「
ある日、親友であり、戦友であり、永遠の好敵手でもある女がそう言った。
「私が知る限り260年、貴女は誰一人としてその剣を継承しようとはしなかったでしょう? どれだけ頼み込まれても、どれだけ金銭を積まれようとも」
「そうじゃのう。才ある者は、まぁそれなりにおったが、いまいち儂の琴線に触れんでの」
「……そうですか」
彼女は、それ以上深く聞いてくることはなかった。
この二人が、「主従」ではなく「友人」として話す事は少なくなったが、偶のこういう時間にも、和やかに言葉を交わし続けるという事はない。
武を磨き、戦場で生き続けた彼女だ。人の事を言えるわけではないが、普通の女性のような価値観は持ち合わせていない。穏やかな世間話など、夢のまた夢だ。
叩き込まれたのは戦場で生き残る術、武術の全て、兵を統率する方法……蝶よ花よと愛でられることもなく、戦う事のみを強いられた人生。
恐らく
「……お主も分かっておるじゃろう、リアンヌ」
コト、と先程まで傾けていた酒器を置き、今となっては呼ぶ存在など限られたその名で呼ぶ。
「”アレ”は運命に翻弄された者。歴史に見放された者。
「……であれば、ザナレイアであっても良かったのでは? 彼女も同じく神に愛された者でしょう」
「あの女は神の愛を受け入れた。だが、あの小僧は
「…………」
「あの小僧は儂を飽きさせまいよ。どれほど魂を磨ききるか、どれほど強き戦士となるか……嗚呼、儂の眼を以てしても、あ奴の”可能性”は読み切れぬ」
それはとても、愉しそうな顔であった。
彼女はあの地獄で何を見たのか。無垢な子供の死体が積み重なったあの研究所の昏い牢の中で何を見たのか。
己の無力を嘆き、叫び、残りの人生全てを投げ打つ覚悟で縋ったその少年の眼は、どのような色を灯していたのだろう。
「きっと貴様も気に入るだろうよ。あの魂の色はそうお目に掛かれるものではない。根は聖者に近しいクセに、贖罪のために努めて罪人で在ろうとする。当人はまぁ、死ぬ気で否定するじゃろうが、アレもまた間違いなく、世が生み出す”英雄”の一角に外ならん」
「貴女が言うのでしたら、そうなのでしょうね」
「あぁ。儂にはあ奴を”英雄”に仕立て上げる
その眼には、先程までの享楽に浸った者の色はなかった。
そこにいたのは守護者。世界を護る者。進化を決して許されなかった、神が生み出した人世を俯瞰する存在。
総じて、《
誰だって、ヒトらしい生き方をしようとはしない。永く生きた代償とも言えるのだろう。達観に徹する者もいれば、人間を玩具として愛でる者もいる。
そしてカグヤという女が選んだ道は、「己の欲望に忠実である道」だ。
長い命の中で培った絶対的な武芸と千里眼を携えながら、彼女は自分がやりたいように生きてきた。250年前にリアンヌ・サンドロットと組んでドライケルス・ライゼ・アルノールの指揮の下、帝国各地を荒し回ったのも彼女の意思に他ならない。
ただ単純に「面白い」と思った。それだけの理由で。
だが今は―――彼女にしては珍しく―――自らが生まれ抱えた使命のために動いてもいた。
「お主があの若獅子の小僧と交わした約束を果たす為だけに生きているのならば、儂は……業腹だが、やはり世界を護らねばならぬ。例えそれが、お主を討つ未来に繋がろうともな」
「……私がそれを責めるとでも? 私のような、既に終わってしまった命に遠慮をするほど青くはないでしょう? 貴女は」
