彼女、今井リサが彼を知ったのは高校の同級生からだった。なんでも、笑顔が素敵な若いマスターの居る喫茶店があると。
女子高生としては聞き捨てならないと行ったのは事実。それ以上に、メジャーデビューした自分が一般と自身の間でなにかが乖離していく感覚を慰めたかった気分も少しはあった。
「……」
喫茶店にも関わらず、カウンターに居るのは聞いていたマスターではなく、女の人。ふとコーヒーの匂いに混じる喫茶店で感じるはずのない匂いにつられて店の端に佇む絵画と、左手で筆を握る男性が目に入った。静謐な雰囲気とは裏腹に、目は刃物のように鋭い。
おおよそ喫茶店にふさわしくない格好でキャンバスに塗り込んでいく彼の横顔がやけに気になって覗いていると、彼は不意に表情が歪んでため息を吐いた。
「あー……やっぱ上手く描けねぇなぁ……」
「あの……」
「ああ、お客さん? いらっしゃい。臭かったかな?」
「油絵、ですか?」
「よく分かるね。その制服は……学生さんかな。個人経営の喫茶店に来るなんて珍しい」
「でもアタシ、友達にオススメされてきましたよ」
「あ、そうなんだ。そろそろ仕事戻るか……ご注文はなにかな?」
話しかけてみると静謐な雰囲気も鋭い視線もなくなって、ただの話しやすいお兄さんになった。
よく笑い、よく喋る。その笑い方が太陽ではなく、まるで月のように影のある静かな笑みだったことだけがリサの胸中に疑問だったが、なるほど。評判通りの気のいいお兄さんなんだなと納得した。彼目当てでおすすめしてきた知人はいい目をしている。
時折訪れて油絵を書いているときにアルバイトの子に仕事をしろとドヤされていたのだけはどうかと思うが。威厳のカケラもない。
その後も何度も訪れて、フラットな関係性のまま話していけば自然と敬語も取れていく。
すっかりと常連になったころにはしっかりと名前も覚えられたのに向こうからの反応は変わらずに特別扱いもされなかった。
「ほ~、今井ちゃんってメジャーデビューしてたんだねぇ。見覚えあると思った」
「結構報道されてた気がするんだけど……へこむなぁ……」
「今のロックよく分からないからさぁ」
「今のってことは昔のは聴くの?」
「チャック・ベリーとか。Jonny B.Goodeとか有名かな」
「すごい古い曲じゃん!」
「遠まわしに年寄りって言うのやめろぉ! あのロックなやかましさがいいんだよ!」
「ロックよく聞くのにアタシのこと分かんないんだ~」
メジャーデビューしたばかりの若いバンドが言うには尊大すぎる言葉を気にした様子もなく、むしろ考え込むように腕を組む。腕を組むのは拒絶の証、とどこかで聞いたリサは少し変な言い方をしてしまったと怯え──続いた言葉に首をかしげる。
「まぁ美人だから芸能人かなんかかな、とは思ったけどお客さんの素性とかどうでもいいし」
「そりゃ、そうかもしれないけど」
「ま、詮索してほしくなさそうだったのが一番かな」
「え?」
「自覚ないか。君みたいな頑張る子は肩肘張って生きちゃうからさ。それこそ初めて来てくれたときなんて、気遣って声かけてくれたでしょ」
「アタシの話ってしたことあった?」
「ないけど俺はそう感じた。……誰かのために頑張る子は助けなんて求められないからさ。そんな子の安らぎになれてるなら詮索したいなんて欲もなくなるよ」
「……優しいんだね」
「優しさだけじゃなにも出来ないけどね」
声色は優しいのに瞳の中にあるのは優しさなんかじゃなくて、虚無だけがそこにある。
言っていることと瞳があまりに乖離していて、自然と手を伸ばしたくなるような人間だった。
それでも彼女は駆け出しとはいえ芸能人なわけで。仮に気になる男性になっていたとしても手を伸ばすことは出来なかった。なにより、女子高育ちの女の子が異性に手を伸ばすのはハードルが高い。
ダンディーというほどではないにしろ、擦れたような雰囲気を持つ男性に心惹かれる気持ちはあってもアプローチをかけようなどとはその時は思わなかった。
次の月。リサがバンド活動で悩みながらいつものように喫茶店に訪れると乾から怪訝な表情を向けられた。最初はなぜそんな顔をされているのか分からなかったが、そのあとに続いた言葉に驚く。
「今井ちゃん、悩みごと?」
「分かるの?」
「常連さんが悩んでるくらいはわかるよ」
「そっか……でも、ごめん。これはアタシの問題だからさ」
「無理に聞き出そうとはしてないよ。心配もしてない」
「……それはそれで寂しいかも」
「ごめん、これじゃ言葉が足りないな。そうだな……」
拭いていたコーヒーカップを置いて見つめられる。男性に近距離で見つめられる経験なんて初めての体験で自分の頬が紅潮していくのを自覚しながら、彼の瞳から目が離せなかった。
奈落のように深くて、暗い瞳。だがどこか優しさもある瞳はこれまで関わってきたどんな人間とも違う。
「今井ちゃん、君の目は純粋だね」
「え?」
「その瞳は、ただひとつのことを見据えてきた目だ。そうやってしか見えない景色がある。それをずっと見続けてきた」
「アタシ、けっこー多趣味だよ?」
「なら目標が決まっているのだろうな。美しい芸術作品を、いや芸術的な人生を見ている気分になる。俺には眩しすぎるが、美しい瞳だと思う」
