に、僅かに赤い筋が浮かび上がっている。そこからたらりと、一筋の鮮血が滴った。

恐らく自分は、先程までとは似ても似つかない表情をしている事だろう。迷いを完全に振り払ったとは口が裂けても言えないが、それでも心の中に巣食った靄の一部は晴れたような気がした。

 あぁそうか―――とリィンは理解した。

 

 自分は、”剣の道”を軽んじていた。

 

 研ぎ澄ます事も忘れ、鍛え上げる事も忘れ、それでいて”限界”などとのたまった自分が、今となっては恥ずかしい。

それは、一度は奉じた剣の道を、間違いなく穢す思考だった。己の限界など、未熟なままの自分に分かるはずなどないのに。

 

「ただの初伝止まり」などと言って《八葉》の剣術そのものを貶し、

明確な実力差を畏れて、勝つつもりどころか抗うつもりすら持たずに刀を抜いてしまった。

 

 剣士として高みを目指し、それに向かって突き進む事も厭わない姿に、弱気になっていたのだろう。

だから、自分を卑下し、貶める事で心の安寧を得ようとした。

 

 全く以て、失礼な話である。

 剣に対しても―――自分に対しても。

 

 

 

 

「……俺は、お前の事を何も知らない」

 

 少しばかり優しい声色になったレイが、諭すような口調でリィンに語り掛ける。

 

「だから、お前がどう言う経緯(いきさつ)でユン老師から修行を打ち切られたのかなんて知らねぇし、どこで限界を感じたのかも知らねぇ。だから、俺はお前に、易々と”強くなれ”なんて言わん」

 

 強くなれない、或いは強くならない理由は人それぞれである。レイはリィンのそれを理解していないが故に、敢えてアドバイスは避けた。

それ以上は善意の押し売りであり、言ってしまえば”大きなお世話”だ。

 しかしそれでも、言わなければならないと思ったことは、言う。

 

 

「ただそれでも、”誇り”は絶対に忘れるな。お前が進むと決めたその道は、そんな柔なモンじゃねぇだろうがよ」

 

 

 同じ刀を使う者に対してのよしみか、はたまた単純に燻るクラスメイトを見ていられなかっただけなのか。

いずれにせよ、レイが放ったその言葉は、リィンの双眸に再び光を灯すのに充分なものだった。

 

「そう……だな。思えば俺は、情けない事を言ってしまった」

 

「………………」

 

「明日、ラウラには改めて謝るよ。剣の道を軽んじるような事を言ったことを」

 

 でもその前に、と。

リィンは両手で力強く太刀の柄を握りなおす。その目に宿っていたのは、純然たる闘気。

 

「最後にもう一度、今度は完全に”入れて”みせる!」

 

「……上等だ。かかって来いよ、リィン」

 

 レイが挑発をするように手を招くと、リィンは刀身が頭の上に来るように太刀を構え、腰を低く落とした。

そして、一拍の空白を挟み、地を蹴る。軌道は一直線。無謀と分かっていても、これ以外の策は思いつかなかった。

 

「八葉一刀流・弐の型―――『疾風(はやて)』」

 

 繰り出したのは、《八葉》の型の中でも特に速さに特化した剣技。レイも同じように速さに特化した剣士ならば、この型以外で捕らえられる気はなかった。

 渾身の気合を込めて振りぬいた刀身は、過たずレイの体へと迫る。未だ長刀は納刀されたまま。構えようともしていないレイの姿を見て、リィンは「捕らえた」と思った。

 しかし、刃が体に届こうとしたところで、突然レイの体がブレた(・・・・・・・・)

 

「―――悪くない剣だ。最初からこれくらいのを出しときゃ良かったのによ」

 

 その声が聞こえたのは、リィンの背後(・・・・・・)。残像すら残す速さで死角に回り込んだレイは、峰の方を首筋に向けた長刀の刀身を、スッと肩越しにリィンの視界に置く。

 

