それはある休日の夕刻のこと。私はトリニティ郊外のブラックマーケットを訪れていた。何故そんなところに居るのかと言われれば、限定ペロロ様グッズを求めてあちらこちらのブラックマーケットを練り歩くのが私の習慣だから。
温泉コラボペロロ様があると聞けばゲヘナ郊外に忍び込み、アビドスに砂まつり限定ペロロ様があると聞けば砂漠を突っ切り、闇銀行に重要な書類があると聞かされれば覆面を被って強盗に向かい、ついでに1億円を奪ったもの。平日にも学業を放り出してペロロ様の元へ向かっていたものだから、ナギサ様からふか〜く釘を刺されてしまったのはナイショの話。
さて、私がこの日手に入れたのはラーメン屋コラボ限定ペロロ様。そもそもコラボしたラーメン屋に来る客層とモモフレンズファンの客層が違っていたために極端に流通量が少ないかなりの激レア物で、何日も何日も情報を掴んで所在を追い掛けては偽物を掴まされたり別の人に先を越されたりと辛酸を舐めさせられてきた。
そんなレア物を遂にこの両腕にかき抱いたのだから、内心は叫び出したいほどの嬉しさに包まれていた。浮き足立つという比喩でも足りないほどにフワフワとした気持ちで、まるで楽園にいるかのような、一人エデン条約とでも表現できるだろうか。そんな心持ちで歩いていたものだから、注意力なんてものは空の彼方へ飛んでいってしまい、脇の小道から出て来た白い影に反応するのが遅れるのも道理だった。
「きゃっ!」
「おっと、すいません。大丈夫ですか?」
幸い相手方もこちらに気付いて回避してくれたため衝突は避けられたものの、避けようとした際に足がもつれ尻もちをついてしまった。その時についペロロ様人形を取り落としてしまい、座り込んだままキョロキョロと人形を探していたところ、それを立ち上がれないと勘違いしたと思しき相手はこちらに手を差し伸べてきた。
ここで断るのも気が引けるので有難く手を取って立ち上がる。改めて相手を見てみると、ミレニアムサイエンススクールの制服を着ていて、その左腕には何やら茶色い袋を抱えていた。しばらくの間ぼうっと相手の姿を見つめていたが、ふとペロロ様のことを思い出し辺りを見回す。
「おっと、これですかね」
「あ、ありがとうございます!」
その目線に気が付いたのか、相手は落ちていた人形を拾い上げこちらに手渡してくれた。受け取ると傷がついていないか確認する。幸い少し汚れが付いた程度で大きな汚損は無かった。
「ごめんなさい。不注意でした」
「こちらこそ脇道から出るにも拘わらず確認を怠ってしまって」
「いえいえ、私が浮かれていて周りを確認してなくて──」
確認を終えると相手に向き直り謝罪の言葉を口にする。しかし、相手もこちらに非があると謝罪し譲らない。お互いに自分が悪いの一点張りで謝罪の言葉の応酬を一分間程続けたが、どうにもこの光景がおかしく思えて少し笑ってしまった。こちらが笑ったのを見た相手も、少し呆けた顔をした後に口元を手で隠しながらふふっと軽く笑った。
「ところでミレニアムの方がどうしてこんなところに?」
「店で使うコーヒー豆の仕入れに来ていたんです。勿論豆は黒いですが潔白の取引ですよ」
ひとしきり笑い終えると、少し疑問に思ったことを訊いてみた。疑問を口に出してから、あまりこういうことは訊くべきではなかったかな、と思い直して後悔した。しかし、それを聞いた相手は嫌な顔をするでもなく、軽い冗談を交えながら腕に抱えた袋の中を見せてきた。覗き込んでみれば、確かにそこにはいくつかのコーヒー豆の袋が入っている。
「あはは……。それはさておき仕入れなんですね。バイト先で使うんですか?」
「いえ、私が店長なんです。まぁ小さな喫茶店ですけどね」
「えぇっ!? 自分のお店なんて凄いですね! 憧れるなぁ……」
「そんなに大したものでは……あぁ、そうだ。この後お暇ならこのまま店まで来られますか? お詫びも兼ねてご馳走しますよ」
まさか自分でお店を経営しているとは露とも思っていなかったので、それを伝えられた時の驚きたるや、先程衝突しそうになった時のそれを遥かに凌駕していた。どんなお店なのだろう、と色々と想像していると相手からは願ってもいない申し出。ちょうどこの後は暇だったのでお言葉に甘えてお邪魔することにした。
「あぁ、そういえば名乗っていませんでしたね。私はミレニアムサイエンススクールの十楠ナエと申します。以後お見知りおきを」
