「よ、ようやく終わった……」
机の上に山のように積み上がる書類、その全てを片付けた頃には窓の外は白んでいた。連邦捜査部シャーレには毎日のように多くの案件が舞い込んでくる。毎日当番の生徒が手伝ってくれるとはいえ、やはり量の暴力の前には歯が立たない日もあるのも事実。今日はそんな一日で、食事をとる暇もなく徹夜で仕事を終わらせる羽目になった。
普段ならシャーレの中にあるエンジェル24で夜食を買うところだが、今日はなんだか夜風に当たりたい気分になったのでシンと静まり返ったD.U.の街に繰り出してみる。昼間は多くの生徒で賑わうD.U.も、明け方にはそんな喧騒も思い起こさせないような静けさが支配している。
しばらく歩いていると、あるビルとビルの谷間から淡い光が漏れ出ているのが目に留まった。なんだろう、と思い路地裏を覗いてみればその光はビル街には不釣り合いなこじんまりとした建物から発せられているものだった。近くによってみれば入口となる素朴な木製の扉には"喫茶クレイ"という文字が書かれ、"OPEN"という小さな看板が掛けられている。
こんなところに喫茶店……?と思うと同時に、それまで忘れていた空腹感が身体を襲う。ここで見つけたのも何かの縁と思い扉を開ければ、チリンチリンという軽やかなベルの音とふわりと漂うコーヒーの香りが私を出迎える。
「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」
ミレニアムサイエンススクールの制服の上から白衣の代わりとばかりに深い緑色のエプロンを付けた少女が、にこりと微笑みカウンターの中から呼びかけてくる。それでは、と彼女と相対するカウンター席に腰掛けた。
席に着いて一息吐くと改めて店員であろう少女を見る。肩辺りまで伸びた銀髪に隠れた薄い茶色の目、ヘイローは小さな円の上に少し大きめの円がある立体的なもの。いかにもミレニアムに居そうな生徒を体現しているその容姿を見ていれば、彼女はどうぞとお冷とメニューを手渡してくる。
彼女から目線を外しメニューに目を落とすと、そこにはエスプレッソを始めとした豊富なコーヒーに、サンドウィッチやトーストといった軽食、小さめのケーキなどがずらりと並ぶ。そのいずれも300円から500円程度の安価で提供されていた。
昨日の夜から何も食べていなかったので何か軽食を、と思いながら眺めていると、メニューの隅に後から書き入れられたのであろう手書きで小さく書かれたモーニングセットが目に留まった。聞けば好きなコーヒーとトースト、ゆで卵のセットで500円だという。
「じゃあ、モーニングセットを1つ」
「モーニングセットですね。コーヒーは何になさいますか?」
「エスプレッソで」
「かしこまりました。しばらくお待ちください」
注文を受けた彼女は、私の目の前でエスプレッソ用の深煎りされた豆をミルで挽き始める。ゴリゴリと心地よい音に交じってコーヒー豆の香りが漂ってくる中で、私は彼女に話しかける。
「ところで、君の名前を訊いてもいいかな?」
「ええ、構いませんよ。私はここ、喫茶クレイのマスター兼バリスタの
「バリスタ?」
ミルを回しながら彼女はナエと名乗った。その後名前を反芻する前に聞こえた、あまり聞きなじみのない言葉につい聞き返してしまう。
「バリスタとはコーヒーの消費の多いラティウム学園で生まれた職業です。簡単に言えばバール、所謂喫茶店やカフェでコーヒーを淹れる専門家を指す言葉になります。ワインに対するソムリエのコーヒー版と考えて頂ければよろしいかと」
思わず聞き返した言葉にもナエは丁寧に返答してくれた。会話の中で登場したラティウム学園は訪れたことがなかったため、少し興味が湧いて学園についてナエに訊いてみた。曰くトリニティと同じように教会があり、大規模なヘルメット団が幅を利かせているらしい。
一方で食事は非常に美味しいようで、ゲヘナから美食研究会が訪れているようだ。やはり料理も接客もクオリティが高いのか、美食研究会が騒ぎを起こしたという噂は聞かないらしい。
「ところで、無粋なことを訊くようで悪いんだけどこの値段で採算取れてるの?」
「正直申し上げると取れてはいません。ただ、道楽でやっているのであまり気にしていないんです。こんな辺鄙な場所な上に、店を開ける時間も気まぐれなのであまりお客さんも来ませんしね」
「昼間学校に行ってる時間はやっぱり閉めてるの?」
「昔はエンジニア部が開発してくれた店員ロボに任せていたんですが、何故か付けられていた自爆機能がありがたいことに正常に作動してくれやがりまして、クレイをクレーターに一時的に改名せざるを得ない事態になってからは閉めるようにしています。営業は早朝と深夜の僅かな時間だけですので、今日先生が来店されたのも何かの運命かもしれませんね?」
