「マスター、今日はクサビさんもいるのかい?」
「ええ、仕事から帰ってきて今はみんなでサッカー観戦ですよ」
自国チームに一〇オンスほどかけているらしい。と付け加えてからカウンターに立っていた彼女はジト目で他の客とテレビに齧り付いている赤い小紋を纏ったスフェーンを見た。
「いやいや、サッカーなら誰だって見る。特に今年はベッキーと富山がいる攻守最強編成だ」
河嶌はそこでオリジナルブレンドを注文して彼女が毎日注文の度に作ってくれる豆を見る。
俺がこの店を見つけたのはなんてことはない。
当時、まだ新米で新しいネタ探しで粗探しをしていた時の頃の話だ。
政治家や実業家の記事になるネタを探し回って追跡をしていた頃、ある政治家と実業家がこっそりとこの店に入ったところを写真にして記事にしようとしたところを、当時の編集長に呼び出されて叱責を喰らったのだ。
『馬鹿野郎!これじゃあ記事にできねえだろうが!』
編集長は俺にそう怒鳴って理由を聞いたら、編集長は二人が入って行った建物を指差した。
『お前この業界に入って何を学んだんだ!』
この建物だけは写すなと怒鳴られたのだ。どう言うことだとその時の俺は困惑しながらデスクに戻ると、叱責されたことを聞いたその時の教え役の編集者が言った。
『この店はね、俺たちの間じゃあ触れちゃいけない店なの。勝手に書いたら後が怖いぜ?』
普段から真摯に教えてくれて気に入っていた先輩の話に、俺は興味が湧いて店の外で一週間ほど張り込んで見たら、面白いことに多くの名だたる大企業の役員が来るわ来るわ。どんな買収や商談が行われているんだろうかと経済ジャーナルが両手をあげて喜びそうな入店状況に『なんでこの店は移してはいけないんだと』と思った。
しかし大企業の役員ともなればこんな住宅街との境目にあるような場所。しかもこれといった特筆した外見でもないし、暖簾が無かったら店かどうかも分からないような店構えである。
「…入ってみるか」
中に入ったら色々と記事にもできるだろうと思った。とにかく記事をすっぱ抜いてとっとと有名記者になりたかった当時は、そんな軽い調子で店に入った。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」
「あ、ああ」
引き戸を開いて暖簾を潜ると、店内に人はまばらで、丁寧に清掃された色とりどりのトルコランプが吊るされており、床はワックスがけをされた直後で靴が滑らなかった。
「(贅沢な店だな)」
そこでまず彼は思ったのは天井から壁、床に至るまで色々な場所で大量に木材が使われていたことだろう。一度自然が失われ、今も熱心に植林活動がされているこの世界において木材というのは比較的高価な建材である。しかも大量に使われた室内は長年に渡って丁寧な保全がされていた影響なのか、艶のある木材が色とりどりのトルコランプの光を反射していた。
「お好きな席にどうぞ。注文はお席で伺っております」
店番をしていた青い着物を纏っていた黒猫の獣人。大きな耳に白い耳毛は丁寧に整えられていた。大きな青い瞳は猫目で、今時珍しい獣に近い獣人だなと思っていた。
俺はそこで一番聞き取りやすそうな座席に座ると、よく効いたクッションは体全体を優しく包み込んでくれる。
店は喫茶店の様子で、ほの暗くて静かな空間が広がっていた。先ほど店に入って行った政治家と実業家の姿は見受けられなかった。
「(どこに行ったんだ?)」
首を傾げつつも彼は失礼にあたるのでさっさと座ったテーブルのホログラムを起動してメニューを見ていく。
スイーツや軽食の類も用意されており、紅茶の準備もあった。そして意外にもコーヒーの種類が多く、豆から選べた。俺はそこまでコーヒーのことは知らないので適当におすすめのオリジナルブレンドの中深煎り、中細挽きを選んで待つ。正直コーヒーのことは点で分からない。朝の目覚めの一杯や眠気覚ましに飲んでいることがほとんどで、エナジードリンクのかわり程度にしか飲んだことがなかった。
店内には僅かにコーヒーの香りが漂っており、遠くからコーヒー豆を挽いている音が聞こえてくる。
カウンターではモカエキスプレスやコーヒーロースター、コーヒーサイフォンといったコーヒー器具が一通り取り揃えられていた。
そこで店員はコーヒーミルで丁寧に豆を挽くと、粉となったコーヒーをそのままフィルターを敷いていた漏斗に注ぎ入れて均一に均してから事前にアルコールランプで加熱していたフラスコの上に差し込む。
子供の頃の理科の実験を見ているようで遠目でついついその所作が気になって見てしまうと、沸騰していたフラスコの水がゆっくりと漏斗に上昇していき、フラスコの中の水蒸気がフラスコ内の水を漏斗に押し上げていた。
「…」
そしてゆっくりと上がり、フラスコ内のすべての湯が上がりきったところで数回、細い竹篦で手早く攪拌をしてからアルコールランプを外して再度手早く数回攪拌させる。そして少し放置すると、漏斗に泡が吹き出し、だんだんと漏斗からコーヒーが下に落ちていく。
