その夜、店のカウンターでガリガリと削れる音が聞こえる。
「…」
その音の正体は氷。カウンターでサダミがアイスピックを使って透き通った氷を削っていたのだ。
反対の景色まではっきりと見ることも出来そうなその氷は、惜しげもなくカットされる。
「はい、ザ・マッカランの12年。ロックね」
「ありがとうございます」
そして綺麗に円形に削られた氷をグラスに入れ、上からウイスキーを注ぎ入れて軽くバースプーンでかき混ぜた後に提供される。
「しかし最初からロックとは、珍しいですね」
「今日は時間もなかったんです」
そうサダミに答える常連客は、グラスを傾ける。その服は新品で、下ろしたてのスーツを纏っていた。
普段はストレート、ハイボールと飲んでからロックを飲む習慣のあった彼は、今日はらしくなく最初から最後に飲む一杯を注文していた。
「待ち合わせですか?」
「ええ、景気付けに一杯。店長からもらおうと思って」
彼はそう話すと、聞いたサダミは静かに頷く。
この喫茶店は、夜はバーの営業も行っている。まあバーと言っても実質はパブのようなもので、酒も一本料理も多数取り揃えている。…この場合、居酒屋という方が正しいのだろうか?そこら辺の詳しい話は知らなかった。
「なるほど…」
男の話を聞いた彼女は片手で洗ったばかりのグラスを乾いた布で拭く。この店は世界中を運び屋として飛び回っているスフェーンのおかげで、このグラスについてもこだわりを見せていた。サダミの『食洗機使えねえじゃねえか!』という怒号と合わせて…。
一介の商社に所属する人間としても、彼女の見極めのセンスには何度も脱帽させられるものだ。正直、学ぶべきものは多い。
「ふふっ、次にこの店にくるときは是非とも奢らせてもらおう」
「…怖いこと言わないでください。店長」
そこでサダミの微笑みに男はため息混じりに返す。妙に顔が強張り、何度も腕に巻いた時計を確認していたことを見られていた様だ。
「そのままでは肩を張りすぎて脱臼してしまいそうだぞ?」
「…ははは…やっぱり店長には敵いませんね」
カウンターでサダミと話していると、不思議とその常連客の若い男もいつもの様子で少し口調も砕けてくる。
「そりゃあ重ねた年輪が違う」
「ええ、店長も…クサビさんもですが…皆俺の何十倍も生きているじゃないですか」
常連客はそこで今は仕事に出かけていて帰ってきていないもう一人の店主を思い浮かべる。
この店は店主が獣人であり、不老者でもあるのでこの店は長い間この場所で切り盛りを続けていた。
かくいうこの若者も、会社の上司が煙草で一服すると言って帰ってこなかったことで知った店だった。
「どうかな?少し前に仕込んだおすすめの一本もあるんだが…」
「是非、貰ってもいいですか?」
そう答えた常連客にサダミは快く頷くと、彼女はカウンターに一本の瓶を取り出す。
「ブルーベリーのウイスキーだ。まあニッカウヰスキーに入れただけのものだがね」
「おお、これはこれは…」
常連客は綺麗な赤紫色に染まったウイスキーを見て少し笑みがこぼれる。この店のおすすめの酒は主に果実酒、特に梅酒がおすすめだ。
特にこの店の地下は巨大なワインセラーを持っており、そこにはクサビが仕込んだ二〇年物の梅酒や梅干しが用意されている。
一度、ここで一服をしていたその上司に奢ってもらって飲んだことがあるが、その香りというのは自家製とは思えないほど濃厚な香りを持っていた。店で飲むことの楽しさもその時に教えてもらった。
「おすすめは?」
「ソーダ割りです」
「じゃあ、それを」
サダミのおすすめで注文を入れると、彼女は頷いて黙々と作ってくれる。
その背後の棚にはアルゴンガスを使うワインセーブの刺されたワインボトルが何本か用意されていた。
この店には今では珍しくなったワインも用意され、この店の資産となっている。特にここには『1082年産アンヌ・ド・カタリナ』がある。一度、見させてもらったことがあるが、保存状態は完璧だった。何でもずっとこの店の屋根裏部屋に置かれて忘れられてしまっていたという。
このワインの現在の推定査定額は凡そ八〇〇万ウィール。
資料に残された八〇年前の競売にかけられた際の落札金額は六五〇万ウィール。王国の物価を考えると一本でタワーマンション一棟を買える値段だ。
そのような希少なワインボトルをここは三本も保有していた。いったいどのような縁で手に入れたのかと興味深かったが、生憎それは教えてもらうことはなかった。
カシュッ
目の前では蓋を開けてグラスに氷を入れ、ブルーベリーを漬け込んだウイスキーを注ぎ入れる光景が広がる。
容器に四分の一ほど鮮やかな赤紫色のウイスキーを注ぎ入れると、次にウィルキンソンを入れていく。そして慣れた仕草でグラスに注ぎ入れると、バースプーンで数回掻き回して馴染ませると目の前に用意した。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
そして提供されるハイボール。試しに傾けると、最初にさっぱりとした炭酸の香りが抜けていく。ウイスキーで良くあるアルコールの強い香りは感じず、ブルーベリーの甘味とシロップとなったグラニュー糖がジュースのように飲みやすくしてくれている。