「呵々ッ‼ 無論‼ 儂らのようなヒトならざる者にヒトの倫理など不要よ‼ 嗚呼寧ろ、お主を殺せるのならば儂の命の全てをくれてやろうとも。―――我が生涯、最強の好敵手よ」
それは悲願だ。最も強き者を打ち倒し、或いは最も強き者に打ち倒される。
それこそが武人の誉れ。最期はそうでありたいと願う、狂人の思考だ。
―――そして、それが
「だが我らは、揃ってヒトの定義から外れた者。片や死にぞこない、片や神の玩具。なれば、ヒトに非ずの化け物であるならば、我らはヒトの手によって討たれるべきであろうよ」
無窮の武と称えられようとも、人外と畏怖されようとも、彼女らは本来生者に関わってはならない存在。
その道理を捻じ曲げてまで、果たすべき約束が、役割がある。それを善い行いだと思ったことはないし、その因果の応報は死であるべきである事など重々承知だ。
「儂はあ奴に賭けた。あ奴であればいずれ儂を
「……贅沢というものです、それは。私たちには既に武人として死ねる権利など無い。路傍に落ちる石のように、誰にも知られず朽ち果てても何も文句は言えないのですから」
「ハッ、”死”に良きも悪きもあるものか。儂とて贅をぬかしておるわけではない。儂を殺すまでにあ奴が死ねば
一息と共に煙管を銜えた口の端から紫煙を吐き出す。
その不敵な笑みは全てを達観しているようで、しかしただの一欠片たりとも諦観はしていない。自分が今から為そうとしているその全てを余すところなく愉しんでやろうという悦に入った笑みだ。
リアンヌ―――アリアンロードはその笑みが決して嫌いではなかった。
それはある意味での羨望でもあった。自分が決して出来ない愉しみを見出す友を、どこか羨ましいと思ってしまうのだ。
無論、自分がそれに手を出そうなどとは毛程も思っていないのだが。
すると、二人が顔を突き合わせていたその部屋に、一人の人物が入ってくる。
「ご歓談中申し訳ございません、マスター、筆頭」
「構いませんよ、ソフィーヤ。どうしましたか?」
一寸たりとも乱れなく白銀の鎧を纏った長身の美女。主であるアリアンロードと比べても勝るとも劣らない玲瓏たる美貌を持ちながら、《聖楯騎士》の異名を持つ”達人級”の武人。
《鋼の聖女》の後継者と呼ばれるほどの彼女は、しかし今、どこか憂うような表情を滲ませていた。
「例の子が目を覚ましました。……精神はお世辞にも安定しているとは言い難いのですが、その」
「ソフィーヤ、お主から見てあ奴の眼はどう映った?」
唐突な問いかけに、しかしソフィーヤは悩むこともなく言い放った。
「強い子です。あの歳であれだけの凄惨な体験をしたというのに、己が何をすべきかを既に心得ています。―――ですがその内側に弱さもある。あの歳で既に、
それではいずれ朽ち果てますと、断言する。
上司に対して僅かの遠慮もなしに放たれたその意見を、しかしカグヤは何の抵抗もなく受け入れた。
「及第点じゃ。だが元より儂は武に関する事しか叩き込めぬ。それしか能がない故な。―――だからこそソフィーヤ、お主があ奴の可能性を拡げよ」
「……それはつまり、私が彼の教育係になるという事でしょうか?」
「うむ。あ奴に教育を与え、倫理を諭せ。儂の見立てではあ奴は文官の才もあろう。あぁ、理由については適当に濁しておけ。お主に任す」
「……承知致しました。このソフィーヤ・クレイドル、必ずやあの子を立派な紳士に育て上げて見せましょう」
そうして退室するソフィーヤの背中を眺めながら、カグヤは懐かしいものを見たかのようにクツクツと笑った。
