僕はドリンクやタオルの準備を終え、予約していた部屋の時間管理や資料作成などで忙しく過ごしていた。
「凪先輩?」
誰も居なくなった部室でパソコンを叩いていると、吟子ちゃんが練習服に身を包み入っていた。うっすらと汗をかいており、色香を漂わせていた。
「凪先輩、少しは休憩をしてください」
僕の様子を見ると、眉間に皺を寄せ怒ったような表情でこちらに詰め寄る。
「分かった、分かった、今から休憩するよ」
気がつくと、初めてから3時間ほど経っていた。目も疲れたような気がする。
怒る吟子ちゃんは怖いのだ。何度怒られたことか。
普段の彼女の穏やかで安心感を与えるような澄んだ声が怒りに変換されると根源的な恐怖を与えるような感じがした。
「本当に凪先輩は私がおらんとすぐ……」
ため息と共に彼女は呆れたように言った。
そして、椅子を引き寄せ、僕の近くに座った。
ふわりと風に乗って、彼女の甘い匂いが鼻を擽る。
「そっちは順調?」
僕は凝り固まった筋肉をゆっくりとほぐす様に背伸びをしながら尋ねる。身体から小気味いい音がなったのが分かった。
そして、大きく息を吸って、全身の力を抜くように息を吐いた。
「まあ、花帆先輩の暴走を除けば……ですね」
苦笑いと共に彼女は言う。そして、持っていたスポーツドリンクを一口飲んだ。
僕も冷えてしまったコーヒーを飲み干すと、つい手癖でそのまま書類に伸ばす手を彼女に弾かれる。
彼女はきつく僕を睨む。
彼女、百生吟子とは不思議な関係になる。
しかし最近仲良くなったのはつい最近。
以前、加賀繍に一度興味を引かれたことがあり、それを彼女に話した所、体験をする機会をくれた。
その時に色々と話をして、仲良くなった。
今ではこうやって、僕の仕事を見に来ては、お小言を賜っている。僕はどうにも働きすぎてしまうきらいがあるようで、彼女の面倒見の良さもあるのだろうが、心配をされてこうやって、急な抜き打ちチェックに来るときがある。
「凪先輩がちゃんと休んでくれないと、うち、困るんよ」
彼女ははそう言った。
その声は柔らかく、しかしその柔らかさは不自然なほど均一で、どこか張りつめているように聞こえた。たとえば、湖面にぴんと張った氷のような。
「ごめんごめん。そんなに心配してくれてたんだな、吟子ちゃん」
僕は軽く笑いながら言った。けれどその笑みは、自分でもどこか借り物のような気がした。
吟子はほんの少し目を伏せた。そして、ためらいがちに口を結んだ。
「……心配、やよ。当たり前じゃないですか。凪先輩が倒れたら、うち……」
彼女はそれ以上言葉を継がなかった。まるで最後の言葉を飲み込むように。
そして僕が何か言おうとする前に、彼女の指が、そっと僕の手に触れた。
その感触は奇妙だった。冷たくも熱くもない。まるで肌に似せられて精巧に作られたモノに触られている見たいに。
「……私だけが、ちゃんと見てないと。凪先輩って、すぐ無理するから」
まるで、それがこの世の理であるかのように、彼女は静かに言った。
「吟子ちゃん……?」
僕は問いかけるように彼女の名前を呼んだ。
彼女はまっすぐに僕の目を見た。その瞳には、深い夜の底のような静けさが宿っていた。
そしてその中に、何か別のもの――狂気の予兆のようなものが、静かに浮かんでいた。
「……ねえ、凪先輩。ちゃんと寝てますか? 食べてますか? 私以外の人と、変な話してないですか?」
問いかけはまるで小石を次々に湖に投げ込むようだった。
静寂の中に波紋だけが広がっていく。
僕は返事をしようとして、喉の奥が乾いていることに気がついた。
「そんなことないよ。」
僕は努めて堂々と言った。
「嘘」
彼女はきっぱりと言った。
その声音は、言葉そのものよりも先に、空気の温度を変えた。
「この間、花帆先輩と、楽しそうに話してましたよね。……忘れたなんて言いませんよね?」
僕は答えようとした。でも彼女はすでに、僕の答えなど求めていないようだった。
「吟子ちゃん、それは……ただの打ち合わせだよ」
「じゃあ、何でそんなに楽しそうだったんですか?」
彼女の指が僕の手をきゅっと握った。
まるで自分の存在を確認するように。
その力は、やさしさではなく、執着に近かった。
「私ね、凪先輩が頑張ってるの、すごく好きなんです。でも……」
その言葉は空気の中で少し揺れて、それから、はっきりと落ちてきた。
「貴方の隣に私以外がいるのが嫌です」