「あっ、私はトリニティの阿慈谷ヒフミです! こちらこそよろしくお願いします!」
二人で並んで歩き始めると、相手の方が思い出したかのように自己紹介を始めた。そういえば名乗っていなかったな、と私もその時思い出し、相手に続いて自己紹介をする。その後は他愛のない世間話を、そしてモモフレンズ、特にペロロ様について熱弁しながら歩みを進めた。
それから数十分。私たちは電車に乗ってトリニティを離れ、D.U.の郊外のビル街に来ていた。そして、あるビルとビルの間の路地裏に案内されたかと思うと、その先にはまるでこのビルの森の中には不釣り合いなほど小さな喫茶店があった。
「さて、いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」
ナエさんはそう言いながら"CLOSE"の看板の掛かった入口の扉を開け、私に中に入るよう促す。彼女に従い店の中に入ると、まだ営業前にも拘らず店内には豊かなコーヒーの香りが漂っていた。
店内を見渡すとザ・喫茶店と言ったような内装だった。木目を基調とした落ち着いたインテリアで、座席は基本はカウンターで窓側にはテーブル席が数席。折角なら会話も楽しめ、作っているところが見られるカウンター席にしようと思い座席に腰掛ける。ナエさんは一旦店の奥に消えると、しばらくしてから先ほどまで羽織っていた白衣の代わりに緑のエプロンを付けて戻ってきた。
「こちらがメニューです」
「ありがとうございます」
メニューを受け取ると、取り敢えず何があるのかと端から端まで目を通す。やはりコーヒーの種類が豊富で、軽食やデザートも充実している。コーヒーを紅茶に置き換えればトリニティで出店してもすぐにでもやっていけそうな品揃えだった。
目をメニューの最初に戻し、コーヒーの部分をしっかりと読みこむ。しかし、普段紅茶ばかりのトリニティで過ごしているため、全くといっていいほど違いが分からず少し頭を悩ませる。下手に選んであまり苦いものに当たってもなぁ、と考えているとコーヒーに詳しくない私でも見慣れた文字が目に入る。
カフェオレとカフェラテ。どちらもミルクが入っていることは私でも分かる。しかしその違いはと問われれば考えたことがないので分からない。流石にメニューの上から下まで詳しく教えて欲しいとは言えないが、このくらいのことを訊くのは大丈夫だろう、と違いを尋ねてみる。
「あの……カフェオレとカフェラテって何が違うんですか?」
「カフェオレはドリップコーヒー、フィルターで濾して抽出したコーヒーですね、これにホットミルクを入れたものです。ミルクの味わいが強くそこまで苦みを感じないので、コーヒーの苦みが苦手な方にもおすすめです」
問いを受けたナエさんは、言葉に詰まる素振りも見せずにすらすらと答え始める。やはり詳しい人は説明も上手いのだろう。実に分かりやすくこちらの訊きたいことを教えてくれる。
「一方のカフェラテは、ホットミルクを注ぐ点は同じですがドリップコーヒーではなくエスプレッソを使用しています。こちらはミルクのコクに加えて苦みも味わえるので、コーヒーの風味をしっかりと味わいたい方におすすめですね」
「うーん、それじゃあカフェラテでお願いします」
「わかりました」
注文を受けたナエさんはミルに豆をセットすると、ゴリゴリと小気味のいい音を立てながら豆を挽き始める。軽々とミルを回していていかにも簡単に出来そうなものだが、実際のところはあの硬い豆を粉末にしているわけだからかなり難しいのだろう。そんな難しさも感じさせないほどの手際の良さはつい見とれてしまうほどだった。
豆を挽き終えると、ナエさんは何らかの機械──恐らくあれがエスプレッソマシンというものだろう──の下部から手前に伸びた黒い棒を掴んだかと思うと手前に引き出す。棒の先には短い円筒状のものが付いており、見た感じはまるで工具のレンチの厚みを増したもののように思えた。
「それは……?」
「あぁ、これですか? ポルタフィルタと言いまして、中にあるバスケットに今し方挽いた豆を入れ、こちらのタンパーという器具で上から押し固めるタンピングという作業をします。そして押し固めた粉、パックとも言いますが、その上から加圧したお湯を通してエスプレッソを抽出するわけですね」
