英雄伝説 天の軌跡 (完結済)   作:十三

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「我らは前にしか歩めぬが、振り返るべき故郷があるのは幸せな事だ」

        by ハク/オシュトル(うたわれるもの 二人の白皇)








優しき夢のその中で

 

 

 

 

 

 最初から、違和感は感じていた。

 

 

 サラは朝一から学院の方へと向かい、シャロンは今日一日だけはルーレのRF本社の方へと戻っている。

 朝食当番であったリィンは、同じ当番であったガイウスと共に人数分の朝食を用意し、次々と起きてくる学友たちを出迎えていく。

 

 朝修練がない時の食堂は基本的に平和だ。本気で眠そうなフィーとミリアムを抱えるエマに、自主鍛錬をしてからシャワーを浴びた後のラウラ。朝から顔を合わせてしまい、地味に口喧嘩をしながら入ってくるユーシスとマキアス。寝癖がついたままで大欠伸をしながら扉を開けるクロウ。朝一でも楽譜とにらめっこをしたままのエリオット。お気に入りのジャムを買ったばかりで機嫌が良いアリサ。特にどうという事はない一日の始まりだが、その日は少しだけ違った。

 

「悪い、遅れた」

 

 珍しい事もあるものだ、と全員が思った事だろう。基本寝坊気味のクロウより遅く食堂入りするメンバーもまずいない。それなのにその日のレイは、一番最後に食堂の扉を開けたのだ。

 

「おいおい、珍しいな。今日は大雪でも降るんじゃねぇのか?」

 

「まぁレイもそういう時はあるよねー。うんうん、分かるよ。寒くなってきてベッドから起き上がるの辛いもん」

 

「二人には多分言われたくないと思うよ?」

 

 いつもより少しばかり騒がしくなったが、それでも食べ始めは変わらない。

 シャロンがいないせいで簡素ではあるものの、半年に及ぶ寮生活が功を奏してマトモな食事を提供できるようにはなった。

 朝から如何なく健啖ぶりを発揮する面々もいれば、自分のペースで優雅に朝食を取る面々もいる。

 そんな中、ガイウスがふと声を掛けた。

 

「どうした? レイ。今日はいつもより食べるのが遅いみたいだが」

 

「ん? そうか? まぁ昨日の夜ちょっと考え事しててな。腹減っちまったから自前で買ったモン食っちまったんだ」

 

「えー?ずるーい。一人だけ夜食なんてずるいよー。ボクも呼んでくれればよかったのにー」

 

「お前を呼んだら際限なく菓子食い荒らすだろうが。シャロンが盗難防止に仕掛けた戸棚のトラップに何回も引っかかってんだろうが」

 

「……あぁ、たまに食堂に行くとミリアムが天井から鋼糸に吊られて逆さ吊りになっていたのはそういう事だったのか」

 

 その会話に紛れるようにして、レイが手に持っていたスプーンを机の上に静かに下した。

 

「……スマン、ちょっと先に部屋に戻ってるわ。折角作ってくれたのにすまねぇ」

 

「え? あ、あぁいや、それは別に構わないけど……」

 

 そう言って席を立ち、食堂を後にするレイの後姿を、全員が信じられないものを見るような目で眺めていた。

 先程まで騒がしかったミリアムでさえ、パンを口にくわえながら固まったくらいである。まるで時が止まったかのような時間が十数秒。その静寂を破ったのはクロウだった。

 

「……おいおい、大雪どころか槍でも降るんじゃねぇだろうな」

 

「珍しい、というか初めてじゃないかしら? レイがご飯を残すなんて」

 

「でもちゃんと中途半端に残してない辺りは()()()な」

 

「あ、じゃあそのベーコンエッグ、ボクもらってもいい?」

 

「君は本当にブレないな」

 

「でも……本当にどうしたんでしょうか。何だか元気がなかったようにも見えましたけど」

 

 エマのその言葉に、全員が同意した。

 何と言うか、全体的に覇気が感じられなかった。いつもであれば例え食事中であろうとも最低限は纏っているはずのそれが、今日は一切感じられなかった。

 

「アイツでも体調崩す事あンのかね?」

 

「んー……フィーはレイが風邪ひいたところとかは見た事あるのか?」

 

「ううん。そもそも《西風》に居た時だって、極寒地帯での演習でケロッとしてたもん。アイゼンガルド連峰とか、ヴェンドラン雪原とか、リーリングベルン氷河地帯とか」

 

「……アイゼンガルドでの話は聞いていたけど、他の二つは大陸北端の未開拓地帯じゃない」

 

「むしろなんで生きてるんだろうね」

 

「やめてやれよ……今更だけどクラスメイトを人外扱いするのやめてやれよ……まぁアイツ色々な意味で人外みたいなものだけどさぁ」

 

「フォローするふりして背後から突き落とすのは良くないと思うなぁ」

 

 とはいえ、と思う。

 どれほどあり得ないと議論したところで、彼の様子がおかしい事に変わりはない。

 仮病を使うような人間ではないし、使うのならばもっと上手くやるだろう。表面上の様子だけではなく、足の運び方や体幹の位置まで、鑑みてみればおかしかったように思える。

 

「まぁ、後でちょっと様子を見て来るよ」

 

 リィンのその言葉を最後に、ひとまずその話題はそこで終了した。

 

 

 そして数十分後、朝食の片づけを終えたリィンは、二階奥のレイの部屋の扉をノックする。

 いつもであれば、自分が訪ねる事など最初から分かっていたと言わんばかりにすぐに返事が来るのだが、今日は違った。

 十数秒、数分経っても音沙汰がない。流石におかしいと思ってドアノブを捻ると、鍵はかかっていなかった。

 

「入るぞ、レイ。大丈―――」

 

 思わず、言葉を詰まらせる。

 

