甘味。人が本能的に惹かれるそれを断つダイエットという行為は、この世の拷問の中でも上位に食い込むのではないだろうか。
――などと、ショーケースに並ぶ色とりどりのデザートを眺めながら、半ば本気で考える。
今日は休日。正義実現委員会のパーティー準備のため、朝からD.U.まで買い出しに来ていた。トリニティにも評判の店はいくらでもあるが、近場であるがゆえに部員の多くが既に味を知っている店ばかり。
それならば、と少し足を伸ばした。電車で数十分を“遠出”と呼ぶべきかはさておき、少なくとも気分は変わる。
気の向くままに店を覗きながら歩いているうちに、いつの間にか人通りの少ない一角へと入り込んでいた。ここまで来たのなら、と馴染みの店を思い出し、細い路地へと足を向ける。
雑然としたビルの隙間に、不釣り合いなほど落ち着いた佇まいの店が現れる。営業しているか一瞬不安がよぎるが、ドアには小さく“OPEN”の札。胸の内でひとつ息をつき、扉を押した。
「いらっしゃいませ」
控えめなベルの音と重なるように、穏やかな声が迎える。カウンターの向こうでカップを拭いていたナエさんが、こちらに気づいて柔らかく微笑んだ。
「今日はパーティーでして。軽食とお菓子を、いくつか持ち帰りでお願いできますか」
「承知しました。それではお掛けになって、少々お待ちください」
本当ならここでゆっくり過ごしたいところだが、今日は時間がない。注文を済ませると、勧められるまま席に腰を下ろした。
店内に満ちる香ばしいコーヒーの香りを楽しみながら、手持ち無沙汰に窓の外を眺める。外を見たところで路地裏に面している以上は特に何事もない。とはいえ、何もせずともあらゆる情報が流れ込んでくるこのご時世に、ただただのんびりと時間が過ぎるのを待つというのもまた贅沢なもの。
しばらくすると、ナエさんが何か言っているような声が意識の端で感じ取れた。何の話をしているのかと思ったが、よくよく考えれば今店内に居るのは私だけ。半分飛んでいた意識を手元に手繰り寄せてから声を聞けば、私を呼ぶ声だった。
慌てて座席から立ち上がると彼女の方へ行く。白い箱がいくつか収められた袋を彼女から受け取ると会計を済ませる。
「ありがとうございました。パーティー楽しんでくださいね」
今すぐにでも箱を開けて中身を見たくなる衝動を抑えながらドアを開けて店を出る。路地裏から大通りに出るあたりまで進むと、少しの逡巡の後に踵を返して店へ舞い戻った。
「すいません。何か一つ軽くつまめるお菓子を頂けませんか」
結局あの後は一口サイズのシュークリームをいくつか貰ってから帰路に就いた。帰るまでの間に全部食べ切ったのはいつもの事。
「──ミ先輩、ハスミ先輩。こっちの箱、開けてもいいですか?」
装飾が施されたテーブルの上に並べられた白い箱。その一つを指差しながらそばに居た後輩がこちらを見上げてくる。
「え、えぇ、お願いします」
許可を出すと、場の空気がぱっと明るくなった。私の返答を聞いた後輩は恐る恐るといった風に箱の留め具を外し、そっと蓋を持ち上げる。中からふわりと立ちのぼったのは、甘く熟れた果実とバターのやわらかな香りだった。
箱の中に整然と収まったフルーツケーキは、表面に艶やかなナパージュを纏い、色とりどりの果実が宝石のように照明の光を弾いている。赤や橙、深い紫が重なり合い、ただそこにあるだけで小さな華やかさを放っていた。
「わ、凄い!」
「フルーツいっぱい乗ってる!」
香りか、或いはわいわいと賑やかな雰囲気に釣られてか、周りにわらわらと集まってくる部員たち。待ちきれないと言った様子の部員が、他の箱もどんどんと開けていく。
サンドイッチ、タルト、クッキー。その他にも色々と出てくる様はまるで玉手箱。箱が開けられる度に部員たちは目を輝かせながら、早く食べたいといった様子ではしゃいでいた。
