──本日もキヴォトス広域都市鉄道Tラインをご利用いただきありがとうございます。この電車は環状内回り、シタデル行きです。次はトリニティ自治区3番街、自治区3番街。高級茶葉と陶器、豊富な品揃えが自慢のティールーム・マラードへお越しの方は次でお降り下さい──
ある日の昼下がり。柔らかな日差しが街を淡く照らすなか、私はD.U.から地下鉄に揺られてトリニティ総合学園へと向かっていた。車窓に流れていく景色をぼんやりと眺めながら、今日の予定を頭の中でなぞる。
きっかけは、以前セイアさんに持ちかけられた提案だった。ナギサさんから、紅茶の淹れ方を直々に教わってみてはどうか──そんな話を受けて、私は半ば緊張しつつもその場で約束を取り付けてしまった。それからあっと言う間に日程が決まり、今に至っているわけである。
レールの継ぎ目で規則正しく刻まれる振動がやけに心地よい。とはいえ、このまま乗り続けて学園正門前の駅で降りてしまうのもどこか味気ない気がした。せっかくトリニティを訪れたのだから少し寄り道をしてみようか。そう思い立ち、自治区の中程にある駅で途中下車することにした。
改札を抜けて地上へ出ると、ふわりと空気の匂いが変わる。大通りへ足を踏み入れた瞬間、その理由はすぐに知れた。通りの両側には、テラス席を備えた喫茶店や、色とりどりの茶葉を扱う専門店が軒を連ねている。ガラス越しに見えるティーカップやポットはどれも洒落ていて、テラスで余暇を過ごす人々の手にも自然とカップが馴染んでいた。
なるほど聞き及んでいた通りだ。この自治区で紅茶の消費量が多いという話も、決して大げさではないらしい。むしろ、こうして歩いているだけでその理由が自然と伝わってくる。
店先からは、ほんのりと甘く、どこか落ち着いた香りが漂ってくる。思わず足を止めてしまいそうになるが、今日は寄り道を楽しみに来たわけではない──いや少しくらいなら許されるだろうか。そんな逡巡すらどこか贅沢に感じられる。
結局は誘惑に負け、物は試しとばかりに近くにあった茶葉を取り扱っている店に入ってみる。ドアベルの音が、背後で小さく鳴った。
店内へ一歩踏み込んだ瞬間、一度足が止まる。感じられたのは先程よりも濃密な香り。当然ながらコーヒーとは違う、もっと軽くて、しかしそれでいて層がある香り。
花のよう、とでも形容できるような匂い。少し甘いような、乾いた感じ。そして奥の方に、ほんの少しの渋みを感じる。しかし、頭に浮かぶ表現はどれもこれも陳腐なもので、うまく言語化できてはいない。思わず苦笑が漏れた。コーヒーの香りなら、もっと詳しく表現できるのに、と。
流石に入口で立ち止まっているわけにもいかないので、少し中程まで入ってから視線を巡らせる。棚にはガラスジャーと缶が並び、ラベルには聞き慣れない名前が並んでいる。ダージリン、アッサム、ウバ。名前くらいは知っているが、それ以上のことはまだあまり覚えきれていない。
試しに近くのジャーを手に取って中の茶葉を眺めてみる。細長いもの、丸まったもの、砕けたもの。コーヒー豆ならこれだけで色々と判断できる。でも紅茶は──まだ、そういった判断の基準がない。それとなく軽く振ってみる。案の定といったところだが乾いた音が鳴った。悪いものではないのだろう、くらいのことしか分からない。
「完全に初心者のそれですね……」
誰にも聞こえない程度の呟きを零す。少し悔しい。しかし同時に悪くない感覚でもあった。何も知らない状態から、学びを得ていく感覚は嫌いではない。ミレニアムの技術者としての性か、あるいは一端のバリスタとしての本能か。そこについては分からないが。
手にしたジャーを元に場所へ戻すと別の棚へ移る。目にしたのは“ブレンド”と書かれたラベル。名前をそのまま考えるなら、いくつかの茶葉を混ぜたものだろう。脇にある商品説明を見れば、それは間違っていないことが分かる。
これも試しに一つ手に取り蓋を開けてみる。先程の単一茶葉のものより香りがはっきりしている。この茶葉は分かりやすく甘さが強い。これはコーヒーでいうところの、飲みやすく調整されたブレンドに近い。狙いがはっきりしている分、初心者でもとっつきやすそうに思える。
とはいえ。視線を横にずらす。先程まで見ていた単一茶葉の商品。あちらは、もっと“素材そのもの”という感じがする。どう扱うかでかなり変わりそうなものだ。先程は見ていなかったラベルを見る。抽出時間、三分。温度、高め。それくらいしか書いていない。実にシンプルなものである。
逆に言えば、それ以上は自分で決めてくださいということだろう。コーヒーと同じだ。手順は最初から最後までしっかりと決まっているようで、実際は余白が多い。そこが各人の腕の見せ所ということだ。
「……面白いな」
今度は自然に言葉が零れ出る。紅茶も淹れ方でかなり変わることは分かっていた。しかし、その“変えられる幅”が、思っていたよりも広そうだ。そう思うと、私の心は好物を目の前にした小さな子供のようにワクワクと高揚していた。