 床に、彼は倒れていた。

 いつものふてぶてしい表情などそこには微塵もなく、眉間に皺を寄せて苦しそうな表情を隠さない。

 息遣いは荒く、もはや立ち上がる力すらない事を表すかのように、手足が微妙に痙攣している。

 

「レ―――」

 

 呆けたのは一瞬。すぐに最大級の異常事態だと察したリィンがレイを起こすために駆け寄ろうとしたが、その前に虚空から現れたシオンが彼を優しく抱え上げた。

 

「嗚呼……やはりこうなってしまわれましたか。我が主」

 

「シオンさん‼ レイは大丈夫なんですか⁉」

 

「えぇ。……と、一概に肯定はできません。主のこの状態は、医療機関が対応できるものでは御座いません。リィン殿、登校前で申し訳ございませんが、皆様を今一度食堂にお呼び立ていただけますかな? サラ殿には私の方からお伝え致しますので」

 

「は、はい」

 

 瞬時に身を翻して走り出す。

 幸か不幸か、お世辞にも防音性が高くない寮で騒げば、異常事態への対処に慣れた面々はすぐに飛び出してくる。

 早々に全員が集まり、再び食堂の席が埋まるまでに、そう時間はかからなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――*―――*―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 夢を、見ていた。

 

 

 

 はっきりと、夢だと分かる夢であった。

 

 意識がハッキリしている。これで悪夢を見せられていたのならばこの上なく辛かったが、幸いにも、悪くない夢だった。

 

 

 

『―――お、起きましたね。いやー、ビックリしましたよ。私との模擬戦中に急に倒れるんですもん。まったく、体調悪いなら最初から言ってくださいってば』

 

『気付いていなかった貴女も貴女ですわよ、ルナフィリア。……顔色は最悪ですわね。今水を持って来させていますから、動かずに待っていなさいな』

 

 

 周期にして約一年に一度。忌まわしい事に例外なく、重度の風邪のような症状を発症させていた。

 その度に周囲の人間を困惑させ、大騒ぎになっていた。

 それは、普段命のやり取りにも似た模擬戦をやり続けている《鉄機隊》のメンバーが相手でも変わりない。

 

 

『おっと、ここぞとばかりに優しいお姉さんアピールですか。きたない。流石うっかりデュバリィきたない』

 

『な、何を言っているんですの貴女は‼ そういう貴女こそ彼が倒れそうになった時に槍を放り投げてでも助けに行ったじゃありませんか‼』

 

『そりゃそーですよーだ。皆の弟分ですもん。面倒見るのは義務じゃないですか』

 

『よくもまぁぬけぬけと……はぁ、もういいですわ』

 

 そうこうしている内に、《鉄機隊》の新人隊員達が水を持って来たり氷枕を持って来たり、気が付けば着替えさせられた上にベッドの中に放り込まれていた。

 今より痛みや苦しみに耐性がなかった頃。一年に一度訪れるこのどうしようもない苦しみは、否が応にも不安を煽った。

 

 このまま死んでしまったらどうしよう。このまま起きなかったらどうしよう、と。

 今思えばそんな事は杞憂だったのだが、幼い頃というのは理屈抜きで不安に駆られるものだ。

 薬ではどうしようもない。ただ痛みと苦しみが去るのを待つしかない。それに耐えていると、思い出すのだ。あの暗い牢に閉じ込められていた時の苦しみを。

 

 そうしてどうにか眠りについても、見るのは悪夢ばかり。全身から大量の汗を流して飛び起きる事など珍しくもない。

 しかしそんな時、誰か一人は必ず傍に居てくれた。

 

 

『む、起きたか。……どうやら夢見が悪かったようだな。今水を持って来よう』

 

『あらあら凄い汗ね。今拭いてあげるからじっとしていなさい』

 

『……あんまり不安そうな顔するんじゃありませんわ。貴方は筆頭が才能を認めた殿方なんですから、もっと堂々としていればいいんですわ‼』

 

『あーはいはい大丈夫ですよー。君はどうにもなりませんし、私たちもどこにも行きませんから。ね?』

 

 

 それは実際にあったことなのか、それとも「こうあって欲しかった」という妄想なのか。

 否、それすらも分からない程薄情ではない。

 精錬で、潔白で、自らの主の為に武を張り、勲を示す。その命を投げ出す事すら惜しくはない。―――そんな彼女たちが”人の心”を失わないままに研鑽を重ねていたのは幸運でもあった。

 

 人の痛みを忘れてはならない。

 人の苦しみを忘れてはならない。

 人の弱さを忘れてはならない。

 

 それが彼女らの主である《鋼の聖女》の言葉であり、当時の副長―――ソフィーヤ・クレイドルの言葉でもあった。

 

 《執行者》に就任するまで長く世話になったその場所で、レイ・クレイドルという人間の感性が培われたと言っても過言ではない。

 

 だから、考えてしまうのだ。

 このまま《結社》に居続ける未来がもしあったのだとしたら、自分の在り方は変わっていたのだろうかと。

 

 

 

 ……まぁ、そんなことは

 

 

 

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―――*―――*―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 《慧神の翆眼(ミーミル・ジェード)》。それはレイ・クレイドルの左目に埋め込まれた聖遺物(アーティファクト)

 本来であれば七耀教会の《封聖省》が回収・管理すべき物であるが、既にその聖遺物はレイの身体と一体化してしまっている。

 取り外せば彼の命も同時に失われる。だが、それでも”回収”するのが《封聖省》直轄の特務部隊《星杯騎士団(グラールリッター)》である。

 

 実際、彼が《結社》を脱退し、当てもなく各地を放浪し始めてから、幾度となく騎士団の襲撃を受けていた。

 最初は従騎士クラスが、それを追い返し続けると正騎士が。それも返り討ちにして行くと、遂に彼らが出張ってきた。

 

