英雄伝説 天の軌跡 (完結済)   作:十三

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「お前が明日死ぬのなら、僕の命は明日まででいい―――
お前が今日を生きてくれるなら、僕もまた、今日を生きていこう」

「お前様が明後日死ぬのなら、儂は明々後日まで生きて―――
誰かに、お前様の話をしよう。我があるじ様の話を誇らしく、語ってきかせよう」

 by 阿良々木暦&忍野忍(化物語シリーズ)














淡き恋心

 

 

 

 

 

 

 思っていたよりも憤りの感情は湧いてこなかった。それは彼らが非情だからではなく、全員が分かっていた事だから。その事実を改めて突き付けられたに過ぎないから。

 だからと言って、何も思わなかったのかと言えば、それも違う。日が既に落ちた帝都の街並みを眺めながら乗っている導力トラムの中で、Ⅶ組の面々は口に出すことなく煩悶していた。

 

 

『ふむ、ところで君達は、レイ君の事をどれだけ知っているんだい?』

 

 

 オリヴァルトから突き付けられたその言葉は、まさしく彼らが今まで目を背けてきた問題だった。

 断片的に集めた情報を組み合わせると、約5年前までの彼の過去は明らかになる。即ち、”何らかの理由で”、”どこからか”来たレイがフィーの所属していた≪西風の旅団≫の猟兵達と行動を共にし、そして4ヶ月後に団を去り、その後伝手を辿ってリベール王国で遊撃士資格を獲得。1年間リベールで過ごした後にクロスベル支部に転属し、そしてその場所で本人曰く「初めて過労死って言葉の意味が理解できたわ。アレはヤベーわ」という重労働の日々を過ごす事3年。その後、フィーを拾ってトールズに入学して来た。―――そこまでは分かっている。

 

 そう。結局そこまで(・・・・)なのだ。レイ・クレイドルという男の在り方の真意は、恐らくそれ以前にある。

 しかしその領域に、誰も踏み込んではいなかった。唯一掠るように触れたのはエマだが、それは彼の過去を語る材料としてはあまりにも程度が低く、打ち明けるわけにはいかなかった。

 

 仲間が傷つく姿は見たくない。無理矢理は良くない。話せる時が来るまで待とう。―――そう言い訳(・・・)をして、ずっとずっと逃げてきた。

 本音は、違う。彼らとて分かっているのだ。今までⅦ組のメンバーがそれぞれ明かして来た自らの過去。それは誰しも心の中に蟠りを持つのが当然なほどに真剣に悩むべきものであり、中にはそれを乗り越えた者もいる。過去よりも現在。現在よりも未来。前を見据えないなんて馬鹿らしいと、頑健な心を持って乗り越えてきた過去があった。

 しかし、恐らくレイが抱え込んだ過去は、その中のどれよりも重く、暗く、衝撃的なものなのだろう。今までの自分達が養って来たはずの価値観の一切合財がひっくり返ってしまうような、そんな過去が埋没している。

 

 だからこそ、怖かったのだ。

 今過ごしている日々―――それこそ教練という名の虐殺モドキの扱きは若干カンベンと思ったことは無きにしも非ずだが、共に学び、共に笑って共にひとつ屋根の下で賑やかに暮らす日々。毎日味わえる美味な料理に舌鼓を打ち、それぞれの趣味に感嘆の息を漏らし、テスト前には脳を酷使して一丸となって乗り越えてきた思い出。それは間違いなく彼らの青春の一ページであり、何物にも替え難い大切な思い出だ。

 

 それが、壊れてしまうかもしれない。

 音を立てて瓦解し、二度と積み上げることが出来なくなってしまうかもしれない。埋めることが不可能なほどの軋轢が隔たり、いつの日かふと居なくなってしまうかもしれない。

 無論、それが考えすぎだという事は分かっている。彼は責任感の強い人物だ。何も告げずに居なくなってしまう未来なんて見えてこないし、自分たちとの間に軋轢を感じさせる事もないだろう。―――少なくとも、平面上は(・・・・)

