僕には悩みの種がある。それは僕の隣にいる部活の先輩、乙宗梢さん。
「ほら、凪、ネクタイが曲がってるわよ。乙宗家として恥ずかしくない格好にしなさい」
彼女はまるで合言葉のように「乙宗家として恥ずかしくないように」と僕に言う。だが、僕は乙宗家の人間ではないし、なるつもりもない。僕の人生のどこを探しても、乙宗家とつながる点は見つからないはずだった。
「凪、今週の土曜日、2人でどこか出掛けないかしら?」
梢さんにダンス練習の休憩中にそう提案される。その時も彼女は僕のすぐ隣の腕がくっつくくらい近くにいる。
僕は出来るだけ気にしないように努めながらスマホのカレンダーを見る。
その日はクラスの女の子と遊びに行く予定があった。
「すみません、その日はクラ……いえ、用事があって」
僕は本能的に"これは梢さんに言わない方がいいだろう"と感じた。野生の勘というべきか。
「そうなの、ごめんなさいね。」
申し訳なさそうに彼女は眉を下げる。そしていつも通り優雅な仕草で彼女は元の場所へ戻って行った。
「大変だね」
スポーツドリンクを飲みながら僕の隣に座ってきたのは、一つ下の後輩の百生吟子だった。
「聞いてた?」
「聞くつもりはなかったんだけど……」
彼女は申し訳なさそうに頭を下げた。
「そうだ、相談したいことがあるんだけれど」
彼女も良家の生まれ、何か分かることがあるかもしれない。僕は全て彼女に話した。
「酷いね、そんな圧力かけるみたいな」
僕の話を優しく聞いてくれた。
「私にも一応許嫁ってあるけれど、私はちゃんと好き同士で結婚したいってそう思うよ。」
僕の目をしっかりと見て、彼女は言う。
「もしかして吟子ちゃんは好きな人がいるってことかな?」
「べ、別にほんな人おらんよ」
僕が揶揄うと酷く慌てた様に彼女は取り繕う。
照れているのか慌てているのか。
「ありがとう、楽になったよ、また聞いてもらっていい?」
彼女は顔を赤くしながらな頷いた。
「一体何を話していたのかしら?」
吟子ちゃんが去り、僕がスマホの画面を眺めながら、何気なく靴のつま先で地面を押していたときだった。背後から、酷く平坦な声が降ってきた。
まるで窓の外を流れる風景について言及するみたいに、彼女は言った。そこには怒りもなければ、皮肉もなかった。ただ、何かが確かに失われたことを認識するような、そんな種類の声だった。
声の主は乙宗梢。
「別に取るに足らない話さ、きっと君の暇を潰す事も出来ないような」
「いいじゃない、私とっても退屈なの、それこそ取るに足らない話すらも楽しめるような、ね」
彼女からは早く話せ。というオーラが満ち満ちていた。それは僕を鋭く刺してくるくらいに。
「別に吟子ちゃんの家のことについて聞いていただけだよ、少し気になってさ」
「そうなのね、他の人と話した事は全て私に話しなさいね、私と貴方は一蓮托生なのだから」
彼女は僕の魂まで見るみたいにじっと見ていた。
何となく僕はやっぱクラスメイトと遊びに行くことを黙っていて良かったとそう、思った。
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「凪くん、今日はありがとう。すごく楽しかった」
クラスメイトとの遊ぶ約束の日、遊びに行った彼女はそう言って微笑んだ。駅前のロータリーで別れを惜しむように立ち止まり、少しだけ上目遣いで僕を見た。
「うん、僕も楽しかったよ」
それは本心だった。特別な意味なんてない。ただの友人としての買い物、ただの食事。それだけのはずだった。
だけど、僕は気づいていなかった。視線を。背後から静かに、けれど確実に注がれる視線を。まるで冬の朝に忍び寄る冷気のように、じわりと僕の肌に絡みついていた。
「――ずいぶん楽しそうね」
その声が耳に届いた瞬間、僕の全身が凍りついた。
振り向くと、そこには乙宗梢が立っていた。
彼女は僕を見て、それから隣の彼女を見た。そして、ひどく丁寧に微笑んだ。まるで水面に投げ込まれた小石が、静かに波紋を広げていくような微笑みだった。
「凪、少しお話ししましょうか?」
それは提案ではなかった。命令でもない。ただ、避けることのできない事象のひとつとして、そこに存在していた。
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力強く彼女は僕の腕を握り、人目の付きにくい路地に連れていかれた。そして、壁に押し付けるように手を離す。
「貴方は近い将来、乙宗家の一人として、私の夫として歩む義務があるのよ。その様な気の緩みでは困るわ。他の女となんて」
「……え?」
唐突すぎる言葉に、思考が止まる。
夫? 義務? 乙宗家の一員? 僕が?