 《聖痕(スティグマ)》と呼ばれる異能をその身に宿す、最大数12名の教会最高戦力《守護騎士(ドミニオン)》。

 彼らとの戦いは熾烈を極めた。人目が多いところでの襲撃が無かったのが不幸中の幸いだったが、例外を除き、余計な被害を顧みる必要のない一対一の戦いでこそ、彼らの強さは光るのだ。

 

 ……彼らとの戦いでの凌ぎ合いが、レイの武人としての強さを更に引き上げたというのは皮肉としか言いようがなかったが。

 

 

 しかしそれでも、《星杯騎士団》最強にしてヒトの中に於いて最も”絶人”に近い存在とも謳われる《守護騎士》第一位総長、《紅耀石(カーネリア)》アイン・セルナートには叶わなかった。

 だが、その戦いでレイは彼女に”価値”を見せた。此処で己を殺してまでこの聖遺物を”回収”し、”保管”する。その意味が薄い事を。

 そして何より、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 《慧神の翆眼》(ミーミル・ジェード)の能力は情報分析能力。人類種以外の、暗黒時代以降に創造された物体を視界に入れるだけで瞬時に解析する。―――というのは表面だけのもの。

 《十三工房》の下、出力をヒトが扱えるまでに抑えた為にオリジナルのそれとは別種とし、別名として付けられたのがその名前。

 

 聖遺物としての正式名称は、《虚神の黎界(ヴァナヘイム)》。準至宝クラスという破格の力を持つそれは、意図的に劣化させているとはいえ人間がその身に宿すには過ぎた代物である。

 故に、反動がある。権能を限定解除した際に持続する激痛だけでなく、不定期に発症する高熱。

 

 今回、レイの身に起きた異常はその一環であると、そうシオンは説明した。

 

 この発熱は身体器官の異常によるものではない。だからこそ、医者に治せるものではなく、自然治癒を待つしかない。

 普通の人間ならばとうに発狂してしまうような痛みを宿しながら、それでも彼は生きている。以前それに関してリィンはレイに問うた事があったが、当の本人は「もう慣れた」と笑っていた。

 そんな彼が、意識を失わざるを得ない程の異常など、慮る事すらできない。だからといって、傍にいたところで何をしてあげる事も出来ない。

 

 結局リィン達は、シオンたっての希望でいつも通り登校することになった。彼らよりも先に出勤していて、シオンによって事情を知らされたサラも何処か空元気で動いている事は彼らの目からも明らかだったが、それは敢えて指摘しなかった。

 

 

 

 ―――何かが、決定的に足りない気がしてならなかった。

 

 時計を動かす歯車が一つ欠けてしまったような、そんな感覚だ。いつも通りの光景であるはずなのに、そこに一人いないだけで物足りない。いつもであれば昼食後の昼寝が日課のフィーでさえ、不満そうな顔をして中庭の木に寄り掛かっているだけだった。曰く、「レイの膝の上じゃないと気持ちよく眠れない」だそうである。

 

 考えてみれば、いつもそこに居て当たり前の存在だったのだ。

 実習の際などに分かれて行動することはあったが、学院内ではいつもそこに居た。

 フィーに次いで小柄な矮躯だというのに、それに似合わない自信家。傲岸不遜な面もありながら、面倒見は良く、頼まれごとは完遂しなければ気が済まない仕事人。

 その強さは、否応なしに様々な人を惹きつけた。身の丈に比する長刀を携えて悠々と戦いの場を駆け抜けるその姿は、ある種英雄的な安心感を与えてきた。

 「この男ならばどのような状況でも打破できる」という、ある意味身勝手な思い。だがそんな彼が今、高熱に侵されて倒れている。

 

 困惑が大きいのだろう。そんな日があるとは思わなかったという、予想外の事態だったから。

 

 

 頭の中を占める靄を振り払い続けながら、リィンは校内を歩く。

 学院際まであと3日となった今。幸いにも催し物であるステージの出来は順調だった。エリオットが組んだ短期プログラムは、厳しくはあったがちゃんと結果は残した。

 後は通しの練習を何度かするだけ。だからこそ、ギターとボーカルを兼ねるレイがいなければ全体練習は出来ない。

 

 仕方がなくトワ会長が抱えていた雑務を肩代わりし、学院中を駆け巡っていると、ふと背後から声が掛けられる。

 

「あら、リィン君。ふふ、また生徒会長のお手伝いかしら?」

 

「あ、フリーデル先輩でしたか。お疲れ様です」

 

 白金色(プラチナ)の髪を腰まで伸ばした2年の貴族生徒、フリーデル。フェンシング部の部長を務めている彼女とは、部絡みで何度か話をしたことがあった。

 

「丁度良かったわ。一つ聞いてもいいかしら?」

 

「えぇ、自分で良ければ」

 

「ありがとう。ねぇ、レイ君が何処にいるか知ってる?」

 

「…………えっと、アイツが何かやらかしましたか?」

 

「あら、意外と信用がないのね、彼。そうじゃないわ。久し振りにお手合わせ願おうと思っただけ」

 

 その言葉に、リィンは目を丸くした。

 実際、驚いたのだ。自分たち以外に地獄を好んで見ようとする人間がいるとは思わなかったから。

 

「意外、って言いたそうな顔してるわね」

 

「え、えぇ……」

 

「ふふ、楽しいのよ、彼との手合わせ。先輩とか貴族とか、そんな事何も考えないで相手してくれるしね」

 

「あぁ……アイツならそうするでしょうね」

 

「私も学院内ではそこそこ強い方だっていう自覚はあったのだけれど……彼と戦っていたらそんなちっぽけな自覚なんて打ち砕かれちゃったわ。えぇ、だから楽しくて仕方がないの」

 