 

 それを一番懸念しているのはアリサだ。他人の感情の機微、そして仮面を被った道化師を見破る手腕が、本職のレイを除いて一番長けている彼女には分かる。この状況をどうにかできるのは、他ならぬ自分達自身なのだと。自分達の方から、彼の過去を受け止めてあげなければならないのだと。

 しかし―――

 

「(厄介なのは本題はそこじゃないって所なのよね……)」

 

 そう。本題はそこではない(・・・・・・)

 考えても見てほしい。今まで非常識に非常識を上乗せしてその上に理不尽と混沌という名の苦々しいナニカを散々頭の上からこれでもかと言う程にぶっかけられて来たというのに、今更他人の過去を聞いたところで畏れて同情しようとも、決して距離を取る事はないだろう。恐らく幾許かの冷却期間が必要にはなるだろうが、最終的には「まぁ、レイだししょうがないか」という理屈も何もあったものじゃない場所に帰結するに違いない。

 ただそれでも、彼の方から距離を取ってしまったらその限りではない。人生の密度が桁違いの相手だ。そうなってしまった後にこちらがどれ程声をかけようとも、恐らく聞き入れてはくれないだろう。悲しそうな微笑を浮かべながら、また一人だけの場所に戻ってしまうに違いない。

 

 しかし唯一、そういった小細工抜きで彼の心の壁を抉れる存在がいる。それは自分ではなく、長く行動を共にしていたフィーでもなく……

 

 

「―――アリサ」

 

 そんな事を考えていると、隣に立っていたユーシスが不意に声を掛けてきた。彼はアリサの顔を見ているわけではなく、ただ窓の外を見据えたままに、再び口を開いた。

 

「明日は恐らく忙しくなる。今の内に奴を呼び出しておけ」

 

 その言葉だけで、彼も同じ事を懸念していたのだと、そう確信した。故にアリサは、言葉を返さずに軽い首肯のみで答えとする。

 やがて西地区を走るトラムが停留場に到着する。そこでアリサは、B班のメンバーに向けて一つ断りを入れた。

 

「ゴメン、皆。ちょっと用事を思い出したから先に帰ってて頂戴」

 

 本来なら単独行動は慎むべきなのだが、普段こういった事を言わないアリサの提案に、ガイウスとエマは訝しむ様な態度も見せず、了承してくれた。

そうしてトラムから降りたアリサは、ARCUS(アークス)を操作しながら夜の帝都を歩いていく。

 

「―――あ、もしもし? うん、私。アリサよ。突然だけどちょっと聞いて貰って良い?」

 

 その光景は傍から見たら好いた男を誘う時の女のそれだという事を、彼女はその時点では認識していなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――*―――*―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 港湾区特有の強い風が頬を撫でる感覚は、それ程好ましいものではない。少なくとも”彼女”は、頭上に浮かぶ煌びやかな満月を見上げながら、そう思っていた。

 

 既に夜の帳は落ち、港湾区に務めている作業員たちも皆残らず帰路についている。そんな静謐が支配する区画の端。高さが5アージュはあろうかというコンテナの陰で座り込みながら、≪X≫はただ何をするでもなく茫と空を眺めていた。

 

 作戦が明日に迫ったこの時期に外をうろつくのは控えろと、そう命を受けてはいたのだが、生憎と彼女は命令を聞く義理はなく(・・・・・・・・・・)、またよしんば聞き入れざるを得なくなったとしても、やはり黙って従うような性格ではない。

 それに彼女であれば、よしんば見咎められようとも何事もなく切り抜けられるだけの手腕がある。そうした諸々も考慮に含めて、彼女は今、此処にいた。

 

 

「望月の下で顔を綻ばせるでもなく、憂うでもなく、無辜の乙女の如く呆ける殺戮者。成程、これはこれで趣のある光景だ。そうは思わないかね?」

 