「これ絶対カロリーやばいやつじゃないですか?」
そんな喧騒の中ではっきりと聞こえた声に思わず苦笑が出る。
「そういうことは、今日は気にしないことにしましょう」
自分で言っておいて、随分と都合のいいルールだと思う。しかし、異を唱える部員はおらず、むしろ安心したように笑っている。
全ての準備が整うと、今か今かといった風にそわそわとしている部員たちに向かって始まりの号令を出した。
「さて、今日は無礼講です。楽しみましょうね」
「あの、ハスミ先輩。実は私たちもクッキーを作ってみたんです」
パーティーが始まってからしばらくした頃。後輩が、少しだけ緊張した様子でおずおずと皿に盛られたクッキーを差し出してきた。差し出されたクッキーは、縁が少しだけ色濃く焼けていて、不揃いな形のまま並んでいる。
「いただきますね」
一枚つまんで口に運ぶと、さくりと軽い音の後に、僅かな苦味が舌に触れた。そしてすぐに、素朴な甘さがそれを追いかけてきて、どこか照れくさそうな味に変わっていく。
「ちょっと焦げちゃったんですが……美味しいですか?」
言葉は返さずもう一口かじる。完璧じゃない分だけ、その温度や時間がそのまま残っているようで、不思議と嫌な感じはしなかった。
むしろ、手のひらの中でまだ少しだけ温もりを保っているそのクッキーは、言葉よりもまっすぐに気持ちを伝えてくるようだった。
「作り手の心が込められているのがよく分かる美味しいクッキーですね」
素直な感想を伝えると、問い掛けてきた後輩は嬉しそうに微笑んで、一緒に作ったであろう仲間たちと喜びを分かち合っていた。
微笑ましい光景を眺めていると、目の前にカップが差し出される。見ればツルギが横から紅茶を差し出していた。
「実は後輩が抽出に失敗したようでな。失敗を気に病んでいたようだから私が飲むことにしたんだが、ハスミも飲んでくれないか」
「そういうことなら勿論」
事情を聞けば飲まない選択肢はない。ツルギからカップを受け取る。
カップからは紅茶のやわらかな香りが立ちのぼる。その奥に、僅かに強すぎる渋みの気配が混じっているのが、鼻先から微かに感じられた。
一口含むと、舌に触れた瞬間に少しだけ苦味が広がる。しかし、すぐにその奥から穏やかな甘い余韻が追いついてきて、完全に崩れきらないバランスをどうにか保っていた。
もう一口ゆっくりと味わう。確かに完璧とは言えない。それでも、丁寧に淹れようとした時間や手つきが、そのままこの一杯に溶け込んでいる気がした。
カップを置くと、残った仄かな苦味さえも、不思議とやわらかく感じられた。
「その子に言っておいてください。良い紅茶でした、と」
「……あぁ、分かった」
それからも軽食をつまんでは紅茶を飲んで談笑を繰り広げる。デザートは勿論食べたいが、美味しく食べるには味の組み立てが必須。軽食を飛ばしてデザートに行くことは許されないのである。
そんなこんなで一般には腹八分目といったところ──私にとってはまだ五分目くらい──で、いよいよケーキに手を伸ばす。
どれにするか少し迷う。しかし、最初にあまり味の強いものを選ぶと後の味が呆けるので、一番無難なイチゴのショートケーキに狙いを定めた。
フォークを沈めるとやわらかな感触が伝わってきて否が応でも唾が湧き出てくる。逸る気持ちを抑えてまずは一口放り込んだ。
──その瞬間。
私は、動きを止めた。甘くない。
いや、違う。甘くないのではなく「甘いはずなのに、甘く感じない」と言ったほうが正確だった。
クリームのなめらかな口触りも、スポンジの軽い触感も、イチゴの瑞々しさも、しっかりと感じられる。それでいて、なぜか肝心の甘さだけがどこにもない。
まるで、そこだけが綺麗に抜き取られてしまったように。
「……あの」
気付けば声が出ていた。