「美しいって……」
「……あ、すまん。女性にこれはセクハラだな」
「いいけど……嫌なワケじゃないし」
あの瞳に似た瞳を知っているような気がして記憶を辿ると、昔の幼馴染の瞳が思い浮かぶ。彼女とは毛色が違うが、自分のことがどうでもいいと思っていそうな瞳だ。
確かに今井リサという人間を見ているのにこちらを見てはいない。他人に対しては優しいくせに、自分に対してはどうでもよさそうな瞳を向ける。ただ自分のなかにあるなにかから乖離していく自分を許せないような、かつての幼馴染と同じような瞳でそう呟く乾という人間は、いつの間にか今井リサという人間にとって大切な人間となっていた。
そのまた次の次の月。
「──そういえば友人から頼みごとをされてね。勝手で申し訳ないが少しの間店を開けることにした」
「え……も、戻ってくるよね?」
「そっちのケリがついたらね。その間は時短しちゃうけどバイトの子がどうにかしてくれるみたいだから遊びに来てやってよ」
「そ、そうなんだ……」
──やっと安らげる場所が手に入ったと思ったのに。
非難しそうになる口を懸命に塞いで誤魔化した。誤魔化さなければ理不尽なことを言いそうだったから。それほどまでにこの場所を気に入っていたのは、きっと目の前の男のせいだった。
「えー……今日からぶっ倒れた前先生が戻る年度末まで非常勤で教えることになった
「……イヌイさん?」
もうしばらく会えないものだと思っていたのにすぐに出会ってしまった。彼もリサに気付いたのか少し驚いたような顔をしたあと、何事もなかったかのように授業に戻っていく彼を見ながら心は言葉に出来ない感情に支配されていた。
それは運命と感じさせるには十分で──そのあとすぐに、落胆させられる。
「なにしてるの……」
「あー……えっと……タバコ吸ってます……」
羽丘の屋上で見つけたのは、本当に偶然だった。新鮮な空気が吸いたくていつもは一緒に昼食を食べている人間に断りを入れて普段は閉鎖されている屋上に登ってみた先で見たのは空を見て黄昏ている乾の後ろ姿。
一時的な教師とはいえ教師は教師。屋上なんて生徒の立ち入りの禁止された場所に居ることがバレたら大目玉を喰らうのは想像出来るはずなのに、バツの悪そうな顔をするだけで動こうとしない彼のもとに自然と近寄っていた。
「タバコ吸ってるんだから来ない方がいいと思うよ」
「健康に悪いとか、臭いがつくとかそういうことが言いたいの?」
「分かってるなら……」
「それ、立ち入り禁止の屋上にいる人が言っていいことじゃないよね」
「それを言われると弱い」
「……喫煙所だってあるでしょ」
「だって、先輩教諭のテリトリーなんだよあそこ。ヒエラルキーの巣窟は避けるべきでしょ」
「非行を避けるべきだと思うよ、イヌイ先生?」
「はは、面目ない」
「クビになるよ?」
「それは困る。だから見逃してよ今井ちゃん」
二人だけの秘密の共有を提案されて少女漫画で見た気がすると浮かれる心を地につけてため息を吐く様子は今井リサという少女にしては珍しい姿。まるで母親に悪事が見つかった子供のように苦笑する彼の姿を見れば微妙な顔にもなるだろう。
喫茶店で顔を合わせる時には抜けたところはあっても大人の姿を見せてくれるのに、どうして今はこんなにも抜けているのか。
「イヌイさんって本当に韜晦ばっかり」
「倒壊? 崩したりしたのはイーゼルの山だけだよ」
「ほんと? 色々かくしてない?」
「自分のこと? 数か月で居なくなる人間になんて誰も興味ないよ」
「あたしは……そうでもないけどな」
「ほら、店主と客の関係だからさ。あ、俺が喫茶店やってるの秘密ね?」
しばらく会えないと思っていた人間にせいいっぱいの背伸びと甘えは笑いで受け流されて、彼女としては面白くなかった。ただ、そのやりとりがなんだかこの人はこの人なんだな、と不思議な安心感があるおかげで自然と肩の力が抜けていく。
乾は人たらしだと心からリサは思う。だってタバコの臭いが嫌でしょうがないのに、微かに香る彼自身のにおいのせいで足が床に張り付いたように動いてくれないのだから。
「どうして?」
「教職取るときに言われるんだよ。『教師になって最初の数年はモテまくりだから気をつけろよ』って。年上が好きな子多いんだとさ。そりゃ同年代のガキよりは大人に見えるだろうけどそんな告らなくてもいいのにな」
「ふーん……告白されてるんだー……」
「物珍しいだけだよ」
「そんなことないと思うよ。女の子はそんなに単純じゃありません」
「なんで面白くなさそうな顔してるんだ……?」
「べっつにー。なんでもないですよー」
喫茶店で見たときよりもずっと俗っぽくて、誤魔化したりやり過ごしたりばっかりしてばっかりで。でも、離れると思っていたのに今は目の前に居る。
この人の良さを知っているのは同年代できっと自分だけだ、と心のどこかで思っていた少女は現実を知った。
それだけで、恋する女子高生というのはその気になってしまった。
そこから頑張って、今では喫茶店の居住部分とはいえ鍵を手に入れているのだから今井リサの本気は、乙女の恋心は歯止めが効かない。