待ち人来たりて【完結】   作:焦げうさぎ

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マチカネフクキタルの戦績を見て思いついたもの

マチカネフクキタルの性格面での改変ありますご注意ください
また、育成ストーリーとは全く違う内容になっています

レース描写のあるの神戸新聞杯まで読んでいただけると嬉しいです


ある夏の日に

 8月13日、お盆の始まりの日にマチカネフクキタルの姿が彼女の実家にあった。

 前日に夏合宿が行われる場所の近くの駅でトレーナーと別れた後、マチカネフクキタルは実家へ帰省し、身体を休めている。

 膝の上の年老いた猫を撫で続けるフクキタルは、カナカナカナと鳴くヒグラシの声をぼんやりと聞きながら、これまでのことを思い出す。

 

 

 

 

 マチカネフクキタルにとって今回の夏合宿は初めての夏合宿であると同時にこれまでの人生で最も重要なイベントとなった。

 夏合宿が始まる7月までのレースで彼女が1着を取ることができたのはメイクデビューのみ。

 5月のプリンシパルステークスではサイレンススズカにクビの差で2着、なんとか東京優駿には参加できたものの本番では11番人気、結果は7着だった。

 

 決してフクキタルの走りが優れていないというわけではない。ラストスパートでの末脚は未完成ながらも驚異的なもので、ムーニーバレー賞には1番人気で出走し見事勝利を勝ち取っている。これからトレーニングでその脚を鍛えていけば誰にも負けない武器になるだろう。

 ただ、レースに出るたび、彼女の表情に陰ができる機会が増えていることにトレーナーは不安を覚えていた。

 

「フクキタル、最近何か気になっていることでもある?」

 

 ある日のトレーニング前、心配になったトレーナーはフクキタルに声をかけた。

 

「いいえ、特に何もないです! どうかしましたか?」

 

 フクキタルは笑顔でトレーナーに答えた。その表情に一切の陰はない。だが、尻尾を足の間に巻き込むようにしている。

 それが逆にトレーナーの不安を増幅させることとなる。

 

「最近元気がなさそうに見えたから心配になってね。何もないならそれでいいんだけど…」

 

「最近暑くなってきたんで少し疲れているだけです。少し休めば治るはずなので大丈夫です!それに、今日のおみくじは大吉だったんですよ!きっといいことがあるはずです!」

 

 やはり、フクキタルに何かあったのではないか。トレーナーは気になって仕方がない。

 だが、その不安が払拭されないからといってフクキタルが休めば治るという以上、問い詰めるわけにはいかない。逆に膨らんでしまった不安をごまかすようにトレーナーはトレーニングの指示を出した。

 疲れが更に酷くなってはいけないと普段よりもかなり軽いメニューで。

 

 この時、フクキタルは嘘をついていた。本当は暑さで疲れたわけではない。

 

「お姉ちゃん…」

 

 レースに出るたびに大きくなる幼いころにいなくなってしまった姉に対するフクキタル自身の複雑な感情。膨らんでいくそれはフクキタルを押しつぶしかねないほど大きくなっていた。

 優秀だった姉、幼いころからあこがれだった姉。きっと歴史に名を遺すウマ娘になるだろうと期待されていた姉。いつも優しく微笑んでくれた姉。

 

 

 

 

 

 夏の暑さが和らいできた秋のある日のことだった。いつもと変わらず、学校へ行き、友達と遊んで帰る。いつもと変わらない日のはずだった。

 日が西へと沈んでいき、夕日が家を照らす頃。

 

「娘が...! 娘が急に倒れて...!」

 

 姉が倒れた。突然に。首が痛いと言って。

 そこからのことをフクキタルはおぼろげにしか覚えていない。離れていく救急車のサイレン、手術室の赤いランプ、涙を流す母親、祈るかのように手を組む父親。

 ただ、これだけははっきり聞こえていた。

 

「無事一命はとりとめました。しかし、病気の進行がひどくもって2か月かと...」

 

 姉の残り時間を告げる医者の声。

 