僕は言葉を失った。
彼女の声は痛みを帯びていた。けれどそれは、誰かに向けられた痛みというより、自分の中に渦巻く熱そのものだった。
「……凪先輩、どうか、ちゃんとうちを見とってください。貴方のためなら、うち……」
彼女はそう囁いた。その声は、まるで夏の終わりにふと吹く風のように、耳元をくすぐった。
だけどその風には、僕の背筋を何かになぞられる様な感覚があった。その感触はいつまでも付きまとっていた。
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次の日、僕は朝扉を開けると、そこには吟子ちゃんがいた。
彼女は僕を見つけると嬉しそうに微笑み、小さく手を振った。
「どうしたの?」
と僕は声を掛ける。今までこんな事は無かったし、昨日の様子もいつもとだいぶ違っていたから。
「当たり前のことやから」
彼女はそう言った。当たり前。普通のこと、ありふれている事。僕がいくら噛み砕いて理解しようとしても、辻褄が合うことはなかった。
彼女は僕の教室まで着いてくると、挨拶をしてくれたクラスメイトに対して睨みつける様な視線を送った。
放課後の部活の時間もいつもと違う様子が変わる事がなかった。
普段のように、同じ一年生の姫芽ちゃんや徒町ちゃん。同じユニットの花帆や梢さんとも話すことなく、ずっと僕の隣で、満足そうな表情でいた。
お茶を入れてくれたりもした。
その日、彼女は僕としか話をしなかった。
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ある夜、突然部屋のインターホンが鳴った。出てみると吟子ちゃんがいた。
「今日、ずっと考えていたんです。あなたの隣に居られない事を想像したら、胸が苦しくて息ができなくなって……」
涙を浮かべながら微笑む彼女の言葉は、どこか狂気を帯びている。
その瞳は僕以外を写していない。まるでそれ以外は不要だと言わんばかりに。黒い瞳は、部屋の光を吸収して更に黒さを増しているようだった。
「隣にいる、なんてそんな」
「私はずっと貴方の隣に居たいんです。離れていても貴方を近くに感じてたい。」
彼女からは有無を言わせぬ説得と圧力があった。
僕は頷くしかなかった。
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それからというものの僕の生活は完全に彼女の支配されたような物だった。
『今どこにいる?』『今誰と一緒にいるの?』などとメールや電話の通知が絶えない。
彼女はまるでSNSの様に僕の環境を彼女好みに都合のいいようにカスタマイズをしていった。
僕の視界が酷く狭め、歪められて行った。
僕の部屋には彼女のお気に入りのものが段々と多くなって言った。同棲してる。なんて揶揄われた程だ。
逃げようとしても彼女はどうやってか僕の目の前に現れる。
僕は彼女と彼女の愛からは逃げられなかった。
今は僕の部屋で僕は彼女の膝枕の上でいた。
僕は彼女の愛を少しずつ受け入れていくしかなかったのだ。
「お疲れ様。」
彼女は僕を労う様に優しく微笑む。その声が僕に眠気を誘う。
「まだまだやる事があるんだ。そろそろやらないと 」
起き上がろうとするのを彼女に止められる。
「大丈夫。私がずっとあなたを守るから。貴方の隣にずっといるよ」
彼女の声は、優しい歌声のように響き渡りながら、僕を深い闇へと誘っていく――。
「私、貴方の為なら全てを尽くすから。好きやよ」
彼女はそう言い唇へキスをすると、子守唄を歌い始め、優しく僕の頭を撫で始めた。
小話
僕には幼馴染がいる。名前は百生吟子。
小さい時には結婚する約束をするなど、仲の良かったものだ。
幼稚園、小学校、中学校と同じ所に通い、同じクラスだった。
席も毎回隣で、僕達の遺伝子に枷でも付けられたように、それが必然であるかのように僕達は一緒だった。
しかし、高校生となった今では疎遠になるかと思っていたのだけれど。
ひょんなことから僕も彼女の学校に通うことになった。
「凪、ネクタイ曲がっとるよ。直すからじっとしてて」
今も朝になると僕の部屋に来て朝ごはんを作り、掃除をしに来る。
ここは僕の部屋のはずなのに、僕より部屋に詳しいし、彼女の物の方が多いかもしれない。
判子とか大切な物は吟子が管理してくれているし、家族からの連絡とかは大体彼女を通して来るくらいだ。
