いつからだろう。シャーレの当番に行った時に、いつも先生が出してくれるコーヒーが、一段と美味しくなったのは。
苦味の奥に、ほんの少しだけ甘さが残るようになった。舌に触れるその余韻が、妙に優しくて──まるで、誰かに向けて淹れられたものを、横から奪ってしまったような気分になる。そんなはず、ないのに。
いつからだろう。シャーレの給湯室に備え付けられたコーヒーマシンが、一等良い物になったのは。
以前よりも静かな駆動音。丁寧に扱われているのが分かるその佇まいが、どうしてか気に入らなかった。そこに込められた“誰かの気配”を、感じてしまうから。
いつからだろう。先生が使うコーヒーカップが、ありふれた白の無地の物から、白地に黒い猫の意匠のあしらわれた物に変わったのは。
あのカップは、よく似合っていた。先生の手に馴染んでいて、自然で──だからこそ、余計に嫌だった。最初からそこにあったみたいに、違和感なく収まっていることが。
コーヒーを淹れるのが上手くなっただけ。コーヒーマシンを買い替えただけ。新しいコーヒーカップを買っただけ。普通なら、気にする必要も無い些細なこと。そう思おうとするたびに、胸の奥が小さく軋む。
──これは、本当に“些細なこと”なのだろうか。靄のようだった疑念は、気づけば形を持ち始めていた。否定するにははっきりしすぎていて、見過ごすには近すぎる。
その正体が、決定的に輪郭を帯びた瞬間があった。ある日。先生と他の生徒が、楽しそうにコーヒー豆を選んでいるところを偶然見てしまった。その距離が、やけに近かった。声は聞こえないのに笑っているのが分かる。先生があんな風に目を細めるのを私は知っている。
──知っているはずなのに。
どうして、それを“自分以外”に向けているのを見ているのだろう。胸の奥がひどくざわついた。理由なんて考えるまでもなかった。
次のシャーレ当番の日。それとなく先生に探りを入れる。この前の生徒は誰か、なんて聞けるわけがない。そんなことを訊いてしまえば、自分の中にある醜いものが、全部露わになってしまいそうだった。
だから、あくまで自然に。コーヒーが美味しくなった、という話題に紛れ込ませて、慎重に言葉を選ぶ。
けれど。先生はあまりにも無防備だった。
曰く、ある生徒──彼女に淹れ方を教えてもらった。
曰く、彼女からプレゼントでコーヒーマシンを貰った。
曰く、彼女が使っていたタンブラーを見て、可愛かったので似た柄のカップを買ってみた。
一つ一つの言葉がやけに軽くて。その軽さが、どうしようもなく腹立たしかった。そんなふうに、簡単に口にしないでほしい。それは、本来、もっと特別なもののはずなのに。
その会話の中に出てくる“彼女”が、この前見たあの生徒であることは、考えるまでもなかった。更に探りを入れると、“彼女”のことが分かった。
名前は、十楠ナエ。ミレニアムサイエンススクール所属の二年生。D.U.郊外で喫茶店を営んでいるらしい。
名前を知った瞬間、妙に胸の奥に落ちてきた。知らなければよかった、と思うには遅すぎる。むしろ、逆だった。もっと知りたい、と思ってしまった。どんな顔で笑うのか。どんな声で話すのか。どうして先生に、そんなものを与えられるのか。
どうして、先生はそれを受け取ったのか。
その日の当番終わり。私は先生から店の詳しい場所を教えてもらい、その足で向かうことにした。会ったからといって、何をするわけでもない。先生との関係を縛るつもりもない。そんなこと、許されるはずがない。
分かっている。分かっている、はずなのに。
──それでも。胸の奥で、はっきりとした形を持った感情が、静かに息をしていた。
あの人に、これ以上近づかないでほしい。そんなことを思ってしまう自分を、否定しきれないまま。私は扉に手をかけた。
店の扉を開けると、小さな鈴の音が鳴った。やけに耳に残る澄んだ音だった。続いて、コーヒーの香りがふわりと広がる。
──似ている。
そう思った瞬間、胸の奥がわずかに波立つ。
「いらっしゃいませ」
柔らかな声に顔を上げる。カウンターの向こうに立っていたのは、噂の彼女だった。十楠ナエ。ミレニアムに行けばありふれた感じの、特別に目を引くわけではない容姿。けれど、どこか視線が引っかかる。輪郭の曖昧な、かと言って無視できない存在感。
