英雄伝説 天の軌跡 (完結済)   作:十三

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「うむ。悲しいが、悲しいだけだ。それとはまた別のところに喜びもまたあった。
人生とは無意味と有意味のせめぎ合いだ」

    by 臥藤門司(Fate/EXTRA CCC)







夜の帳で剣王は謳う 中篇

 

 

 

 

「この度は《執行者》へのご就任、誠におめでとうございます」

 

 そう言って、目の前の侍従長は恭しく、優雅に深々と頭を垂れた。

 

 同性の目から見ても、美しいと躊躇いなく言える所作。

 腰まで伸びた、僅かな乱れもくすみもない一級品の黒耀石(オブシディア)にも劣らない黒髪。一点の染みも乱れすらない侍従服に包まれたその肢体は、服の上からでも”人間の女性”の黄金比をなぞっている事が分かる。

 

 異性であればその女神の如き美しさに目を惹かれざるを得ず。

 同性であれば嫉妬の感情さえ抱くのが馬鹿らしくなる容姿に憧憬の念を抱く。

 

 しかしながら彼女は、蠱惑的な香りを滲ませる女主人でも、男の欲望を駆り立てて受け止める娼婦でもない。

 ”仕える者”―――その極致に存在する人物。ただそこに佇んでいるだけで神代の彫像もかくやと思わしめるほどに”完璧”である女性に恭しく出迎えられる事に不快感を覚える人間はそうはいないだろう。

 

 

 だがリディア・レグサーは、不快感こそ抱いてはいなかったものの、一種の畏怖は感じ取っていた。

 

 

「……頭を上げてもらえませんかね、リンデンバウム様。私は、貴女に頭を下げられるほど上等な人間じゃねーですよ」

 

「ご謙遜を。《盟主》様に見出され、《使徒》様方に認められるまでになられた貴女様に対して礼を尽くさないとあらば、(わたくし)の鼎の軽重が問われるというものですわ」

 

 その言葉には、確かにリディアに対しての敬意がある。

 表面上のものだけではない。侍従が主の客を丁重にもてなす際のそれと同じく、彼女の一挙手一投足全てには礼節があった。

 

 ―――しかし、彼女はただの侍従ではない。

 《執行者》の末席を担うことを許され、”達人級”という武人最高峰の名誉を与えられたリディアでさえ、()()()()()()()()()()()()()()―――そう直感してしまう存在。

 

 

 《鉄機隊》、《処刑殲隊(カンプグルッペ)》と並び、《結社》最強戦力の一つと謳われる《盟主》直轄の親衛隊。

 11名の()()()()による守護・遊撃機構《侍従隊(ヴェヒタランデ)》。それらを束ねる《侍従長(セフィラウス)》こそこの女性―――リンデンバウムである。

 

 

「……私は生憎自分の地位が偉いなんて思ってねーですよ。《盟主》様麾下の実行部隊とは言え、所詮はただの戦闘しか知らねー小娘です」

 

「謙遜も過ぎれば卑下となりましょう。貴女様がご自身の立場をご理解されないという事は、即ち《盟主(グランドマスター)》のご判断が()()であるという事。―――()()()()()()()()

 

 瞬間、全身が捩じ切られたかと錯覚するほどの殺気がリディアの全身を襲った。

 一瞥の視線を向けたその瞳は底冷えするほどに冷たく、”達人級”に至ったリディアが数秒間は動けなかった程である。

 

「―――失礼致しました。一介の侍従の身で過ぎた言葉を」

 

「……別に気にしちゃねーです。それよりもリンデンバウム様こそ、《盟主》様の傍回りなんて名誉を頂いてるんですし、もうちょっと胸張ってもいいんじゃねーですか?」

 

(わたくし)はそのように在る為に生まれた存在。そして(わたくし)の意思でもあります」

 

 ピシャリと、けんもほろろであるかのようにリンデンバウムはそう言った。

 従者としてのあるべき姿を体現している彼女が別の顔を見せたのは、《執行者》の中では彼女から”メイド業”の手解きを受けたシャロン・クルーガーくらいのものだろう。

 

「寡聞な聞き回しの言葉で誠に申し訳ございませんが、《執行者》は”あらゆる自由”が許された役職。リディア様もいずれ、ご自分がなさりたいと思う”事”を見つけなさるでしょう」

 

 レオンハルト様がそうであらせられたように―――彼女のその言葉に、リディアは内心で歯噛みした。

 

 結局は師の死に立ち会えなかった弟子失格の自分がそんな言葉をかけてもらえる資格などないとでも言いたげに。

 死に顔を見る事さえままならなかった。何せ息を引き取ったのが遥か上空に顕現した空中古代都市の中。崩壊に巻き込まれた後、その死体は発見できなかったという。

 