「これ、甘くない、ですよね?」
一瞬だけ周囲の空気が止まる。それからすぐに笑いが広がった。
「え、普通に甘いです……よね?」
「うん、むしろ結構しっかりした甘さだと思いますよ」
「ハスミ先輩、ダイエットのしすぎじゃないですか?」
軽い冗談の調子。私も釣られて笑おうとする。
しかし。もう一度フォークを入れて、確かめるように口に運んでも──やっぱり、甘くない。他のデザートを食べてみても結果は同じ。
胸の奥がすっと冷えた。おかしいのはケーキではなくて。
──おかしいのは、私の方。
気がついたときには、私は店の前に立っていた。どうしてここに来たかは分からない。それでも、デザートを作った彼女なら、何か分かるのではないかという淡い期待があったのだと思う。救護騎士団に行くと、また騒ぎになりかねないという懸念も一握り程度あったのかもしれない。
扉を押すと、小さくベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
落ち着いた声がすぐに返ってくる。朝方と同じくカウンターの中から微笑みかけてくるナエさん。
「おや、ハスミさん。どうかなされましたか?」
少しばかり暗い私の表情を読み取ったのか、彼女は心配そうに声を掛けてくる。
「……あの」
カウンターに近付きながら言葉を探す。何から説明すればいいのか、自分でもよく分からない。
しかし、口をついて出てきたのは、あまりにも単純な一言だった。
「ケーキが、甘くないんです」
一瞬だけ間があった。普通なら、困った顔をされるか、曖昧に笑われるところだと思う。だが、彼女は少しも表情を変えなかった。
「甘くない、ですか」
「はい、というより甘さを感じられないんです」
ただ、静かに頷く。
「なるほど……では、詳しく教えていただけますか?」
彼女は手元の作業を止め、こちらに向き合ってこちらが話し始めるのを待っていた。一呼吸置くと、ぽつりぽつりと事情を話し始める。
「ここで買い物をしてトリニティに戻った後、準備を整えてパーティーを開始したんです。それからしばらくの間は紅茶を飲んだり軽食を食べたりと至って普通の状態でした。そして、デザートに手を伸ばした時に甘味が感じられなくなっているのに気付いたんです」
要点を搔い摘んで事情を彼女に伝える。彼女は頷きながらこちらの話を聞き、腕を組んでは何かを考えるかのように目を閉じて少し顔を上に向けている。
「……あの」
そんな彼女の様子を見ながら、喉の奥に僅かな引っかかりを感じながら口を開く。
「やっぱり、その……私の味覚がおかしくなっている可能性は」
言い終える前に、彼女は腕組みを解いて小さく首を横に振った。
「可能性としては否定しません」
穏やかな声だった。
「ですが今回の現象を説明するには、やや無理があると思います」
「無理、ですか」
「はい」
彼女は指先をカウンターに軽く置く。
「味覚の異常は、通常連続的に現れます。ある瞬間を境に、特定の味覚だけが完全に消失する、と状況になるにはかなり限定的な条件が必要です」
「加えて」
一呼吸置いてから、視線がまっすぐこちらに向く。
「直前まで軽食や紅茶の味は認識できていた、と仰っていましたね」
「……はい」
「つまり、“甘味だけが選択的に欠落している”。これは生理的な変化よりも、“外的要因”を疑うべき状況です」
外的要因。その言葉に僅かに息が詰まった。
「では次に」
彼女は淡々と続ける。
「提供された食品の問題を検討します」
彼女自身に非がある場合の話が始まったので、思わず少し目を逸らしてしまう。勿論彼女を疑っているわけではないのだが。
「提供者が私ですから、私自身の証言の信憑性は薄いです。しかし、仮に食品に問題がある場合、“甘さだけが消える”のではなく全体のバランスが崩れる方が自然でしょう」
