「偶然というのは神秘の隠語だ。知りえない法則を隠す為に偶然性という言葉が駆り出される」
by 青崎橙子(空の境界)
―――おや? やっぱり来たんだね。
―――迷惑? いやいや、迷惑だなんてあるものか。僕たちは基本的に人手不足でね。特に君のような間諜の可能性がなく、尚且つ才がある人材は貴重だとも。
―――……どうしたんだい、そんな鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をして。
―――あぁ、君自身の過去を案じているのなら気にしなくてもいいよ。
―――
―――何故かって? 前例がいるからだよ。他ならぬ僕と―――そしてこの組織にとって、ある意味一番大事な人が。
―――うん、違うんだ。団長ではないんだよ。そりゃあ団長が居なければこの猟兵団は瓦解する。分かりやすく一番居なくてはならない人さ。
―――”一族”という呪われた鎖に足を引っ張られてしまった者。……僕はちょいと事情は異なるけれど、それでも”あの人”に救われたことには変わりない。
―――だから君も、これからはようく考えて生きると良い。自分という人間がどういう風に生きれば一番自分らしく在れるのか、それを模索すると良い。
―――その結果、いずれ此処を去る事になっても一向に構わないとも。去った後に此処に迷惑を掛けなければ、の話ではあるけれどね。
―――……分からないかい? まぁ今はまだ分からなくても良いと思うよ。僕も最初はそうだった。「”それ”しか出来ない」「”それ”しかして来なかった」「”それ”をすること以外許されなかった」者が全てを捨ててやり直す事が、簡単である筈が無いんだからね。
―――此処を止まり木と思ってくれても構わないが……あぁ、でもちゃんと仕事はして貰うとも。働かざる者食うべからず。ウチのキッチン担当は、そこまで優しくは無いからね。
―――うん? あぁ、そうだね。君の才能は僕の所で拾うのが一番良いだろう。必然、僕は君の上司という事になるわけだ。
―――初めに言っておこうか。僕はね、君のその人間臭さを非常に評価しているんだ。勿論、皮肉なんかじゃないとも。
―――確かに、超一流の諜報員に求められるのはそれに見合う精神だ。”人でなし”であればある程、それは研ぎ澄まされていく。
―――だがね、人間である精神を本当に全て失ってしまったら……それはもう人間ではなく、バケモノですらなく、ただの醜悪なモノに成り下がってしまう。
―――君は、どうかな?
―――……そうだね。君にもいつか、自分が自分で在り続ける為に必要な”何か”が見つかる時が来るだろう。その時に、揺らがぬ芯が君に宿っていますように。
―――そう言えば君、名は? ……いや、それは
―――酷い話だ。こんな僕ですら仮初の名くらいはあったというのに。
―――……それじゃあ僕が君に名を与えよう。と言っても、任務が変わればこの名も変わる可能性があるけれどね。
―――よろしく。新しい”影”の担い手よ。願わくば君も、神狼の爪牙に相応しい存在で在れますように。
―――*―――*―――
優に800年近くの歴史を誇る〈クルーガー一党〉の中にあって、最も最強に近しいと称された男は、今も尚存命している。
《拳神》コリュウ・クルーガー。齢90を超える老人なれど、未だにその絶技に衰え無しと謳われる伝説の男。
クルーガー家第11代目当主であった彼は、それまで終身制であった当主の座を存命中に息子に明け渡すという破天荒を成し遂げた後に自由気ままな隠居生活を送っていたが、ある時そんな彼に弟子入りを懇願してきた一人の少年が居た。
有大抵に言って、彼には”暗殺者”の才能が無かった。
生まれる時代を間違ったのか、或いは生まれる場所を間違えたのか。自身を反面教師にして育った堅物の息子の胤から生まれたとは思えない程に、純粋に”武人”としての才能を輝かせていた。
否、その少年も
……しかしながら、少年の拳士としての才覚はコリュウが思っていた以上に稀有であった。
コリュウ自身、己が天からの才に恵まれた人間だという事は理解できていた。若くして達人と呼べる領域に至り、その絶技を振るい続けてきたのだから。
だが、天真爛漫ながらも不敵な表情を浮かべていた孫は、そんな己と同じ運命を与えられて生まれてきたのだと、そう断言出来た。
『見稽古』という言葉がある。
本来それは実践稽古に入る前の見習いの武人が師や兄弟子などの稽古をその眼で見る事で基本の方などを脳裏に焼き付ける事を言う。
だが、「稀有な才能」という意味合いで使うこの言葉は、些か以上に趣が異なる。