 彼の命を奪った下手人が《使徒》の一人であるゲオルグ・ワイスマンであったと聞いた時は、普段生真面目で目上の人間に対しては礼節を以て接するリディアが珍しく怒気を露わに叫び倒した。

 何がなんでも、どんな手を使ってでも、その後に自分がどのような醜い死に様を曝そうとも―――必ず《白面》ゲオルグ・ワイスマンを殺してみせると。

 

 だが、その目論見は呆気なく潰えた。

 ワイスマンもまた、崩壊を始めた空中都市の中で死んでいた。死体も残らず、塩の欠片と化して散っていた。

 その死を悼む者はいなかった。アリアンロードは自業自得と蔑み、ヴィータ・クロチルダは死んで当然とも言った。イルベルト・D・グレゴールはただいつものように嗤っていたが。

 唯一、《盟主》だけは悔い、悼んだ。それを以て《使徒》第三柱への追悼は終わったのだ。―――彼を死ぬほど殺したかった少女の憎悪を置いてけぼりにしたままに。

 

 心の中に燻ぶった激情は―――しかし彼女を否応無く()()させてしまった。

 嘗ての先達、レイ・クレイドルがそうであったように。若くしてその境地に至る者は、何かしらの禍々しい異常を抱えるものだと練達した武人は言った。

 それが認められてか、或いは《剣帝》の後釜を見込まれてか、リディアは《執行者》の一員となった。

 

 与えられたNo.はXⅦ。司るは”希望”。

 

 リディアは自嘲した。一体自分に何を求められているのかと。

 彼女の第二の人生は師であるレーヴェによって齎され、作り上げられた。

 ならば、自分のすべきことなどただ一つ。

 

 

「私の為すべき事はただ一つ。師の遺志を継ぐ事だけ。―――それ以外に興味などありません」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――*―――*―――

 

 

 

 

 

 

「ッハ、面倒なことに巻き込まれてんな」

 

 アッシュ・カーバイドは、レイラから事の次第を聞いた後、ただ一言そう言った。

 

「オマエの親父が仕事を貰ってたトコロってんなら、グリベリアファミリーの奴らだろ? とっととこの街から逃げた方が早ぇと思うがな」

 

「って、言いますと?」

 

「奴ら、最近そこそこ腕の立つ用心棒を雇ったらしい。虎の威を借りて小賢しい狐がイキってやがるってことだ」

 

 アッシュの言う通り、『グリベリアファミリー』と呼ばれる、この街には珍しくもなく存在している中規模程度のマフィアの一つは、ここ数か月、ラクウェルという場所を舞台に手広くシマを拡大しつつあった。

 本来、中規模程度のマフィアが親組織でもあるファミリーを出し抜いて事業を拡大するというのは、普通ではない。

 それを成すだけのカネか、カリスマか、或いは周囲を黙らせるだけの武力を有しているか―――恐らくはグリベリアファミリーが下克上じみた行動に移った理由は最後の事柄が深く関係しているのだろう。

 

「あぁ、それ俺も聞いたぜ。何でもグリベリアの事務所に押し掛けた『ラポス商会』と『黎明会』の連中を一人でノしたヤベー奴だって」

 

「『ハーミット』のジュリア姐さんが言ってたわよ。2ヶ月前に、共和国の方から流れてきた”猟兵あがり”らしいわ」

 

「おいおい、共和国方面で”準達人級”のヤベーのを抱えてる猟兵団なんて限られるだろーが。『黒月(ヘイユエ)』から流れてきたヤクザ者って方がまだ信頼できるぜ」

 

「どっちにしろこのままじゃいられないっすねぇ……『レネグアファミリー』か『ギリゲムナ連合商会』辺りが猟兵団雇って……また戦争っすかぁ?」

 

 気付けば、周囲に散らばっていたグループの仲間たちがリディア達の会話に口を挟んでいた。彼ら彼女らは、まるで意見交換でもするかのように自分たちが聞いた情報を包み隠すことなく口に出している。

 

 それにしても、とリディアは思った。この街で”つまはじきもの”として生きているであろう彼らは、実に色々なことを知っていると。

 無論、彼らを侮辱するつもりも軽薄するつもりもない。ただ、今現在街に出入りしている猟兵団の名前や領邦軍が立ち寄る頻度、怪しい動きをしているマフィアの種類や、果ては国籍不明の諜報員の情報まで、噂程度であるとはいえここまで筒抜けになっているという事に初めて、この街の強みを知った。

 

 都市というのは、猥雑になればなるほど、治安が不安定になればなるほど、情報が漏洩、拡散しやすくなるものだ。

 ひょっとすれば《結社(自分たち)》の事も噂程度にはなっているのかもしれない―――そんな事を思っているといつの間にかリディアの方をアッシュが見ていた。

 