「思わんよ。そも私は呆けているわけではない。心を鎮めているに過ぎないのだからな」

 

 夜の静寂(しじま)を破った主は、「ほう?」と声を出して問いを続ける。

 

「成程。今はただ、偏執を拗らせた戦士に過ぎないと。これは失礼した。君のそういった表情を見るのが、あまりにも久方振りだったものでね」

 

「……相も変わらず良く回る舌だ。いっそ彫像にしてお前自身が盗まれる側の美術品になってみるか? ブルブラン」

 

 声に僅かな殺気を含ませると、男―――ブルブランは溶け込んだ闇の中からその姿を現す。それに応じて、≪X≫も深く被っていたフードを取った。

 その下に隠れていたのは、一瞬作り物かと見間違うほどに娃鬟(あいかん)とした容貌の美女だった。高価な陶磁器であるかのような一片の曇りもない白い肌に、右目を覆い隠す長い銀髪。そんな神聖さをも感じさせる容姿の中で、唯一その双眸だけが、血に染まったかのように煌々と紅く輝いていた。

 一つ微笑みかけるだけで大抵の男は籠絡出来てしまいそうな程の窈窕(ようちょう)な顔は、しかし今は不機嫌そうに柳眉が逆立っていた。

 

「フッ、済まないがそれは遠慮させて貰おうか。君の憤懣を一手に引き受けられるほど、私は甲斐性はないのでね」

 

「ならば徒に煽惑するその悪癖をどうにかしたらどうだ。……それに、私は今昂っている。あと一歩でも近づいてみろ。氷像に仕立て上げてやる」

 

 その言葉と共に、≪X≫の体から濃縮された冷気が漏れ出す。直ぐに彼女の足元は氷によって覆われ、ピキピキという音を立てて、その範囲は徐々に拡大していった。

それを見たブルブランは、芝居がかった動きで肩を竦め、軽く両腕を掲げた。

 

「怒りは御尤もだ。しかしその苛烈な力を賜るには、私では些か役者不足だ。そうだろう?」

 

「…………」

 

「なに、私とて君と事を構えるつもりなどはない。≪深淵≫殿からの命を受け、メッセンジャーの役割を賜っただけの事だ」

 

 あくまでも洒脱な雰囲気で声をかけてくるその姿に、≪Ⅹ≫の戦意も失せる。それと同時に、拡がりを見せていた氷の絨毯も細かく砕けて宙に舞った。蒸し暑い帝都の夜の中に、針を刺すような冷気が漂った。

 

「女狐は何と言っていた」

 

「≪氷の乙女(アイスメイデン)≫が≪銀閃≫と≪漆黒の牙≫をリベールから招聘したそうだ。……あぁ、今の彼はそうは呼ばれていないのだった。失敬」

 

「些事だな。貴様を使って知らせるまでもない」

 

「ふむ、しかし≪戦線≫にとっては予定外であったろうに。クレア女史は中々に頭の切れる策士だ。目的のために手段を選ばない、その強固な意志。実に美しいと思わないかね?」

 

≪戦線≫(奴ら)がどうなろうと知った事ではない。願いを果たすも、無様に路傍で朽ち果てるも好きにしろ。私は私の望みが叶えられればそれでいい」

 

 仲間意識など微塵も抱いていないと、≪Ⅹ≫は躊躇う事すらなくそう言い切った。その理念にもその意志にも欠片ほどの興味もない。彼らがどう生き、どう死ぬかすら慮外であり、彼女はただ、己の目的を果たすことのみを念頭に置いて行動している。単なるビジネスの関係よりももっと浅い繋がりでしかない。

 ≪Ⅹ≫は徐に自分の右手の掌に目を落とし、それを握った。

 

「私はレイ・クレイドルを殺すために此処にいる。以前も以後も、その誓いに変わりはない」

 

「相も変わらず君の偏執は単一的で見事だな。まぁ、”美”という概念的な単一を求めている私が口を挟めるわけもなし」

 