だからこそコリュウは、己が持ち得る技の全てを孫に教え込んだ。
それが自分と同じ才能を持って生まれた孫への、祖父として、武人の先達としてできるせめてもの事であると。
実際、拳士としての技は全て孫へと受け継がれた。
実戦の経験値は未熟も未熟。武人として最も大切なそれが欠けている以上、祖父を超えるのは当分先の話ではあったが、しかしその時点で基礎的な部分では既に完成されていた。
そして何よりコリュウにとって幸運だったのは、孫が”力の使い方”というものを既に理解していたという事だった。
常人にとっては抗う事すらできない圧倒的な武の力。だからこそそれを修める者は、その”力”の使いどころを見極める術にも長けていなくてはならない。
浅薄な感情で市井の者に対して死の技を振るってはならない。―――闇の中に生きる一族の者であるからこそ、無用に力を振りかざすのは誇りを持たない野盗と同義。
幸いにも彼にはそれを理解するだけの聡明さがあった。
強き者が抱えなくてはならない誓約を受け入れるだけの寛容さも、自分が弱い者であってはならないという自覚も、善なる者を虐げるを良しとしない最低限の良識も―――
だからといって、彼が完璧超人であったわけではない。寧ろ本家分家の人間は彼を「悪童」と呼んで憚らなかったし、彼の父親である当主は、息子のその自由奔放さに毎日頭を抱えていたのだから。
―――あれは由緒正しきクルーガーの次期当主の器ではない。
―――鳶が鷹を生むとは聞くが、鳶が姦しい雀を生むとは嘆かわしい事だ。本家の威光も地に落ちたな。
自身らがクルーガーという家を支えてきたと自負する老人共はそう言って年若い彼を蔑んだが、その一方で、コリュウの代から仕える聡明な者達は、その才能をこう評した。
―――まさに獅子よ。今はまだ若いが故に急いてしまっているが……いずれコリュウ様に勝るとも劣らぬ拳士となろう。
―――虚けと謗る者の言葉など気になさるな。破天荒な若だからこそ、掴める未来もありましょうぞ。
彼は強くなった。
本家の中にも分家の中にも、同世代の者達では足元にも及ばない程に強くなった。
腕っぷしだけではない。暗部である家の特徴を理解しようと努め、一癖も二癖もある依頼人を相手取れるような巧妙さまで身に着けた。
金を受け取って人を殺す。成程それは表の世界の人間からしたらただの外道の所業でしかない。
だが、外道には外道なりの矜持がある。その唯一の真芯だけは折らせてはならないと、彼は常に誓っていた。
―――勝たなくてはならない。
弱ければ何も守れない。強く在る事でこそ守れるものがあるのだと、そう祖父は言っていた。
ただ力が強ければ良いというものではない。ただ心が強ければ良いというものではない。
自分が心の底から守りたいという”何か”がなければ、人は決して強くは在れない。
陳腐な言い回しではあるが、それはやはり真実なのだと、含蓄の籠った言葉でそう言われたのを、今でもはっきりと思い出せる。
―――では、自分にとっての”それ”は何だ? 命の全てを燃やしてでも守りたいと願う”それ”は何だ?
クルーガーという家か? ―――それもまぁ、守りたくはある。
祖父がある日いきなり連れて帰って来た義姉か? ―――恐らくだが、彼女は自分が守らなくとも生きていける強い女性だ。
……結局のところ、その時の彼にはその答えが出なかった。
しかしその後、彼は見つける事になる。
自分が己の全てを賭けてでも守りたいと思う存在。守るために、どうしても勝ち続けねばならないという思い。
だからこそ、彼は戦う。
絶対に、負けてはならないのだから。
―――*―――*―――
凄絶―――その戦いは、まさにそう呼ぶに相応しいものだった。
互いに拳を握り締めた者同士が、殺意と闘気を極限まで練り上げて眼前の敵を殺す勢いで剣戟を放つ。
それを躱し、或いは去なし、或いは波動を直撃させ合う事で相殺する。
拳が、蹴りが、空を切る度にうねり、唸り、哭けぶ。他者の一切を排斥するように、その一角だけは剛風が荒れ狂っていた。
―――マイヤ・クラディウスは”準達人級”の武人である。
彼女自身は、己を”武人”と定義する事を烏滸がましいと思っている節があるが、その実力は本物だ。戦闘者として見るならば、《マーナガルム》の隊長格とも張り合える《月影》の中でも稀有な存在である。
しかしそんな彼女でも、”達人級”の武人と正面から戦って勝機があると思う程自惚れてはいなかった。ある程度の戦いを”演じる”事は可能だとしても、そこから先の勝利を拾うだけの地力は無い。
だが、今のアスラ・クルーガーは満身創痍だ。体の左半身は石化し、体中には毒が回り、高熱で意識すら朦朧としている有様だ。