 フリーデルはそう言ったが、それが謙遜であろう事をリィンは知っている。

 何せ彼女、細心で華奢な容姿とは裏腹に、名実共に”二年最強”の称号を欲しいままにしている武人である。

 その名声は偽りではない。実戦経験こそないものの、細剣から繰り出される迅さは一度フェンシング部を見学したレイが思わずご機嫌そうな口笛を吹くほどのものだった。

 

 しかし今日は生憎と彼が体調不良で学院に来ていないのだと伝えると、今度はフリーデルが驚いたような表情をする。

 

「珍しい事もあるものね。まぁでもそういう事ならしょうがないわ。―――あぁ、それなら、これを渡しておいてもらえるかしら?」

 

 そう言うとフリーデルは、ブレザーのポケットから赤いリボンで括られた小袋をリィンに手渡す。

 

「これは?」

 

「ん。今日の調理実習で作ったものでね。いつも部単位でお世話になってる彼にあげようと思ったのよ。あぁ勿論、深い意味は無いから安心して」

 

 軽く揺らすと、カサカサと軽い音がする。恐らくクッキー等だろうと察し、形が崩れてしまわないように一番大きいポケットに入れる。

 

 何だかんだで、彼は社交性が高いのだ。特定の部活に入っていない為、放課後には様々な部活に適当に顔を出している時がある。

 馬術部で馬に乗っていたり、料理部で普段寮では作れないような菓子を作っていたり、文芸部に連れ込まれて変な作品のモデルにされていたり、とにかく気が赴くままに学院中を渡り歩いている。

 

 それが彼なりの”学校”という場所への興味の示し方であると同時に、同年代の学生への接し方であるのだろうと理解できたのは最近の事。

 遊撃士だった頃は基本的に年上としか仕事をしていなかった、とは彼の言葉。《結社》に所属していた時はその限りではなかったようだが、その時にしていたバカ騒ぎは、それもまた別物であったとか。

 

 ともあれ、楽しんでくれているのならばそれに越したことはない。

 いつも世話になってしまっている身の上だが、彼が普通の生き方の中でやりたい事を見つけ出せたのならば、それを補佐するのは吝かではない。

 そんないつもの日常に戻る為に、彼には早く良くなってもらわなければならない。自分たちに出来る事などはあまりないだろうが、せめて塩分を補給できるような飲料でも買って帰ろうかと考えていると、真横にあった教室から一人の女子生徒が出てきた。

 

「おっ、リィンやないか。丁度良かったわ」

 

「ベッキー? まだ学院に残ってたのか」

 

「まぁ、学院際の屋台の事で詰められてへんのがまだあってなぁ。せや、レイ知らへん? 今日一日学院中探し回ったんやけど何処にもおらへんねん」

 

「ハハ、今日はアイツを探す人が多いな」

 

「んー? 珍しくもあらへんやろ。あんま人に頼りすぎるのも良くないって分かっとるんやけどな。元遊撃士だから的確なアドバイスをくれるんや。それで助かった生徒、ウチに多いんとちゃうか?」

 

「…………」

 

「ま、かく言うウチも学祭の屋台の件でアドバイス貰っとるんやけどな。なんや、クロスベルはそういうの多いっちゅうの聞いてから参考にしてるんや……ん?どうしたんや自分」

 

「あぁ、いや。何となく分かってはいたんだけれど、本当に頼りにされてるんだなって思ってさ」

 

 想像はできる。

 大体の事はソツなくこなしてしまう器用さで、飄々と微笑を浮かべながら、困っている人間の肩を軽く叩いて立ち上がらせる彼の姿が。

 

 或いはそれすらも、彼は”贖罪”と言うのだろうか。自分が今まで助けられなかった命の分、誰かを助け続けるのは義務なのだと。

 

「? どないしたんや」

 

「……何でもない。それでレイだけど、今日はちょっと体調を崩していて、学院に来てないんだ」

 

「ハァ⁉ 風邪なんて引くことあるんかアイツ‼ ……いや、あるわなぁそりゃ。どーも変に超人扱いしてまうわ」

 

「大体皆そう言うんだよな……いや、俺達でも今朝まではそう思ってたけど」

 

「大変やなぁ……せや、ええモンやるわ」

 

 そうしてベッキーが一度教室に戻って持ってきたのは、数本の缶に入った飲料だった。

 

「これは?」

 

「クロスベルで売っとる経口補水液って商品や。体調悪い時にはコイツがエエんやって。サンプルとして貰った物やけど、いつも世話んなっとる礼として、な」

 

「あ、ありがとう」

 

「ええってええって。レイによろしゅう言っといてな」

 

 そう言って軽くリィンの肩を叩いて去っていくベッキー。

 貰った物を眺めながら、思わず微笑んだ。そして同時に―――自分も人の事は言えないが―――自虐的な一面がある友に向かって思う。

 

 お前は、自分が思っているよりも多くの人に愛されているぞ、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

―――*―――*―――

 

 

 

 

 

 

 

 自分を、覗き込む顔があった。

 

 ぼやける視界。睫毛が皮膚に張り付いているような感覚がこの上なく鬱陶しい。それを払いのけるように目を開き、上半身を起き上がらせようとすると、肩を抑えられて無理矢理ベッドの上に押し込まれた。

 

『仕事熱心なのはいいけどさ、こういう時くらいはちゃんと休んでおきなって』

 

 ……この体調不良は過労によるものではない。そう説明しようとしても信じられないのは分かっていたから、敢えてその場は黙っていた。

 とはいえ、仕事中に倒れるという無様な真似を晒してしまったのは事実だ。

 それがどれだけ仕事仲間に動揺を与えたかというのは、見れば分かる。

 

 なんだ、エオリア。お前そんな顔もできたのかと、そうからかった覚えがあった。

 

 隙あらば自分に対して倫理的にアウトな事を仕掛けてくるどうしようもない変態でも、流石にこういう時は医療に携わるものとして真剣になるらしい。

 

 

『……ねぇ、レイ君』

 