「あ奴の生真面目さを見ていると、アルゼイドのところの嫁御を思い出すのう。あの女傑は、あれで中々面倒見が良かった」
「……えぇ、そうでしたね。随分と懐かしい」
「―――いかんな。考えが完全に
「ふふ、引退して遊び惚ける口実でしょう?」
「何故分かった」
「一体どれほどの間、貴女と並んできたと思っているのですか?」
会話を始めてから初めて笑みを見せたアリアンロードを見てしてやったりと言った表情をしながら、カグヤは席を立つ。
「ではの。精々壊れない程度に鍛えてやるとしよう」
「期待していますよ」
「任せておけ。お主の眼鏡にも叶う、特級の剣士に育て上げるとしよう」
―――*―――*―――
「サラも不幸だな。師匠に捕まったら死ぬ直前まで飲ませられるぞ」
控えめに言って半分死んだような目でレイがそう呟く。
1Fの談話室が完全に混沌渦巻く飲み会場になってしまった為、リィンに割り当てられた部屋に入り浸ったⅦ組の面々はその言葉に一斉に溜息を漏らす。
「露天風呂の方からとてつもない覇気を感じたと思ったら……またお前が持ち込んだ厄ネタか、レイ」
「昔っからノリと勢いで動いてる人だからなぁ。自然災害みたいな感じだから深く考えたら負けだよ」
「ラウラとフィーなんか私の部屋でゆっくりしてたらいきなり跳ね起きて武器構えだしたのよ。何事かと思ったわ」
「すまぬ。まさか離れた場所で漏れ出た覇気だけで一瞬死を覚悟するとは思わなかったのでな」
「多分本当に一瞬だけ心臓止まった。……こんなの団長と《闘神》の死闘があった時以来かも」
「……見たところ、差があるみたいだな。僕なんかは少し違和感を感じる程度しかなかったんだが」
「だよなぁ、俺なんか飲み物吹き出したぜ」
彼女の異常なまでの覇気、闘気を感じ取ることができたのは、リィン、ガイウス、ユーシス、ラウラ、フィー、クロウの6人。その現象について、レイは確証を以て答えた。
「まぁあの人の事だから、それなりに氣を練れる奴に限定して
「お、面白くって……」
「中々、その、突飛な方みたいですね」
「委員長、別に遠慮しなくてもいいんだぞ。あの人普通に自分が刹那主義の性格してるっての自覚してるから。俺普通に「師匠ってイカれてますよね」って言ったことあるぞ。半殺しにされたけど」
「いや遠慮するわ」
「むしろその流れでなんで遠慮しないと思ったのか」
その学友たちの反応に、これ以上深く考えるのも無駄だと悟ったのか、レイは手元のカップに残っていた紅茶を一気に飲み干すと立ち上がった。
「ま、とはいえこの宿に迷惑をかけるわけにもいかねぇな。あのまま酒盛りしてたら、ユミル中の酒を飲み散らかしかねん」
「ゆ、ユミル中って……」
「流石にそれは誇張表現なのではないか?」
「お生憎、師匠はそれを
「おう……」
「ユミルは高山葡萄のワインと東洋風の米酒と芋酒が絶品だって言うじゃないか。名産だと聞けば必ず飛びつくのが師匠だ。止めてくる」
そう言ってレイはリィンの部屋を後にし、途中で厨房に寄ってコップ一杯の白湯を貰ってから談話室へと足を運ぶ―――その道中、何故かずっとリィンとラウラとフィーが後を付いてきていた。
「何故付いてくるし」
「教官を自室まで運ぶ人手が必要だろ?」
「少し、確かめたいことがあってな」
「私は単純に興味。レイのお師匠様を見てみたい」
そんな理由で付いてくる彼らを、レイは止めなかった。その理由は理解できるし、何より彼方が拒否していないのであれば振り払う必要もない。