幾ら”達人級”の武人であっても、医者が口を揃えて絶対安静を言い渡すほどの現状であれば
「(やはり、この人は―――)」
強い、と。そう評価する事に何の躊躇いも無かった。
本来であればマトモに動くこともできない筈だ。戦闘を行うという事に対して脳が危機感を覚え、差し止める筈だ。朦朧とした意識が、彼に最適解の判断すら許さない筈だ。
それなのに、それなのに―――アスラ・クルーガーは万全の状態の
一瞬でも油断すれば、狩られるのはこちらの方だ。
元より、『見稽古』持ちの相手に長期戦など愚策。戦いが長引き、自身の技を見せれば見せる程、彼らはその技を自身のものへと昇華させて、さも当然であるかのように使い始める。
それがどれだけの長い年月を経て習得した技であろうが何だろうが関係なく、本人にその気が在ろうとなかろうと奪われていくのだ。
篭手越しに伝わる微かな痺れ。防御されたとはいえ、確実に人体を殴りつけた筈だというのに、まるで最硬度の鋼を相手にしているかのような異常な硬さ。
恐らくアスラは、
その身を生かす為、確実に敵を斃す為の最適解を、彼の身体は覚えているのだ。
「(これが……《神拳》と謳われた男の弟子の力……っ‼)」
骨の髄まで”戦闘”という行為が浸透している。”暗殺者”と呼ぶには余りにも純粋な闘気と殺意に満ち溢れ、戦闘者として相対する際には、その一撃一撃が比喩ではない決殺となる。
現に今まで交わされた拳撃も、まともに喰らえば内臓の一つ、骨の一部程度は容易く機能停止に追い込めるだろう。―――それを可能にしているのは、何も類稀な氣の扱いだけではない。
『経絡秘孔』という技がある。
凡そ
人体を外部からではなく、内部から壊す。浸透剄とも似るところはあるが、攻撃を”徹す”事さえ出来てしまえば、”氣の逸らし方”に余程長けている者以外をほぼ確実に戦闘不能に追い込むことが出来る。
だからこそ、深くまで攻め込むことは出来なかった。どれ程の優位性を持っていても、その一撃を貰ってしまえば一瞬で勝負はつく。
本来、”達人級”と”準達人級”の死合とはそういうものだ。もしもアスラが万全の状態であったのならば、きっとここまで粘る事も出来なかっただろう。
その拳に”遊び”は一切ない。戦いを愉しんではいるのだろうが、しかし慢心している様子は一切ない。
―――そして事実、アスラ・クルーガーは全く油断などしていなかった。
寧ろその逆だ。考えるよりも先に身体が反応するからこそ
拳を繰り出す動きが鈍い。蹴撃が余りにも軽い。体内を循環する氣が乱れに乱れて話にならない。呼吸一つとってみても、苛立ってしまう程に思い通りにならない。
このザマで”達人級”を名乗ろうものならば、詐欺も甚だしい。義弟の前でなくて良かったと、それだけを安堵に思いながら、アスラは再び構え直す。
マイヤ・クラディウス―――今は『
技の一つ一つに派手さは無い。その攻め方は一見地味だが……武術の世界に於いて、”地味”であるという事を貫き徹すのは想像以上に難しく、そして手強い相手の象徴とも言える。
技の装飾に走らないという事は、つまり”揺るがない”という事である。フェイント一つ、誘いの動きや挑発、見かけの動きに惑わされない。
畢竟真実のみを見据えて動くことのできる武人というものは、実は少数派である。その拳は、蹴撃は、一切捻くれていない。
「(惜しい才能だな)」
祖父辺りが知っていたらさぞや目を輝かせていただろうにと、素直にそう思う。
自分の攻撃がいつもより直線的になっている事を差し引いても、的確に去なし、そして一糸乱れぬ反撃を返してくる反応速度と対応力は、才能のみに頼った凡愚では決して辿り着けないソレであった。
「(だが―――つまらねぇ)」
だからこそ、アスラはそう思わざるを得なかった。
才があり、技を扱う気概があり、胆力もあるというのに―――そこには”熱”が感じられない。
まるで自身が戦うのは”義務”でしかないのだと、抱くはずの感情全てを押し殺しているかのようなその戦い方が―――嫌いではなかったが、さりとて好意的に見れるわけでもなかった。
それは暗殺者……暗部に身を置く者としては正しい戦い方なのだろう。それは理解している。
だが、アスラ・クルーガーは”武人”の気質が強い人間だ。交わした技、拳打、得物の殺意に”熱”が籠っているか否かを見分けるに長けた人間だ。
故に彼は、『怪士』の繰り出す技を「つまらない」と一蹴した。
《
しかし目の前の存在のそれは―――
それは何と勿体無い事か。それは何と弄らしい事か。それは何ともどかしい事か。