「何か?」

 

「俺としちゃあテメェの事も気になるんだがな。チビっ子、テメェ何が目的でレイラに手を貸した」

 

「チビ……っ⁉ 初対面の人間に、それもレディーに対して随分な言いようでやがりますね」

 

「ハッ、女扱いしてほしいならせめて背丈と口調を何とかしてからにしろや、チビっ子」

 

 いつもなら、「チビ」などと言われた程度では噛みついたりしないリディアも、目の前のガラの悪い青年に対してだけは苛立ちを募らせる。

 女らしくない、という事に関しては彼女自身も自覚しているし、そもそもそれを磨こうとも思っていない。ヴィータなどにはよく「磨けば光るのに、勿体ない」などと言われているのだが、そもそれを研磨したところで武人としての強さに何か影響があるのかと思ってしまう。

 

 しかし、憧れがないのかと言えば、なくもない。

 良く世話になった《鉄機隊》の、例えばエンネアなどは”達人級”の武人でありながら女性としての美しさもしっかりと併せ持っている。

 両立できないことはない。だが、不器用な自分には過ぎた望みだと半ば諦めているのが現状ではあった。

 

「ちょーっと背ぇ高いくらいで調子乗ってんじゃねーですよ()()()。その身長物理的に縮めてやりますよ?」

 

「お前煽り耐性低すぎだろ。そう言うところがれレディーと程遠いって言ってんだよ」

 

 そう言ってアッシュは、バーの方でグラスを傾けていた、扇情的な服装をしたグラマラスな女性を指さす。

 

「せめてあの程度は色気纏ってから言うんだな」

 

 その明確な”女”の差にリディアが何も言えずに不承不承といった体で押し黙っていると、流石にからかいが過ぎていると思ったのか、室内にいた派手やかな女性陣がむくれた様子のリディアを可愛がり始める。

 そのスキンシップにレイラも加わって少し経った後、漸く話が本題に戻った。

 

「……んで、何が目的かでやがりましたか。単純な話です。人を探してるので、その人の情報を報酬に、ですよ」

 

「この街で人を、な。そいつは骨の折れる話だ。一夜限りの流れ者も含めて、何人が出入りすると思ってやがる」

 

「ここいらのカジノや賭博場を荒し回ってるであろう人でやがります。―――こういった場所ならそんな情報も回ってくるのでは?」

 

 確定的な情報がなくとも、断片的なものならば入手できるだろう―――そう思っていたリディアであったが、その目的はアッシュの失笑によって打ち砕かれた。

 

「ハッ、さてはテメェ、”遊び”そのものは知ってても”遊び人”の事は知らねぇクチか」

 

「……何か違いが?」

 

「その探し人がどうだかは知らねぇがな、こういったクソッタレな場所で遊び惚ける”プロ”には二種類いる。()()()()()()()()()()()()()と、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だ」

 

 そして、彼は後者の方だという。

 だが、リディアとしては納得できなかった。あれほどの豪放磊落な性格の人が、ひっそりと勝つためだけに博打をするだろうか、と。

 

 ―――否、もし前提が違っていれば。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()を眺めて愉しんでいるのならば、敢えてそのような楽しみ方をする理由もある。

 

「お前の思惑通り、この街で派手な遊び方をしてる奴の情報は俺ンとこにも入ってくる。レイラが世話になった礼にそれを教えてやるのも良いが、生憎とお前が望むような情報はねぇだろうな」

 

 ここ数週間、敢えて派手に遊び回る人間の情報はない、と。アッシュはそう断言した。

 無論、リディアにその言葉を鵜呑みにする義務はない。虚偽の情報である可能性はあるし、情報を出し渋っている可能性もある。……彼にそれをするメリットはないが。

 

「どうしたチビッ子。これでお前がレイラに力を貸す理由はなくなったわけだ」

 

 そう言われてハッとなる。確かに、目の前の男から情報を得られない以上、これから先レイラを護衛する意味もなくなる。

 チラリとレイラを見ると、少しばかり不安そうな表情をしていた。それとは対照的に、こちらの返事を窺うかのように不敵に笑うアッシュの表情が非常に気に障る。

 

 ―――あの人なら、そんな表情はしなかった。

 

 先程からガラにもなく苛立っている理由も、なんとなくは分かっていた。

 その珍しいアッシュブロンドの髪が、どうしようもなく、レオンハルト(師匠)と被ってしまうのだ。

 だからこそ、師と対照的な粗暴な言動に苛立ってしまう。別人だという事は重々承知だとは言え、師のイメージが崩壊していくような身勝手な感覚が記憶を蝕んでいくのが怖いのだ。