 そしてからかいに反応する事も無く、エオリアが真剣な声色のまま言葉を紡ぎ出す。

 

『あくまでも私の私見ではあるけれど、今の君の身体に異常な所が見当たらないの。……ううん、確かに高熱と気管支の炎症は確認できているけれど、それを発症するだけの原因が見当たらない。まるで、その症状が出るっていう結果だけが突然現れたみたい』

 

『どういう事だよエオリア。普通風邪とかってそういうものなんじゃないの?』

 

『違うわ、リン。人間に拘わらず、生き物の身体に異常が出る時って必ず原因があるものよ。栄養失調とか、過労とかね。その原因が負荷となって蓄積していった結果、症状が表に現れるの。その過程(プロセス)を無視して影響を与えるのが、俗に言う”状態異常”というものなのだけれど、レイ君の場合、それに関しての耐性が高いからその線は薄いわね』

 

 つらつらと、立て板に水のように解釈を連ねていくエオリア。

 性癖がアレであっても、医療大国レミフェリアで医療資格を取得するだけの才女である。この程度の知識はもちろん持ち合わせている。

 

『……でもまぁ、病人に言う事でもないわね。幸い熱は着実に下がりつつあるから、安静にしていれば問題ないと思うわ。……というより、処方しようにもレイ君には薬の類は効かないのだし』

 

『便利だけど、こういう時は面倒だよね。まぁ、ちゃんと休んでおきなよ? 仕事はアタシ達で回すからさ』

 

 遊撃士協会クロスベル支部の仕事は激務だ。一人が欠けてしまっただけでも通常であれば皺寄せが来る。

 だが幸運にも、今の時期はそれほど忙しいわけではない。この二人が、ここまで世話を焼いてくれる程度には。

 

 すると、新たに二つ声が増える。

 

 

『よぉ、レイの具合は?』

 

『あぁ、スコット。良くなってるみたいだよ。ヴェンツェルも、大分ウチの仕事に慣れてきたみたいじゃないか』

 

『早々慣れるものかよ。この支部は忙しすぎる。……若いホープが倒れてしまっているならば猶更だ』

 

『ツンデレみたいな言い方すんなよ。あぁ、早く治って欲しいってのは俺も同感だ。お前さんがいないとエオリアのやる気が50%くらい減少するからな』

 

『圧倒的事実……‼ 何も言い返せないわ‼』

 

『自覚して否定しないで最後の一線は超えない辺り、ホントギリギリの所で踏みとどまってるよね』

 

『俺としても同僚を未成年者略取の現行犯でクロスベル警察に引き渡したくはないなぁ』

 

 思わず、笑う。

 いつも通りの職場だ。自分がこうなってしまっても、変わらず回り続けている。

 

 

『―――邪魔するぞ』

 

 そんな空気が数分流れた後、仮眠室に最後の一人が入ってきた。

 

『あら、アリオスさん。レミフェリアでのお仕事は終わりですか?』

 

『あぁ、予想より早く終わった。……ミシェルからレイが”発作”を起こしたと聞いてな』

 

 クロスベル支部所属時代、”発作”と銘打って倒れた回数は2回。一度目の時は、アリオスさんと組んで仕事をしていた時だった。

 S級に近いA級遊撃士。それも《八葉一刀流》の《剣聖》を名乗る事を許された人である。自分のそれが尋常ならざるものである事は見抜いているだろう。

 だがそれでも、多くは問い質そうとはしなかった。自分の前歴を知っているからか、それとももっと深いところまで見透かされていたか。

 

『大事は、なさそうだな。これから俺も仕事を回す。エオリア、お前は今日はレイの看病に回るといい』

 

『おおっとこれはスケイリーダイナの檻の中に生肉を投げるが如き命令』

 

相棒(バディ)として忠告しとくけどさ、レイが弱ってるからって言って一線超えたら鳩尾に雷神拳だからね』

 

『……それは流石に殺意が高すぎないか?』

 

『私、自分の性癖はちゃんと理解しているつもりだけれど、流石に病人を前にしてそれを前に出す程馬鹿じゃないって自覚はあるわよ?』

 

 そんな事を言い合いながら仕事組は仮眠室からぞろぞろと出ていき、エオリアも一旦氷嚢を取り換えに部屋を離れる。

 ……そして、「少しだけ話がある」と切り出したアリオスだけが残った。

 

 

『……あまり、無理はするな』

 

『どの口が言うか、と思うかもしれないが、これは俺の本心だ。お前の身に何が起きているのかを深く問うつもりはない。お前が何を考えて此処にいるのかもな』

 

『だが今、この時だけは間違いなくお前はこのクロスベル支部に無くてはならない人材だ。掛け替えのない仲間だ』

 

『……自分を無下にするような生き方はするなよ』

 

 

 思えばそれは、自虐のようなものだったのかもしれない。

 だがそうであったとしても、その言葉が心にストンと落ちてきたのもまた事実。

 惜しむらくは、その時は既に意識が朦朧としかけていてぼやける程度にしか聞こえていなかった事だろうか。

 ……もしあの時、はっきりとした意識の中で聞くことができていたのなら。

 

 

 あの人の真意を、問い質す事ができたのだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――*―――*―――

 

 

 

 

 

 

 その日、戦技教導の授業を受けた生徒は、一人残らず瞠目した。

 

 サラ・バレスタイン。元帝都遊撃士協会史上最年少A級遊撃士。その肩書きに恥じない実力を持つ武人。

 そんな彼女の戦技教導は苛烈だ。勿論、生徒のレベルに合わせた教え方は心得ている。

 

 何せ此処は名高きトールズ士官学院。卒業後の進路で軍属以外を選択する生徒も多いとはいえ、帝国有数のエリート校である。

 そんな学校の戦技教導官が下手に手心を加えるような人間であってはいけない。平民だろうが貴族の子女だろうが、彼女は等しく鍛える。

 元々は望んで就いた職、とは言い難かったが、彼女は優秀だった。自由闊達に振舞っているように見えて、カリキュラムはよく練られている。

 