人の幸せ、なりたい理想にケチを付ける事が如何に馬鹿馬鹿しいかは理解している。アスラも、真に彼女がそれを望んでいるのであればここまでとやかくは思うまい。
だが今の状況が彼女の望んでいたそれとは違うという事を分かってしまっているからこそ、彼は自分の身がそもそも危うい事すらも忘れ、戦い始めてから初めて口を開いた。
「屍のようだな、テメェは」
「っ……」
「俺に対する憎悪も、悔しさも、ブチ撒けたい何もかもを腹の奥底に閉じ込めて―――義務感を免罪符に振るう拳ほどつまらねぇモンはねぇ」
自らが力を振るう理由を、己の意志ではなく他者に求める。
それで最大限の力を発揮する者も確かに居る以上、それを否定はしない。問題は、その義務感が強迫観念から来ているという事。
それに駆られた者が振るう力は、アスラの価値観からすれば軽いものであった。
「どうした? オラ、来いよ。テメェが得てきた大事なモン全部捨てて、走狗に戻る事を選んだんだろ?」
「…………」
「確かに今の俺は満身創痍だが……それでも今のテメェの軽い拳を受けられねぇほど鈍っちゃいねぇんだよ。……最期に内に眠ったままの全てを曝け出して、そして逝けや」
―――瞬間、拳が弾けた。
反射神経が鈍っているとはいえ、”達人級”のアスラの反応が一瞬遅れる程度には鋭く、そして疾い拳。
碌に動かない左腕を、振り子のように振るって受け止めはした。……が、受け止めた箇所から急速に生気が抜け落ちていくような感覚を感じ取ったアスラは、思わず一歩二歩後退する。
しかしそれに構わず、『怪士』は追撃する。
暗殺者としての拳の振るい方ではない。一撃決殺を狙うものではなく、手数を以て攻めるそれだ。
まるで拳が分裂して見えるかのような疾い拳撃。先程までとは打って変わった”魂”の籠ったその攻撃は、アスラの予想以上に強いものであった。
「知った、風な、口をッ‼」
面の奥から、激情が漏れ出る。溜め込んでいた感情の堰が、アスラの言葉で決壊した。
「私は、もう惑わされる訳にはいかない‼ 私は、もう―――人間らしく在って何かを失う訳にはいかない‼」
それは心からの、魂からの叫びだった。普段「マイヤ・クラディウス」として生きている時にも誰にも見せた事のない、今の彼女の本心。
「貴方には分からないでしょう‼ 恵まれた家に育ち、師にも恵まれ、大切なものは全て守り切って来た貴方には‼」
「…………」
「えぇ、確かに、私は貴方を心のどこかで憎んでいました。僻んでいました。私より遥かに”得る”半生を生きているというのに―――そんな貴方が私の
言葉を吐き出すと共に放った渾身の一撃が、遂にアスラの体の中心を捉え、吹き飛ばす。
打ち捨てられていた瓦礫の山に突っ込んだ様子を見て、しかしそれでもなお
「でも……
「えぇ、えぇ、分かっています。今の私はとても醜い。こんなものは逆恨み。―――ですが私は、私を繋ぎ止める全てを断ち切ってでも任務に殉じる覚悟を決めました」
「その為に、貴方も此処で斃します。地力の差など、状況と殺り方で如何様にも埋めてみせましょう」
そう言うと、マイヤは瞬時に自身の貌を覆う仮面を挿げ替える。
それと同時に身に纏うは『
もはや数え切れぬほどの多種多様な暗器が、ただの一閃で幾千の箒星の如く飛んでいく。
その全てに凶風の如き殺意が籠められ、虚空を裂いてアスラが吹き飛ばされた場所へと殺到していく。
石が削り落とされる音、鋼同士が擦れ合う音、地面が抉れる音―――だが、しかし、
「―――随分と饒舌に語ったな」
目と、鼻の先。
石化した左足を自重で前へと押し出し、そして右の拳を引いた状態のアスラがそこには居た。―――先程よりも清々しく不敵な笑みを浮かべて。
―――剛打。
骨が軋む音、内臓が捻じれる感覚、せり上がる血の味を感じながら、マイヤは身を翻して何とかダメージを最小限に抑え込む。
しかしそれと同時に感じた言いようのない脱力感。膝を付きたくなってしまいそうな怠さに、彼女は覚えがある。
否、その言い方は適切ではない。何故ならその技は、つい先ほどマイヤがアスラに放った技そのものなのだから。
「ハッ、使い勝手は悪くねぇ。
本来攻撃の際に放出する氣の流れを、着撃の瞬間に自身の方へと吸い込ませることによって、対象の氣力を吸収する技であるのだが―――吸収する度合いによっては生きる為に必須の生気まで絞りつくす事も可能になる。
無論、着撃の瞬間、その刹那に氣力の放出方向を一瞬で切り替えるという曲芸じみた技が必須となり、また氣の吸収度合いを間違えれば自身の氣力の許容限度を超えてしまい、逆に己の身体を壊す事にもなる。