改めて棚をゆっくりと見て回る。同じ名前でも、微妙に違う茶葉が並んでいる。産地、収穫時期、グレード。全ては理解できない。それでもそれぞれに違いがある、ということだけはわかる。いつかは全てを理解した上でこの空間を楽しんでみたいな、と思った。
しばらく見て回っていると、いつの間にかいい時間になっていた。ここで茶葉を買っても良いが、この後は人と会うのだからあまり荷物になってもいけない。今日のところはこの空間を楽しめただけで上々だろうと思い、少しばかりの名残惜しさを感じつつ出口へと向かう。
店から出る瞬間にもう一度だけ店内を振り返る。静かで、落ち着いた空間。香りが入った時よりも少しだけ馴染んでいる気がする。慣れたのか、あるいは最初からそう客に感じさせるように設計されているのか。そんなことを考えながらドアに手をかける。ベルが鳴り、香りを押し流すかのように外の空気が流れ込む。それでもなお、鼻孔には今し方味わった種々の茶葉の香りの余韻が残っていた。
それからのんびりと歩いて正門まで来ると、見覚えのある人物がこちらを待っていた。
「ナエさん、こんにちは」
「あぁ、正義実現委員会の。こんにちは」
「そう言えば名乗っていませんでしたね。ハスミとお呼びください。セイア様とお会いする予定ですよね。ご案内します」
以前から何度か店に来てくれていたハスミさんが出迎えてくれた。確かに学園のトップが直接こんな場所まで出迎えに来るのも不自然だから、こうして治安維持組織の人物に任せるのも道理である。
「こんなことなら何か差し入れでお菓子を持ってくればよかったですね」
「今度来るときは是非、是非お願いします」
先導する彼女のすぐ後ろを付いていきながら、他愛もない世間話をする。なんでも彼女は正義実現委員会の副委員長だとか。こういう時は委員長が出てくるのが相場なので、彼女が委員長だと思っていた。
面識があるから選ばれたんですかね、と言うと少し言葉に詰まったあとに肯定が返ってくる。詰まったその間に少し違和感を覚えつつも、委員長ではないからといって特段不都合があるわけでもないのでそういうものだと考えることにした。
そうこうしているうちに、学園内で見た中でも一際重厚な扉の前で歩みが止まる。
「こちらでセイア様がお待ちです」
道を譲るようにハスミさんが脇に逸れる。一言お礼を言うと、目の前の扉を開ける。重厚で重そうな見た目に反して、あまり力を入れずともすんなりと扉は開いた。
扉を開けると、まず目に入ったのは大きな窓だった。午後の柔らかな日差しが差し込み、まるで抽出の最後に落ちる一滴のように室内を穏やかに満たしていた。その中心に立っていたのが、こちらに視線を向けて微笑むセイアさんだった。
「いらっしゃい。待っていたよ」
落ち着いた声音に迎えられ、少し肩の力が抜ける。
「来る途中で迷わなかったかい?」
「はい、なんとか。途中で少し寄り道はしましたが」
そう言って軽く頷くと、セイアさんは部屋の奥へと視線を向けた。
「では、今日の“先生”を紹介しよう」
促されるまま数歩進む。そこで、もう一人の姿に気づいた。窓際に設えられたテーブル。その傍らに静かに佇む人物がいる。私が近付くと、その人はゆっくりとこちらを向いた。
「初めまして」
凛とした声だった。抑揚は穏やかなのに、不思議と耳に残る。
「本日、紅茶の淹れ方を指南させて頂く桐藤ナギサです。よろしくお願いします。もっとも、“指導”などと大げさに構えて貰わなくて結構ですよ」
ナギサさんは視線を細め、ふわりとした笑顔を浮かべる。ただ挨拶をして笑顔を見せる。口で言えばただそれだけの単純な動作だが、その落ち着いた優雅な立ち振舞いは流石トリニティのトップと言うだけのことはある。無駄がない──と言うより無駄という概念そのものが存在しないような所作だった。そんな所作を見せられたのだから、こちらも反射的に背筋が伸びた。
「十楠ナエです。こちらこそよろしくお願いします」
名乗りを返しながら、同時に観察してしまう自分がいる。所作に無駄がない。立ち方、手の位置、視線の運び方──そのどれもがきちんと整えられている。
「セイアさんからお話は伺っています」
ナギサさんは静かに言葉を続ける。
「コーヒーに関しては、既に十分な腕前をお持ちだとか」
「いえ、まだまだです」
反射的にそう答えると、少しだけ口元が緩んだように見えた。
「謙遜は結構ですが──その視点は、きっと役に立ちます。もっとも」
一拍置く。
「同時に、邪魔にもなるかもしれませんが」
──一瞬、言葉の意味を測りかねた。だが、すぐに思い当たる節が浮かんでしまう。
「……そのあたりも含めて、教えていただけると助かります」
そう返すと、ナギサさんは小さく頷いた。
「ええ、もちろん。そのためにお呼び立てしたのですから」
差し込む穏やかな日差しの中で、ティーセットが静かに輝いている。どうやら、ただ淹れ方を学ぶだけでは終わりそうにない。そんな予感がした。