 そこでブルブランは、視線をふいと横に向けた。

 そこに在ったのは、真紅の巨城。この国の象徴ともいえる建築物を見上げ、世紀の怪盗は口角を釣り上げる。

 

「とはいえ、刹那的な人生は時に優美さに欠ける事もある。君も少しくらいは享楽に身を委ねても女神(エイドス)は罰を与えないと思うがね」

 

 瞬間、ブルブランの首が、飛んだ。

その先にあったのは、今までのそれよりも更に深くなった憤怒の表情を浮かべる≪Ⅹ≫。造作もなく作り上げた氷の剣を罅が入るほどに握り締めながら、憎悪の籠った言葉を口にする。

 

「……私の前でその名を囀るなと言った筈だ。貴様がそれを忘れていたなどとは言わせんぞ」

 

『―――フフフ、これは失敬。何、ちょっとした戯れだ。余裕を持って戯言に付き合うのが、淑女の嗜みというものだよ』

 

 ザァッ、という音が鳴り、首を落とされたはずのブルブランの体が白い花弁となって舞い散る。その光景を特に驚く目で見る様子もなく、≪X≫は再びコンテナに寄りかかり、飄々とした声に淡々とした答えを返す。

 

「……下らん。そういった作法は≪鉄機隊≫の小娘共に説いてみたらどうだ」

 

『己が淑女でないと? 異な事を言うな、君は。少なくとも令顔を持つ君が淑女でないのだとしたら、此の世に淑女などそうはいまい』

 

「お前らしくもない誤答だな、ブルブラン。至って狂気の私が淑やかな女だと? ≪幻惑の鈴≫がそうであったように、否、それ以上に、私をそう呼称するのは愚図の戯言に他ならんよ」

 

 心底下らないとでも言いたげに吐き捨てる。その言葉には一片の虚偽もなく、一握りの斟酌も在りはしない。

言ってみればその言動こそが、彼女という狂った価値観を持つヒトを表す材料であるとも言えた。

 

「ともあれ、私の答えなどそれで変わらん。明日の作戦がどう転ぼうと関係はない。無論、≪深淵≫の思惑もな。私は好きに動かせてもらう。そも、私達はそういう存在だろう?(・・・・・・・・・・・・・)

 

 結局、彼女はそれを強調して告げたかっただけであり、姿を消したブルブランも、それについて了承した。

 

『了解した。≪深淵≫殿にはそう伝えておこう。以後折檻の類で呼ばれるかもしれないが、構わないのかね?』

 

「淫蕩の女狐如きが私を諌めると? 面白い冗談だ。私を折檻したくば≪鋼≫辺りを連れてこい」

 

 嘲笑するように笑ってから、≪X≫は再びフードを深く被り直す。

 

「貴様も帝都での用は済んだのだろう。ならば疾く去れ。明日の”祭り”に無粋な横槍を入れようものならば……今度は牽制ではなく、本当に貴様のそっ首を刎ねるぞ」

 

『おぉ、怖い怖い。敦樸(とんぼく)な女性は魅力的だが、時に異性を辟易とさせてしまう事もある。君も意中の存在がいるのなら、態度を閲してみるのも如何かな?』

 

「要らぬ世話だ」

 

 コンテナと重機の間を縫うようにして吹く風が、その後の声を掻き消す。

そして十数秒して唸り声にも似た風が吹きやんだ後、そこには人が居たのだという痕跡すら、どこにも残ってはいなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――*―――*――― 

 

 

 

 

 

 

 

「このヘタレ」

 

「呼び出されたと思ったらいきなりディスられて訳が分からないんだが」

 

 

 

 マーテル公園の一角にある東屋。つい十数分前に目の前に座っている少女に呼び出されたリィンは、思わず溜め息を吐いてしまう。

数ヶ月前ならば何故自分はいきなり罵倒されたのだろうかと真面目に悩んだのかもしれないが、お互い気心が知れてしまった今であれば分かる。自分は今、ノリで罵倒されたのだろうという事を。

