「お疲れ様です先生」
「ありがとね。ユウカのおかげで大分楽に片付いたよ」
今日はシャーレの当番の日。先生と一緒に仕事を片付けた時には外はもう真っ暗になっていた。本当ならもう少し早く終わらせる計算だったけど、シャーレに向かう前にコユキが反省部屋から脱走して捜索に時間を割かれた結果こんな時間になってしまった。
コユキは結局見つからず取り逃がす格好になってしまったけど、捜索の時間を含めて先生と一緒に居られたので悪くはなかったかもしれない。それはそれとしてコユキには反省してもらいたいのだけれど。
「そういえば、コユキを探してる時にナエのところにも行ったんだけど、当番が終わったら店に来てほしいって言ってたよ」
「ナエが?」
ナエはできる同期だ。コユキと仲が良く、よくセミナーに手作りのお菓子を差し入れに持ってきてくれたり、コーヒーを淹れてくれたりする。以前、バリスタということでリオ会長がバリスタ君2号を披露していたが、性能はともかくその造形にドン引きしていた。その時の今まで見たことのない、信じられないものを見たような顔は未だに忘れられない。
それはさておき、そんな彼女のもとにコユキが逃げ込んでいる可能性も考えられたから、先生に見に行ってもらっていた。戻ってきた先生はどこか歯切れ悪く居なかったと言ったので少し疑問に思っていたけど、まさかナエから私宛の言伝を受け取っていたとは思いもしなかった。
先生に挨拶をしてシャーレを出ると、うすら寒い風が吹くD.U.の街を歩く。しばらく行けばほのかに温かみを感じる淡い光が漏れる裏路地が見えてくる。当番の時間が押したので待たせているかもと思い、まるで誘蛾灯に誘われる蛾の如く少し早歩きで光の下へ急ぐ。
「いらっしゃいませ。おや、ユウカさん、お待ちしておりました」
「こんばんは、ナエ。呼び出した理由は何かしら」
「早速本題に移っても良いのですが、立ち話もなんですしどうぞお掛けください」
扉を開ければ寒さを忘れさせる暖かな空気とコーヒーの香りが私を包む。カウンターの向こうに佇むナエに声をかければにこりと微笑み、彼女の前のカウンター席を案内される。
断る理由もないので言われるがままに席に着く。改めて話を聞こうと口を開こうとすれば、寒かったでしょうからまずは温まってください、と目の前に白湯が差し出された。カップを両手で挟むように持てば、外気で冷えた手にじんわりと温もりが伝わってくる。
少し息を吹きかけて白湯を軽く冷ますと、胃を驚かせないよう少しだけ口に含む。ゆっくりと喉を通すと、身体の内側からぽかぽかと温まってくる。
ほう、と息を吐きまた少し口に含む。それを何回か繰り返すといつの間にかカップは空になっていた。空になったカップを何気なく眺めていると、白湯で身体が温められ落ち着いたからか、ぐぅとお腹が鳴る。
「い、今の聞こえた!?」
「にはは! ユウカ先輩のお腹の音聞いちゃった!」
「いえ、可愛らしいお腹の音なんて聞こえていませんのでご安心ください」
「ちゃんと聞こえてるじゃない! 恥ずかしいところ見られちゃったわ……」
「では、こちらなんていかがでしょう。サービスですので遠慮なさらず」
差し出されたのは小さなケーキ。どうやらメロンケーキのようで、上には四つ葉のクローバーの形に切られたメロンが乗っている。美味しそう、そう思うと同時にどこか違和感を覚えた。
普段ナエがセミナーに差し入れてくれるスイーツはどれもプロレベルの出来栄えだ。店をやっているから当然と言えば当然なのだけれど、それを無料で食べていいのかといつも少しの申し訳なさを感じるほどだった。
でも、今目の前に差し出されたこのケーキはどこか歪な感じがした。確かに素人目に見ればよくできたケーキだけれど、普段のナエのスイーツを見ている私には本当に彼女が作ったものなのか疑問に思う点が散見された。
疑問は頭に浮かぶものの、サービスで貰っているのに意見を言えるわけもなく、もしかしたら失敗したからサービスで出してくれたのかな、などと都合の良いように考える。お菓子作りやコーヒーを淹れることに誇りを持っているナエが、いくら顔見知りとはいえ失敗作を出すことはしないだろうという考えには目を瞑った。
そんなことを考えていると、いつまで経ってもケーキに手を付けないことが気になったのか、ナエが心配そうにお気に召しませんでしたか?と声をかけてくる。慌てて考え事をしていただけと弁明し、ありがたくいただくわね、と一声かけてからフォークを手に取りケーキを口に運ぶ。
口に入れると、スポンジの間に挟み込まれた薄切りのメロンの果肉から甘い果汁が飛び出してくる。そのメロンの甘さを引き出すためだろう、甘さが控えめな生クリームとの味の調和は言葉で表せないほどの美味しさを味わわせてくれる。私が予算を計算するように、ナエもこの味わいを計算して調理をしているのだろう。でも、数字といった決められた型のない計算が苦手な私には、ナエのその能力が少し羨ましく思えた。
ケーキをゆっくりと味わっていると、すっとコーヒーの入ったカップがそばに置かれる。ちらりとナエの方を見ると、微笑みながらこれもサービスですと言ってから言葉を続ける。
「こちらはモカになります」
「モカ? カフェモカかしら?」