僕の頭は疑問符で埋め尽くされている。
「ちょ、ちょっと待ってください! そんな話聞いたことないんですけれど!」
動揺しながら距離を取ろうとするが、彼女は猫みたいにするりと間合いを詰めてくる。
微笑みを浮かべたまま、僕のネクタイを指でつまみ、ゆっくりと締め直す。
「ふふ、可愛いわね、凪。驚くのも無理はないわ。でも、これは決まっていることなの」
「決まっているって……誰と?」
「もちろん、私よ」
さらりとした口調で、当然のように言い切る。
「乙宗家の後継者である私には、相応しい伴侶が必要なの。その役目を果たせるのは、貴方しかいないわ」
「そんなの勝手すぎなんじゃないかな」
「勝手じゃないわ。だって、貴方はもう私のものなのだから」
優雅な微笑みとは裏腹に、彼女の瞳は逃がさないと言わんばかりの強い意志を宿していた。
「……冗談ですよね?」
かろうじて絞り出した声は、情けないほど震えていた。
でも、梢先輩は微笑みを崩さない。むしろ、その笑顔が確信に満ちているように見えて、背筋が寒くなる。
「冗談だと思うかしら?」
「だ、だって、僕たち付き合ってるわけでもないし、そんな約束も……」
「ええ、付き合ってはいないわね。でも、それは順番が逆なだけ。まず婚約して、それから愛を深めていけばいいのよ。貴方と私に遮るものは何も無いわ」
論理が滅茶苦茶なのに、なぜか圧倒される。
梢先輩は僕の手を取り、まるで逃げ道を塞ぐようにそっと握る。
「大丈夫よ、凪。今はまだ実感が湧かなくても、いずれ分かるわ。私が貴方を導いてあげる」
「いや、でも――」
「もう決まっているの。受け入れるしかないのよ」
優しく、けれど決して抗えない力で、彼女は僕を包み込むように微笑んだ。
「……僕には選択肢がないってことですか?」
なんとか冷静さを保とうとするが、喉が渇いて声がうまく出ない。何度か唾を飲み込み、出した声は枯れていた。
「選択肢? そうね、"いつ受け入れるか" の選択肢ならあるわよ」
「それって、"受け入れる" 以外の選択肢がないってことじゃ……」
「そういうことね、今か後かの違いでしかないの」
梢先輩はまるで当然のことのように頷く。
僕の困惑なんてお構いなしに、彼女はしっかりと僕の手を握ったまま、優雅に微笑み続ける。
「……なんで僕なんですか」
「私が貴方の事が好きだから」
真っ直ぐと僕の目を見て言った。無垢な少女のように恥じらいを持ち、しかしその目には意志の強さか見える。巧妙に独占欲を隠して、嘯くように。
「私の横に立つのは、誰でもいいわけじゃないの。貴方だからいいの」
「そんなの、僕は認めません」
「認める、認めないの問題じゃないのよ」
彼女はそっと僕の頬に手を添え、真っ直ぐに僕を見つめる。
「凪、貴方はこれからもずっと、私の隣にいるのよ。これは決められたこと、分かるわね?」
その声は優しく、それでいて逃がさないと告げるような強さを持っていた。
「……逃げたら、どうします?」
試しに聞いてみた。
「ふふ、それは考えたことなかったわね」
少しだけ悩むように唇に指を添えた後、彼女は楽しげに微笑んだ。まるで友達との遊びの予定を考えるかのように。
そして、僕の腕を掴み、腕がへし折れるくらいの力で握りしめた
「足が無くなれば逃げる事も出来ないわね」
無垢な子供のような無邪気な笑みで言った。
大人との境の時期にある僕たちの幼稚性の中に潜む残虐性が顔を出して僕の事を監視するみたいに見ていた。
僕は無意識に自分の足の存在を手で触って確認した。
「それは冗談よ、私だって好きな人を傷つけたくないもの」
僕は諦めるしかなかった。彼女のこともこれからも全て。全て彼女に渡すことでしか僕はこの場からは切り抜けられない。
「そう、それでいいのよ。」