──こういう人。
そう短く結論づけて、私は何事もないように微笑んだ。
「一人よ」
声は驚くほど自然だった。好きな席へと促されたので彼女の目の前になるカウンター席に腰を下ろし、視線を店内へと流す。興味を持ちすぎていない客を装うことは、思っていたより簡単だった。
「ご注文はどうされますか?」
「おすすめ、あるかしら」
ありふれたやり取りを選ぶ。不自然にならない距離を慎重に保つ。彼女は少しだけ考えてから、いくつか豆の名前を挙げた。その中に、聞き覚えのあるものが混じっていた。
──先生が口にしていた名前。
「じゃあ、それでお願いするわ」
迷いは見せない。最初から決めていた。彼女がそれをどう扱うのか見てみたかった。
彼女は軽く頷き静かに準備を始める。カップを取り出すために棚に手を伸ばす、その何気ない動作。
そのとき──
白いカップが沢山収められた棚の奥に、ほんの一瞬だけ、黒い猫の意匠が覗いた、ように見える。しかし、それはすぐに見えなくなった。
──今のは。
思考が引っかかる。けれど、視線は逸らす。何も気づいていないふりをする。代わりに取り出されたのは、白い無地のカップだった。どこにでもある、ありふれたもの。それをカウンターに置く音が、小さく響いた。
ナエは次に、豆を量る。スケールの上に置かれた小さな容器に、ゆっくりと豆が落ちていく。一定の速度。迷いのない手つき。必要な分だけを、正確に。
──同じだ。
思考が、勝手に結びつく。先生がやっていた動きと。無駄のない、あの丁寧さと。
ミルに豆を移し、軽やかに挽き始める。店内に響く低く、控えめな音。豆が砕かれていく規則的な振動が、空気を僅かに震わせる。彼女は急がない。一定のリズムを刻んでいる。その“間”の取り方まで、どこか見覚えがあった。
粉になった豆をフィルターへ移す。軽く揺らして、表面を均す。指先の僅かな動きだけで、形が整えられていく。
丁寧すぎる。そう思った。
いや、違う。これは“丁寧”なのではなく慣れているのだ。繰り返してきた動き。体に染みついた手順。だからこそ、迷いがない。
ケトルを持ち上げる。細い注ぎ口から、最初の一滴が落ちる。中心に、静かに。ほんの少しだけ。
粉がふわりと膨らむ。蒸らし。その時間を正確に待つ。視線は落ち着いていて焦りがない。
──ここも。
知っている。先生も、同じようにしていた。同じ場所に、同じように、最初の一滴を落としていた。胸の奥が、じわりと熱を帯びる。
ナエは二投目を注ぐ。円を描くように、ゆっくりと。細く、均一に。決して乱さない。リズムがある。意識しなくても、体が覚えているような動き。その流れを、私は知っている。
──知っているはずがないのに。
視線が、離せなかった。ただコーヒーを淹れているだけのはずなのに。その一つ一つが、別の記憶を引きずり出す。
先生の手元。先生の横顔。湯気の向こうで、ふと緩む先生の表情。それらが、勝手に重なる。
──どうして。
思考が、わずかに軋む。どうして、この人がそれを知っているのか。どうして、この人がそれを“教えた側”なのか。
最後の一滴が落ちる。彼女は静かにケトルを戻し、抽出が終わるのを待つ。その間も無駄な動きはない。全てが完成された手順の中に収まっている。
やがて、カップにコーヒーが注がれる。白い、無地のカップに。黒い液体が満ちていく。その対比は、まるで真っ白な白衣に身を包んだ彼女と、どす黒く醜い感情を持った私のように見えて、自分のことがひどく惨めに思えた。
「お待たせ致しました」
「ありがとう」
受け取る。指先は震えていない。表情も崩れていない。完璧だった。
──だからこそ。
余計に、はっきりと分かってしまう。この味も、この淹れ方も、この時間も。全部、“ここ”から始まっているのだと。
カップを口元へ運ぶ。知っている味。けれど、決定的に違う。ここで淹れられた、という事実。
「……美味しいわね」
自然に言葉を零す。それを聞いた彼女は穏やかに微笑んだ。
「ありがとうございます」
その笑みを見ながら、思う。棚の奥にあった黒いカップ。あれが誰のためのものなのか。考えなくても分かってしまう。
カップを静かに置く。音は立てない。何も崩さない。