 

 

 5日後、姉は目を覚ました。しかし、目を覚ました姉は立って歩くことはできても、走ることはもう二度とかなわない状態になっていた。

 フクキタルは毎日欠かすことなく姉の元を訪れた。姉の入院する病院がフクキタルの家の近くにあったことがせめてもの救いだった。

 

「お姉ちゃん、今日はね...」

 

 他愛もない話を毎日、だんだんと症状が悪化していき、立つことも難しくなっていく姉にフクキタルは話し続けた。自分なりに少しでも姉の助けになりたいと健康祈願のお守りも渡し続けた。

 

「ありがとう、フク」

 

 そのたびに姉はフクキタルの頭をやさしく撫でてくれた。姉は病気で倒れる前からフクキタルが頑張った時、泣いているとき、いろんなときに頭を撫でてくれた。その優しい手つきがフクキタルは大好きだった。

 会いに行くたびにだんだんと自分の頭を撫でる手の力が弱くなっていくことに涙が出そうになるのをこらえ、フクキタルは笑顔で姉と会話をし続けた。

 

 

 

 姉が倒れてから1カ月半が過ぎたころのある日、いつものようにフクキタルは姉の病室に向かう。この頃になると、姉は立つのですらやっとという状態になっており、ほとんど寝たきりになっていた。

 その日はたまたま学校が早く終わったため、いつもよりも早く病院につき、今日はいつもより長く姉と話せるとフクキタルは笑顔で期待していた。

 

「なんで...こうなるのかなぁ...走り...たいよぉ...!」

 

 姉の病室に入ろうとドアに手をかけた瞬間、聞こえてきた声にフクキタルの手が止まる。

 これまで一度もフクキタルの前で見せることのなかった姉の泣く声、その声はナイフのようにフクキタルの心を突き刺した。

 もともと走るために生まれてきたと言われるウマ娘。それに加えて走ることが人一倍大好きだった姉が走ることどころか動くことすらできないのはどれほど辛いことだろう。

 

「あ...あ...」

 

 口から嗚咽のような声が出てくるとともに、顔から表情が消えていくのをフクキタルは感じていた。

 動きたくても動けない姉、そんな姉に対して好きなように動ける自分の話をするのは姉に苦痛を与えるだけではないのか、自分の話は姉を励ますどころか追い詰めるものになってしまっていたのではないか。そんな悪い考えばかりが頭に浮かんでくる。

 

 その日、フクキタルは姉の病室に入ることができなかった。姉の泣き声がいつまでも頭の中に響いているように感じられ、逃げるように家に帰ることしかできなかった。

 家に帰ってからも姉の声が頭にこびりついて離れず、フクキタルはなかなか眠ることができなかった。

 

 

 次の日、フクキタルは姉のところに行きたいと思うものの、昨日の出来事からなかなか病院の方へ足を進めることができないでいた。

 家を出ることはできても病院のへの道を進もうとすると姉の泣く声が頭の中で反芻されてしまう。それを自分だけで振り切ることはフクキタルにはできなかった。

 だからこそ、フクキタルはおみくじにすがることにした。自分の意志でない、おみくじという神の意志の反映されたものであればそれに従いさえすればいい。

 フクキタルは病院とは反対方向、神社の方へ向かって歩き始めた。

 

 

「自ら動けば吉...」

 

 フクキタルの手の中のおみくじの吉凶は吉、待ち人の項目には「待ち人来ず、自ら動けば吉」と書いてあった。

 おみくじの結果に従うのであれば姉に自分の足で会いに行かなければならない。おみくじの結果を見ても病院に行きたくない気持ちの方が大きいが、おみくじに従おうと決めていた以上、病院に向かわないといけない。

 

「...行きましょうか」

 

 前へ進みたくない気持ちを抑えつつ、フクキタルは一歩ずつゆっくりと病院に向かって歩き始めた。

 

 

 

 姉の病室の前、おみくじの結果に従って来たとはいえ昨日の出来事がより鮮明に思い出され、フクキタルの手は震えていた。

 