 

「……ナメんじゃねーですよ、木偶の坊。生憎、乗り掛かった舟から途中下船できねー性格でしてね」

 

 理由は()()()()()()()()

 だが、そういった性格であるのもまた事実。伊達にカンパネルラから散々損をしそうな性格だとからかわれた訳ではない。

 どの道、カグヤを見つけ出さなければ帰れないのだ。無為に捜索を続けるよりずっと良い。

 

 すると、アッシュは一瞬だけ驚いたかのような表情を見せ、しかしその直後に再びニヤリと笑った。

 

「ファリア、エリン。レイラを控え室に連れていけ。少なくとも丸一日は強制的に寝かせておけよ」

 

「はいはーい、りょーかい、ボス」

 

「レイラちゃん、ちょっと目の下にクマできてるじゃない。はいはい、ベッドに縛り付けてでも寝かせるわよー」

 

「え、ちょ、一人で歩ける、一人で歩けるから‼ だから、ちょ、どこ触って―――」

 

 呼ばれた二人の女性にセクハラ紛いの行為をされながら連行されるレイラを憐れみを込めた目で眺めていると、不意にアッシュから放られた紙片をキャッチする。

 開いてみるとそこには、この街のとある地点の番地が記されていた。

 

「そこに、アイツの父親がいる」

 

 その言葉に、リディアは僅かばかり目を見開いた。

 

「本来なら俺たちが何とかするのが筋なんだがな。……まぁアイツの人を見る目は割とマジだ。チビッ子、お前も放り出さねぇって言ったからには、付き合ってもらうぞ」

 

「構わねーですよ、木偶の坊。それで? そっちは何をするつもりで?」

 

 やや挑発気味にそう言い放つと、アッシュはカウンターに頬杖をついたままの状態でカランとグラスの中身を鳴らした。

 

「コッチはコッチで、やらなきゃならねぇ事があるんだよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――*―――*―――

 

 

 

 

 

 

 

 その男は、特別何かが優れているわけでも、見目が麗しいわけでもなかった。

 ただの一般家庭の長男として生まれ、ごく普通の青年期を過ごし、ごく普通に大人になり、そして知り合った女性と数年の付き合いを経た後に結婚した。

 

 彼は普通であったからこそ、それ以上を望まなかった。国外貿易の仕事に就いていた彼は、しかし出世欲はあっても誰かを蹴落としてまで成り上がろうとは思わなかった。

 ただ一心に、愛する妻と、いずれ授かる子供に対して誇れる存在でありたい。子が大きくなった時に、自慢の父親であると、そう思ってもらいたいと。

 

 彼の願いは、そのままであれば成就するはずであった。その愛情が原動力となり職場でも高評価を貰い、平凡な人生を送るはずだった。

 

 

 ―――しかし、とある一つの”神罰”がその予定図を大いに狂わせた。

 

 

 26年前の《ノーザンブリア事変》。突如としてノーザンブリア首都バリアスク近郊に、天を衝く巨槍の如き”塩の杭”が出現したその時から、彼の人生は一変した。

 元々中小国であったノーザンブリアは、革命により自治州となったその時から終わることのない貧困に喘ぐこととなる。

 最終的に国家元首を追放した国の信頼は底辺に落ち込み、塩の杭によって国土の3割が死滅、人口の3分の1が死に至るという西ゼムリアの長い歴史の中でも類を見ない大災害となった。

 

 男と妻は何とか生き延びたものの、勤めていた仕事場は倒産。職を失い、貧しい生活を余儀なくされた。

 最初の数年はその日食べるものにも困る有様だった。その後、知り合いの伝手でどうにか働き口を見つけて、仮初ながら安定した生活を享受できるようになった矢先―――彼は娘を授かった。

 

 事変以前から「子供が欲しい」と常々言っていた男の望みを妻が叶えた形になったのだが、彼は嬉しい反面、罪悪感も抱いていた。

 我が子に普通の幸せを与えてやることができない現状。それでも彼は、この場所で必死に家族とともに生きて行こうと誓った。平凡でしかない自分だが、それでも家族を守り切ることぐらいはしてみせる、と。

 

 だが彼は、その誓いを揺らがせてしまう。

 

 

 娘が生まれて数年後の事だった。彼が街中を歩いていると、拘束具と鎖によってまるで奴隷のように地面に這い蹲っている少女に対して、大人たちがこぞって石を投げていたのだ。 何故そんなことをしているのかと男がその集団の中の一人に問うと、彼は狂気を孕んだ声で言った。「この子供は公家の血を引いた者だ‼ 悪魔なんだよ‼」と。

 