彼女は微笑むと僕の事を抱きしめる。
そして、頭を撫でながら、落ち着かせるように。
「それでいいのよ、夫が道を間違えた時に正すのが妻の役割ですものね」
そして、いつものようにピッタリと隣に寄り添う。
彼女は盲目的に信じていた。それには文章の繋がりや出来事の繋がり、感情の繋がりが一切ないというのに。狂気と言ってもいい。
「今週の休みには指輪でも買いに行きましょう。貴方がこれからもしっかりと乙宗家としての自覚を持つように。」
そう言って彼女は僕の左手の薬指を自分のと重ね合わせた。
「愛しているわ、貴方」
彼女は優しく口付けをした。
小話
梢さんと婚約の様なものを結ばされてからいくらか時間が経ち、高校を卒業し、大学に入学、さらにその大学も卒業した。
大学自体は、毎日婚約指輪を付けるように言われ、同じ大学の同じ学科、ゼミに入った。
僕には自由というものがなかった。常に後ろ──僕の二歩と半分の距離に彼女がいた。
他の人から見たらきっと僕は幸せなのだろう。
僕の事を一心に思ってくれる美人な彼女が居て、結婚の約束をして、相手はいい所の生まれ。
そして、今は彼女の実家から少し離れた所に家を建て暮らしている。けれど、僕は窮屈に感じていた。
しかし、それから経緯は不本意ではあるものの、僕には守るべきものが増えた。
それは、僕と梢の間に生まれた子供、
「パパ!おかえり!!」
僕が玄関の扉を開けると同時に飛び込む様に駆けてくる陽を抱きしめる。
疲れが飛んでいくようだった。
その後ろからエプロンで手についた水を拭きながら梢が微笑ましいものを見る様な表情を浮かべながら歩いてくる。
「お帰りなさい、貴方」
彼女は優しく僕に口付けをして、僕の荷物を持ってくれた。
「ご飯出来てるわよ」
そう言うと、荷物を寝室に置き、リビングへ向かっていった。
玄関には僕と、頬を膨らませた娘が取り残された。
「ママばかりずるい!」
陽はそういい、精一杯背伸びをして唇を尖らせるが10年分程、距離があった。
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ご飯を食べ終わると、彼女は珈琲を入れてくれた。
優しくテーブルに色違いのカップが置かれる。
華やかなまるで、柑橘系の花の匂いが僕の鼻腔に漂う。
僕は一口飲み、長く息を吐いた。
「さてと、あなた?」
彼女は僕の動作を瞬き一つすらも見逃さない様に、じっくりと僕の顔を眺めた。
筋肉の微細な動きすらも検分する様に見ると、満足した様に彼女は口を開いた。
「今日何人の女の子と話したのかしら?」
「7人くらいだと思う」
「何を話したの?一人一人全て教えてちょうだい」
「ただ仕事の内容だよ、資料を作って欲しいとか訂正とかそんな事」
家に帰ると、妻に会社の女性の人と話した内容、話した女性の人数を話すきまりになっている。
高校生からやっている事だけれど、何処と無く窮屈さを僕はずっと感じていた。
でもこれを拒否すると彼女は酷く怒る。この世の終わりを嘆いているみたいに。
「携帯も見せて頂戴」
彼女に携帯を預けた。
すると彼女は、まるで小さな街の執拗な警察官のように、連絡アプリを一つひとつ丹念にチェックし始めた。
指先は静かに、しかし確かな意志をもって画面を滑り、時折、眉間にうっすらと皺を寄せる。
彼女の沈黙の中には、いくつもの無言の問いと、見落としのない検閲のリズムが流れていた。
ぼくはその様子を、テーブルの上でぬるくなったコーヒーを前にしながら、ただ黙って見ていた。
それがひどく現実的で、そして同時に、どこか夢の中の出来事のように思えた。
気が済むと、携帯が返される。
「大丈夫ね」
彼女はやっとそこで笑みを見せる。