 

「全く、つまらないわね。真面目なだけが取り柄のリィンはどこに行ったのかしら」

 

「ちょっと待て、激しく納得いかない。というかアリサ、そんなキャラだったか?」

 

「シェラザードさんから教わったのよ。『女王様の帝王学』ってのを」

 

「解釈の仕方によってはとんでもないものを教わったみたいだけど……いや、ゴメン。これ以上の追及は怖いからしたくない」

 

 蟀谷を抑えて項垂れるリィンの姿を見て、アリサはクスクスと笑う。

 この二人の軽妙なやり取りというのは、実はそれ程珍しいものではない。それこそ数ヶ月前までは少しばかり神経質になってしまっている女子と、それに振り回させる男子という間柄だったのだが、ノルドでの一件以来、非常識(レイ)の言動に影響されたことも相俟って、こういったやり取りが度々交わされて来た。

 尤も、彼女がそういった態度で接する事の本当の意味を、リィンは理解できていないのだが。

 

 

「それで? いきなり罵倒してきた理由と呼び出した理由を教えて貰えるんだろ?」

 

「本当に知らないの? ……本当に?」

 

 半眼で睨んでくるアリサの視線にリィンは苦笑してから彼女の隣に座る。東屋の外に広がる満天の星空を眺めながら、観念したかのように口を開いた。

 

「何であの時、オリヴァルト殿下の言葉に答えを返さなかったのか、だろ?」

 

 レイの何を知っているのか。それに言葉を返さずに口を噤んだままであった理由はただ一つ。何も知らなかったから(・・・・・・・・・・)に他ならない。

 彼の強さを知っている。彼の経歴を知っている。だがそれだけで(・・・・・・・)、何も知らない。清濁が坩堝のように混ざり合う世界で生きて来た彼の存在はある意味枠の外の存在であり、その過去を、その起源を、今までは聞いてこなかった。

 それは間違った選択肢ではないと、今でも明確に口にする事が出来る。それは、そうするべきだと思い至った当の本人としての狷介(けんかい)の意志として、心の中に強く根付いている。

 しかし、間違っていないからといって正しい在り方であるのだとは思っていない。リィンの今の心境は、つまるところそこに帰結していた。

 

「難しいよなぁ」

 

 リィンにとってレイは目標だ。だが同時に掛け替えのない仲間同士で在りたいと思っている。

 出来る事ならばその内側に抱え込む”何か”を知りたいと思うし、それを知った上で共に学生として日々を過ごしたい。切にそう願っているからこそ、その現状と自分の意志が矛盾している事に悩んでいる。

 

 そして、そうなっている(・・・・・・・)事が分かっていたからこそ、アリサはリィンを呼び出したのだ。

 

「……ふぅ。ゴメンなさい。やっぱりさっきの撤回するわ」

 

「え?」

 

「やっぱり、真面目に考え過ぎよ。リィンは」

 

 笑みを浮かべながらのその言葉に、しかし嫌な気持ちは湧いてこない。寧ろ面を食らったような表情を、リィンは浮かべた。

 

「もっと捻くれた生き方も覚えないと、これから先苦労するわよ? ホラ、ただでさえⅦ組(ウチ)にはSっぽい方向に性根が捻くれてる仲間がいるんだし」

 

「あぁ、それ言われると反論しようがないんだが……だけど、な。何て言うか……」

 

「?」

 

「馬鹿正直で在りたいって思ってる俺もいるんだって話」

 

 一度仲間であると思った相手を詮索して疑う心を持ちたくはない。一度信じたのならば、そのまま信じていたいという願望。

それは、リーダーとして必要な要素だ。そうでなくとも、疑心暗鬼に苛まれるよりかは、余程好意的な生き方だろう。

 しかし、だからこそ危うい部分もある。リィンとて駆け引きの仕方を知らないわけではないのだが、その根底にあるのは軽度の性善説だ。例え本人に自覚がなくとも、彼は余程の事がない限り、人をとことんまで疑いきる事が出来ない。そして、それが仲間に向いたのだとしたら、尚更だ。