──まだ、大丈夫。
私は、ただの客だ。何も知らないままここにいるだけの。それでいい。そうでなければいけない。
それでも。胸の奥に残った熱だけが、消えない。
──大丈夫。
そう思うことで、呼吸を整える。ここは喫茶店で、目の前にいるのはただの店主で、先生はこの世界で特別な存在で、そしてここに来ること自体は珍しくない。
それは分かっている。だから、この会話もただの雑談のはずだ。
「……ねぇ」
少しだけ間を置いてから声を出す。彼女が顔を上げる。
「どうしました?」
柔らかな視線。身じろぎそうになりながらも真っ直ぐに受け止める。
「先生は……よく、ここに来るの?」
ナエは一度だけ瞬きをしてから、小さく頷いた。
「はい。お一人で来られることが多いですね」
──一人。
その言葉が、静かに胸の奥へと落ちていく。想定していた事実のはずなのに、なぜか胸の奥がざわつく。
「時間帯は……」
言いかけて、少しだけ言葉を選ぶ。
「遅かったりするの?」
彼女は表情も変えず自然なままに答える。
「そうですね。お仕事の後に来られるので、深夜になることが多いです」
深夜。その単語が、妙に引っかかる。
──仕事終わりの、深夜。
頭の中に、勝手にその光景が浮かぶ。人気のない通り。街の灯りはもう眠りについた時間。その中を一人で歩いてここへ来る先生。そして、この店の扉が開く。鈴の音。静かな店内。ナエだけがそこにいて。
──二人きり。
胸の奥が、僅かに熱を持つ。
「……遅い時間でも、開いてるのね」
声は問題ない。表情も大丈夫だろう。平静を装えている。
「はい。その時間の方が、ゆっくりできるので」
その言葉で、想像が更に勝手に形を変える。ゆっくり。深夜の店内。客は先生の他に誰もいない。灯りは少し落とされていて。カウンター越しに、ナエと先生だけが向かい合っている。
コーヒーを淹れる音だけが響いて。会話は多くなくて。でも、確かに“そこにある時間”。
──それは、静かな“密会”のように見えた。
気づけば、視線がわずかに揺れていた。彼女は何も知らないまま続ける。
「先生、その時間だと少しお疲れでいらっしゃることも多いですので」
──疲れている。
その状態でここに来る。誰にも見られない時間に。
「しかし、コーヒーを飲むと少し落ち着くようで」
その一言で、像がさらに鮮明になる。
深夜。静かな店。温かいコーヒー。ゆっくりと緩む表情。それを見ているのは、ナエだけ。
──それは、安心なのだろうか。
それとも。もっと別の何かなのだろうか。
「そうなの」
声は落ち着いている。崩れていない。彼女は豆を計りながら、軽く頷く。
「はい。少しだけ、表情が柔らかくなるんです」
その言葉が、妙に残る。柔らかくなる。その変化を知っているのはこの人だけ。そして、その時間は深夜にしか存在しない。
──自分の知らない夜。
胸の奥が、静かに熱を帯びる。今見ているこの店とは、まったく別の場所。そこに先生はいて。ナエはいて。そして、自分はいない。
「……いいわね」
口にした言葉は、整っていた。彼女はえぇ、と穏やかに答える。そこに悪意はない。ただの事実。
だからこそ、余計に逃げ場がない。
カップを口元へ運ぶ。味は先程と変わらない。変わらないはずなのに。どこか、静かに熱を失っている。
カップを置く。音は静かに消えた。立ち上がるべきか、一瞬だけ迷う。けれど、すぐに決めた。
──まだ、いい。
この時間は、まだ宵の入口にすぎない。先生が来るのはもっと後。
「……少し、ここで作業をしてもいいかしら」
自然な声を作る。彼女は少し驚いたように目を瞬かせたが、すぐに頷いた。
「えぇ、大丈夫ですよ」
「ありがとう」
短くお礼を言ってから奥のテーブル席へ移動する。視線の届きにくい位置。店全体を見渡せるわけでもない、半端な席。けれど、それでいい。見たいものは最初から決まっているわけではない。
バッグから端末と書類を取り出す。心がさざめき立っていても文字は読める。作業もできる。問題ない。
──ただ、待つだけだ。
時間は静かに流れていく。ナエがカウンターの奥で作業をしている音。小さな小さな水音。時折、カップが触れ合う音。そのすべてが、深夜へ向かう準備のように感じられる。