生来才を生まれ持ったマイヤが、そこに鍛錬という名の研磨を繰り返す事で習得した殺人技の一つ―――しかしそれを、目の前の男はただ見ただけで、完全に模倣して見せた。
その事実が、更にマイヤを苛立たせる。
自分しか持ち得なかったモノが奪われていくという現実。自身が無能に堕ちて行くという錯覚。―――それはただの勘違いだと分かっているところも確かにあるが、それでも納得できないところもある。
もしこの男が、傲慢を絵に描いたような非道な人間であったのならば、幾らでも恨めただろう。もしこの男が、自らの才を過剰に謙遜する卑屈な人間であったのならば、幾らでも殺す隙はあっただろう。
だが、違う。少なくとも、自分にこの男は恨めない。
己の才を過信せず、さりとて過少もしない。それは生来生まれ持った、
だからこそ、他者の才を手放しで評価する。他者の努力を貶す事は絶対にしない。「お前はそんなにも素晴らしいものを持っている」と、そう笑うのだ。
……そうだから、
不遜ではあるが、一度立てた義は貫く。驕らず、妬まず、一度好いた者を自ら手放す事は無い。―――嗚呼確かに、慕うのにこれ程適した存在もそうは居まい。
だからこそ、己が醜く思えて仕方がない。
「……吐き出してぇ事はそれで全部か?」
だがこの男が、アスラ・クルーガーが。
母を喪う事を皮切りに運命の全てに背を向かれたような少年を絶望の淵から引きずり上げた経験のあるこの男が。
その覚悟が
「テメェの暗部の人間としての矜持は見事だ。俺はンな殊勝な事は性格柄出来ねぇからよ。だがな、マイヤ。テメェそんな事したらもう取り返しのつかないレベルで壊れるぞ?」
「そんな事―――百も承知です。壊れた私が任を果たすに足るモノであれば、そうであった方が良いでしょう」
「……随分と徹底した”教育”だ。《折姫》の仕込みじゃねぇな。《
その名に、マイヤの動きも表情も一瞬硬直した。
「何で知ってんだ? ってツラしてるな。これでも一応クルーガー一党の筆頭だぜ? 同業者の情報くらい手に入れてるに決まってンだろうが」
―――*―――*―――
―――カルバード共和国以東には、嘗て《三界》と謳われた暗殺組織が在った。
暗黒時代より歴史の”裏”の一角を担ってきた《月光木馬團》。
その宿敵として当世まで存在し続けている《クルーガー一党》。
そして、深き樹海の深奥に座し、属する者全てが突出した暗殺技能を有した暗殺猟団―――《
マイヤが生まれたのは、そんな厭世の境地に存在していた組織の中であった。
”死”とは与えるモノであり、また享受すべしモノ。
同朋同士ですら、掛ける情けは一切無用。任務に失敗して落命しようとも、それはただの技量不足―――未熟者であっただけと烙印を押されて弔われもしない。
老いも若きも、男も女も関係なく、属する者は皆ヒトではないモノとして任に当たっていた。
慈悲も妬みも、謗りも嘆きも必要無し―――在るべきはただ任を遂行するだけの才と技量のみ。
そんな地獄のような場所に生を受け、ただ一つ彼女が幸運であったのは、その中に在って評価されるに足るだけの才能を持っていたという事。
素顔を見せず、面で覆い、それら一つ一つが司る殺法を、彼女は幼くして身に着けていた。
絶対なる隠形で以て殺業を遂行する『
生を奪う拳で命を枯らし尽くす『
亜種数多の暗器群を手足の如く操り縊り殺す『
その殺法の吸収、そして鍛錬によって更に磨かれる鋭さは凄まじく、いずれは組織の長候補に挙がる事も考慮されていた程の神童であった。
そう、一つ。たったの一つ。
そのたった一つの瑕疵。標的であった男を殺し、妻を殺し、しかし怯えて泣きじゃくる幼子だけは殺せなかったという、ヒトとしての欠片の心が生んだ失態。
だが、《森羅》の掟の中では、標的に情を移して殺し損ねるという事は重罪であった。何よりも、彼女の溢れる才を犠牲にしてでも遵守されなくてはならない掟であった。
ただ一度の”感情”を見せただけで、彼女は生みの親から殺されかけた。激怒されるでもない、罵倒されるでもない。ただの”出来損ない”の塵屑を眺めるような目で始末されかけた。
その、本来享受するべき死から辛くも逃れることが出来たのは、或いは自分が殺し損ねた幼子が見せた当然の恐怖を思い返したからだろう。
「死にたくない」という、ヒトが持ち得て然るべき恐怖の根源。ただそれを心の中に息づかせたまま、彼女は大樹海を命辛々抜け、それでも追っ手を撒く為に走り続けた。
何処へ逃げたかも分からない。何処まで逃げたかも分からない。ただ気付いた時には、何処かの街の薄汚い路地裏で倒れていた。