 鬼教官、と陰で呼ぶ生徒がいる事も知っていたが、そんなことをいちいち気にしているようでは教官など務まりはしない。反面、厳しくはあるが、面倒見も良かった為、本気で彼女を嫌う生徒はほとんどいなかった。

 

 そんな彼女が、この日だけは授業中も何処か魂が抜けたような表情のままだった。生徒が声をかけて漸く反応する程の鈍さだった。

 生徒らは心配するよりも先に恐怖感を感じた。果たして明日は雨が降るか雹が降るか特大の雷が落ちるのかと。

 

 

 そして、そんな事を思っていたのは生徒だけではない。

 

 教官室も異様な雰囲気に包まれていた。

 きっかけは教官室内でトマス教官がいつものようにサラを飲みに誘った事。トマスにとってみれば下心など一切なく、ただ教官勢の中で一番の酒飲みであるサラと飲み明かすのが一番楽しいというだけの理由であった。

 いつもであればサラも「いいですねぇ」と返事をして夜までもう一人か二人ほど道連れにしながら飲みまくる。それが通常だった。

 

「あぁ……すみません。今日はちょっと飲み明かす気分じゃなくて」

 

 瞬間、室内の時が止まった。

 軍事導力技術教官のマカロフは飲み干そうとしていたコーヒー入りのマグカップを傾ける手を止め、軍楽担当教官のメアリーは譜面を捲る手が止まる。普段は奔放なサラに小言を言う教頭のハインリッヒでさえ驚愕の表情を隠せなかった。

 

「…………珍しいなバレスタイン教官。貴女が酒の席を断るとは」

 

 内心道連れにならなかった事に安堵しながらも、聞かざるを得なかったのだろう。

 沈黙を破った軍事教官ナイトハルト。この二人の飲み明かしの犠牲者常連である。

 そんな彼が思わず案じる程に、その光景は異様だったのだ。

 

「あぁ、いえ。別に体調が悪いとかそういうんじゃないんですよ。ただ今日はそういう気分じゃないかなーって」

 

「ま、まぁそういう時もありますよねぇ」

 

「トマス教官、同意するんだったらせめて声の震えは止めましょうや」

 

 何故だか居心地が悪くなり、トイレに行くふりをして教官室を出る。

 

 

 気持ちが澱んでいるのは事実だ。今朝方、早めに教官室に到着した直後にシオンの分け身が飛んできて、レイの症状を聞かされた時からどうにも仕事に身が入らない。

 彼がその程度で死ぬとは思えないし、昔から相棒として傍にいたシオンが着いているのだろうから、今更自分が心配する意味もないように思える。

 

 だが、何故だろうか。そう分かっていても尚、焦燥感を抑えられない。

 不意に、父が死んだときの事が脳裏を過ぎる。

 人の死とは呆気ないものだ。元猟兵として数多の戦場を駆けた経験があるから分かる。

 

 祖国に残してきた子供が明日誕生日を迎える―――そう嬉しそうに話していた同じ部隊の人間がその翌日頭を撃ち抜かれて死んだ。

 戦闘に巻き込まれ、それでも運よく生き残っていた幼い兄弟が、その直後迫撃砲の余波に呑まれて死んだ。

 寒さと飢餓に苦しんでいた家族が、それでも懸命に生きていた矢先、数少ない食料を求めて押し入った強盗に皆殺しにされた。

 

 そういった非情を数多く見てきたからこそ、心の底から杞憂だと断定はできない。

 だがそれでも、今の自分は教官だ。私事で生徒達を心配させてはならない。

 しっかりしなくては、と軽く自分の両頬を掌で叩くと、廊下の先にとある人の姿が見えた。

 

 

「―――あら、バレスタイン教官。お休み中かしら?」

 

「ベアトリクス教官……えぇ、Ⅶ組のLHRまでまだ少し時間がありまして」

 

 トールズ士官学院保険医、ベアトリクス。年長者らしく穏やかに生徒を諭す事で有名なこの白衣の老婆に、サラは嘗てより頭が上がらなかった。

 自身が教官として赴任してから幾度となく助けられたというのもあるが、遊撃士となる前―――猟兵であった頃の恩人である。

 

「ふふ、いつもは貴女が戦技教練をした後は何人か怪我をしたと保健室に来るのだけれど、今日は来なかったの。あまりにも暇だったものだから、こうして出てきてしまったわ」

 

「あー……」

 

「生徒たちが噂をしていたわよ? 今日のサラ教官は何処かおかしかったって」

 

 やはり腑抜けてしまっていたか、とそこで再確認する。

 全てを見透かされていそうな声色。この人に隠し事はできそうにないと、サラは早々に心の中で白旗を挙げていた。

 

「すみません、今日はちょっと、生徒の一人が熱を出してしまいまして……」

 

「……あぁ、そういう事。だから今日は静かだったのね」

 

 そう言うとベアトリクスはグラウンドが一望できる窓の外を眺める。

 

「いつもはⅦ組の戦技教導の時間になると土煙と爆音で包まれるものだから。ふふ、まるで若い時の学院長が稽古をつけている時のようだわ」

 

「……《轟雷》の稽古風景とか、考えただけで背筋が凍りますね」

 

 とはいえ、この人も相当なものである。

 

 元帝国正規軍大佐。《死人返り》の異名を持つ伝説の衛生兵であり、激戦地に度々現れては敵味方関係なく、()()()()()()()()治しまくったと謳われる女傑。

 腕前だけを鑑みるのであれば《轟雷》のヴァンダイクと並ぶと称されており、未だ軍部の中に導力技術が浸透していなかった時代の帝国軍を支えた英雄である。

 

