飼い猫が死ぬ間際、夢を見た。
やけにリアリティを伴った夢で、夢に出てきた男は僕そっくりの背格好をしていた。まじまじと鏡を見つめるみたいな気恥ずかしさを覚えてしまって、その目の前の”僕”に目を合わせることは終始なかった。
「きみの寿命を半分飼い猫に譲渡することができる。やるか? やらないか?」
頭蓋で反響する声は、そういう言葉をかたどっていた。これまた僕に似た声音をしていて、一種の気持ち悪さを覚えた。
特に考えることもなく、僕は了承した。
「やるよ。やってくれ。それでベルが長生きできるなら、喜んで」
飼い猫の名前を強調するように言うと、そこで目が覚めた。ボロアパートの、小さな部屋のど真ん中。暖房器具もないから、この寒い冬の中で湯たんぽを飼い猫のベルと分け合いながら抱えて眠る。
身体を起こせば、あちこちが痛んだ。いつもの眠気覚ましだった。
はっきりと覚えていた夢。その結果を確かめるために、薄いブランケットをめくってベルの姿を見てみた。痩せてはいるが、昨日ほどではない。少し活気づいたようで、直感的に迎えるはずだった寿命を先延ばしできたのだと理解し、手放しに喜んだ。
同時に、不安が頭をよぎった。
僕は、健康からは程遠い身体だ。まだ若いが、寿命そのものは長くないだろう。半分を渡したところで、向こう数十年は安泰とはいかないはずだ。せいぜい、お互い──数年の命。
持病のせいで虚弱な自分の身体を、この日ばかりは憎んだ。いつもは諦めきれていたが、ベルに関係してくるとなるとそうはいかない。ナー、とベルが腰に頭を擦り付けて来た。落ち着けと言ってくれているのかもしれない。
「大丈夫さ」
明日には死んでいたかもしれない相棒を、数年先送りにできたのだ。それだけでも喜ぶべきだろう。
その日はいつものようにゴミ漁りに出た。金持ちの家が住んでいる地域に忍び込んだりして、バレないように金目のものを引き抜いたり、食べ物があればそれを拾い食いする。ベルの野生の勘は大いに役立つ。こういうとき、状態のいい食べ物をもってくるのは必ずベルだった。
「──きみは、どうして俺を生かしてくれたんだ」
六年が経ったある日、ベルは喋るようになった。猫は一生のうちに一度喋るとか喋らないとか言うが、ベルはその日を堺に口が達者になった。僕よりもダンディで色気のある声だった。響きが心地よくて、”大人”という感じだ。
それもそうか。とっくにベルは寿命以上に生きている猫だ。人間で言えば、百歳を超えたおじいさんみたいなものだ。
「夢で、僕みたいな人に会った。僕の寿命半分を、ベルに差し出せるって言うからやった」
「どうやって、じゃなくてどうして、だよ。俺はあの日ごろに死ぬはずだった。それは、生き物として仕方のないことだった」
ベルは、とても達観して難しいことを言っていた。寿命を遥かに超えて生きた生き物は、そういう知性がつくらしいのだ。喋れるようになったのも、そういうイレギュラーな生き物の成れの果てだとベルは言っていた。発達した知性の産物だと。
「ベルがいないと、僕は生きていけない。食べ物をもってくるのは、いつだってベルだ。感謝してるんだ」
「それを言うなら俺もだ。俺にはモノの価値がわからない。金になるゴミを見つけてくるのは、いつだってきみだ」
「だから、どっちかが死ぬわけにはいかなかったんだ。二人じゃないと、どっちも死ぬ」
それに、と僕は念を押すようにずいと顔をベルに近づけた。大きな猫の目が視界を埋める。
「ベルは、大切な家族だ。月並みだけどね。きみがいない世界に、きっと僕はいない」
それからさらに半年、とうとう僕は動けなくなった。定期的に血を吐くようになってしまって、身体が枝木のように細くなってきた。寿命が近づいているのがよくわかった。そして、それは同時にベルの寿命も近づいているという宣告だということも理解していた。
「ベル、ベルは、大丈夫?」
「こっちのセリフだ。きみは、大丈夫……じゃないな。なにか、消化に良いものをもってくる。俺は猫だからな。愛想よくしてれば、食べ物くらい恵んでくれる」
「僕以外に色目を使うの、やだ」