ナエさんはこちらから見えやすいような位置で手順を進めながら、それに沿って丁寧に説明をしてくれる。まずは先程挽いた豆の粉を先端に付いていた円筒──バスケット──に入れて軽く指先で均す。それから近くにあった一見するとスタンプにしか見えない器具──タンパー──を手に取ると、説明の通り上から粉末を押さえつけた。
押し固めると聞けば結構な体重を掛けるものかと思ったが、案外そんなことはなく手首にだけわずかな力が加わっているようだった。ぐっと一度、ためらいなく圧をかけ、最後にくるりと軽くひねる。そしてタンパーがバスケットを離れると、そこには見事なまでに均一に均された茶色い平原が広がっていた。
タンピングを終えたポルタフィルタを見やすいように一度私のすぐそばまで持ってきた後に、エスプレッソマシンにカチリと音を立てながらセットする。次の瞬間、抽出が始まった。はじめは細い糸のように、やがてとろりとした濃い液体が二筋、カップへと落ちていく。深い琥珀色がゆっくりと重なり、表面にきめ細かな泡が広がった。
既にコーヒーの香りの漂っていた店内には、かすかに甘く、ほろ苦い香りが更に満ちていく。思わず息を吸い込むと、舌の奥にまだ存在しないはずのコーヒーの味が、先回りして広がる気がした。
彼女は抽出を止め、カップをそっと持ち上げて一旦脇に置く。私の頭はもう終わったのに何故、と疑問符を浮かべていたが、彼女が冷蔵庫から牛乳を取り出してステンレス製のピッチャーに注ぐのを見て、そういえばまだミルクが入っていなかったと思い出す。先ほどまでの一連の流れがまるで完成された儀式かのように華麗であったため、ついうっかり忘れてしまっていた。
そのままミルクを注ぐのかと思えば、また別の機械にピッチャーを持っていく。その機械から伸びたノズルの先端を軽く拭くと、スイッチであろうレバーを捻る。途端に、シューッという鋭い音が立ち上り、空気がわずかに震えた。
「そちらは?」
「これはミルクスチーマーです。蒸気でミルクを温める機械ですね」
そう言いながら彼女はピッチャーを傾け、ノズルの先端をミルクの表面すれすれに沈める。チチチ、と小さく弾けるような音が続き、ミルクに空気が含まれていくのがわかる。しばらくして少しピッチャーの位置を変えたかと思うと音は低く、滑らかなものへと変わった。メリーゴーランドかあるいはコーヒーカップか、ミルクはピッチャーの中でくるくると回って艶が生まれていく。
しばらくそうしていると、十分に温まったのだろう、彼女はレバーを元の位置に戻す。ピッチャーからノズルを取り出すと底を軽くカウンターに打ちつけた。それから円を描くように揺らすと、表面の泡がきめ細かく整えられていく。その一連の動きは、まるでミルクという一つの液体に命を吹き込んでいるかのようだった。
いよいよミルクを注ぐのだろう。エスプレッソの入ったカップを左手に、ピッチャーを右手に持って、最後に確認とばかりにピッチャーを軽く回す様に揺らす。それからはあっという間だった。最初の一滴は高い位置から落とされる。細い白がエスプレッソに沈み、茶色の中に白色が柔らかく溶け、カップの中のコントラストが少しずつ和らいでいった。
そうかと思えば息つく暇もなくピッチャーの口がぐっと近づく。すると今度は、白色は茶色と混じり合わずに表面に浮かび上がり、溶けあうことなくはっきりとした輪郭を持った。ある程度ミルクが表面に広がると注ぐのをやめてピッチャーとカップを置く。それからピックを使って表面のミルクに細工を施していった。
「わぁっ! 凄い、凄いです!」
思わず感嘆の言葉が出たのも仕方がない。何故なら、最初は茶色い海に浮かんだただの白い島だった模様は、あっという間に見覚えのある、今もカウンターの中を小さな子供のように覗き込む私の視界の端に僅かに入っているキャラクターの造形に変わっていったのだから。
「お待たせ致しました。カフェラテ、おまけでラテアート付きになります」
「ありがとうございます!」
そっと手元に差し出されたカップの中には、見事なペロロ様の姿が映っていた。横に置いているペロロ様人形と比べても全く遜色のない出来栄えである。しばらく目に焼き付けるように見つめると、形に残そうとスマホを取り出して撮影する。ひとしきり撮影を終えるとカップに向き直る。今からカフェラテを飲むにあたってこのペロロ様を崩さないといけない、そう思うとあまり手が進まないが飲まないわけにもいかない。
