一通り買い物を終えた帰り道。夜は昏い。そんな当たり前は文明の光によって覆されて久しいが、冬の夜という時間は特別だ。
人のいない夜は呑まれてしまいそうなほどに大きくときおり聞こえてくるエンジン音と後部座席から聞こえる呼吸音とかすかな温かさだけが心の拠り所。
墨汁で染めたといわんばかりの黒い海に、鼻先をくすぐる潮の香りと耳に聞こえる潮騒は海でなければ聞こえない。
「海に寄ってもいい?」
「うん、いいよ~」
リサに許可を取って堤防近くの駐車場にバイクを停めて歩き出す。
防波堤を言葉を発することもなく静かに歩いていく彼にリサ首をかしげながら着いていく。
遠目に見ても今日の海は、どこか幻想的なオーラを纏っているように思えるのは、隣に居るのが好きな人だからだろう。そんな特別感に身を浸しながら耳を済ませればまるで呼吸しているような波の音が寄せては引いていく。
「んー……コーヒーでいい?」
「うん、ありがと」
堤防の近くにあった自販機で温かい飲み物を二人分買って片方をリサに渡すと嬉しそうに微笑んでくれた。プルタブを手前に引くとカチリと独特の音を立てて外気との差で湯気を出す。ゆっくりと口に含むと缶コーヒーらしい美味しさに安心する。
「こうして別のコーヒー飲むとさ、やっぱりイヌイさんのコーヒーって美味しいんだなって思っちゃうな〜」
「常連の人には好みに合わせて多少変えるからね。よいしょっと……」
乾は不意に足を止めて、腰を降ろすと息を吐いて遠くを見つめる。
「わ……すごい……」
彼の視線を追うようにして海を見ると大きな丸い月が水面越しに見える。
ムーンライトロード。
海に映る月明りが、まるで彼を月へ導く道のように映りこんでいた。
遠くを眺める瞳は海を映しているのになにも見えていないようにみえて、思わず彼の隣に座って手を握る。
「温かい飲み物でも買ってくればよかったかな」
「確かに寒いかも……」
夜の海は、美しい景色は、それだけで素晴らしいが、恐ろしい。
まったくのどかな水辺でも、離岸流に捕まれば深淵の底が延々と続く海水のみで構成された世界に流される。平和な深淵の底が見え隠れする。そんな想像が自然と浮かんで溶かされる。
幸福という温かさの前に、想像という薄氷は静かに溶けて消えていく。
少し考えて、アウターを彼女のふとももに乗せてやる。
「……寒くないの?」
「いや、死ぬほどさみぃ。やっぱ冬の、しかも夜の海は寒いなぁ」
薄く笑って彼はまた海を見始める。身体の熱が逃げていくことを自覚しながらもそれでも昏い夜から目を背けられない。美しい、と思う。
だが、それは目の前の海を見て美しいと思ったわけではなく、よせて返す波と隣に居る少女を重ねてしまったから。今日は夢のように美しい日だった。
ふと隣を見ると、リサと視線が重なる。たった一瞬、重なっただけなのに天地がひっくり返ったような衝撃が彼を襲ってむせ返る。
「ごほっ、……っ……」
「だ、大丈夫? お水買ってこようか?」
「あ、いや大丈夫。ちょっとむせただけだから」
むせ返ったせいでこれまでなにを考えていたか忘れてしまった。
だが、それと同時に得心もした。
なぜ、彼女と視線を合わせただけで自分はむせ返ってしまったのか。
大学生までしか恋という感情から来る恋愛はないだとか、そういうことばかり考えて、それが彼女のためになるとばかり考えて。わざわざクリスマスという日に誘ってきた彼女の気持ちなど考えていなかった。
その事実だけを考えて、結局のところ、自分は年齢という障壁を無駄に高く見積もって自分の心を真っすぐ見ようとしなかっただけだと彼は気が付く。
まったく会ったこともない、知りもしない人間と一週間もせずに強くつながることもあれば、逆に、どれほど親しく言葉を重ねていても、つながることもできない関係もある。
身近な人と言葉や心を重ねるほどに、自分は深い孤独の中に居るのではないだろうかという錯覚を覚えて、いつの間にか諦めてしまっていただけなのかもしれない。
言葉も、距離も、時間すらも関係がない。
そこに一種の共通観念がなければ繋がり合うことなど出来ない。
それは、他人への優しさという名の美。周囲の人間に優しくありたい乾と、周囲の人間に笑っていてほしい彼女の美はきっと近しいものだった。
「……なるほどね」
「どうしたの?」
「今井ちゃんは優しいし、可愛らしい女の子だなって話」
「えぇっ!? きゅ、急にそういうこと言わないでよ……!」
人間関係における美の本質とは、同意することでも同調することでも考えが同じことでもない。立場や距離がどれだけ離れていても瞬時につながることが出来る。それこそが本性なのだろうと結論付けて身体を伸ばす。
どれだけそうしていたのか分からないが、きっと隣に居る少女の身体も冷えてしまっただろう。
「……バカでけぇチキンでも食べようか」
「えー……食べきれるかなぁ……」
「じゃあ、ほどほどの大きさで」
「そうしよ~!」
返されるアウターを羽織ると彼女の匂いが微かにして、温かいようなむず痒いような、なんとも言えない気持ちになりながら帰路についた。