 公家―――即ちかつてのノーザンブリア公国を治めていた国家元首の血筋。事変当初にあろうことか真っ先にレミフェリアに亡命し、それに怒りが爆発した国民がクーデターを起こす切っ掛けになった一族。

 なるほど確かに、ノーザンブリアの民が怒りを向ける理由にはなっている。この国がこうなったのは貴様らの責任だと、そう罵倒する偽りの権利はある。

 

 しかし男は、その光景に恐怖を覚えた。

 見ればその少女は、自分の娘と同じか、少し幼いかくらいの年頃だ。公家の血を引いているのだとしても、彼女が何か、彼らの怒りの琴線に触れることをしたわけではあるまい。

 否、そうだとしても―――こんなボロボロの衣服を羽織っただけの少女に対して人が思いつく限りの罵倒を浴びせ、石を投げつけ、あまつさえ直接暴力を加えるような、そんな狂気に満ちた場所になってしまったという事実に、男は絶望した。

 

 結局その騒ぎは、見かねた元正規軍―――《北の猟兵》の指揮官の一人が止めに入ったことで終息した。だが、男の不満は消えはしなかった。

 確かに自分たちは貧困に喘いでいる。あの塩の杭が出現したことで、全てが変わってしまった。

 その不満は常に燻ぶり続けている。今回のように何か尤もらしい不満のぶつけ場所があれば、鬱屈している者達はその感情をぶつけ、そうでない者も周囲の狂気に煽られてその輪に加わる。

 

 駄目だ、と思った。

 この国は、既に”終わって”しまっている。元正規軍を中心とした猟兵団が外貨を稼ぐことで何とか最低限の体裁は保っているが、それでも理不尽な搾取は存在するし、冬になれば必ず少なくない餓死者が出る。

 立ち直ることがあるのだとすれば、それこそ根本的なところから―――例えば()()()()()()()()()()()()()()()()()根底から覆されなければならないだろう。

 そうすれば戦争になる。今度こそ、家族を守れなくなる。そう思ったからこそ、男は妻と娘を連れて亡命した。

 

 幸いにも、移民団のようなものはあった。行き先はエレボニア帝国。

 難民を多く受け入れているカルバード共和国とは異なるものの、しかし選択の余地などはなかった。

 とはいえ、難民を二つ返事で受け入れてくれるような場所は少ない。家族は帝国各地を転々としながら、最後にある場所に辿り着いた。

 

 歓楽都市ラクウェル。そこに生きる者たちは退廃的な面があるものの、知り合った店の女主人は男の置かれた境遇に同情したのか、住む場所を紹介してくれた。

 漸く腰を落ち着ける場所を見つけ、後は職を見つけるだけだと奮起しようとした矢先―――妻が倒れた。

 

 元来、頑丈と言うわけでもなかった。かと言って病弱というわけでもなかったから失念していたのだが、彼女の体には、これまでの綱渡りのような旅は負担に過ぎたのだ。

 男は後悔した。一時の感情に身を任せて国を出てしまったことを。あの国でもまだ、何かできたことはあったかもしれないのに。

 しかし妻は、そんな夫を叱咤した。

 

「私はあそこから連れ出してくれたあなたに感謝してる。あの子に、滅びゆく国を見せたくはなかったから」

 

 その判断は間違ってなかった。自分は絶対にあなたを恨まないし、自分と娘を愛してくれたあなたを、私も愛しているから、と。

 ―――そう笑顔で言った翌日、彼女は亡くなった。

 

 

 

 ―――その男は、特別何かが優れているわけでも、見目が麗しいわけでもなかった。

 ただそれでも、ただ一人残された娘を守るために躍起になることくらいはできた。

 

 なりふりは構っていられなかった。日雇いの仕事は元より、多少危険な橋であっても渡った。

 そうしてラクウェルという場所に体が馴染み始めたころ、たまたま立ち寄った喫茶店で怪しい男が声をかけてきた。

 

「貴方にとって悪くないお話だと思いますよ? 守秘義務さえ守っていただければ、安定した金額をお約束しましょう」

 

 それは、所謂”運び屋”の仕事であった。

 内容は単純で、中身の分からないトランクケースを所定の位置に運ぶことだけ。人から手渡される事もなく、人へ手渡す事もない。

 怪しい仕事だという事は勿論分かっていた。だが、報酬として支払われる金額は確かに魅力的であり、男はその仕事に手を染め続けた。

 

 娘の養育費と生活費に充ててもなお余るその金を、しかし男は酒や賭博に回すようなことはなかった。

 酒に溺れず、女に溺れず、煙草の一つすら嗜まない。この街の人間にとって男の生きざまはさぞ窮屈そうに見えたことだろう。

 しかしながら、男はそれで満足していた。成長した娘が思春期になるにつれて素っ気ない態度をとるようになり、不良の仲間たちとつるむようになっても心配はしていなかった。

 