そしてフラスコに透明度さえ感じるコーヒーが溜まると、彼女はフラスコの中身をカップに注ぎ入れる。そろそろ来ると思って視線を外すためにスマートフォンを手に取って対して興味もなかった検索サイトのニュースを見ていくと、盆に乗せて店員が目の前にカップを持ってきた。
「お待たせしました。オリジナルブレンドです」
「ああ、ありがとうございます」
注がれたコーヒーカップは蛍手で、石英の部分が透けてコーヒーの黒味のある色合いが青磁のカップと対照的にくっきりと黒竜が浮かび上がった。
「っ!?」
そしてカップを鼻に近づけた直後、彼の脳裏では困惑と驚愕が起こった。
「えっ…?」
正直、香りの時点で『これがコーヒー?』と思うほどだった。いつも飲んでいるインスタントのやつがまるで泥水のように感じる独特の香りだった。
芳醇な香りに苦味の奥に隠れたやや効いた酸味。これがコーヒーなのかと直感的に理解して傾けると、インスタントの粉とは丸切り違った。
「…」
この時、彼の中で政治家や実業家のスキャンダルを追うという仕事がごっそりと抜け落ちた。
直後に『この店を広めたい』と思った。
思わず俺はそのコーヒーを再度飲む。そしてこの感動を文字に書き起こすために企画を草案する。題名は何が良いか、王都近郊のカフェの特集で組むべきか、それとも別の方向で書くべきか。そんな事を頭の中で思い描きながらコーヒーを飲み終えると、代金を支払うために入口のレジに立つ。
「とても美味しかったです」
そこで彼は店員にモラルとしてこの店を記事にしたいと言うと、その店員は言った。
「すみません。この店はそう言ったことはすべてお断りさせてもらっているんです」
「…」
その時、彼の脳裏にはこの店について上司たちが言っていた事を思い出す。どうしてかと聞くと、その店員…後で店長であった事がわかる稗田野サダミはその理由を教えた。
「お店が有名になってしまうと、元々きていたお客さんを待たせてしまいますので…」
「ああ、なるほど」
その瞬間、彼は理解した。そしてこの店長の意見に深く理解した。
もし記事に書いて仕舞えば、誰かが読んだ時に影響されて客が来店するだろう。しかしそれは一見さんであり、二度目に来ることは考えにくい。こんな雰囲気の店だ、絶対に人は多く来る事だろう。そうなったら元々いた常連客が店に入れなくなって離れて行ってしまうことになる。本来はすぐに入ってさっと休憩するはずのカフェで並んでしまうと言う本末転倒案件になってしまうことは容易に想像できた。
「分かりました」
最近はこうした事があるために撮影もすべてお断りというカフェは散見できた。無論、その意見には大いに河嶌は賛同していたので、彼はそのことをすんなりと受け入れた。
その後、彼は何度も店に通った。
元々、政治家や実業家、企業の役員などがよく利用している店で、色々と独自ルールがこの店には適用されており、流石に自分の会社の社長が見知らぬ女性を連れて店に入った時は息が止まるかと思ったし、同時にこの店で記事を書けない理由がわかってしまった。
意外なことにこの店は編集長も取材というなのサボりでここを訪れていることが発覚したこともあった思い出の場所でもあった。
ここは持ちつ持たれつの関係で成り立っている極めて絶妙な空白地帯であるのだ。一種の安全地帯と言ってもいいだろう。
確かにここではいい記事が書けるだろう、しかし書いた場合は確実に書かれた側から報復として自分たちの陣営の赤裸々な事実が書かれることとなる。そしたら地獄のような紙の上の戦争が勃発することになる。無論、そんな店であると分かったらこの店も畳まないといけなくなるだろう。
流石に『賢人』や『王宮省の裏ドン』までいるとなったら国すら敵に回す可能性すらあり、自分とてそこまで黒くない人物相手に喧嘩を売るような真似はしたくなかった。多分、冗談抜きで命がなくなる。
何より、この店主が淹れたコーヒーが飲めなくなるのはこの人生の中で大きな損失となってしまう。
「どうぞ、オリジナルブレンドです」
「ああ、どうも」
そこで提供された白磁のカップに注がれたコーヒーを前にあえて何も入れずにカップを傾ける。
「大分お疲れの様子で」
「ええ、なにせ今日は朝から場所取り合戦をする羽目になってしまって…おかげで昼間に寝てしまいましたよ」
彼は苦笑気味に話すと、そこで思い出した様子で彼は持っていた空瓶を差し出す。
「そういえばこれ、お返しします」
「うん」
それは早朝にこの店に立ち寄って購入したアイスコーヒーを入れていた空瓶だ。この時期になれば必ず出てくる商品で、一年の楽しみのうちの一つでもある。わざわざアイスコーヒー用にブレンドした豆を使って抽出されていた。
「あらあら、今日は随分と楽しそうで」
すると店の引き戸が開いて、入口のガンラックに
「おっと、これはこれはアニータさん」
「どうも、中央出版の記者さん」
レディースーツを纏ったその女性、アニータ・パレスに河嶌は若干緊張しつつも気さくに答えた。
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