「ニッカウイスキーでも美味しいですね」
「個人的には角瓶でやっても美味しいと思ったのだが…生憎クサビがこちらで仕込んでしまってね」
「いえいえ、全然飲みやすいです」
試しに作り方を聞いてみると、サダミは簡単に教えてくれた。
「冷凍したブルーベリーを大体一二〇g、グラニュー糖五〇g、好きなウイスキー。これを入れて一週間寝かすだけ」
時折瓶を傾けて中身を混ぜてもいいと言うと、作り方のあっさりとした具合に聞いていた男は若干驚く。
「それなら家でもできそうだ」
「ええ、たまには別の味を楽しむと言うことでも楽しいと思いますよ?」
サダミはそう話すと、常連客はそんな彼女の対応に笑う。
「いや、教えられてもまたここに来ますよ。どうせ」
そこで彼はこの薄暗い店内の様子を見る。
照明に使用されているトルコランプが煌めく店内。
木造風の柱やステンドグラスの大きな窓。
向かい席四人がけが基本のソファ席。
大きなカウンターに並んだドリップマシン、フレンチプレス、コーヒーフィルター。
そして未だに微かに香るコーヒーの香り。
そもそもが年季の入った店で、毎日のように提供される珈琲や茶葉の香りが建物に染み付いてしまっていた。
「ここは、会社で誘われる店と違って静かですから」
「そう…」
そこで常連客の一瞬閉じた瞼に投影されたのは、煌びやかなシャンデリアの吊り下がった高い屋根に白シーツで覆われたテーブル。
そこに並ぶフルコース料理の白磁の皿。色とりどりの料理。
無論、その様な場所で食べるものが不味いわけではないのだが、高いものほど胃に負担をかける。
そんな時、ふと思い出すのはこの店の燻製されたナチュラルチーズ。市販の6Pチーズを燻製した代物だが、この店でついつい頼んでしまう。
「すみません。ハムとチーズの盛り合わせ…ああいや、燻製チーズを」
「分かりました」
いつもの癖で注文しかけたが、自分は時間潰しでこの店に来ていたことを思い出して注文し直すと、サダミは頷いてカウンターを出て店の庭につながるドアを開ける。
その店に併設されている日本庭園はこの店最大の魅力で、最もこの店を他人に言いたくない理由でもあった。
オフィス街の灰色と硝子の景色に疲れた時、この緑や赤と言った色彩を放つこの場所は静寂と冷涼を与える。特に自分のお気に入りは梅雨の時期。
雨が降る中、雨戸で区切られた縁側に座ってグラスを傾けるのが好きだ。
グラスを傾けたまま、何も考えずにガラス窓越しに雨足を見つめる。それが何よりも贅沢だった。
「どうぞ、燻製チーズです」
そこで提供されるのは、今し方完成されたばかりなのだろう。まだ暖かく、完成されたと一発で分かる黄金色に輝く扇型に切られたチーズ。その一つを手に取って一口。
「…うん、美味い」
そこで香るのは強めのスモークチップ…この香りは林檎のチップを使っていると分かる。
基本的にこの店長達の気分でメニューは毎日変わる。この燻製チーズも、チーズか燻製チップが無かったら提供されない。それが気に入らないという客もいるが、そのような客は是非チェーン店かフランチャイズのバーに行ってもらいたいものだ。
少なくともここの店は個人営業なのだ。店が空いていない日もある。
そんな時、それが新しいメニューや新しい店を探すきっかけになる。
この燻製チーズだって、店長のこだわりで桜のチップを使うこともある。それもまた賭けだ。
自家製のハイボールもそうだ。以前は酢桃や林檎、梅で作られたこともあり、ニッカのほかに角瓶やブランデーに漬け込むことだってある。組み合わせは千差万別だ。
「…」
チーズとハイボール。
いつもの組み合わせではないが、それが今の自分がしようとしている事だ。
この店長の事だ、これから自分が何をしようと分かっていて飲みやすくしたハイボールを渡したくれたのかもしれない。
「美味しいですね。今日は林檎ですか」
「流石ですね」
「ええ、ここの燻製チーズは最高ですから」
そう言って微笑む。この前、クサビが店にいた時に注文した時はちくわの上に棒状に切られたものを提供されたが、これが意外にもあっていたのだ。あれもまた面白い発見であったなと思い出す。
「ご馳走様」
そこで二杯と一品を完食した彼は腕時計を確認して財布を取り出す。
「はい、丁度ですね」
硬貨で直接渡されたのを確認してサダミは頷く。
こういう時、キャッシュレスだとレジに行かなければならないので店の構造でレジだけ入り口近くにあるこの店だと若干不便に思ってしまう事がある。
こう言う、カウンターで簡単に清算できるところも現金で個人経営の店の強みだろう。
「ありがとう、店長」
そして片手にプレゼントを入れた小さな紙袋を持って俺はそう言うと、店長は微笑んで返した。
「いえいえ、どうか実りある人生になりますように」
その返答に男は少し恥ずかしげに暖簾を潜って店の引き戸に触れた。
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