「大丈夫...きっと大丈夫...」

 

 右手の中のおみくじを確認するように握り、気持ちを落ち着かせる。

 

「おはよう、お姉ちゃん」

 

「おはよう、フク」

 

 ドアを開けた先にあるのはいつもと変わらない姉の姿。いや、今日はかなり元気そうに見える。

 いつもであれば寝たきりのまま動くことが出来ないはずの姉が体を起こしている。

 

「今日はね、なんだかとても調子がいいの。こうやって起き上がれるくらい。...さすがに立ち上がるのは無理だけどね」

 

 あははと姉は苦笑いをする。

 昨日ドアの向こうから聞こえた悲痛な声とは違い、その声はフクキタルに会えた喜びを含んでいる。

 その様子にフクキタルはほっとした。もし昨日と同じように病室から姉の泣き声が聞こえていたら、フクキタルの心は耐えきることができなかっただろう。

 

「昨日はなにかあったの?フクが来ないなんて何かあったんじゃないかと思って心配したよ」

 

「...昨日はお母さんのお手伝いが忙しくて。ごめんね、お姉ちゃん」

 

 力強く握りしめた右手の中でおみくじがぐしゃぐしゃになる。姉の泣く声を聞いて逃げるように家へ帰ったなどと言えるわけがなかった。

 

「そうなの?ごめんね、私が病気になったせいでお母さんの手伝いをフクにやってもらうことになって」

 

「ううん、大丈夫だよ。お姉ちゃんにはしっかり休んで元気になってほしいから...」

 

 幸い、フクキタルのついた嘘は姉にばれていないようだった。だが、大好きな姉に嘘をついてしまったという罪悪感からかフクキタルの目に涙が浮かぶ。

 

「...フク、こっちに来て」

 

 そんなフクキタルの様子を心配してか、姉は彼女を手招きする。

 

「私は大丈夫、きっとよくなるよ。...だから、泣かないで?」

 

 自分の病気のことでフクキタルが泣いていると思ったのだろう。姉はフクキタルを抱き寄せ、その頭をやさしく撫でる。

 

「...っ! お姉ちゃん...!」

 

 頭を撫でる姉の優しい手つきと姉に嘘を吐いたことの申し訳なさ、本人も病気が治らないとわかっているのに自分を悲しませまいとしている姿、それらに対する感情が複雑に入り混じり、感極まったフクキタルの目から大粒の涙がこぼれ始めた。

 姉はなにも言わず、優しくフクキタルを撫で続けた。

 

 

「もう大丈夫。ありがとうお姉ちゃん」

 

 しばらく泣き続けた後、フクキタルは残っていた涙を腕で拭い、泣き止んだ。

 

「気にしないで。...誰にだって泣きたくなる時はあるの。もちろん私もね。でも、フクに似合うのは涙じゃなくて笑顔だから。私はフクにはなるべく笑顔でいてほしいの。フクが笑顔でいれば周りの人もみんな幸せでいられると思うから」

 

 フクキタルの頭を撫で続けながら姉は微笑んだ。

 

 それからしばらくフクキタルは姉といろいろなことについて会話を続けた。病室に入った時に姉が言っていたようにいつもより元気があるのだろう、いつもなら姉が疲れた表情を見せる時間を過ぎてもその日は笑顔で会話を続けることができていた。

 そうして時間は過ぎていき、フクキタルが帰宅しなければならない時間となった。

 

「あっ、ちょっと待って!」

 

「お姉ちゃん、どうしたの?」

 

 帰宅の準備を始めたフクキタルを姉は呼び止める。

 

「今日ね、看護師さんから幸運な人の持ち物を持ってると幸運のおすそ分けをしてもらえるっておまじないの話を聞いて。だからね、フクの髪飾りと私の髪飾りを交換してほしいの」

 

 姉は緑色の四つ葉のクローバーの髪飾りを外し、フクキタルに差し出す。

 

「いいよ、お姉ちゃん」

 

 フクキタルは自分の黄色の髪飾りを外し、姉の物と交換する。

 