「……確かに」
思い出す。あのケーキは、甘さ以外は全て“普通”だった。
「したがって」
彼女は静かに結論を置く。
「原因は、ケーキではない可能性が高い」
では、何か。その疑問を問い掛ける前に彼女の方から問いかけが来た。
「さて、質問ですが、持ち帰りを購入に来た際にお渡ししたシュークリームの甘味は感じられたのですよね」
「はい。凄く美味しかったです」
あまりにも美味しかったものだから、少し食い入るように返答を返してしまった。少し苦笑交じりにありがとうございます、と言った彼女は更に質問を続けた。
「では、その後ケーキを食べるまでの間に口にしたものを教えてください」
パーティーの様子を思い出しながら、指を一本ずつ立てていく。
「えぇと……ここで買った軽食と紅茶、それから後輩が作ってくれたクッキーです」
「なるほど。まずはクッキーですが、味はどうでしたか?」
「少し焦げていたので苦味はありましたが、それを除けば美味しいクッキーでした。甘味も感じられましたね」
もしこの味覚のおかしさが永続的な場合、最後の甘味はあのクッキーになるのか、などと考えながら味を思い浮かべた。
「クッキーの前に軽食は食べていましたか?」
「え? えぇ、クッキーをいただいたのはパーティーが始まってしばらくしてからだったので、軽食はいくつか口にしていましたね」
「それでは軽食とクッキーは原因ではないでしょう。軽食に原因があれば後から食べたクッキーの甘味は感じられないはずですし、クッキーに原因がある場合も同様です」
「確かに。では一体──」
そこまで言って言葉が詰まる。パーティー開始からケーキまでの間に口にしたものの残りは一つだけ。
「……紅茶、ですか」
「はい」
短い肯定に続けて、ですが、と一言置いて更に言葉を紡いだ。
「最も疑わしくないのもまた紅茶です」
「と、言うと?」
「紅茶が原因であれば、紅茶に何らかの物質を混入したと考えられるでしょう」
「えぇ」
「しかし、そこが問題です」
彼女は指を一本立てる。
「仮にティーポットの紅茶に混入した場合、同じポットから注がれた紅茶を飲んだあなた以外の部員にも同様の症状が出ないとおかしい」
もう一本。
「では、あなたのティーカップに予め仕掛けていたか、と言われればこれも違います。クッキーの前に紅茶も飲んでいるのですから、この場合はクッキーの甘味を感じることが不可能だからです」
更にもう一本。
「では、クッキーの後からケーキまでの間にティーカップに入れた。これも無いでしょう。カップがほとんどの時間片手に握られている、パーティーという特異な状況下で異物を混ぜるのは難しい」
三本立った指はパタンと折り畳まれる。
「このことから、最も疑わしいのは紅茶ですが、最も疑わしくないのも紅茶、と言うわけです。現状では原因は不明ですね」
彼女は降参と言わんばかりに両手を顔の横に挙げて首を振る。
「そうですか……やっぱり救護騎士団……に……」
天を仰ぎながら零れた言葉が止まる。確かに彼女の言い分は理に適っている。ティーポットへの混入ではない。ティーカップへの混入でもない。ならば原因は不明。それは自明なようだった。
しかし、一つだけ見落としていたことがある。クッキーからケーキまでの間。ティーポットから注がれているのを見ていない紅茶があった。
つまり、それは。
「──一杯だけ」
「はい?」
「クッキーからケーキまでの間に一杯だけ、既に注がれた状態のカップの紅茶を飲みました」
ぽつり、と声が漏れる。
「後輩が抽出を失敗した、とツルギが持ってきてくれました。気に病んでいるから飲んでやってくれ、と」
彼女は、何も言わずに続きを待つ。
「少し苦味を感じましたが飲めないものではありませんでした」
カウンターの上の自分の手が、じわりと冷えていくのが分かった。
「なるほど」