外の色が少しずつ濃くなる。窓明かりがポツリポツリと消え始める頃。店の扉が静かに開いた。控えめに鈴が鳴る。
──来た。
顔を上げかけてやめる。この席から入口は見えない。見えないように選んだのだから当たり前。だから、影しか分からない。
「いらっしゃいませ」
ナエの声。先程までとまるで変わらない柔らかさ。その声が、僅かに明るくなったのが分かる。
「こんばんは。今日も仕事三昧だったよ」
落ち着いた声。聞き馴染んだ声。私が待ち望んでいた声。丁寧で、少しだけ柔らかい。そう、先生の声。
「お疲れ様です。今日はいつもより早いですね」
「今日の当番の子が優秀だったから早く片せたんだ。有難い限りだよ」
軽い笑い混じりの返答。そのやり取りは慣れているものだった。距離は近いのに、崩れない。
──いつも通り、なのだろう。
私は、カップの縁に視線を落としたまま、その音だけを聞いている。先生の会話の中に私が出て、その上で褒められているのは嬉しい。しかし、柔らかい笑顔をナエに向けているのを見ると、どうしても複雑な心境になった。
「良い生徒に恵まれましたね。無理をなさらないようご自愛ください」
ナエの言葉。先生は少しだけ間を置いてから答える。
「そうだね……でも生徒のためなら頑張らないと」
自嘲気味な、けれど軽い声。
「そう言われると思いましたよ」
ナエが小さく笑う。その笑いに距離の近さが滲む。カウンターの向こうでコーヒーの準備が始まる音がする。豆が挽かれる規則的な音。湯が落ちる静かな音。その一つ一つが、先程とは違う重さを持っていた。
先生の声が続く。
「でも、そんな多忙の中でもここに来ると落ち着けるんだよね」
「そう言っていただけると光栄です」
ナエの返事は淡々としている。けれどどこか慣れを感じさせる態度。その“慣れ”が、やけに鮮明だった。
──いつも、こうなんだ。
ここで。
二人で。
「お待たせ致しました」
「ありがとう」
カップが置かれる音。先生がそれを受け取る気配。小さく息をつくような間。
「あぁ、沁みるなぁ……」
柔らかい声。少しだけ肩の力が抜けている。その声を聞きながら、私はようやく気づく。これは、特別な会話ではない。けれど、確かに“積み重なっている会話”だ。
──知っている。
先生は、私に対してもこういう話し方をする。丁寧で、柔らかくて、少しだけ距離があるようで、ちゃんと近い。先生と生徒の一線を守った、それでも親しさを感じさせてくれる距離。そのはずだ。
それでも。この深夜の独特な空気の中では違って見える。
「そういえば」
ナエの声。ほんの少しだけ間が空く。
「今日、奥にもう一人いらっしゃいますよ」
一瞬、空気が変わる。
「……え?」
先生の声。穏やかさは崩れない。けれど、僅かに視線が動く気配。ナエは淡々と続ける。
「先程褒めちぎられていた今日の当番の方かも知れませんね」
その言葉で、理解が追いつく。
──私のことだ。
先生がこちらを見る気配がする。影になっているこの席。意識しなければ気づかれない位置。
「もしかして、ヒナ?」
急に名前を呼ばれて飛び上がるように驚いてしまう。私は小さく息を整えてから席を立たずに答える。
「え、えぇ」
「居たなら声掛けてくれても良かったのに」
「ごめんなさい。私も作業をしていたものだから」
「それなら仕方ないか。それにしてもヒナのこと褒めてたの聞かれたのは少し恥ずかしいな」
先生は少しだけ肩の力を抜いたように笑った。先生はいつも面と向かって褒めてくれる。小っ恥ずかしいけれど嫌ではない。そんな幸せな時間。
けれど。その“いつも”が、今この場所で、別の誰かと共有されている。その事実だけが妙に胸に引っかかる。
私はゆっくりと立ち上がった。逃げる理由はない。隠れる理由も、もうない。カップを片手に持ったまま、カウンターへと歩み寄る。視線が交錯する。先生は、いつも通りの表情でこちらを見ていた。驚きも、困惑も、ほとんどない。ただ、少しだけ目を細めて微笑んでいる。
「こんばんは、さっきぶりだね。ヒナ」
「……えぇ、こんばんは。先生」
声は平静を保てている。少なくとも、自分ではそう思う。ごく自然な風を装って、先生の隣の席に腰を掛ける。
「早速来たんだね。いい店でしょ?」
先生が軽く問いかける。何気ない調子。深い意味はないはずの言葉。