「だがまぁ、チョイスミスだ。その型は、今まで腐るほど見て来たからな(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)

 

 その言葉に疑問符を浮かべるより先に、首筋に受けた峰打ちの一撃で、リィンの意識は完全に刈り取られた。

そのまま重力に身を任せて倒れようとするその体を、レイが左腕一本で受け止めて、支える。

 

 

「八洲天刃流【静の型・輪廻(りんね)】―――ま、ネタ晴らしはまたの機会にしてやるよ」

 

 

 聞こえるはずのない呟きを残して、レイはポケットから『ARCUS(アークス)』を取り出す。そして、治癒”術”の駆動詠唱を始めた。

 

「【傷つきし武士(もののふ)に癒しの一時を】―――」

 

 外傷は一切与えていない。そのため、選んだ”術”は外傷の治癒ではなく、肉体疲労を短時間で回復させるものだ。

優しげな青い光が灯り、体を包み込む。光が収まった後にいたのは、安らかな寝息を立てるリィンだった。

 

「ったく、面倒掛けてくれるぜ」

 

 ぼやくように呟いたが、その表情は優しげなそれへと変わっていた。これで明日、素直にラウラに謝ればそれで万事解決である。

一仕事を終え、体を伸ばしてポキポキと骨を鳴らす。ついでに、欠伸も一つ漏らした。

 

「ふぁ……流石にちと眠くなったな……あぁ、いや、まだやる事残ってるんだったか」

 

 メンド臭い。そう言わんばかりに嘆息してから、レイは立ち上がった。

 夜はまだ更けたままであり、月もまだ姿を隠す気配はない。普通の人々が、総じて活動を停止している時間帯だ。

 だからこそ、今やらなくてはいけない。

 

 レイは上着の内ポケットを探り、目当てのそれを一枚だけ取り出す。

 

 それは、細長い白い紙だった。ただし、ただのメモ帳の切れ端という物でもなく、表面には不可思議な紋様と文字が黒一色で描かれている。

それを掌に載せ、ふぅ、と息を吐いて上空へと飛ばす。そして息を吐いたその口で、再び詠唱を口遊んだ。

 

「【我が僕たる式よ。主の命に従い、言霊を運ぶ形骸とならん】―――」

 

 夜空にその声が玲瓏に響く。すると、風に煽られていた紙が徐々にその姿を変え、数秒後には小鳥の姿へと変貌を遂げていた。

 レイはその小鳥の頭の部分に人差し指を置くと、十数秒ほど、何かを念じるように目を伏せて眉を顰める。

 

「―――よし。通達の委細は任せた。領邦軍に見つからないようにしながら、早急に帝都まで送り届けろ」

 

 指を離してそう言ったレイに、紙の小鳥は僅かに頷くような仕草を見せながらまるで生き物であるかのように羽ばたき、そのまま飛空して宵闇の中へと消えていった。

 

 

 

「―――はぁ、メンドくせ」

 

 

 

 ”特別実習”1日目の夜。自分ができる事の全てを終わらせたレイは、口癖となっているその言葉を吐きながら、再びリィンを抱えた。

後は、宿に帰ってベッドに放り込み、自身もベッドにダイブすればそれで任務完了である。

 

 

 明日も、どうせ厄介事が待っている。

 

 

 修羅場慣れした直感が平穏は望めないと頭の中でアラームを鳴らすのを聞き届けながら、レイはクラスメイトを抱えて、宿屋への帰路に着いたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




少し長くなりました。
それでも、この話は二話に分けたくはなかったので、そうした次第です。

これは原作をプレイしていて私が不思議に思ったところですね。

何故リィンは、己の過ちを一晩で理解することができたのか。
それができたのなら、今後ウジウジ悩む事もなかったのではないかという疑問です。

この作品では、レイ君に少し諭してもらいました。

結果的にリィン君が少し脆くなってしまいましたが、そこの所はご勘弁下さいませ。



それではまた、次回でお会いしましょう。

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