「うん、緑色もフクの髪の色に似あっててよかった」

 

 姉の髪飾りを付けたフクキタルの姿を見て姉は微笑む。

 

「お姉ちゃんも似あってるよ!」

 

 自分の髪飾りを付けた姉にフクキタルも微笑み返す。

 

「私が元気になったらこの髪飾りは返すからそれまで貸しててね?」

 

「いいよ。でも、絶対に元気になって返してね!」

 

「うん、約束。じゃあ気を付けて帰ってね、フク」

 

「お姉ちゃんも元気でね。また明日!」

 

 姉に笑顔でいてほしいと言われたから、フクキタルは笑顔で手を振り、姉の病室を去った。

 

 

 

 それから数日後、姉は息を引き取った。数日前に見た元気な姿が嘘だったかのように。

 姉の葬儀には多くの人が参列した。親戚だけでなく、学校の友人、大会で姉のライバルだった人たち。姉の死をとても多くの人が悲しんだ。

 

 フクキタルもずっと泣き続けた。後になって涙が枯れるというのはこういうことかと思うくらいに。

 けれども、泣き止んでからフクキタルは笑顔を崩すことはなかった。姉が自分に似合うと言っていた笑顔を。

 

 

 

「あれ、にゃーさん?」

 

 昔のことを思い出していたところでフクキタルは膝の上の猫がいなくなっていることに気づいた。

 

「どこに行ったんでしょうか?」

 

 普段なら抱えて膝から降ろさないといつまでも膝の上に居続ける猫が自分からいなくなるなんて何がったのだろう。フクキタルは急いで庭を探し始める。

 

「にゃーさんー! どこにいったんですかー?」

 

 庭の隅々まで探しても猫は見つからない。

 

「もしかして家の中にいるんでしょうか?」

 

 履物を脱ぎ、家の中を探そうとした時だった。

 

「にゃー!」

 

 家の外から猫の興奮した声が聞こえた。

 

「にゃーさん、そこにいたんですね!」

 

 フクキタルが急いで家を出ると、猫が興奮したように鳴きながら家の裏の神社に向かって走っていた。

 

「待ってくださいー!」

 

 かなり年をとっているはずなのに老いを感じさせない走りの猫に驚きながらもフクキタルはその後を追う。

 

「やっと追いつきましたよ、にゃーさ、ん?」

 

 階段を上り切った先、誰かが猫を撫でていた。

 顔はよく見えないが、そこにいるのが自分と同じウマ娘であるとフクキタルは気づいた。

 行事でもない限りほとんど誰もいないはずの神社、そこにいるウマ娘の姿にフクキタルは驚きを隠せなかった。

 

「こんにちは!」

 

 驚きはしたものの、特に怪しい人には見えない。フクキタルは大きな声であいさつをした。

 

「ええ、こんにちは」

 

 それに対してそのウマ娘は優しく微笑み返事をした。

 

(この人、どこかで会ったような気が?)

 

 目の前のウマ娘にどこか懐かしいような雰囲気を感じ、フクキタルは首をかしげる。

 

「...あなた、なにか悩み事があるんだよね?」

 

 突然、目の前のウマ娘が口を開いた。

 

「...悩み事ですか?」

 

「猫が教えてくれたの、君が何か悩みを抱えているみたいだから話を聞いてねって」

 

 どうして見ず知らずの相手が自分が悩みを抱えていることを知っているのか、そもそも猫から悩みを聞いたとはどういうことか分からなかったが、なぜだかフクキタルは目の前のウマ娘にすべてを話してもいいような気になっていた。

 

「...別に君のことをからかおうってわけじゃないの。ただ、君の悩みを解消できればいいなってだけで。だからさ、君の悩みを聞かせてくれないかな?」

 

 石段に腰掛けそのウマ娘は微笑んだ。

 

「...わかりました」

 