 そのせいか、血の気の多い士官学生が何かしらおイタをした時などは、保険医にあるまじき威圧で強制的に黙らせる事が偶にあるのである。ヴァンダイクがベアトリクスを次期学院長に推挙しているという噂も、あながち間違いではないのかもしれない。

 

 

「……あの子も、本当に良い表情をするようになったわね」

 

 しみじみと、まるで孫を想うかのような静かな口調で言う。

 

「貴女は覚えているかしら? あの子が、ボロボロになった貴女を私の下まで運んできたあの日の事」

 

 ―――無論、忘れる筈もない。

 あの日、猟兵サラ・バレスタインは死んだ。節介焼きな一人の少年の小さい手で、奈落の底から陽の当たる所まで救い上げられた。

 自分より遥かに強いというのに、心の中にどうしようもない弱さを抱えた少年。

 あの時は今よりも年端もいかない少年だったというのに、惹かれてしまったのも確か。思い返せば、初恋というやつだったのだろうか。

 

「級友たちと切磋琢磨して、苦楽を共にして、そうして青春を築き上げていく。……彼が奪ったもの、奪われたものは多くても、そうして生きているのなら、教官(私たち)にとってこれ程嬉しい事はないわ」

 

「…………」

 

「人というものはね、バレスタイン教官。本当の意味では()()()()()()()()ものなの。弱さの全てを消し去って、強さだけが残ったのだとしたら、それはもう人ではない。けれども、武を志す者は弱音を垂れ流す事は悪と教えられてしまう」

 

 根源の弱さを克服した者。もしくは弱さを強さで上塗りした者。―――それを”達人”と呼ぶ。

 彼は後者であった。寧ろ彼の師はその根源的な弱さを良しとした。

 ならばその弱さを抑え込めるだけの力を持てばよい。心を堅牢な鎧で覆い、鍛え上げられた剣を持たせ、何者にも負けぬようになれば良い。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()―――あまりの極論ではあるが、《爍刃》は弟子をそのコンセプトの下に鍛え上げた。

 

 ……もしもレイ・クレイドルが《結社》を抜けずに留まり続ける未来を選んだのだとしたら、そういう武人になっていただろう。

 強く、鋭く、何処までも徹底的に鍛え抜かれた一振りの剣。強いが故に、弱さを見せぬ強者。僅かな罅も許さないその生き方は、果たして彼をどのように殺していくのか。

 

 

「でも、あの子には貴女がいるのでしょう?」

 

 その脆さを、勿論ベアトリクスは理解していた。

 

「女の涙を受け止めるのが男の甲斐性とは言うけれどね。男の弱音を受け止めるのも女の甲斐性というものよ」

 

「女の甲斐性、ですか」

 

「好きになった殿方の弱みくらい受け止めて差し上げなさいな」

 

 頬が赤くなる。

 バレていない、とは思っていなかった。とはいえ、今の今まで愛した男(レイ)の事を学業面で贔屓した事など無い。寧ろ、彼はそれを絶対に望まないだろう。

 とはいえ、教官として生徒に恋し、愛するというのは褒められたものではない。叱責されるだろうかと横目で様子を窺うが、ベアトリクスは優し気に微笑むばかり。

 

「……ベアトリクス教官にも、そんな方が?」

 

 だから、思わずそんな事を訊いてしまう。

 しかし彼女は僅かも狼狽えることなく、一瞬だけ遠い目をしてから口を開く。

 

「どうだったかしらねぇ。何せ若い頃の話だから、忘れてしまったわ」

 

 

 

 

 

 

 

 ―――せめて、彼が目覚めた時、傍にいてあげよう。せめて今日一日くらいは、虚勢を張らせずに生きて欲しい。

 

 

 それだけが、今のサラ・バレスタインの願いだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――*―――*―――

 

 

 

 

 

 

『貴方は少し、頑張り過ぎです』

 

 

 仕方ないだろう、と思った。

 何せ師がアレなんだ。気張って強くならなければ死んでしまう。それに自分自身も、強くならなければいけない。

 

 それでもこの人は、それを叱責するのだ。多分俺のいない所で、師匠にも文句を言っていたに違いない。

 

 ただ、この人は決して止めようとはしなかった。嘆息をしながらも、見守ってくれていた。

 

 

『……カグヤ様は決してそういう事は言わないでしょうから、私が言いましょう。貴方の強さは既に相当なものですよ。《剣帝》殿も言っていましたが、後数年詰めれば”達人”の域に届くでしょう』

 

 優しく頭を撫でられる感覚が染み渡る。

 緩く結われた金髪が僅かに頬をくすぐる。彼女が愛用していた香水の匂いが、詰まっていた鼻にも届いた。

 

 凡そ、意識が薄くなるほどの高熱に魘されている子供に聞かせる話ではないのだが、だからこそ、だろう。

 ”達人”とは、教えの果てに成るものではない。己自身と向き合い、達するもの。

 

 少なくとも、この義姉はそうやって至ったのだ。

 攻めよりも守護に重きを置き、尋常ならざる基礎の反芻によって絶技を身に着けた達人。不動の精神と守りを以て戦乙女の名を冠する者。

 

 憧れであったのは事実だ。例え自分が師より授かった剣が義姉が至ったそれとは対極のものであったとしても。

 ……この人が生きていた間、自分はこの人に一太刀だって入れられた事がないのだから。

 

 

『……でも、少しだけ我儘を言えば、貴方にはそうなる前に世界を見て欲しい。貴方の剣は、陽の光の下で研磨されるべきです』

 

『弟子は師の背を見て育つもの。ですが、師と同じ道を歩む事はないのです。……貴方は、鬼に堕ちてはいけない』

 