「えぇ、とても」
言葉は淀みなく出る。事実だからだ。味も、雰囲気も、全てが整っている。だからこそ、余計に。
──気に入らない。
でも、その醜い感情を表に出すことはない。
「先生は、よく来られるんですよね」
問いかける。確認する必要なんて、本当はない。
「そうだね。仕事終わりに寄るのが習慣みたいになってるかな」
あっさりとした答え。その“習慣”という言葉が、静かに心の奥へと沈み込む。
「そう、なのね」
それ以上は続けない。続ければ、余計なものまで滲み出てしまいそうだった。
しばらく沈黙が流れていると、ナエが新しいカップを取り出す音がそれを破った。
「ヒナさんも、もう一杯いかがですか?」
ナエが穏やかに問いかけてくる。
「これは、少しだけ違う味になりますので」
“違う味”。その言葉に、ほんの僅かに引っかかるものを感じる。
「……どう違うの?」
自然な疑問という風に口にする。
「同じ豆でも、淹れ方を少し変えるだけで印象が変わるんです」
淡々とした説明。けれど、その目はこちらを捉えて離さない。
「先生にはこちらでお出ししています」
さらりと付け加えられた一言。
──先生には。
心の奥で、何かが小さく音を立てる。先生は特に気にした様子もなく、カップを口に運んでいる。その仕草は、先程と同じ。慣れている動き。このカップで、この味を、何度も。
ここで。
「……じゃあ、いただくわ」
気づけば、そう答えていた。彼女は小さく頷き、再び準備に入る。その動きは先程と似ているようで、どこか違う。わずかに、リズムが変わっている。注ぐ位置。間の取り方。ほんの些細な差。けれど、その“些細”が、確かにそこに存在している。
──使い分けている。
誰に対して、どう淹れるかを。その事実がはっきりと形を持つ。コーヒーが注がれる。白いカップに、静かに満ちていく液体。
「どうぞ」
差し出されたそれを受け取る。指先に伝わる温度が、先程よりわずかに高く感じた。
口に運ぶ。
──違う。
同じ豆のはずなのに。苦味の立ち方が違う。後味の残り方が違う。先程よりも、わずかに鋭い。
「……本当ね」
思わず、言葉が漏れる。
「面白いでしょう?」
彼女は静かに微笑む。その表情を見ながらゆっくりと理解する。この人は知っているのだ。
どうすれば、相手がどう感じるのかを。
どうすれば、先生が“落ち着く”のかを。
どうすれば、この空間が“心地よくなる”のかを。
──全部。
その上で、選んでいる。
先生に出す一杯を。
先生に向ける距離を。
先生と過ごす、この時間を。
胸の奥が、静かに熱を持つ。それは、最初に感じたものと同じはずなのに、少しだけ質が変わっていた。
ただの苛立ちではない。ただの違和感でもない。もっと、はっきりとした形。
名前をつけるには、あまりにも単純で。認めるには、あまりにも厄介なもの。
「ヒナ?」
先生の声で、意識が引き戻される。
「少しぼーっとしてるけど、大丈夫?」
覗き込むような視線。その距離の近さに、一瞬だけ呼吸が乱れる。
「……大丈夫よ」
短く答える。嘘ではない。ただ、少し心の整理が追いついていないだけ。
「それより先生」
言葉を選ぶ。慎重に。崩れないように。
「このお店、本当に落ち着くわね」
「でしょ?」
先生が嬉しそうに頷く。その反応が、今の私の胸にはひどく深く刺さった。
「でも」
ほんの少しだけ、間を置く。
「シャーレでも、同じくらい落ち着けるようにしないといけないわ」
空気が、わずかに揺れる。ナエの手が止まるわけではない。先生の表情も変わらない。けれど、確かに“何か”が触れた感触があった。
「……そうだね」
先生は苦笑気味に答える。
「仕事場だから、なかなか難しいけど」
「工夫次第ね」
即答する。
「コーヒーの淹れ方も、教えて貰えば再現できるわ」
言いながら、自分でも気づく。それは“提案”の形をしているけれど。実際には違う。
──取り戻そうとしている。
ここで積み重ねられているものを。先生と、この人の間にある“習慣”を。
ナエは、静かにこちらを見た。その視線は穏やかで、何も含んでいないように見える。
けれど。
「もちろん、お教えできますよ」
そう言って、ほんの少しだけ微笑む。
「ヒナさんが望むのであれば」