 トレーナーにでさえ悩みを抱えていることを隠して話そうとしなかったのに、見ず知らずの相手に悩みを話そうと思うなんてなぜだろうとフクキタルは困惑しながらもその隣に腰掛ける。その微笑み方にどこか見覚えがあるものの、頭の中に不自然にもやがかかっているかのようで思い出すことができない。

 

「じゃあフクキタルよろしくね」

 

「どうして私の名前を?」

 

「今は秘密。けど、すぐにわかると思うよ。...そうだ、まだ私の名前を言ってなかったね。私のことは...そうだね、アサクサって呼んでくれるかな?」

 

 急に自分の名前を言われ驚くフクキタルとは対照的にそのウマ娘、アサクサはいたずらっぽい笑みを浮かべ、どこか楽し気だった。

 

「...わかりました、アサクサさん。...そんなに面白い話でもないですよ」

 

 どうにも歯切れの悪いアサクサの説明に納得できなさを感じつつもフクキタルは自分の悩みを話すことにした。

 

「私には3歳年上のお姉ちゃんがいました。...お姉ちゃんは優しくていつも私のことを守ってくれて、走るのもとっても早くて、...そんなお姉ちゃんは私の憧れでした」

 

 ゆっくりとフクキタルは話し始める。アサクサはそれをしっかりと噛みしめるようになんども相槌を打ちながら聞く。

 

「きっとお姉ちゃんならトレセン学園で活躍してすごいウマ娘になるだろうってみんな思っていました。...でも、お姉ちゃんは突然の病気で走れなくなったんです」

 

「...それはお姉さんも残念だったろうね」

 

 うつむくフクキタルの隣でアサクサの表情も暗くなった。

 

「...はい、走ることがお姉ちゃんの一番好きなことでしたから。...でも、それから一度も走れないままお姉ちゃんは死にました。お姉ちゃんに渡したお守りも髪飾りを交換したおまじないも意味がなかったんです」

 

「私は意味がなかったわけじゃないと思うよ。病気が治らなかったとしてもお姉さんは妹がそこまでしてくれて嬉しかったんじゃないかな?」

 

「駄目なんです。お姉ちゃんの病気が治らなかったから全部意味がなかったんです」

 

 アサクサはフクキタルの行動を肯定的にとらえるが、それを即座にフクキタルが否定した。

 

「...そんなことはないと思うけどなあ。まあいいや、今は続きを話してくれるかな?」

 

「...お姉ちゃんがいなくなってから私はトレセン学園に進学しました。...私はお姉ちゃんに憧れていましたが、同時に少し妬んでもいたんです。小さい頃の私はかけっこでビリになって泣いてばかりでいつも一番だったお姉ちゃんとは正反対でしたから。だから、トレセン学園に入学して少しでもお姉ちゃんに近づきたかったんです」

 

 誰にも言えなかった姉への複雑な感情、何年も積み重なってきたそれをフクキタルは吐き出した。

 

「でも駄目でした。トレセン学園に入ってトレーナーさんの指導を受けてもお姉ちゃんは遠いままだったんです。...レースで負けるたびに考えるんです。私じゃなくてお姉ちゃんだったらきっと勝ってたはずだって」

 

「.....」

 

 フクキタルの独白をアサクサは何も言わずに聞いていた。

 

「...自分で自分を縛り付けるみたいにだんだん苦しくなっていきました。でも、お姉ちゃんがいなくなった時に決めたんです。これからは笑顔でいようって。だから誰にも悩みを抱えてるなんて言いませんでした。笑顔が崩れますから。...だけど、トレーナーさんにはわかったみたいで心配されました。暑さで疲れたとごまかしましたけど、...夏が終わったらどうやってごまかせばいいんでしょうかね?」

 

 体を丸め、うつむくフクキタルから嗚咽のような声が漏れた。

 

「...それはごまかさないといけないことなのかな?自分だけじゃ解決できないことなら誰か、トレーナーに相談するのもいいんじゃないかな」

 

 それに対してアサクサは優しく問いかけた。

 