嫌な予感をひしひしと感じながら談話室へと繋がる扉を開くと……そこには予想通りの地獄が広がっていた。
無数に転がる酒瓶、酒樽。部屋中に酒気が充満し、もはやそれは瘴気と呼んで差支えがない程。
レイに付いて入室した三人が思わず顔を顰める中、そうなっているだろうなと思っていた当人だけは構わず進む。
「クハハハッ‼ やはり儂と飲み回せるのは貴様だけか、シオン‼」
「いやぁ、はっはっはっ。近頃は主に禁酒を言い渡されていましてな。これほど飲み干せるのは久方ぶりです」
「あ奴も細かいのう。酒の愉しみを知らぬ小僧の癖に、小煩くてかなわん」
「一年中酒に溺れているくらいなら多少小煩い方がマシだと思いますけどね?」
ビクリ、とシオンが肩を震わせたが、カグヤは不敵に笑い続ける。
「師匠、ご存知かと思いますが、ウチの式神は過度に酒が入ると調子に乗ります。すべきことを忘れて、何かをやらかします。……いや、別に酒を嗜む事は悪くねぇんですがね」
「貴様も言うようになったな馬鹿弟子。”これ”は、貴様の式神として零落したとはいえ”聖獣”の一角。女神が産み落とした至宝を見守る世界の護り手であろうに」
「
「あ、主……」
「酔いは醒めたな? ……まぁ、そこにある酒は好きにしろ。俺もちと、お前に我慢を強い過ぎたな」
「あ、ありがとうございます」
元より慰安旅行である。小煩い事を言うつもりなど最初はなかったが、それでもこの惨状は目に余る。最終的に支配人各位に頭を下げるのはレイなのだ。
そして、早々に潰れて床に倒れていたサラの腰を抱えて持ち上げる。
完全にイッてしまっている。どれだけ飲み、飲まされたのかは知らないが、恐らく向こう3日はまともに歩けまい。
しかしそれでは困る。これでもⅦ組の責任者だ。これ以上泥酔した姿を部外者の眼に晒すわけには行かない。
レイは用意した白湯に懐から取り出した紙袋に包まれた粉末状の薬を溶かし入れる。透明な色の白湯が僅かに緑色に染まったのを確認すると、レイはそれを口に含み―――
「ほう?」
カグヤが揶揄うような視線を向けるのも構わずに、サラの口を僅かにこじ開けて、口移しでそれを飲ませる。
性的な意味合いがあったわけではない。ただ、その一連の流れに僅かの躊躇いも無かった為、
「不器用な貴様も漸く女の扱いに慣れたか。感慨深いものよな」
無論、レイが今したのは治療行為だ。白湯に溶かし込んだのは彼が調合した特製の酔い止め薬。サラの体質に合わせて作ったものである。
元々薬師の息子として生まれ、母の仕事ぶりを見て育ち、執行者時代にはこういった知識にも長けていたアルトスクに調合技術を片手間に習っていた彼の調合技術の腕前は―――本職には流石に劣るが、それでも個人の体質に合わせた薬を作る程度なら時間をかければ何とかなるのだ。
「茶化さないでください。……リィン、ラウラ。サラを頼んだ」
「あ、あぁ」
「任せておけ」
二人はそう返事をすると、サラの腕を片腕ずつ肩に担ぐ形で負担をなるべくかけないように体を持ち上げる。
実のところこの二人も、カグヤから漏れ出る闘気に対して気張るのに精一杯で、余計なことを考える余裕などなかった。それと同時に、リィンは体の内側が疼くような違和感を、ラウラはどこかその容姿に懐かしさを感じていたが、終ぞそれを口にすることはなかった。
そして一人残ったフィーは、一見ただ佇んでいるだけのように見えて、切れる寸前まで張り詰めた緊張感を纏いながらしっかりと臨戦態勢を取っていた。