冷たい石畳の感触を味わいながら、か細い命の灯火は途絶えようとしていた。
自分は何故死ぬのか?―――ヒトである事にしがみついてしまったからだ。
自分より小さな子の、縋りつくようなあの視線に同情してしまったからだ。殺せなかったからだ。
誰からも必要とされず、誰にも看取られる事なく、この狭く汚く薄汚い路地裏で、ボロ雑巾のように死ぬのは―――
しかし、彼女の口からは知らず知らずの内に未練の言葉が漏れていた。
達観しきったようでいて、冷め切ったようでいて、それでもやはり心のどこかにこびり付いてはいたのだ。
「死にたくない」という、その感情が。
『そうか。ならまぁ少し、立ち上がる手助けくらいはしてあげよう。君は中々、面白そうだからね』
―――彼女の声に応え、手を取った少女は、悪戯っぽくそう笑ったのだ。
―――*―――*―――
最初は、「未熟者」だと嗤った。
自分が言えた義理ではないが、そんな自分よりも遥かに裏社会に相応しくない少女がいた。
伝説の暗殺者の名を引き継いだというのに、その思考はまるでただの一人の少女のそれ。面白ければ本心から笑うし、悲しければそれが表情にありありと出る。
何故そうまで楽し気に、幸せそうに笑えるのだと問いかけそうになった事は何度もあった。だが堪えた。
彼女と―――リーシャ・マオと接触したのは、彼女の動きを通してクロスベルの裏の動きを俯瞰しようという、ただそれだけの為であった。
適当に話を合わせていた。適当に笑っていた。適当にからかっていた。
取り繕った性格の何が面白かったのかは知らない。だがしかし、リーシャは殊更にマイヤと共に居る事が多かった。
もしかしたら彼女の方も気付いているのかもしれない、とは思っていた。仮にも裏稼業に手を出し、人殺しを生業としている者であれば、同業者の雰囲気は嗅ぎ分けるものだ。
互いに、互いを監視しているだけであったのかもしれない。それ以上の意味は無かった筈だし、それ以上の何にもなってはならない筈であった。
―――絆された、という感覚は無かった。
《月影》の諜報員の一人としてクロスベルの動向を監視し、報告しながら、世間を欺く為にアーティストとしても活動する日々。
それは仮初の日常だった。いつか帰還命令が下れば、何もかもを手放してこの街を去るのだから。
情も、未練も、何もない。そんなものを生んではならない。
そんな事をすれば、また同じ結末を辿る。決して祝福されない、未来の道筋を。
それでも彼女は―――リーシャは懲りもなく話しかけ続けてきた。
最初はただ鬱陶しいものだと思っていたのだが、彼女が余りにも女として”抜けている”事が段々浮き彫りになってからは、何故か面倒を見るようにもなってしまっていた。
友達だと、彼女は言った。自分は彼女に対して、一度もその言葉を使った事は無かった。
その言葉を発してしまったら最後だと理解していたからだ。貴女も裏稼業の人間であるならば軽々しくそんな言葉を口にするなと窘めそうになった事も一度や二度ではない。
分かっていた。彼女は本当に、”裏”の世界に生きるには向いていない人間だと。
宿業と技は引き継げても、その心までは引き継げない。彼女のような性根が余りにも優しすぎる
幸いにも、それが出来る人間がいた。その男は底抜けの愛を以て彼女を愛し、彼女もまた男を愛していた。
間抜けそのもののふやけきった笑顔で惚気話などされた時には流石に苛立っていつも以上に弄り倒したが、それが本来彼女がいるべき世界の日常。
―――貴女は
―――貴女は陽だまりの世界の中で、向日葵のように笑っているのが一番素敵な姿なのだから。
だから、だから、だからだからだから―――。
忘れなくてはならない。捨てなくてはならない。水中に浮かぶ泡沫のように、儚く消え散らさねばならない。
この街で過ごした日常の全てを、この街で接した人達との全てを―――彼女と共に過ごした日々の思い出を、全部全部、薪と共にくべて消し去らねばならないのに。
どうしてこうも心の中に縋りつくのか。
忘れたくない、忘れてはならないと、まるで駄々をこねる子供のように聞き分けなくしがみついてくるのか。
振りほどかなくてはならない。自分はどうあっても影の者。日向で生きるには眩しすぎる。早く本当の場所に戻らなくてはならないのに。
自分を救ってくれて、居場所を与えてくれた人に報いなければならないのに。役立たずだと思われないように、諜報員として心を殺して任務に殉じなければならないのに―――。
―――気付けば、大事な人を守り切れずに傷心となった彼女を見下ろしていた。
気絶していただけだった。殺してはいなかった。やろうと思えば、今の彼女ならば容易く縊り殺せたものを。