 例え自分(父親)を嫌うようになっても、娘の性根は真っ直ぐである事が分かっていたからだ。

 彼女が自分の手から離れるようなことがあれば全力で寿ごうと思っていた。直接的ではないとはいえ、良からぬことに手を染めている自分の下に、いつまでも居続けるべきではないと。

 それが彼なりの愛情であった。子をいつまでも縛り付けることが正しくないことを理解していた。

 

 そしてそろそろ運び屋家業からも足を洗おうかと、そう思うようになった矢先―――その偶然は起きてしまった。

 

 その日も、いつもと同じように中身不明の大きめのトランクケースを運んでいた。

 とある路地裏の一角。複数ある受け取り場所の一つであるゴミ箱の中からそれを回収し、何事でもない様子を装って街の目立たない場所を縫うように歩いて、そしてまた複数ある受け渡し場所の一つにひっそりとケースを置くだけ。

 変わらない職務を淡々とこなしていた途中、男は足元の不注意で転倒してしまい、それに伴って放り出してしまったトランクケースの留め金が外れ、中身が露出した。

 

 遵守しなければならない契約内容の一つに、「搬送物の中身について一切詮索はせず、また見る事もしてはならない」というものがあった。

 人並みに真面目であった彼は、運び屋の職業を始めてからその契約を一切破ることはなかったし、或いはだからこそこれまで生き残ってこれたともいえる。

 しかしその時は運が悪かった。飛び出してしまったケースの中身が、転んだ男の目の前に転がってきてしまったのだ。

 

 それは明らかに非合法のものである白い粉。

 それは一瞬で人の命を奪うことのできる武器。

 それは布でくるまれた人の腕。

 それは用途が分からない謎の滑らかな金属の部品。

 

 それらを視界に収めた瞬間、男は恐怖した。

 考えようとしたことはある―――考え至ることはしなかったが。

 自分が運んだ”それら”が、自分の与り知らないところで他者を傷つけ、他者を狂わせ、他者を死に至らせているという事実を。

 今まで考えないようにしていた罪悪感が、一気に噴出する。そうして彼は逃げた。

 逃げて、逃げて、逃げて―――しかし彼は置いてしまっていたものを思い出し、引き返す。

 娘を一人にしてはならない。たとえ彼女がもう自分を必要としていなくとも、最後に彼女の顔を一目見たい。

 

 だがそこで、男は漸く自分が”追われている”事に気が付いた。

 しかし、振り切ることには慣れている。数年に渡って運び屋家業をしていた脚力と土地勘は伊達ではなく、容赦なく自分を殺そうとしてくる黒服の集団を幾度も撒いた。

 笑えないことに、自分は与り知らぬところでとあるマフィアの構成員となっており、その組織のカネを持ち逃げしたという”理由”で殺しに来ているらしい。

 

 逃げてしまえばそれで終わりだ。逃げて他の街へ。彼らの手が届かない場所へと。

 

 ―――出来るわけがなかった。誰よりも娘を愛していた彼が、愛娘にも危険が及ぶこの状況で尻尾を巻いて逃げ出せるわけがなかった。

 逃げ続けている最中で弾丸が体をかすっても、もう手遅れかもしれないという最悪の状況を幻視しそうになっても、それでも彼は諦めなかった。

 

 

 とある廃屋となった家の一角。路傍に打ち捨てられたゴミのように息を整える男。

 後どれくらい機を窺えばいい? 後どれくらい走り続ければいい? 後どれくらいで、娘を助けることができる?

 整わない思考を巡らせている最中、ギシリ、と目の前の木床が鳴った。

 

 ……気付けば目の前にいた、という表現が一番正しいだろう。

 まるで虚空から現れたかのように、その少女は男の眼前で憮然と佇んでいた。

 

 腰まで届く、手入れは最低限の、しかし美しい金髪(ブロンドヘアー)。小柄な体躯に相応しくない成人男性用の枯葉色のコートを羽織り、しかしその翡翠色の双眸は彼女がただの少女ではないという事を何よりも雄弁に語っていた。

 蛇に睨まれた蛙、という表現は聊か正しくはないだろう。彼女は男を睨んでいるわけではない。ただ悠然と、見定めるかのように見下ろしている。

 

 そこに、殺意も敵意もなかった。だというのに、男が言葉を発することは叶わなかった。

 何か目に見えない強制力に押し込まれているような感覚。絶対的な”ナニか”に晒されているような感覚。

 

 しかしその力を問う前に、彼女は眼を閉じた。同時に思い違いだったかと言わんばかりの溜息も添えて。

 

 

「何をしてやがるんですか、貴方は」

 