彼女は小さく頷いた。
「ツルギさんに謀られましたね」
彼女の言葉は、静かな店内に落ちるように響いた。
「な……ツルギにですか……?」
私は思わず身を乗り出す。
「えぇ。甘味を感じられなくなるお茶。恐らくギムネマ茶でしょうが、これをあなたに飲ませたんです」
「ギ、ギム……?」
聞き慣れない単語に、喉がひきつる。
「ギムネマ茶。ギムネマ酸という成分が含まれていて、これが味覚、とくに甘味の感覚を妨害するんです」
「し、しかし軽食の苦味や酸味は感じたんですよ? どうして甘味だけ──」
彼女は軽く頷き、カウンターに肘をついた。
「舌には味蕾があり、そこで味を感じている……というのはご存知ですよね」
「えぇ、それは」
「その中には、味ごとに“受け取る仕組み”があります。甘味・塩味・酸味・苦味・旨味、それぞれ別の反応経路を持っているんです」
彼女は少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「酸味と塩味はイオンの流れそのものに近いので少し特殊ですが、ここでは便宜上“受容体”として考えましょう」
「は、はぁ……」
「そして受容体は“鍵穴”のようなものだと思ってください。味の成分は“鍵”です」
その比喩に、少しだけ理解が追いつく。
「例えば旨味成分のグルタミン酸は、旨味受容体に対応する鍵です。それが合うと“旨味を感じる”」
「つまり……ギムネマ酸は、その鍵穴を塞ぐ……?」
「近いです。正確には甘味受容体に結合し、甘味の信号を遮断します」
彼女は静かに続けた。
「するとどうなるか。甘いものを食べても“甘さだけが抜け落ちる”。他の味は生きているのに、そこだけ空白になる」
私は思わず自分の舌を意識してしまう。あのケーキの、異様な“無音”のような味覚を。
「なるほど……ではその件の紅茶にそれを?」
「そう。その紅茶に、ギムネマ茶を混ぜていたんです」
彼女は先程とは違い自信満々と言った風にピンと指を立ててから続ける。
「さて、異物の混入自体は別で注げば簡単に行うことが可能ですが、ギムネマ茶の場合はそれだけでは不十分でした」
「それは何故です?」
「ギムネマ茶は苦いんです。紅茶と混ぜても完全には隠れない程に」
まるで自分が今飲んだかのように顔を顰めながら彼女は言う。
「普通の紅茶として出されたのなら、あなたも違和感を覚えたでしょう。にも拘らずあなたは疑いも持たずに飲んだ」
胸の奥が冷たくなる。
「まさか……」
「えぇ。後輩が“紅茶を失敗した”というのは嘘でしょう」
彼女は淡々と言った。
「失敗した紅茶は苦い。それなら“味がおかしい”と感じても不自然ではない」
「そしてあなたは後輩思いだ」
その一言で、逃げ道が塞がれた気がした。
「多少の違和感があっても、“失敗を気にしている後輩を責めないために黙る”」
「そこまで……計算して……?」
声が震える。
「ダイエットを失敗しがちだから、と言ってもこれはあんまりです……」
「確かに甘味を抑える目的もあったでしょうね」
彼女は少しだけ視線を落とした。
「ただ、それだけではありません」
「え?」
「ギムネマ酸は小腸の糖吸収にも影響します。つまり“食べすぎを防ぐ”だけではなく、“吸収そのものを抑える”」
「今回のパーティー、軽食もありましたよね」
私は無言で頷く。
「なら合理的です。摂取カロリーそのものを抑える意図があった可能性もある」
沈黙が落ちる。
「では……ツルギは、私のために……?」
私の声は、頼りなく空気に溶けた。彼女はすぐに肯定も否定もしなかった。ただ、少しだけ困ったように目を細める。
「その真意までは、私には分かりません」
その言葉は、いつもの落ち着きとは少し違っていた。
「推理はできます。でも、動機の全ては本人にしか分からないこともありますから」