その言葉は、拒絶でも肯定でもない。ただの事実。先生はそのやり取りを特に気にした様子もなく、カップを傾けている。
「ヒナが淹れてくれるコーヒーか。楽しみだな」
無邪気な一言。その軽さに、胸の奥がまた小さく軋む。
──簡単に、そんなことを言わないでほしい。
けれど、その言葉を否定することもできない。
「……えぇ」
小さく頷く。
「期待には応えるわ」
その声は、静かに落ち着いていた。けれど。胸の奥で息づくそれは、もう曖昧なものではなかった。
この店に流れる時間。この人が作り上げた空気。先生が無意識に預けている“安らぎ”。
それら全てを前にして。私は、ようやくはっきりと理解してしまった。
──譲れない。
その感情が、静かに、確かに根を張っていくのを。
私はカップの中身を飲み干す。最後の一滴まで、丁寧に。逃げるようにではなく、確かめるように。舌に残る苦味。わずかに遅れてくる余韻。
──違う。
ここで淹れられた味。そして、シャーレで先生が淹れる味。同じはずなのに、同じではない。その差を、もう見て見ぬふりはできなかった。
「……ごちそうさまでした」
静かにカップを置く。ナエが頷く。
「ありがとうございました」
客と店員のありふれたやり取り。何も特別なことはない。先生がこちらを見る。
「もう帰るの?」
「えぇ。風紀委員会に休みはないから」
「そっか。気をつけて帰ってね」
いつも通りの言葉。その“いつも通り”が、今は少しだけ遠く感じる。
「先生も、あまり遅くならないようにしてね」
「はは、善処するよ」
軽い返事。その軽さを、今は責める気にはならなかった。
私は立ち上がり、バッグを肩にかける。扉へ向かって歩く。その途中で、一度だけ足を止めて振り返る。カウンターを挟んで向かい合う先生とナエ。特別なことは何もしていない。ただそこにいるだけ。それでも、その距離は確かに“積み重ねられたもの”だった。
──だからこそ。
「……ナエさん」
名前を呼ぶ。彼女は静かに顔を上げる。
「はい」
「コーヒー、美味しかったわ」
それは本心からの言葉だった。
「でも」
ほんの少しだけ、言葉を区切る。
「私は、あの人に“別の味”を覚えさせるつもりはないから」
穏やかだった店内の空気が僅かに静まる。強い言葉ではない。けれど、曖昧でもない。彼女は少しだけ目を細めた。
「そうですか」
それだけを返す。否定もしない。肯定もしない。ただ、受け取ったというだけの反応。
それでいい。それ以上のやり取りは必要ない。私は視線を先生へと移す。
「先生」
「うん?」
「次の当番の時、コーヒーを淹れてあげるわ」
静かに告げる。逃げ道は残さない。
「今日より美味しいものを」
先生は一瞬だけ驚いたように目を瞬かせて、それから変わらぬ柔らかい笑顔を浮かべた。
「楽しみにしてるよ」
その言葉を聞いて、ようやく胸の奥の何かが少しだけ収まった気がした。完璧ではない。けれど、形にはなった。それで、十分だった。
「それじゃあ、また」
扉に手をかける。控えめに鈴が鳴る。外の空気は、思っていたよりも冷たかった。深夜の街は静かで、人の気配も少ない。けれど、足取りは不思議と軽い。
胸の奥にあった靄は、完全に消えたわけではない。けれど、それはもう“正体の分からないもの”ではなかった。名前をつける必要もない。ただ、理解しただけで十分だ。
──譲れない。
その感情とどう向き合うかも、もう決めている。歩きながら、ふと指先を見下ろす。ほんの少しだけ残っている、コーヒーの香り。あの店のものとも。シャーレのものとも違う。まだ、どこにも属していない匂い。小さく息を吐く。吐いた息は、白い煙となってすぐに消えていった。まるで心の中の靄が出ていったかのように。
──次は。
自然と思考が前を向く。彼女と同じものをなぞるつもりはない。奪うつもりもない。ただ、自分のやり方で。あの人の隣に立つための“理由”を作る。それだけでいい。
遠くで時計の音が鳴る。日付が変わる合図。新しい一日が静かに始まる。
その中で。私はもう、迷っていなかった。
弊キヴォトスのヒナちゃんは先生大好きです。
書き出しが思い付いて書き進めたら、あれよあれよという間にちょっと重めの恋愛小説風味になってしまいました。