カップに手を添えると、指先に柔らかな熱が伝わってきた。そっと持ち上げ、顔を近づける。ふわりと立ちのぼる香りは、エスプレッソのほろ苦さに、温められたミルクの甘さが重なって、思っていたよりもずっと柔らかい。ひと息吸い込むだけで、肩の力が抜けていくのがわかる。
ゆっくりと口元に持っていくと、ゆっくりと傾けて恐る恐るといった風に少しばかり口に含む。最初に触れたのはなめらかな泡だった。きめ細かく、ほとんど抵抗を感じさせないまま舌の上でほどけていく。そのすぐ後に、温かいミルクの甘みと、奥に潜んでいたコーヒーの苦みが遅れて広がった。
思っていたよりも静かな味。それが第一印象だった。甘みも苦みも、それぞれが主張しすぎることはなく、ただそこには調和のとれた落ち着いた空間が広がっていた。もう一口、今度は多めに含む。ほんのりとした熱が、喉からお腹へ滑り落ちていくにつれて、先程よりもはっきりとしたコーヒーの深みが感じられた。それでもなお、ミルクが柔らかく苦みを抑えて全体を優しく包み込んでいる。
一度カップをテーブルに戻すと、表面のペロロ様の模様は少しだけ崩れていた。それでもまだ、名残惜しさを感じる私の心を推し量ったかのように形を留めている。
それから何度か口を付けては置いてを繰り返した。繰り返すうちにペロロ様の姿は溶けて無くなっていく。
最後の一口を飲み干すと、カップの底が静かに覗いた。縁に張り付いてわずかに残った泡だけが、さっきまでそこにカフェラテが注がれていたことを伝えている。舌の上には、まだかすかな甘みと苦みが残っていた。消えきらない余韻が、ゆっくりと奥へ沈んでいく。
「ごちそうさまでした。まさかペロロ様のラテアートを作ってくれるとは思ってもいなかったので嬉しかったです」
「ここに来るまでの間に随分とお話を聞きましたからね。幸い造形も難しくないですからせっかくなので作ってみました。喜んでいただけて何よりです」
顔を上げてお礼を言うと、彼女はすぐにこちらを見た。さっきまで別の作業に向けていた視線が、静かに戻ってくる。つい熱が入りすぎて喋り過ぎたペロロ様についての会話も、しっかりと聞いてくれていたことが分かって嬉しかった。それから、ふと疑問に思ったことを問うてみた。
「でも、あの模様って毎回変わるものですよね。上手くいかないこともあるんじゃないですか?」
「確かにそうですね。ミルクの状態や温度によっても微妙に変わりますし」
ピッチャーを持ち上げてくるくると残ったミルクを回しながら彼女はそう答える。やはり難しいものなのだろう。こちらから見ているだけでも、最初に注いだ混ぜるためのミルクと、次に注いだ模様のためのミルクの切り替えのタイミングを計るのは難しいであろうことは分かった。
「やっぱり難しいんですね。それでも初めて作る模様を綺麗に作り上げるのは本当に凄いです」
「そこはもう経験だけが頼りですね。実際作っている時は緊張しているんですよ?」
「そうなんですか!? 余裕綽々って感じにしか見えませんでした……」
少しばかり小首を傾げながらそう言う彼女につい疑惑の目を向けたのは仕方のないことだと思いたい。それからはまた他愛のない世間話が続く。彼女は聞き上手で話し上手なのだろう。移動中もそうだったが、ついつい長話をしてしまう。
そうこう話しているうちに、お店の外はすっかり暗くなっていた。
「それではもういい時間なので今日はこの辺りで」
「ありがとうございました。そうだ、これ、言っていた補習授業部の皆様へのお土産にどうぞ」
立ち上がった私の前に差し出されたのは、可愛らしい袋に包まれた小さなクッキーの詰め合わせ。つい遠慮してしまったが、お詫びですから、の一点張り。また出会った時の押し問答を繰り返すわけにもいかないので、ありがたく貰うことにした。
「何から何までありがとうございました! また来ますね!」
「はい、次のご来店をお待ちしております。お気を付けて」
お礼を言ってお店を後にすると、ペロロ様人形を大事に抱きかかえながら路地裏を進んだ。しっかりと出合い頭に衝突しないように注意深く確認してから大通りに出る。限定ペロロ様人形、素敵な出会い、ペロロ様のラテアート。今日一日で良いことが沢山あったな、と思うとついつい浮かれた心持ちで歩きそうになるのを必死に堪えながら、トリニティへの帰路を急いだ。