そう言って、彼女はカウンターの奥――店の入口の方へ視線を向けた。
「……本人に聞くのが一番早いと思いますよ」
「え?」
私は思わず振り返った。そこにいた。いつからそこにいたのか分からない。入口のすぐそば、扉が閉まる気配すら感じなかったのに、ツルギが静かに立っていた。
「……ツルギ」
喉がひきつる。ツルギは少し気まずそうに視線を落とし、それから小さく息を吐いた。
「すまなかった」
その一言で空気が変わった。私は混乱したまま言葉を探す。
「ナエさんは……あなたが後輩の失敗と嘯いて仕組んだって──」
そこまで言いかけたとき、ツルギが首を横に振った。
「そこは違う」
短い否定だった。それだけで、私の中にある事の顛末の骨組みが一度崩れる。ツルギは続けた。
「後輩の紅茶の失敗は、本当にあった。あれは嘘じゃない」
「では……」
「その“失敗”がきっかけだ」
ツルギは一度言葉を区切り、私の方をまっすぐ見た。
「苦すぎる紅茶を飲んだときに考えた。“失敗したものを正解にする方法”はないか、と」
沈黙。ナエさんは何も言わず、ただカップを拭いている。まるで最初から結論だけを待っていたみたいに。ツルギは小さく息を吸った。
「甘いものを前にして暴走するのがハスミの悪い癖だ。だから一時的にでも“甘さを感じにくくすれば”、少なくともあの場では制御できると思った」
私は言葉を失った。それは優しさなのか、それとも干渉なのか、分からなかった。ツルギは視線を落とし、最後に小さく付け加える。
「勿論、勝手なことをしたのは分かっている。怒られるのも覚悟の上だ」
その声は、さっきまでの推理のどの言葉よりも人間的だった。沈黙の中で、ナエさんがぽつりと言った。
「……なるほど。それなら、私の推理は少し外れていましたね」
その言い方には悔しさは無く、ただ淡々とした事実の確認だった。私はまだ気持ちを整理できないまま、ツルギを見つめ続けていた。
「本当ならケーキを食べて味が無いことに気付いた後、すぐに教えるつもりだったんだ」
顔を伏せたままツルギは続ける。
「それがいきなり飛び出していくものだから、慌てて後を追ったんだ。まさかこうなるとは思わなくてな」
あのケーキの味を失った瞬間の不安は、今も舌の奥に残っている。私はゆっくりと息を吐いた。
「本当に心臓に悪かったんですから。次からは先に言ってくださいね」
ツルギは一瞬だけ固まり、それから深く頭を下げた。
「……分かった」
顔を上げたツルギはおずおずといった風に声を掛けてくる。
「今からトリニティに戻った頃にはギムネマ酸の効果も切れているだろうから落ち着いたら戻ろう」
甘味をまた感じられる。その安堵から深いため息を吐いた。それからふとした疑問をナエさんに投げかける。
「それにしてもよくギムネマ茶なんて物を知っていましたね」
「いえ、今そちらのナギサさんとセイアさんに紅茶を習っていまして、その延長線上で色々な茶についての見識を深めていたんです」
そして彼女は静かに言う。
「無事解決、ですね」
その言葉は、事件の終わりというより、日常に戻る合図のようだった。私はようやく、あの“味のない世界”から抜け出した気がした。
そしてふと気づく。この喫茶店の空気は、やっぱりちゃんと甘い匂いがしている。失っていたものが、静かに元の場所へ戻ってくる感覚があった。
「こ、これは……?」
「ハスミ先輩ごめんなさい! あんまり美味しかったものでつい全部……」
「でも本当に美味しかったなぁ」
「こら! 本当にごめんなさい!」
「ナ……ナエさーーーーーーーーーーん!!!!!」
この日、喫茶クレイに一日三回も来店した珍客が居たとか居なかったとか。
本編の起承転結の起が思いつかないので息抜きの幕間です。
ミステリーは書いたことが無いので拙いのは御目溢し下さい。