「レースに勝てるならそれで私を応援してくれる人たちを楽しませることができます。...でも、私はこれまでデビュー戦でしか勝てていません。そんな私でも笑顔で、元気でいれば他の人と楽しんだり、喜ばせたりできました。だから、こんな悩みを抱えているって相談して笑顔が崩れたらいけないんです」

 

 そんなアサクサの問いかけをフクキタルは首を横に振って否定した。

 

「辛いときにずっと笑顔でいることほど苦しいことはないよ。それでも君はこのまま偽りの笑顔を続けるの?」

 

 それを聞いたアサクサの表情が曇った。苦虫を嚙み潰したような顔でフクキタルのことをじっと見つめる。

 

「...はい。笑顔でいることが私にとって一番良い結果になると思いますから」

 

 それに対してフクキタルは今にも崩れてしまいそうな笑顔を返した。

 

「......はぁ、なんとかできないかと思ったけど、これはもうこうするしかないかな」

 

 大きくため息をつき、アサクサは立ち上がった。そして、右手を握り締め、フクキタルの頭に向かって振り下ろす。

 

「っ!」

 

 襲ってくるであろう痛みを予想し、フクキタルは頭を抱え込む。

 

「......?」

 

 しかし、予想したような痛みはなく、こつんと軽く頭に拳が当たった感触があるだけだった。

 

「まったく、フクはいつからそんな子になったの?」

 

 そして聞こえてきたのは懐かしい声、大好きだったあの声。その声にフクキタルは勢いよく顔を上げる。

 そこにはアサクサの姿はなく、いるはずのない姉、それも病気になる前の元気な姿の姉がいた。

 

「おねえ、ちゃん...?」

 

 フクキタルは目の前の姉の姿を信じることができず、何度か目をこすってみるが姉は変わらず目の前に居続ける。怒っているようにも見えるが喜んでいるようにも見える表情で。

 

「久しぶり、フク」

 

 困惑するフクキタルの手を姉が握る。その温かい感触が目の前の姉が幻でないことを彼女に実感させた。だが、姉は何年も前に死んでいる。その姉がなぜ目の前に、フクキタルの頭に多量の疑問が浮かんでくる。

 

「どうして私がここにいるのか分からないって顔してるね」

 

 フクキタルの手の感触を確かめるように優しく握りながら姉は微笑んだ。

 

「あれからずっとフクのことを見てきたの。トレセン学園にも入学できたし、最近はもう私が見ていなくても大丈夫かなって思ってたら一人で悩みを抱え込んでる。だから悩みを解決するのを手伝ってあげようと思ってここに、今日だけがこっちに帰ってくることができる日だから来たの」

 

 そこまで笑顔だった姉の顔がでも...と付け加えると同時に険しくなる。

 

「私がそのまま会いに行くよりも誰か、知らない人と会話をして悩みが解決できるって方向で行きたかったから変装して会いに来たのにフクは一人で抱え込もうとするし...。だから変装もやめたの。フクにはこっちの姿の方が馴染みやすいだろうし。...せっかく時間かけてお気に入りの姿になれたのにー!」

 

 もーとぷんぷん怒る姉の姿に懐かしさと嬉しさをフクキタルは感じる。また、いつも見上げる存在だった姉を自分が少し見下ろすようになるのは不思議な感覚とともに一抹の寂しさを与えてきた。

 

「フク、さっきも言ったけど辛いときに笑顔でいることほど苦しいことはないの。だから無理に笑顔でいるのはやめよう?」

 

 手をぎゅっと握り締め、姉はフクキタルを見上げてくる。その視線がフクキタルには鋭く刺さってくる針のように感じられた。

 

「...でも、私はお姉ちゃんみたいに勝てないし...お姉ちゃんならきっと........私には...」

 

 その視線から逃れるようにフクキタルは顔を背ける。幼い頃から姉に抱いていた憧れと劣等感、アサクサとして正体を偽っていた姉に打ち明けた思い。アサクサとして正体を偽っていない姉を前にしてその思いが再び湧き上がってくるのをフクキタルは感じていた。

 

「...少し昔話をしようか、フク」

 