 

 だがアリサは、それを否定しない。

 

「いいんじゃない? 私は、リィンはそのままで良いと思うわよ?」

 

「え?」

 

「前にも言ったでしょう? 羨ましいって。自分で言ってて何だけど、やっぱり似合わないわね。強かなリィンって」

 

「何だろう、褒められてるのか貶されてるのか本気で分からん」

 

「褒めてるわよ。これ以上なく、ね」

 

 寧ろ、とアリサは思う。

 レイが凄い人物なのは身を以て体験している。少しばかり癪に思う時もあるが、本音と建前を使い分けて腹を探る手腕に関しても、自分の遥か上を行く。だからこそ、畏敬を感じる事はあっても憧憬を抱く事はない。

 言い換えてしまえば、それは一種の同族嫌悪なのかもしれない。無論、嫌悪の感情など持ち合わせていないのだが、しっくり来ないのは本当だろう。

 人は必ず、自分が持ち得ないモノに対して憧れ、羨望し、惹かれる。だからこそアリサは、あのノルドでの夜に自覚したその感情のまま、この青年に入れ込んでいる。

 

 支えてあげたいと願う。真っ直ぐに進むこの青年の隣で、彼が見落とした悪意を拾い上げて睨みを利かせるのが自分の役目。捻くれているのは自分だけでいいし、この役目は誰にも渡す気はない。

 

「(……って、ちょっと待ちなさい私‼ そ、それって……)」

 

 言うまでもなく、独占欲だ。それと同時に、おかしいとも思う。

普段ならばこういった想いは胸の内の奥底に秘められている筈なのに、何故今はこんなにも表層で焦げ付くように現れてしまっているのか。

 幸いにも夜であるために紅潮してしまった頬を見咎められる事はまずないが、そうであったとしても長く無言の状態が続けば流石のリィンでも怪しむだろう。普段は使わない脳細胞を総動員して原因を洗い出してみると、案外すんなりそれは見つかった。

 

「(あ、そっか。お茶会の時に……)」

 

 不敬であると自覚しているが、アルフィンがリィンに対して隠そうともせずに好意を示していた事に対して、らしくもなく嫉妬していたのだ。

加えてアリサよりもずっと昔からリィンの隣に居たエリゼに対しても、そういった感情を抱いていなかったとは言い切れない。自分がそんなにも分かりやすい性格であったのかと思うと辟易するが、同時にほっとする。自分にもまだ、そうした”女子”として在るべき感情が残っていたのだという当たり前の事に。

 

「? おいアリサ、大丈夫か? いきなり黙り込んで」

 

「ふへぁるぁっ⁉」

 

「え⁉ おい、本当にどうしたんだ⁉ 今なんか出ちゃいけない声が出てたぞ‼」

 

 いきなり自分の顔を覗き込んできたその行為自体に驚いて、とても言語とは思わない声を出してしまう。そしてそんな醜態を晒したことに対して形容し難い羞恥心が込みあがり、わたわたと意味のない身振り手振りを繰り返しながらリィンと距離を取るために後ずさる。

しかし余程慌てていたのか、後ずさるために後ろ手に回されていた手がベンチの端に触れてしまい、そのまま滑って体勢を大きく崩してしまう。

 

「ふぇ?」

 

 声こそ気が抜けていたが、アリサは沸騰しかけた頭で状況を判断する。

このまま重力に身を任せて倒れ込めば側頭部を石畳の上に強打してしまう。散々扱かれた教練の影響でこの僅かな時間でも受け身は取る事は可能だろうが、手首を捻る事くらいは覚悟しなければならないかもしれない。―――そう思っていると、不意に反対側の左手を、大きい手が掴んだ。

 