 言葉遣いは乱暴であった。だが、そこに人を苛立たせる色はない。

 何故か、どことなく育ちの良さを感じさせるような口調。

 

「娘さんに、レイラさんに会いたいんでしょう? ならとっとと会って、危ない目に遭わせた事を謝って、二人揃ってとっととどこへなりと逃げてくださいよ」

 

 その言葉に対して、男は漸く口を開いた。娘は無事なのか、と。

 

「危ねーところでしたが、無事でやがりますよ。ラルナ地区の路地裏を行った先にあるバーと言えば場所は分かりますか?」

 

 男は頷いた。少し前まで、娘がよく出入りをしていた場所だ。不良の巣窟のようだが、あまり悪い噂は聞かない。

 ただ単につまはじき者にされた若者たちが集って、酒を飲みながら過ごすだけの場所。そういった場所にはお決まりのような、マフィアやヤクの出入りもない。

 

 しかし、そこには行かないと言った。

 娘が無事であるならば、彼女一人で逃げることはできる。それくらい強く育ってくれた。

 ならば自分がすべきことは、娘が逃げおおせるまで囮として奴らを引き付けることだ。

 その結果自分が死んだとしても、悔いはない。父親として最後の使命を果たせるならば、命くらい捨てられる。……それが親というものだ。

 

 だがその言葉を聞いた瞬間、少女の表情が歪んだ。そして、男の胸倉を掴み上げる。

 

 

「なに―――馬鹿な事言ってやがりますか‼」

 

「娘を守れるなら死んでもいい⁉ そんだけの覚悟があるんなら、何で二人で逃げようとしねーんですか⁉」

 

「娘に会うのが怖いんでしょう? 手を握ったとき、その手を振り払われるのが怖いんでしょう? ―――何ちゃんちゃら可笑しい事ほざいてやがりますか‼」

 

「生きて、親の責務を果たすんですよ‼ 死んで責務を果たすなんてくっだらねー事考えてる暇があったら、これからどうやって逃げるかだけ考えるんですよ‼」

 

 そう叫ぶ少女の姿は、何も知らない男から見ても必死だった。

 親として在るべき姿を、自分より分かっている……否、()()()()()()()()()()()のか。いずれにせよ、自分にそれが理解できるはずもない。

 ただ一つ言えることは、彼女の言葉は―――男の心の底に沈みこんだという事だ。

 

「……ようやっと吹っ切れたみてーですね」

 

 少女はそう言って、微笑んだ。

 しかしその笑顔はどこかぎこちなかった。吹っ切れたかと言ったのは彼女の方だというのに、彼女自身は何かを抱えたままであるかのようであった。

 

 その違和感を口にする前に、男は廃屋から軽く蹴り出された。少女はこれ以上自分の顔を見るなと言わんばかりに男の体を押し出し、男もそれに応えた。

 走り出す前に声に出したのは感謝の言葉。それを受けた少女はただ一つの頷きを以て返してきた。

 

 不思議なことに、先程まで乱れっぱなしであった呼吸もいつの間にか整っていた。

 考えることはただ一つ。―――生きて、父親としての責務を果たす事。

 どれほど情けない父親であったのだとしても、それだけは絶対に譲れないことだから。

 

 

 ―――その男は、特別何かが優れているわけでも、見目が麗しいわけでもなかった。

 

 それでも、父親としては誰よりも強かったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

―――*―――*―――

 

 

 

 

 

 

 

 ふぅ、と一つ息を吐いて、リディアは昏くなり始めた空を見上げた。

 

 先程までの自分の言動を顧みて、乾き始めた唇をそっとなぞる。

 そこまでする義理などなかった。彼の言う通り、レイラは一人で逃げられるだけのポテンシャルは持っている。彼が自ら進んで囮になるというのなら、逃げられる可能性は上がる。―――リディアが求めたのはその結果だけで、今更二人の間の親子関係など考慮する必要はなかった筈だったのだ。

 

 だが、リディアは彼を送り出した。

 胸倉を掴み上げ、発破をかけ、父親としての矜持を奮起させて。

 

 ……眩しかったのだろう、と思う。同時に羨ましくもあった。

 

 彼女は自分の父親の姿を見たことがない。見た事はないが、母親共々捨てられたのは知っている。

 臆病な父親だったのだろう。優しい母は最期の最後まで彼の事を決して悪くは言わなかったが、それでも夜中に一人で泣いているのを見た事があった。

 

 父親とは如何様に在るべきか。彼女自身、それを思わなかったかと言えば嘘になる。現に先程の彼女の言葉はそれを表したものだったのだから。

 

 リディアが思うよりも、あの男は強かった。腕っぷしの実力ではなく、心が。父親として最後まで娘の幸せを願い、それによって生じる自らの身の危険性すらも顧みず、守り通そうとする意志。