 ―――思ったことはあった。

 あのまま《結社》に在り続けて、あの人の背を追い続けていたら、そのような人生を歩む事になっていたのだろうかと。

 《執行者》の責務として、親友や仕事仲間や学友らと斬り結ぶ未来もあったのだろうかと。

 

 ……意味のない事だ。今の自分は、選んだ道を歩んでいる。引き返せぬ可能性の道など、思案したところでどうなるわけでもない。

 ただ、鬼と堕ちて大切な者達すら躊躇いなく斬るような、そんな人間には―――なりたくなかった。

 

 

 

『……ふふ、少し語り過ぎましたね。今はゆっくりお休みなさい。それを咎める者など誰もいません』

 

『安心なさい。次に貴方が目を覚ますまで、姉はここにいますから』

 

 

 そう、優しく語りかけてくれていた。

 普段は割と厳しい一面も持ち合わせる義姉も、この症状が出ている時だけは甘えさせてくれた。

 

 その当時の自分は、それが堪らなく嬉しかった。

 恨みと贖罪だけを原動力に、ただ愚直に剣の修練に明け暮れていた自分が、”子ども扱い”される瞬間。

 

 もう二度と叶わない瞬間だからこそ、せめて夢の中でくらいそれを味わいたい。

 

 

 今だけは。そう、今だけは。

 自分だけこの耽溺に浸る事を、どうか許してほしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――*―――*―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目を、覚ます。

 

 

 まず感じたのは温かさ。毛布に包まれていない体のほとんどに、金色の尾が絡みついていた。

 素直に言えば気持ちが良い。が、少しばかりの圧迫感がある。

 

「シオン」

 

 一言、掠れた声でそう呼ぶと、ベッドの傍らに腰かけていたシオンが耳をパタパタと動かしながら振り向いた。

 

「おや、主。お目覚めですか。今お水をお持ちしますね」

 

 そう言って一度指を鳴らすと、分け身の一体が頭の上に水の入ったコップを乗せて浮遊してきた。

 レイは上半身を起き上がらせてそれを受け取ると、一気に飲み干す。乾ききった喉に水分が染み渡り、幾分か声の通りが良くなる。

 

「何時間くらい寝ていた?」

 

「8時間程、ですかな。そろそろ皆様方がお帰りになられる頃かと。あぁ、サラ殿も今日はすぐに帰ってこられるそうです」

 

「……すまん、迷惑をかけたな」

 

「御冗談を。皆様方、とても心配しておられましたよ。ご加減は、如何ですか?」

 

 そう言われ、レイは一度全身に氣を走らせる。

 だが、()()()()。澱みが多く、中々全身に行き渡らない。

 

「……駄目だな。本調子には程遠い。今までは半日も寝れば大分回復してたんだが……いや、そうだな。()()()()()()()()()()()

 

 理解はしている。回復が遅いのではなく、”慣らし”が追い付いていないだけだ。

 あまりにも神氣が濃すぎる。一度クロスベルに行ってキーアと会った時にその神氣は覚えていたはずなのだが、その時のそれとも比べ物にならない。

 

「主、差し出がましいようですが、私の神氣をお分け致しましょうか? 大分楽になる筈ですが」

 

「……その気持ちは嬉しいが、大丈夫だ。俺がこれから成さなくちゃならない事を考えれば、人造の神氣程度、耐えられなきゃ話にならん」

 

 ベッドから降り、立ち上がる。

 足がふらつくこの感覚も久し振りだ。今の状態では、【瞬刻】すら満足には発動できないだろう。

 

「あまり無理はなさらぬよう」

 

「大丈夫だ。あぁ、体調そのものはクソッタレなほど悪いが、そんなに悪い気分じゃないからな」

 

「?」

 

あの子(キーア)のお陰かな。良い夢を見させてもらったよ」

 

 その影響か、気力そのものはそれなりに回復している。

 ならば、後は体調を整え、体力を回復させるだけ。いつもより集中して”慣らせば”、明日中にはどうにかなるだろう。

 

「シオン」

 

「なんでしょう」

 

「世話をかける」

 

「その言葉は私よりも、快復された折に皆様方に仰った方がよろしいかと。―――私は既に主と一蓮托生。何があろうとお供致しますとも」

 

 その言葉が、今は何よりも頼もしかった。

 覚束ない足取りで歩き、ドアノブに手を掛ける。いやにひんやりした感触が全身を駆け巡り、自分の体温の高さを否が応にも自覚させられた。

 

何処(いずこ)まで?」

 

「少し、歩く。そうしないと感覚が鈍りそうだ」

 

「では、お供致しましょう。―――丁度皆様方もお帰りになられたようですしな」

 

「分かってんなら敢えて言うんじゃねぇよ」

 

「これは失礼」

 

 他愛のない主従の会話を交わしながら、レイは前を見据えて歩き出す。

 

 

 そうだ。此処から先は―――立ち止まるわけにはいかないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 はい、前回のラストで「早めに投稿します」などとぬかしながら1ヶ月以上普通に過ぎていた十三です。お前遅筆なのもいい加減にしろよ。

 クソ忙しい仕事こなしながら新人教育とか無理やってマジで。いや何とか出来ちゃってるけどさぁ。帰ってから執筆とか眠すぎて無理ゾ。

 とか何とか言っておきながらきっちりと《隻狼》やりこんでる人間が我です。あのゲームクッソ面白いぞ。僕フロムゲー初心者ですが、弦ちゃんと戦ってる時が一番面白かった。ただし二頭目を呼びやがる獅子猿、テメーは駄目だ。そしてエマ殿、アンタの掴み攻撃の吸い込み加減はなんなんだ。ダイソンかお前は。
 友人から「お前そんなにハマってるんなら《隻狼》で一本書けば?」と言われましたが、多分僕が書くと葦名が原作以上に人外魔境になるので駄目です。

 さて、次回学院際。え?前日のラスボス戦はどうなったかって? うんまぁ、それも、ね。

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