「よっ、と」

 

 そしてやはりこちらも気の抜けたような声のまま倒れ込みそうになったアリサを引き上げる。

リィンが咄嗟に手を伸ばしたのは条件反射だ。目の前に怪我をしそうな仲間がいるから助ける、などと大それたものではないが、困っている人に手を伸ばすという行為が自然に出来てしまう人柄の青年であるために、その行動自体に大して問題はなかった。

 しかし、問題はその後だった。視野が少なからず制限される暗がりであったためか、リィンがアリサを引き上げるために込めた力が少々過剰になってしまい―――結果的にアリサの体がすっぽりリィンの腕の中に収まる形になってしまった。

 

「(えっ、ちょ……)」

 

 アリサが状況を理解するのに要した時間は数秒。思った以上に力を込めてしまったためか、リィン本人も後ろに倒れてしまい、今アリサはベンチの上に仰向けに倒れるリィンの胸の中に顔を埋めてしまっていた。

 感じたのは、鍛練を積み重ねた結果逞しくなった異性の胸板の意外な厚さと、お世辞にも涼しいとは言えない夏の夜の下を急いで来たためにかいてしまった汗の臭い。

 分かっていはいた。リィンは恐らくガイウスを除けばⅦ組の中で最も男らしい体つきをしているのだろうという事は。

しかし、入学式後のオリエンテーリング以来、過度なスキンシップとは縁がなかったため、それを確かめられずにいた。それが今、ひょんな形で味わってしまったという背徳感、加える事、意識している異性の逞しい体と体臭を感じてしまったという喜びで一瞬意識が遠のきかけて―――しかし自分達に注がれる邪な視線を感じ取って、すぐさまリィンの体の上から跳ね起きた。

 

「今の……まさか……」

 

 倍増してしまった羞恥心で更に顔に熱が籠るのを感じながら、アリサは胸の前で両腕を交差させた状態のまま立ち上がる。周囲を見回してみるも、先程感じた視線は、もう感じられない。

 

「だ、大丈夫か、アリサ? 滅茶苦茶顔が赤い―――熱ッ⁉」

 

 そんな彼女の行動を怪訝に思ったリィンがアリサの額に手をやったが、翳した掌からジュゥゥッという音が聞こえ、それと共に人体から発されてはならないレベルの熱さを感じ取って反射的に手を離してしまう。

 

「ちょ、アリサ。風邪……ってわけじゃないのは分かったけど、ちょっと大丈夫じゃないだろ? なんかもう、水が沸騰しそうな熱気が来てるんだけど……熱ッ‼」

 

「う、ううう煩いわねッ‼ 誰のせいでこんな事になってると思ってンのよッ‼」

 

「俺⁉ え? 俺の所為⁉ 何も悪い事してないだろ俺‼」

 

「うっさい‼ リィンなんて爆死しちゃえばいいのよ‼」

 

「何でだぁぁぁぁぁッ‼」

 

 その後数分、不毛なやり取りを繰り返した挙句に、両者ともとりあえず落ち着こうという結論に達し、リィンは何故か本気のチョップが入った脳天を擦り、アリサは近くの水飲み場で頭から水を被って冷却処理をする事となった。その時に聞こえたジュゥゥゥッという焼け石に水を掛けたような音と、立ち上った白い煙については関知しない事にした。

 

 一方、アリサは漸く冷えた頭を回転させて、思い出していた。

 一度異性を意識したら、後は転がり落ちていくだけだと、書店で立ち読みした何らかの雑誌に書いてあった事を覚えている。そして自分が今、まさにその状態なのだという事を。

 

 認めよう。自分(アリサ・ラインフォルト)はリィンが好きだ。

 

 最初はどこまでもお人好しで馬鹿正直な青年だと呆れていた。オリエンテーリングの一件についてもあんなに大事にしなくても済んだんじゃないかと今になって思うが、根がとことんまで真面目な彼は深く深く考え込んでしまっていた。そしてケルディックでの実習が終わる頃には、それが彼の美点なのだと気付いた。