 それを滑稽と嗤う程の外道ではない。だが、ただ純粋に美しいと思えるほど、リディアの心は素直ではなかった。

 ()鹿()()()()()、と。そう思ってしまったからこそ、彼女はあの場で激昂したのだ。

 

 その自己犠牲は、残された者の心を考えていない。否、考えすぎているからこそ見落としている。

 レイラは父親に対して辛辣な事を言っていたが、それでも本心から嫌っていないのはすぐに分かった。聡明な彼女の事だ。父親と対面すれば、きっと憎まれ口くらいは叩くだろうが、最後はきっと共に行くことを選ぶだろう。

 だが、そう決意する時に隣に父親がいなかったら彼女はどうなる? それを想像するのは容易で、容易すぎるからこそ、リディアはそれを許容できなかった。

 

 もし彼が、娘よりも己の保身を考える男であればそう思わなかっただろう。この街で欲に溺れた男であれば、そもそも会おうとすら思わなかったはずだ。

 

 何せ、彼は()()()()()()()()()だ。それも、国が崩壊した当時とその後の荒廃期を知る人間だ。

 それは、それだけで()()()()()()()()()()。レイが未だにそうであるように、彼女もまた幼いころに根付いた復讐心を胸の内に抱き続けている存在だ。

 それを嗤う者を、彼女は決して許さない。復讐は良くないなどと、知ったかぶったような口振りで諭す輩も大嫌いだ。

 

 リディアは許しはしない。

 自らと最愛の母親を捨てた父親を、あの日、自分を見下し、人間のように扱わなかった者たち全てを。

 

 

 ……だが、今回ばかりは彼女はそれから目を逸らした。

 例え一時の関わりであったのだとしても、彼らを見捨てるのは義に背く。敬愛する師からは、そのように振舞えと言われたことは一度もない。

 

 故に、彼女はそこに立ったまま離れなかった。段々と近づいてくる複数の足音を聞きながら、その視線を戻す。

 

 

「なんだぁ、嬢ちゃん。お前さんもその廃屋にいる奴の知り合いかぁ?」

 

「ちょうどいいや、おいガキ、その中にいる男を渡しな。さもなければテメェから先に痛めつけるぞ」

 

「この前レイラの奴には逃げられちまったみてぇだからなぁ。この際このガキでも良いか?」

 

「そりゃいい。よく見りゃちんちくりんだが、出るとこは出てるみたいだしな‼」

 

 少なくとも20人以上はいるであろう男たちの下卑た言葉に、しかしリディアは一切反応しなかった。

 

 この世界は押し並べて非情だ。力弱き者は力強き者に蹂躙される。自然界がそうであるように、否、それ以上に醜い。

 弱者を甚振って嘲笑する者がいる。強者の庇護下にいるだけで己の力を過信する者がいる。人を人と思わないことを疑問に思わない者がいる。

 反吐が出るほどに汚い。そしてその世界に在って、自分だけが清らかなままだと己惚れてもいない。

 

 復讐に身を焦がす自分は、やはり例外なく醜いのだ。その為に力を欲した自分は、武人として何かが間違っているのかもしれない。

 

 だが―――だが、それがどうしたというのだ。

 振るわなければならない時に振るえぬ力などに、何の意味があるのだという。

 

 

「……()()()()、《パラス=ケルンバイダー》」

 

 瞬間、時空が裂けてリディアの手に一振りの剣が握られる。

 黄金の剣身が薄暗い空間に光る。小柄な少女が構えるには大振りすぎる剣に、しかし男たちはただならぬ気配を感じて動きを止めた。

 

「私の間合いに入るのなら、最低でも死ぬ覚悟くらいは出来てるんですかね?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





誠に申し訳ございませんでした(開幕土下座)。
前作投稿が5月9日。この投稿が7月1日。実に2ヶ月もの間投稿できなかったことを平にお詫び申し上げます。

いや、仕事が忙しくなった事とか、疲れもあって体調が慢性的に芳しくなかったとか色々とあったのですが、話を捻り出すのに時間がかかりすぎました。

このリディア・レグサーというキャラ。義に厚い性格をしていながらも、正義感に極振りしているキャラではありません。だって《執行者》だからね。
でも清濁併せ呑めるほど成熟はしていない。そんな彼女の成長を描くのもこの作品の内容の一つだと思っており、この作品の第二の主人公でもあります。

だからできるだけ良い感じに書こうとしてこれだけの時間がかかってしまい、そして時間に見合った話になったかどうかも分かりません。ついでにまだ続きます。

御贔屓にしてくださっている方には、もう少しお付き合いいただければと思います。


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