それはまるで、冬の終わりにようやく射し込んだ陽だまりのように柔らかくて、でもどこか不自然に感じられる笑みだった。
「そうだね」とぼくは言った。
でも、本当のところは大丈夫じゃなかった。
それはたぶん、ずっと昔からそうだったのだと思う。
高校生のころ、彼女が最初に「誰と話したの?」と訊いてきたときから、世界は少しずつ別の形に変わり始めていたのかもしれない。
雪が降ったあとにできる足跡のように、どこかに小さな歪みが残っていた。
彼女はキッチンから、ミルクを取り出して、それをコーヒーに注ぐ。
まるで何もなかったみたいに。
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僕は寝室で一人自分の人生について考えていた。
もちろん、陽の事は好きだ。目に入れても痛くないくらいに。
しかし、同時に逃げ出したいという気持ちもある。
高校生から続く妻の束縛が僕にとっては呼吸をする度に鉄みたいな重たい空気の固まりみたいなものが肺に積もっていく様な息苦しさがあった。
そうやって僕は考えていると、ドアがゆっくりと開かれた。
「パパ、一緒に寝よう」
パジャマに身を包んだ娘が眠たげな目とうさぎのぬいぐるみを携えて、ゆっくりと僕の布団に入ってくる。
ゆっくりと頭を撫でてやると、段々と無意識と意識の境がなくなっていくのが分かった。
ピロン、と僕と陽の間にあった携帯のメッセージアプリの通知音がなる。
びっくりしたのか陽は目を開けた。
そして携帯を覗きこむ
「パパ、この人誰?」
見てみると、大学の時の仲の良い異性の同級生だった。
「ああ、明日パパ大学の友達とご飯食べに行く約束してたんだ。」
「この人女の人だよ?」
「うん、ほかに男の人も女の人ももう1人ずつも来る。」
「パパ、私トイレ行ってくる」
急に娘は不器用な笑みを作り、行ってしまった。
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暫くすると、妻と娘が一緒に寝室へ入ってきた
彼女は目をつぶり、大きく息を吸った。まるで何かを準備するみたいに。
空気をたくさん吸った彼女の胸は風船みたいに大きく膨らんで、何かを諦めるように萎んで行った。
彼女の吐き出した息がこの部屋を変質させた様な気がした。
「今陽から聞いたのだけど、他の女がいる所に飲みに行くとはどういうことかしら?」
その言葉からは確かな怒りを感じた。
隣で陽も頬を膨らませてこちらを見ていた。
梢は大きく息を吐いた。
そして、子供に言い聞かせるみたいに努めて優しい口調で言った。
「私は貴方には、私をそっくり差し出してしまいたいの。家柄やお金、そして私自身も。持ってるもの全てを貴方に差し出した。貴方はそれを全て自由に出来るの」
優しい口調の中に12月の風が凍らせる朝の路面の様な冷たさが含まれていた。
彼女はピンと人差し指を一本立てた。
まるで誓いを立てるかのように。
「でも対価として求めるのはただ一つ。私達以外を見ないで、聞かないで、考えないで欲しい。
それらを纏めて私を愛して欲しいの。それが私にとって愛するという事なの。」
いつの間にか梢は目の前まで迫っていて、夜の底の様に静かな瞳が僕の目に映る。
そのまま項垂れるように僕と梢はベットに倒れる。
彼女の長い髪の毛が僕の横顔を撫でるように触れた。
「私が差し出した物からしてはとっても小さな対価だと思わない?」
娘すらも暗さを携えた瞳で僕を瞬き一つせずに見つめている。
そこでもう僕は戻れない所まで来てしまっていた事に改めて気がついた。
「私がこんなに与えてあげてるのに貴方はどうすればいいのか分かるわね?」
え?結婚してましたよね?夫の為に頑張るにょの乙宗梢さんのお話でした。
蓮ノ空の曇らせやヤンデレ増えるの待ってるにょ。