しかしながら、その眼光はいつもより揺らいでいる。まるで主人の脇で威嚇する子猫を見るかのように、カグヤもカグヤで面白がるのをやめようとはしない。
「フィー」
「……レイ」
「お前も戻れ。……この人は別格だ。ルトガー団長と《闘神》のオヤジが共闘してかかっても恐らくは勝てない正真正銘のバケモノだぞ」
その小声を聞いた瞬間にフィーは眼を見開き、しかしすぐに悟ったのだろう。その言葉が決して過剰なものではないのだと。
決して目を逸らさないようにして退室していく様子を見て、カグヤは笑みを深くした。
「アレが《猟兵王》の形見か。ただの小娘かと思ったが、成程確かにS級猟兵団で
ふぅ、と銜えていた煙管を離して紫煙を吹きながらそう評価する。
「あと数年もすれば確実に”準達人級”最高位に至れる才はあると見た。クク、貴様が入り浸るだけあって面白い連中が揃っておるではないか」
「まぁ、十人十色ですよ。何より、根性と覚悟がある。……過去の俺なんかより、よっぽど上等な連中です」
「先の小僧と小娘にしてもそうじゃのう。鬼子だけに飽き足らず真祖を飼う小僧に、アルゼイドの小僧の末裔……因果は巡るのう。面白くて敵わんわい」
実のところ、こういう事を考えている時のこの人が碌な事をしないのは分かっている。
興味を持たれたら、そこで終わりだ。その強さを見せてみろなどという理不尽な理由で喧嘩を吹っ掛ける人なのだから。
だが、まぁ。
「しかしこの郷は良き場所よな。心身を癒す湯があり、美味い酒があり、そこに生きる民たちは自然を是として受け入れている―――時代が進めば生き方も変わるのが人間だが、変わらぬを良きとするのも人だからこそ出来る贅というものよ」
「師匠の場合、美味い酒が飲めれば何でも良いのでは?」
「クハハッ、否定せぬ。浴びるほど飲み、そして月夜を眺めて余韻に浸るのが良き酒の飲み方というものよ」
「嗜む程度が一番美味いと思いますけどねぇ……まぁ、夜の散歩と洒落込みたいのなら、山道に行きましょうや」
「む? 珍しいのう。《結社》に居た頃は儂の
「何言ってんですか。今でも死ぬほど嫌ですよ。……でもまぁ、アレです。師匠孝行できる最後の機会かもしれねぇっすから」
その言葉には後悔も郷愁もなかった。ただの事実を事実として伝えただけ。
そしてそれに対して、カグヤも何も返さなかった。煙管を銜えたままゆっくりと立ち上がり、レイの横を通って談話室から出ていく。
冷や汗が噴き出した。
リィンたちがいた手前堪えてはいたが、本気の闘士を剥き出しにしたカグヤを前にすれば、慣れているはずのレイでさえ気を抜けば膝をついてしまいそうな圧迫感を押し付けられる。
ただ横を通られただけでこれだ。《結社》を去ってから5年と少し。これ程までに
「シオン」
恐らくは震えていない声で、僕を呼ぶ。
「後は任せた」
「……御意に。ご武運を」
彼女もまた、多くを語らず、問わない。
着いていくのは無粋だと理解しているからこそ、ただその一言で主を送り出す。
武人の逢瀬に、ヒトならざる者がいてはならないのだから。
―――*―――*―――
浅い呼吸を、何度も何度も繰り返す。
それでも、首筋の悪寒が止むことはない。立ったままの鳥肌がおさまることもない。
恐怖という感情は戦場で覚えたはずだった。それを理解しても足を竦ませることなく動ける癖もつけていたはずだった。
だが、アレは違う。アレは別格だ。