 姉はそんなフクキタルの様子を見て、握っていた手を離すと再び石段に腰掛けた。

 

「自分でいうのもどうかと思うけど、周りの人から見て私は確かに強かったと思うよ。ほとんど一着でゴールしていたしね」

 

 目を閉じ、昔のことを思い出しながら姉は語り始める。

 

「でもね、私は周りの人が思うほど強いわけじゃないの。...これまで誰にも言ったことはないんだけど、本当の私は期待されることが怖くて、走るのが好きでもレースに出るのは好きじゃなかった」

 

 その姉の告白にフクキタルは衝撃を受けた。あれだけ走ることが好きだった姉がレースに出ることが怖かったということは一切予想していなかった。姉がそんな様子をフクキタルの前で見せたことは一度もなかったのだから。

 

「私の走りはそんな脆いものだった。そんな私が走り続けることが出来たのはね、フク、あなたがいたからなの」

 

「私が...?」

 

 姉の自分が彼女が走る理由になっていたという言葉もフクキタルには予想していないものだった。

 

「フクはさ、一緒にいるだけで元気をくれる子なの。フクは気づいていないかもしれないけど、フクの明るさに私はいつも救われていたの。だからレースも頑張ることが出来た。もちろん、妹にかっこいい姿を見せたいって気持ちもあったと思うよ。お姉ちゃんとして妹の憧れになりたいって。...私はフクがいたから最後まで頑張ることが出来たの」

 

 ふぅ、と息をついたところで姉の告白は終わった。その告白の全てがフクキタルにとって信じられないものだった。憧れの姉が、いつも自分の前にいた姉がそんな悩みを抱えているなど思いもしなかった。しかも、姉は自分に救われていたと言うのだ。

 

「わ、私は......」

 

 その姉の言葉はフクキタルにとって受け止めるには大きすぎるもので、なかなか噛み砕いて理解することが出来ない。

 

「フクはあの日のことを覚えてる?私が泣いていたのを聞いた日のこと」

 

 その姉の言葉でこんがらがっていたフクキタルの思考が一つにまとまる。思い浮かぶあの日の光景、閉まった病室の扉と聞こえてくる姉の泣き声。逃げてしまったあの日。

 

「...覚えてる。あの時、私はお姉ちゃんが泣くのを聞いて、部屋に入れなくて...ごめんなさい...」

 

 あの日伝えることのできなかった言葉を今度は姉に伝えることが出来た。嘘を吐かずに。

 

「私こそごめんね。フクの前ではお姉ちゃんらしい姿を見せようって思ってたんだけどね...あの時は涙があふれて止まらなくて...フクのことを傷つけることになっちゃった。...さっきも言ったけど、私はフクがいたから頑張れたの。だから、病気の時もフクが毎日会いに来てくれて嬉しかったよ。フクと話すのが病院生活で一番の楽しみだったから。だからね、フクのせいで苦しかったなんてことはないよ」

 

 一つ、フクキタルのことを縛っていた鎖がほどけた。幼い頃に抱いた考えは姉の泣き声を聞いた日、フクキタル自身が作り出した幻想に過ぎなかったのだ。

 

「それと、私の最後の言葉がフクの負担になってたよね。...フクに笑顔でいてほしいのは私の願いだよ。笑顔がフクに一番似合うのも本当のこと。でも、それでフクに負担がかかるのは私の望むことじゃないから。だから、無理に笑顔でいるのはやめよう?無理に感情を抑えないで、うれしい時には笑って、辛い時や悲しいときには泣いて。いろんなことを経験して、それをいろんな感情で表して。そうやってフクには生きていって欲しい」

 

 そしてもう一つ。生前の姉が最後に遺したフクキタルに笑顔でいてほしいという言葉。フクキタルが自分の感情を抑えてしまうことになる原因となった言葉。姉が本当に望んでいる言葉が語られたことで鎖がほどける。

 