 どこまでも純粋に仲間の事を想い、しかしだからこそ深く悩んでしまう事がある。結果的に、そんな彼の姿を見ていられなくて色々と無茶に付き合わせて発散させようとした彼女もまた、お人好しという事なのだろう。

 現在もまた然り。自分が悩んでいる以上に、この青年は悩んでいる事だろう。大事な仲間であり、友であり、そして目標でもある少年の尊厳と、自分達の願望とを秤に乗せてどちらに傾かせるべきかを真剣に悩んでいる。

 それはきっと、彼にしか答えを見つけ出す事が出来ないモノなのだ。だからアリサは、彼の隣でその経緯を見届けようと決めた。

最初は純粋な好奇心。そうであったはずなのに、アリサはリィン・シュバルツァーという青年に対して憧憬を抱き、それはいつの間にか淡い恋心に昇華していた。

 それを否定してしまう程、彼女は馬鹿ではない。自覚するきっかけが他の女性への嫉妬であったのだとしても、この想いは自分だけのものであり、誰にも譲るつもりはない。

 例え好敵手(ライバル)が皇女と義妹であろうとも、諦めるつもりなど毛頭ない。

 

「……フフ。上等じゃない」

 

 恋愛。それは17年間の人生で自分が一切手を出してこなかった分野だ。毛程も興味を示さなかった為に、これが初恋ですらある。初恋は実らないと、そういった噂が実しやかに語られているのも知っている。

 だから何だと言うのか。自身が存外執念深いのは自覚している。選ばれなかったら選ばれなかったでスッパリ未練を断ち切るだけの覚悟は持ち合わせているが、最初から負ける算段で物事に挑むのはアリサ・ラインフォルトの性に合わない。

 

 長い金髪に絡みついた水滴を振るい落とすと、東屋へと戻る。リィンは少々涙目で先程ノリで食らわせてしまったチョップの被弾地点を擦っていたが、アリサの姿を確認すると、嫌な顔一つ見せずに迎えてくれた。

 

「冷めた?」

 

「えぇ、一応。……ゴメンなさい。ちょっと暴走してたわ」

 

「大丈夫だよ」

 

 そう言って笑みを見せるリィンの姿に、心臓の鼓動が再び早鐘を刻む。

つい一日前ならばこれ程過剰な反応は示さなかったと思う一方、自分が完全に目の前の青年に惚れこんでしまった事を否応なしに理解してしまった。

 

「ねぇ、リィン」

 

「ん?」

 

「ノルドに行った時に、私の事が必要だって言ってくれたじゃない? あれって、今でも変わらない?」

 

 その問いかけに、リィンは小首を傾げ、間髪を入れずに「当然だろ?」と返す。

 

「変わらないよ、今でも。多分、これからも」

 

 その言葉が何を意味しているのか分かっているのかと小一時間問い詰めたい気持ちが湧いてきたが、それよりも嬉しさが勝ってしまった。

惚れた方が負け、という言葉の意味を実感してしまった事に、再び顔が熱を取り戻しかける。

 

「そう」

 

 だから、そうとしか返せなかった。これ以上の言葉は、無粋だと思ってしまったから。

 

 彼は恐らく、これから色々な壁を覚悟を持って乗り越えなければならないのだろう。実際、今目の前にある壁は彼が自力だけで乗り越えるには厳しいモノだ。

 だからこそ、自分が手伝ってあげたい。彼の選択を、彼の覚悟を、他の誰が認めずとも自分だけは認めてあげたい。

 

 それが恋で、愛なのだ。

 

 この日、動乱が待ち構えた翌日が迫るこの日、アリサは固く固く、そう決意したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




日程的にデートとか無理だった。ゴメンなさい。僕にはここまでが限界です。

いつかリィンのアリサの日常回も書きたいなと思う今日この頃。


さて、次回から漸く話が動きます。



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