あと一撃。そのただの一撃が踏み込めない。雨に濡れた艶やかな黒髪も、その貌も、その何もかもが美しかった。その嫋やかな首を掴んで骨を折るなどという行為が、今の自分には出来なかった。
情けない話であった。口では覚悟が出来ているなどと嘯いたくせに、この二人を殺める覚悟など、最初から組み上げてはいなかったのだ。
憎らしいほど羨んでたのに、妬むほど焦がれていたのに。それでも、やはり、最後の一線だけは超えられなかったのだ。
「それでも……ッ‼」
それでも言葉を吐き捨てる。
「私は任を全うする‼ 私の中の未練の全てを断ち切って‼ 何も残っていない抜け殻の状態で‼ 何故なら、だって、そうしないと……」
また失う。
失うのが怖い。
奪われるのが怖い。
「行きますよアスラ・クルーガー‼ 私が壊れるまで―――暫く付き合っていただきますッ‼」
再び『怪士』の面を被り、拳を握り、足を引く。
地を蹴ってしまえば、再び死闘が始まる。よしんば死ぬのならば、殺されるのならば、それでも良いかなどと考えて―――。
「駄目っ―――‼」
背後から抱き着かれた人物に、その考えは阻止された。
「駄目、です。嫌ですマイヤ、死んでは駄目です。だって、だって私は……」
大切な友達が死ぬところなんて、見たくありません。―――彼女はそう言って、更に強くマイヤを抱きしめた。
「リー、シャ……はは、こんなに早く目が覚めるなんて……やっぱり、手加減してしまっていましたか」
失笑が漏れる。自分の未熟さを嘆くよりも、殺し損ねた事を憤るよりも……彼女の目が覚めた事に安堵してしまっていた自分に対して。
「怒ってください、リーシャ。私は貴女の事をどうしようもない未熟者だと嗤っていたんです。蔑んでいたんです。……自分の意志で戦っていた貴女の方が、私なんかよりよっぽど強かったというのに」
「…………」
「私から、離れて、ください。こんな女が、貴女の傍にいるのは相応しくない。だから、どうか私を突き放して―――」
「マイヤ、私はね」
耳元で囁くように紡がれたその言葉は、マイヤの強張った体を解かせるには充分だった。
哀しそうに、しかし嬉しそうに。リーシャは力の限り目一杯大切な友達を抱き締めて言う。
「寂しかった。アスラさんが居てくれていたけれど、それでもクロスベルに来てからはやっぱり寂しかった。そんな時、マイヤが『アルカンシェル』に来てくれて、話し相手になってくれて……それで私がどんなに救われたか、分かる?」
「そんな、こと……」
「分かってた。マイヤが本音で接してなかったっていうのは。いつも誰との間にも壁を一枚張って、そこから絶対に踏み込ませなかったし、踏み込もうともしてなかった。
でも、それでも、私はマイヤの事、大切な友達だって、ずっと思ってた」
含みがあるように接していても、常に一歩引いて客観的に接していても。
それでも、彼女がリーシャにしてくれていた事は本物だった。出来合いの食事で済ませようとするリーシャに対して料理を振る舞ってくれたり、タチの悪いナンパに絡まれた時は先頭に立って追い払ってくれた。演技に不安が残る時は黙って愚痴を聞いてくれていたし、なんだかんだ文句は言っても、彼女は親身に接してくれていた。
ピシッ、という音が鳴り、これまでの戦闘で負荷がかかっていた『怪士』の面が割れた。
湿った土の上に面が落ちた時には、マイヤの表情はとても辛そうに歪んでいた。
「……迷惑です。余計なお世話です。私は、だって、貴女を―――」
「うん」
「……”友達”だなんて認めたら、忘れられなくなっちゃうじゃないですかぁ……」
その頬に、雨以外の滴が伝う。
「どうしてくれるんですか……貴女より更に、どうしようもない程に未熟者になってしまったら、私は……」
「私だって、どうしようもない未熟者だよ。今だって、イリアさんを救ってあげられなかった自分が憎い。イリアさんをあんな目に遭わせたシャーリィ・オルランドが憎い。……友達がこんなになるまで何もしてあげられなかった自分が憎い」
「っ……」
「だから、マイヤにも助けてほしい。身勝手なお願いだけど、私を、
その”私たち”が何を指しているのか、分からないマイヤではなかった。
その片割れである男の様子を窺ってみると、苦笑いしながら嘆息し、肩を竦めていた。
自分を抱き締める、少し震えている少女の腕をそっと撫でてみる。
嫋やかな腕だ。今この腕にどれだけの痛みと後悔を抱えているのかと思うと、不意に苛立ちが込み上げてくる。
マイヤからすれば、このクロスベルに於いて善と悪の二元論で指し示せる要素は無い筈だった。