「ちゃんと身だしなみはしないと」
そう言って、吟子は僕のネクタイを整えながら微笑んだ。
その手つきは明らかに手馴れていた。
その笑顔は、昔から変わらない。けれど、どこか違う。
目の奥が、妙に静かすぎる。
「……ありがとう。自分でできるんだけどな」
「凪は不器用だから、私がした方が早い」
そう言って、彼女は僕の制服の埃を指先で払う。
その仕草はまるで、ガラス細工でも扱うように丁寧だった。
僕が席を立とうとすると、彼女は手を伸ばして僕の袖を掴んだ。
「……どこ行くの?」
「学校。もう行かないと」
「一緒に行こ。……今日はちゃんと一緒に登校するって言ったでしょ?」
少しだけ彼女の声にトゲが混ざる。
朝の柔らかな光の中で、彼女の影だけが妙に濃く見えた。
「……わかったよ、一緒に行こう」
そう言うと、吟子は一瞬で機嫌を直したように微笑んだ。
まるでスイッチのように。
「凪は、うちがいないと、ダメなんだから。」
その声は、優しく、包み込むようで、
けれど逃げ場を失わせるほど甘かった。
その瞬間、玄関の外の世界が、異様に遠く感じた。
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僕の幼馴染、吟子は面倒見のいい生活なのだが、さっきの見てわかる通りに困った所が1つある。過保護過ぎることだ。
僕が刃物を使おうとすると彼女はどこからすっ飛んで、怒ったような顔で来る。
「何回言ったら分かるの?刃物は危ないから怪我するよって」
「僕はもう高校生なのだけれど」
「そんなの関係ない、凪は昔から危なっかしいから。目を離すとすぐどっか行くし」
子供の時はなんかは特に…
「男の子と遊ぶのはダメ。凪が怪我するから。女の子もダメ。凪が汚されるから。やからウチと遊ぼ?」
僕の友達とも遊ばせてくれなかった。
僕が顔を洗って戻ってくると彼女は僕の携帯を何やら操作していた。そしていかにも不機嫌そうに顔を顰めていた。
「ねぇ、いつうち以外の子の連絡交換した?勝手にパスワードも変えとるし」
差し出された画面にはクラスメイトの連絡先が映し出されている。
「今度出かけるみたいだし。うち何も聞いとらんよ」
「別に吟子に言うことじゃないよ。僕には僕の人付き合いがあるから」
「うちがいるのに?」
ふぅ。と僕は息を大きく吐く。
そんな間にも彼女は僕の袖をギリギリと握りつぶす勢いで掴んでいる。
僕を見つめるその目は、何かを奪うための目じゃなかった。
ただ、僕が彼女の世界から逃げないようにするための、静かな錨のような目だった。
見つめられるたびに、自由と所有の境界が曖昧になっていくのが分かった。
「凪はうちと結婚するんだもんね」
「……小さい時の話だよ。」
「それでも私は凪のために色々頑張ってきたから。」
彼女も遅れて大きく息を吐いた。その目は何かの決意に満ちていた。
「最初からこうすればよかったんやね」
そういうと、バッグから紙を2枚机の上に置く。
サイズとしてはA4くらいだろうか。
僕はゆっくり紙を覗くとそこには"退学届け"と書かれていた。
「何これ?」
「うちと凪の退学届け。花帆先輩には申し訳ないけど、部活も辞めるよ」
「なんで……?スクールアイドルも楽しんでたじゃないか」
僕がそう尋ねると、努めて冷静に、その目に母性すら携えて優しく見つめていた。
「うちだってスクールアイドルは楽しいし、やめたくないよ。でもうちにとっては凪が取られる方が嫌。他の女の手で触って欲しくない、喋りかけて欲しくない、2人きりでいて欲しくない。もし他の女と付き合うなんてもってのほか。吐き気すらする」
そう言って退学届けを2枚指さす。
彼女の名前と僕の名前も書いて僕のもので捺印もしてある。
「そんな勝手に……」
「どれだけ一緒にいたと思ってるん?凪のことは何でも知ってるよ。貴重品の置いてある場所もうちが管理してるわけだし」
大切なものはしっかりしてる吟子に任せた方がいいだろうと渡しているのが裏目に出てしまった。
「あとはこれを出しに行くだけだよ」
彼女は2枚の退学届けを恍惚とした笑みで見つめる。
「これで凪はお父さんの跡を継いで、うちがそれを支える。いいいと思うんよ。きっと夫婦生活は大変だと思うけど、2人なら……」
貴方の為なら全てを尽くすよ、私をオトしたらずっと隣にいるよ、最期まで。賢妻の吟子ちゃんのお話でした。