レイは言った。S級猟兵団の頭目である《猟兵王》と《闘神》双方の力を以てしても、届かない領域だと。
一瞬だけだが、その言葉を疑ったのも確か。聡明な頭脳と獣の如き荒々しさを併せ持ったあの剛力の達人たちが、敵わないことがあるものかと。
しかし、直後に己の愚考を恥じた。後ろ腰に差した双銃剣に手を伸ばす事すらできず、睨みつけるのが精々であった。
酒に呑まれていた? 否、あれは完全に飲み込んでいた。もし双銃剣に手を伸ばして殺意の刃を向けていれば、確実に命を取られていただろう。
「(いや、そもそも……)」
ザクセン鉄鉱山で相対した、ナニかに憑りつかれたかのような《帝国解放戦線》の幹部―――それと比べるべくもない程の
一瞬だけだったが、カグヤという武人の姿に”鬼”を見た。
絶対に勝てない。残りの一生全てを技の研鑽に費やしても到底追いつけない人外の存在。部屋に戻って暫く経ったというのに未だに足が震え、呼吸が早くなるほどに恐怖しているのがその証拠だ。
だが、その呼吸が整う前に、サラが運び込まれたこの部屋に新たな闖入者が現れる。
「よっ、と。サラ殿のご加減は……よろしいみたいですな。一応急性アルコール中毒にならない程度には気を付けておりましたが」
「教官が意識無くすレベルで酔うって見た事ないんですが……どれだけ飲まされたんですか」
「まぁ三杯ほど……樽を」
「桁が違った」
「これが大人の付き合いというものか。私も精進せねば」
「ラウラのそのベクトルが変に真っ直ぐなところ嫌いじゃないよ」
仮姿の狐のぬいぐるみから元の姿に戻ったシオンがサラの顔を覗き込むと、若干表情が緩んでいた。口移しでの接触が無意識レベルで感じられる程には
「おや、フィー殿。まだ震えは止まりませぬか」
「っ……」
かと思えば、話のついでのように核心を突いてくる。
何も言い返せずにいると、しかしシオンは何を窘めるでもなく、寧ろ優しくフィーの頭を撫でた。
「無理をなさいませぬよう。それはヒトであれば感じねばならぬ恐怖です。主でさえ、今でもあの方の覇気の全てを受け止める事は叶いませぬよ」
「…………」
「皆様方もどうか、あの方を恐れた事を恥じませぬよう。ヒトの道理を踏み外したくなければ」
それは、シオンの裏のないアドバイスだった。
その覇気に僅かも怯むことがなくなれば、それはもう、ヒトの理を外れたバケモノの道に足を踏み外すという事。
踏み入れるのではなく、
それは理解できた。しかし、リィンは納得は出来なかった。
「レイは、あいつは
「あ……」
「師を超えなければ、そうでなければ自分は強くなれないと思い込んでいる。俺はアイツと出会ってまだ半年程度ですけれど、そう思ってしまう程に自分の強さに無頓着な人間であることは、知っているつもりです」
自分は弱いのだと。彼は幾度かそう言ってきた。
それは過剰な謙遜ではない。武の実力ではなく、心がだ。まるで鋼を鉄槌で打ち付けるかの如く、追い込んで、追い込んで、砕かれ壊れる寸前まで痛めつける自傷行為にも似た在り方でなければ己を鍛える事は出来ないと思っている男だ。
とはいえ、それを間違いだという事は出来ない。
彼の半生がそう思わせたのだ。強くなければ生き残れない世界で何度も何度も絶望を味わってきた半生が、その感性を生み出したのだ。
師匠越えは弟子の義務の一つ。その感覚を否定はできない。
だが、彼の師は恐らく―――乗り越えてはいけない存在だ。彼女を下した未来の彼は、果たして以前と同じ”レイ・クレイドル”であるのだろうか?