俯瞰する傍観者の視点であれば、どちらを善と思う事も悪と思うこともなく、ただあるがままの事実を見定めるだけの筈だった。
だが今、彼女の中で明確な”敵”が生まれた。
その敵意という概念が生まれたのは、諜報員としては致命的だろう。彼女はまた、何かに対して心を開き、人間である事を捨てきれず、”人でなし”になる事すら出来なかった。
しかし、何故だかそれを厭う心は薄まっていた。
「……アスラさん、一つだけ訊かせてください」
「何だ」
「貴方から見て、今の私は壊れていますか?」
つい先程まで殺意と闘気をぶつけていた相手に、マイヤは問う。
アスラは一瞬だけ呆気に取られたような表情を浮かべはしたが、すぐにいつもの不敵な笑みを浮かべ、数分前まで純粋な闘気を練り上げていたその手で、多少乱暴にマイヤの頭を撫でた。
「良いツラをしてるよ、今のお前は」
「……答えになっていません」
「何、壊れかけた奴の矜持なんざ、生憎と俺は興味が無くてな。……だからこそ、今のお前の覚悟は聞くに値する。それだけだ」
無論、その評価に一切の情けなど無い。
今この瞬間、この問いを以て、マイヤ・クラディウスという少女はアスラ・クルーガーが気を掛けるだけの存在になったという、ただそれだけの事。
「お前も、だ。リーシャ。後悔をするのも、誰かを恨むのも構わねぇが……お前が何の価値も見いだせない鬼に成っちまうのを、俺は見たくねぇからよ」
「えぇ、はい。私がまだまだ未熟である事も、どうしようもないくらいに子どもである事も、アスラさんには隠せませんから。……だって、私の全てを知りたいと思ってくれた人ですもの」
恋人のその言葉が思いのほか心地良かったのか、或いは本当に限界を超えて肉体を酷使していたのか―――吊っていた糸が切れたかのように、彼はその場で頽れた。
張っていた氣は霧散し、身体を動かす機能の全てがここぞとばかりに悲鳴を挙げ出す。死に体であった彼の身体は、ここで漸くそれを思い出したのだ。
「っ……リーシャ、市内に戻って遊撃士協会に。エオリアさんなら、病院に運ぶまで繋ぎ止める事が出来るでしょう」
「ま、マイヤは⁉」
「……この人をここまで追い込んでしまったのは私の責でもあります。なら、出来るだけの事はします」
そう言ってマイヤは、開いた掌をアスラの身体に押し付けた。
本来なら際限なく搾り取る生気を、逆に自身から送り込む。得手ではなく、やった事もなかったが、それをする事に躊躇いは無かった。
「早く、リーシャ。……少し複雑ではありますが、今この人をこのまま死なせるわけには行かなくなりました。心配しなくても、息の根は止めませんよ」
「……大丈夫。それは信じてる。マイヤ、アスラさんをお願い」
聞き慣れた足音が、気配が遠ざかるのを見送ってから、マイヤもまたぬかるんだ地面に腰を下ろした。
生気を送り込み続けるというのは決して楽な事ではない。瀕死のアスラの生命活動を維持し続けるという行為は、そのままマイヤの命を擦り減らしているという事と同義だった。
それでも彼女はそれを止めようとはしなかった。完全に殺そうとしていたのに、あれだけ好き勝手言われたまま死なれるというのはそれこそ業腹であったし―――それに
ふと、とある方角から異様な気配が漂ってきた。
エルム湖の向こう側。先日までは人々を楽しませ、笑顔にするリゾート地であったそこは、今や魔境と化しているのだろう。
災厄の刻は訪れた。クロスベルというこの地が対峙する、最悪の試練の幕が開けた。
本来ならそれでも傍観者で在り続ける筈であったマイヤは、小さく息を漏らしながら、まるで自身に言い聞かせるかのように口を開く。
「―――良いでしょう。この一時だけ、私は貴方方の末路を見守る者となりましょう。
《鬼面衆》の力、精々上手く使ってみて下さい」
どうも。昨日の自分の誕生日中に投稿しようと思って無理だった十三です。
何故一ヶ月も間が開いたって? 全部モンハンって奴のせいなんだよ。
それはともかく、何でクロスベル組の話を書くときはこうも文字数が多くなるのか。今回も16000オーバーだし。
まぁね。ってな訳で主人公戦力にマイヤが参戦する事になったわけですが、割と彼女がいると斥候から直接戦闘まで何でもこなせるんで実際便利です。
……すみません。割とマジで眠くなってきたので後書きもこれくらいにします。まだ話したい事はあった気がするけどもういいや。おやすみなさい。
え?バレンタインなんだから特別話とか挟まないのかって?
そんな気力がマジでないのと、原作の時期的にバレンタインイベ挟もうとするとクロウがもういないんです。これが割と辛い。