そう言うとナエは小首を傾げながらいたずらっぽく笑う。今のは年頃の男なら堕ちてただろうなぁと思っていると、いつの間にか出来上がったのだろうエスプレッソが目の前に差し出される。砂糖を一さじ入れると表面に少しの間
エスプレッソが口に入る前に漂ってくる豊かな香り、口に含めば少し強めの苦みと調和のとれた甘味が口内に広がる。美味しい。口からほぼ無意識のうちにそう零れた。
それを聞いたナエはありがとうございます、と微笑みトーストとゆで卵を差し出してきた。トーストの焼けた良い匂いが鼻孔をくすぐり、堪え切れなかった腹の虫が笑う。思ったよりも大きな音を鳴らしたそれに少し頬を染めながらトーストを頬張る。
トーストは特段変わったところのない、普通のごく一般的なトーストだった。だが、その素朴で気張らない美味しさが今の疲れた身体には嬉しい。再びエスプレッソに口を付けて一息吐くと、仕事の疲れがどっと押し寄せて深いため息が口を吐く。
「お疲れですか? まぁこんな時間に来られたということは、恐らく遅くまで仕事をされていたのでしょうね。お疲れ様です」
「ありがとう。そうなんだよ、今日もリンちゃんが、あ、連邦生徒会の子なんだけど──」
そこからは気が付けば仕事の愚痴をナエに零していた。普段なら絶対に生徒の前ではしない話だったが、心を落ち着かせる優しい味のエスプレッソと、どこか大人びている目の前の彼女の雰囲気に当てられて最後まで話してしまった。
「──だったんだ。って、こんなことを君に言っても仕方ないんだけどね」
「先生、大人だからといって一人で抱え込んでも仕方ありませんよ。まぁ、私たち生徒がそれを抱えられるかと言えば無理かもしれませんが」
どこか免罪符のように君に聞かせる話じゃないと言えば思ってもいなかった返答が返ってくる。そんなナエの言葉を受けて口を開こうとすれば、ですが、と前置きをして彼女が先に言葉を紡ぐ。
「一緒に抱えることができないとしても、少なくとも先生が息を抜ける場所を提供したいと思います。そしてそれに適した場所がまさにここです。辛くなったらまた来てくださいね。いつでも……は流石に無理ですがお待ちしていますよ」
今の私にはあまりにも嬉しい言葉。油断をすれば涙を零してしまいそうなほどのその言葉に、私は返答を詰まらせる。ほぼ空になって底に少したまった砂糖だけが見えるカップを両手で持ち、覗き込むように俯いていると、スッと視界の端に差し出される小さなチーズケーキの乗った皿。
「こちらはサービスです。と言っても先生は素直に受け取らないと思いますので、これから色々と頼らせて頂く分の前払いということでここは一つ」
本当にこの子は子供なのか、と怪しく思えるほどの応対に面を食らう。確かに素直には受け取らなかっただろうそれを、いとも容易く受け取れるようにしてしまうのだから恐ろしい。
ありがとう、と言ってフォークを手に取り少しばかり口に含めば、足りていなかった糖分が補給され更にリラックスさせてくる。そのまま夢中でチーズケーキを食べていれば、いつの間にか皿は空になっていた。
「ごちそうさま。おいしかったよ」
「そう言って頂けると光栄です。ではお会計800円になります」
「あれ?もしかしてケーキも会計に入ってる?」
「おや、バレましたか。冗談です。500円で大丈夫ですよ」
ナエはふふっと軽く笑いながら冗談を飛ばす。会話に冗談やダジャレを交えてくるあたり生真面目に見えて実は愉快な子なのかも、と思いつつ支払いをする。
店に来る前の身体と心の疲れは、まるで夢のように消え去っていた。後に残ったのは確かな充足感と心地よい眠気。ナエが言った今日この店に来たのが運命と言う言葉は、本当なのかもしれないなと今は思う。
シャーレに帰って一眠りしたらまた仕事に追われることになるだろう。だが、どこか今日一日張り切って仕事ができそうな、そんな予感がしていた。
「お気をつけていってらっしゃいませ」
彼女の言葉とチリンチリンという軽やかなベルの音が私を送り出す。外はすっかり明るくなって朝日が水平線から顔を覗かせていた。
ナエちゃんの容姿はミレニアム生徒Bまんまを想定しています。だって好きなんだもの。
─簡単なプロフィール
名前:
所属:ミレニアムサイエンススクール2年
部活:無所属
年齢:17歳
誕生日:2月10日
身長:165cm
趣味:コーヒーを淹れること
名前の由来:ミレニアム懸賞問題の1つ「ナビエ–ストークス方程式の解の存在と滑らかさ」から