「...お姉ちゃんがいなくなってから、私はお姉ちゃんに追いつけるようにって...でも、お姉ちゃんに追いつくのは無理で。だから私はせめてお姉ちゃんとの約束は守りたいと思って、どんな時も笑うようにしてきた。だから、今からすぐにお姉ちゃんの言ったようにするのは無理かもしれない。...でも、頑張ってみる」

 

 姉の目をしっかりと見つめ、フクキタルは宣言した。心を縛っていた鎖から解放され、一歩、前へと踏み出すことが出来たのだ。

 

「うん、フクならきっとできる。あなたならきっと大丈夫」

 

 曇っていたフクキタルの目が晴れ晴れとしているのを見て、姉は微笑んだ。その目は、幼い頃にいつも元気をもらっていた時の妹の目と同じだった。

 

「じゃあ、これを返しておかないとね」

 

 そう言って、姉は手を伸ばして黄色い四つ葉のクローバーの髪飾りを取り外す。

 

「今日フクに会いに来たのは、フクの悩みを解決するのとこれを返すためだったから。...フクはあのおまじないの意味はなかったって思ってるかもしれないけどね、あの時、フクと髪飾りを交換してからフクの前からいなくなるまでの間、それまでは薬を飲んでも、点滴を打ってもすごく苦しかったのに、一度も苦しくならなかったの」

 

 そして、それをフクキタルに手渡した。

 

「だから、あのおまじないは本当に効果があったの。この髪飾りのおかげで私は本当に救われたから。ありがとうね、フク」

 

「...私はお姉ちゃんが元気になれたらって思って。だからおまじないなんて意味がなかったって思ってた。でも、お姉ちゃんが苦しくなくなって、少しでもお姉ちゃんの助けになってたなら良かった...!」

 

 手渡された髪飾りをフクキタルはぎゅっと握り締めた。あの日、姉と行ったおまじないに確かな意味があったことを喜ぶかのように。

 

「...そろそろ時間だね」

 

 そう呟いた姉の表情は悲しそうな、どこかすっきりとしたものだった。

 

「お姉ちゃん...?」

 

 突然の姉の言葉にフクキタルは困惑した声を出す。彼女も本当は分かっている。姉はもうこの世にはいない存在で、その姉が自分の前に現れたのはなにか、ほんのちょっとした奇跡のようなものなのだろうと。だが、認めたくなかった。幼い頃にいなくなってしまった姉に会うことが出来たのだ。もっと話したいことがある。姉と一緒にもっと。

 

「ごめんね、フク。私ももっとフクと一緒に話したいし、一緒に遊びたい。でも、私がフクに会いに来たのはフクの悩みを解決するため...フクの悩みが解決した今、私がここにとどまる理由はないの」

 

 だんだんと姉の姿が薄れていく。そこにいたことが幻だったかのように。

 

「お姉ちゃん待って!私まだ、お姉ちゃんに話したいことがいっぱいある!まだっ...お姉ちゃんに私の、私の走る姿を見てもらってない!」

 

フクキタルは姉に向かって手を伸ばす。だが、そこにいるはずの姉に、ほんの一歩の距離にいる姉にその手が届かない。

 

「大丈夫だよ、フク。覚えておいて、私はどんな時でもあなたの側にいて、あなたを見守ってるから。あなたがどこに行ったとしてもね」

 

 優しく微笑む姉の姿はだんだんと薄れていき、そして消えた。

 

 

 

 

「にゃ?」

 

 猫の鳴き声でフクキタルははっと我に返る。すでに神社は薄暗くなっており、足下では猫が不思議そうに彼女を見ていた。

 

「にゃーさん?...私は夢でも見てたんですかね?」

 

 まるで現実だったとは思えない出来事にフクキタルは首をかしげる。

 

「あ...」

 

 だが、右手の中の髪飾りの感触が先ほどまでの出来事が現実だったと伝えている。

 

「...お姉ちゃん、私頑張る。頑張って、絶対お姉ちゃんに私の勝つ姿を見せるから!」

 

 右手の髪飾りをもう一度握りしめ、フクキタルはしっかりと宣言した。

 




続きます
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