「いえ、カフェモカはエスプレッソにチョコレートソースとミルクを混ぜたものになりますが、モカはモカという品種のコーヒー豆から作った普通のコーヒーです。これは浅煎りにしたものなのですっきりとした飲み口で、ケーキによく合いますよ」
「へぇ~、そうなんだ」
「へぇ、そんな名前の豆があったのね。勉強になるわ」
ケーキをもう一口食べるとカップを手に取り口元に運ぶ。ふわりとカップから立ち上る華やかな香りが鼻孔を抜ける。少しばかり口に含めばフルーティな酸味が舌を刺激し、遅れて少しの甘味がやってくる。なるほど確かに甘いケーキの後には爽やかな酸味がいい口直しになる。
モカを飲んで感覚を取り戻した舌でまたケーキを味わえば、最初に食べた時のような新鮮な甘味を感じられる。その後はケーキ、モカ、ケーキ、モカと繰り返し食べては飲んでを繰り返す。まるで大好物を目の前にした子供のように夢中になって食べていると、いつの間にか皿もカップも空になっていた。
「ごちそうさま。ケーキもモカも美味しかったわ」
「そう言っていただけると光栄です。特にこのケーキは初めて作ったものなので」
「あらそうなの。確かにナエが作ったものにしては見た目に少し歪な感じがしたけれど味は凄く美味しかったわよ」
「やった!」
「ふふっ、それは良かったです」
ナエに感謝と感想を伝えると一息吐く。しばらく何も考えずにぼぅっとしていると、ナエのペースに乗せられて肝心の呼び出された理由を聞いていないことに気が付いた。
「ところで私を呼んだ理由は何だったの?」
「そうですね、強いて言えば先ほど出したメロンケーキ、でしょうか」
「ケーキ?」
「えぇ、ユウカさんは先ほど『ナエが作ったものにしては見た目に少し歪な感じがした』と仰られましたが、これは正解です。実はこのケーキを作ったのは私じゃないんです。少し手伝いはしましたけどね」
理由を尋ねればケーキと言われて面食らい、オウム返しのように尋ね返すしかできなかった。そして私が感じた違和感はその通りだったと告げられあの感覚は間違いじゃなかったのねと思う。それと同時に、じゃあ誰が作ったもので、何故それを私に出したのかという疑問が頭を支配する。
「えっと、ナエが作ったものじゃないっていうのは取り敢えず分かったんだけど、じゃあ誰が作ったものなの? そしてそれをなんで私に?」
「先ほどのケーキを思い出してみてください。ユウカさんの近しい人と繋がる特徴があったはずですよ」
そう言われてケーキを思い出す。メロンが使われた甘いケーキ。その上には四つ葉のクローバーの形のメロンが──。
四つ葉のクローバーで私に近しい人と言えば一人しかいない。昼間反省部屋から脱走して私が散々走りまわされる原因を作った張本人、コユキただ一人。まさか、と思いながらも口を開く。
「じゃあまさかこれはコユキが……?」
「正解です。今日昼間ミレニアムで急にコユキちゃんが押しかけてきて、ユウカさんに何かスイーツを作ってあげたいから教えてくださいって頼みこんできたんです」
「コユキが? またなんでそんなことを?」
「なんでも素直に言いづらいけどいつも感謝しててその気持ちを伝えたいから、だそうです」
「それは言わないでくださいよぅ……」
「コユキ……」
「それと反省部屋で謹慎中にハッキングでセミナーの予算を抜き出してオンラインカジノで大損した分の説教を誤魔化せないかなとも言っていましたね」
「ちょっ!」
「……は?」
「ナ、ナエちゃんストップストップ! それは言っちゃダメですって!」
ガタガタっと音が鳴ったと思えばカウンターの下から見覚えのあるピンクのツインテールが飛び出してくる。あれだけ探しても居なかったコユキが目の前に居る。あの歯切れの悪い先生の応対と、ナエの急な呼び出しはこういうことだったのね、と点と点が繋がって全てに合点がいった。
飛び出してきたコユキはナエの口を手で塞ぎながら、こちらをちらりと見てくる。その顔はあまりにも見慣れた、やらかしたことがバレて説教される直前の、苦笑いとも青ざめた顔ともとれる表情だった。
「に、には……。今ナエちゃんが言ったのはその……」
「はぁ、言いたいことはたくさんあるけど、こうして手作りのお菓子を作ってくれたのは素直に嬉しかったわ。ありがとうねコユキ」
実際ハッキングの件はさておくと、コユキが私のためにケーキを作ってくれたことは凄く嬉しかった。だから素直に感謝の言葉を伝えると、コユキはさっきまでの青ざめた顔はどこへやら、満面の笑みを浮かべていた。
「にはは! どういたしまして! それじゃあ予算をくすねた件もこれでチャラに──」
「それとこれとは話が別よ!」
「うあぁああああーーなんでーー!」
みっちりコユキに説教をする私の傍らには、さっきと同じメロンケーキが乗った皿が二つナエによって差し出されていた。説教が終わったら二人でケーキを食べながらコユキを褒めようと、そう思った。
誘蛾灯に誘われるユウカ
──喫茶クレイ──
D.U.郊外のとある裏路地に位置するこじんまりとした喫茶店。十楠ナエが一人で切り盛りしている。一度エンジニア部謹製の店員ロボが自爆して店舗が更地になったので、今の店舗はその後建て直された二代目。
営業は基本的に早朝深夜が中心のため客の入りはあまりよくないが、最近は先生の口コミで当番終わりの生徒がたまに寄るようになったとか。
名前の由来はミレニアム懸賞問題に懸賞を掛けているクレイ数学研究所。