「……リィン殿は、いえ、皆様は、主を学友として案じてくださるのですね。武人としての憧憬でも求める強さへの憐憫でもなく、ただ共に歩む友として」
「……侮辱していると笑いますか?」
「まさか。私も従者としてそれらしく振舞ってはおりますが、所詮はヒトの感情を完全には理解しきれない獣です。故にこそ、主と心を通わせ、共に歩める貴方方が羨ましい」
それと、と。シオンはベッドの方へと視線を向ける。
「恋人として、
「……言ってくれるじゃない」
額に乗せられていた濡れタオルを掴み、その言葉を向けられた当の本人がゆらりと立ち上がった。
「サラ教官、やっぱり酔ってなかったんですか?」
「お生憎様、きっちり酔い潰されてたわよ。やっぱりアイツの薬は効くわね。癪だけど」
そう言っても少しはフラつくのか、重々しそうに何度か首を振ると、苦々しそうにシオンを睨む。
「アイツの童貞を持って行ったのはアンタだって聞いてるわよ。シオン」
「それはご勘弁を。カグヤ殿にも「女の味を覚えさせろ」と言い含められておりましたし。ふふ、
「アンタ、まさかまだアイツを食ってるんじゃないでしょうね?」
「まさか。私が抱いていただいたのはあの一度だけ。サラ殿やシャロン殿、クレア殿の愛を邪魔はしませんとも」
火花を散らして繰り広げられる”女”としての睨み合いに、周囲で聞いているリィンたちの方がいたたまれなくなってしまう。因みに、その会話が始まった直後にフィーの両耳はアリサによって塞がれていた。
とはいえ、戦場で生きてきて鍛えられた聴覚が手で塞がれた程度で遮断できるはずもなく、そのこっぱずかしい会話は筒抜け同然であったが。
「……話が逸れたわね。それで? アイツは行ったんでしょう?」
「えぇ。四半刻ほど前に」
「ちゃんと帰ってくるんでしょうね?」
「さて、それは保証できかねますな」
グッ、と言葉を詰まらせるサラと、まるでもののついでかのように答えたシオンに驚愕する一堂。
「……主が戻らない可能性を、そこまで平静に口にできるものなのか、貴様は」
ユーシスが苦々しくそう言うも、しかしそれでもシオンはただ軽く首を傾げるだけであった。
「これは異な事を。武人が武人を誘ったのです。死合いとはそういうもの。己の命を賭けるならば、従僕たる私がその結末を口にすることがあってはなりませぬ」
「っ……」
「ですが、気になされるのも道理でありましょう。まぁ酒については少々強く咎められてしまいましたが、
するとシオンは、虚空から金色の焔と共に一つの”鏡”を現出させた。
そしてその鏡面に移るのは、部屋の様子ではなく外の景色。薄暗くなり始めたユミルの険しい山道を、しかし地元の人間であるかのように進んでいくレイとカグヤの姿がそこにはあった。
瞬きすらしてはならない。何故かリィンはそう思った。
事実これから始まるのは、最強の師弟による死合い―――紛れもない殺し合いなのだから。
―――*―――*―――
髪が、数房宙を舞った。
しかしそれを意外には思わない。寧ろ鮮血が舞わなかっただけでも上々であった。
既に、愛刀は手の中に。鯉口は切った。ただそれでも、彼が抜刀するよりも先に数十の剣閃が襲来する。
数閃を弾く。指先まで一瞬感覚がなくなるほどの重さを味わい、しかし刹那の間に切り返す。
防ぎ、躱す。だがそれが叶ったのはレイの実力―――だけではない。
彼女が、そうしたからだ。
師は、弟子が確実に避けられる力と速さを以て斬りつけた。
それは手加減ではない。小手調べだ。ただしその小手調べであっても、凌ぐのが精一杯であるのが事実。
視界に揺らめくのは真紅の刃。師が戦友と出会うよりもずっと前から携えていると常々言っていた、鍔のない長刀。
その刃から繰り出される絶技の数々を知っている。どれだけ死にかけたかなど、千を超えてから覚えてなどいない。
だが、恐怖の感情よりも先に口角が吊り上がる。今日こそ、その一見無防備なその構えに罅を入れてみせるのだと。
故に、彼女はまた笑う。
嗚呼、だからこそ面白いと。何度も何度も死にかけて、普通の人間ならば骨の髄まで恐怖を刻み込まれて発狂しているだろうに、それでも目の前の小僧は僅かに身震いしながら笑うのだ。
―――この一瞬を味わおう。
―――この一瞬を愉しもう。
命を賭けた鍔迫り合いの中でしか、語れない事もあるのだから。