「……そんな言葉どこで覚えてきたんだ」
まるで保護者のような言い回しだった。といっても、僕には保護者がどういうものかわからない。あくまで形式的にそう表現するしかなかっただけで、いつだって僕の中の保護者というのは捨て猫を作る大人と似た形をしていた。
一週間後、ベルが帰ってこなくなった。
いつものように食べ物をもってくると言ったきり、戻ってこない。ベルが虚勢を張っていることには、なんとなく気がついているつもりだった。お互いに寿命が近いのだ。ベルだけ元気な訳が無い。だが、野暮にしかならないと思って言えずじまいだった。そのツケが回ってきたのだ。
久方ぶりに、上体を起こす。身体の軋みは、もはやあまり感じなくなっていた。身体よりも先に感覚が死に始めているのがわかる。おぼつかない足取りで、ボロアパートをでていつものゴミ捨て場に向かった。
前みたいに誰にも見つからずに、というわけにはいかなかった。あまりのみすぼらしさに、あるいは異変を感じ取ったのか、周囲の人間が警察か救急を呼んでいるのがわかった。余計なお世話だ。そう思いながら路地へ入る。
倒れているベルを見つけて、身体の不調を忘れたかのように駆け寄った。抱き上げ、愛猫の名前を呼ぶ。
「ベル、ベル」
嗚咽混じりになっていた。喉がきゅうきゅうと音を立てながら必死に名前を呼んでいると、ベルは少しだけ動いてくれた。だが猫らしく、液体のようにぐったりとしている。
「帰ろう。ベル」
道中、警察に見つからないように迂回ルートを選んだ。より安全で、家までつながっている道。来たときの倍以上の時間をかけて部屋へ戻ると、いつものように湯たんぽを作った。冬の空気に当てられて、ベルも寒がっている。
出来上がった湯たんぽを僕とベルで挟む。上には薄いブランケットを覆わせて、少しでも熱を逃さないようにする。ぐっすりと眠っているベルを見つめながら、僕もまぶたを落とす。
──夢を見た。
六年と半年前のあの日見た夢と似ていた。僕にそっくりな人が出てきて、その人は僕に語りかける。
「私が采配した寿命は、完璧だった。だが、彼はどうも献身的すぎたらしいな。きみよりも、わずかに早い寿命を迎えてしまった」
痛いところをついてくる。それは、僕が一番良くわかっていたことなのに。
「私はきみだから、そういう後ろめたさは手に取るようにわかる……今きみが考えていることも」
話が早くてよかった。
「最低なやつだ」
それは、よくわかってる。僕は、最期まで最低なやつだった。
□□□
目が覚めると、傍らにいたのは飼い主の冷えた身体だった。湯たんぽを抱えているのに、身体が冷たい。俺が頬を舐めてやっても、起きる気配はなかった。
「──あぁ、そうかい」
やると思っていた。本当に残り少ない寿命。それを、全部俺に渡す。やると思っていた。だが、残された時間は一月もない、下手をすれば一週間も、一日も、一時間もない。そんな状態でどうしろというのだ。
ふと、机の上になにか乗っているのが視界の端に写った。白い紙だった。大抵のモノをゴミ捨て場から収集している俺らには宝石にすら見える、白い紙。
字が書かれていた。
『僕らのお墓』
裏面には、黄色い絵の具でベッタリと手形が描かれている。指紋から、掌のシワまでくっきりと見える。血が通っているかのようにさえ見えた。生きているみたいだった。
実際、それが最期の生きた証だったのだろう。それだけが、俺らの残せる唯一。死を二人で分かつから。寿命が伸びたせいで、感情を覚えてしまったせいで、悲しくてしょうがない。
目元に溜まる涙がうっとおしくて、それを拭う。拭っても拭っても溢れてくる涙を、俺の手で握り込んだ。
そっと、手形に俺の手を重ねた。飼い主の生きた証。唯一残っている、生きていたときの財産。寿命を超えて、最期に触れ合えているかのように掌が暖かくなった。
黄色の手形の中に、キレイな肉球型の手形がくり抜かれていた。
殺人鬼は夜を喰むと本筋で書いている小説の執筆に飽きたので書いた短編です。
いい息抜きになって楽しかったです。
しばらくこういう短編を書くのも楽しいかも。