「では、そのような方向で事業を進めさせていただきます。本日はありがとうございました」
D.U.郊外の企業で、今日最後の商談を終えて会社の外に出る。辺りはすっかり暗くなっていた。疲れを吐き出すように一度伸びをすると、夜風に当たりながら薄暗い夜道を歩く。しばらくして夜道でも一際目立つ煌々と輝く自販機の前に来ると、コーヒーを買おうと手を伸ばすがボタンに触れる前に手が止まる。
そういえばここは後輩のナエがやっている喫茶店の近く。どうせ一服するのなら店に行くのも良いかもと思い来た道を戻る。先ほどの会社の前を通り過ぎ、いくつか交差点を越えたところで路地裏に入る。今日はやっていないかも、という心配もあったけど、路地裏に入った瞬間に見えた営業していることを雄弁に語る淡い光に安堵する。扉を開けるといつも通りの後輩の姿が目に入る。
「いらっしゃいませ。おや、チヒロさん。遅くまでお疲れ様です」
「ありがと、ナエ。いつも通りコーヒーお願いね」
「かしこまりました」
席に着く前から注文を済ませると、カウンター席に腰掛ける。持ってきているノートパソコンを開くと、先ほどの商談の内容を記録する。本来こんな場所で行うのはセキュリティ上問題があるけど、ナエの店には私の作ったセキュリティシステムが導入されているので盗聴・盗撮の恐れがなく安心して行える。それでも用心するに越したことはないから、機密に当たるような重要事項はヴェリタスの部室に戻ってからになる。
しばらくパソコンを叩いていると、少し離れた場所に小さなコーヒーカップがそっと置かれる。零してパソコンにかからないように、という意味もあるが、集中しているところを邪魔しないようにというさりげないナエなりの気遣いだ。
こういう細かな気配りができるから隠れた名店になっているのだろう。ミレニアム生はハレやコタマを含めほとんどが一度は行ったことがあると口を揃えるし、聞いた話では最近はトリニティやゲヘナ、果てはヴァルキューレの生徒も来るらしい。
それはさておき、きりのいいところまで入力を終えるとカップを手に取る。立ち上る湯気に交じる心地よいコーヒーの香り。混ざるピラジンの効能か香りだけで心が落ち着いてくる。温もりを感じるようにカップを両手でしばらく持つと、いただきます、とナエに言ってから少し冷まして口を付ける。たっぷりのホットミルクを使ったカフェラテは、柔らかい口当たりながら深い苦味が広がる。
私はブラックコーヒー派で自販機で買うときはいつもブラックを飲む。ナエはそれを知った上でリラックス効果が期待でき、かつコーヒーの苦みが味わえるカフェラテを淹れてくれる。
ナエはハレと同学年で交流があるので、たまにヴェリタスの部室に差し入れに来てくれる。どうやらアテナ3号が好きだとか。ウタハの雷ちゃんも好きだと言っていたから機械が好きなのかもしれない。それが高じたのか店員ロボの製作をウタハに依頼し、結果的に店を更地にしていたのだけれど。
閑話休題。そんな時もいつもカフェラテを持ってきてくれる。エナドリ漬けのハレはカフェインが足りないと嘆いているけど、リラックスしたい私にはカフェイン抑え目のカフェラテがちょうどいい。
なんだかんだと言いつつも、ハレも飲んだ後はあっという間に眠りについているから徹夜防止にもなっている。これもナエなりの友達への気遣いなのだろう。なお、ハレが眠った後にアテナ3号と遊んでいることには目を瞑ることにする。
そんなこんなと考えていればカップの中身は半分ほどにまで目減りしていた。温かいカフェラテでお腹が落ち着いたからか、ぐぅ、と腹の虫が鳴る。
「おや、もしかして夕食はまだですか? なにか軽くつまめるものでも用意致しましょうか?」
「今日はたくさん商談が入ってて中々時間がなくてね。お言葉に甘えてお願いしてもいい?」
「かしこまりました」
そういうとナエはカウンター裏のスペースに姿を消す。基本的な食材類は全てカウンターの冷蔵庫などに保管されているのに何故だろう、と少し疑問に思っているとすぐに戻ってきた。その手にはいくつかのクロワッサンが乗ったお皿。
そのまま出してくるのかと思えば、ナエはオーブントースターにクロワッサンを入れる。早く食べたい気持ちを抑えながらしばらく待つとチンと音が響き、ナエがオーブンの蓋を開ければ香ばしい香りが漂ってくる。
「お待たせしました、クロワッサンになります」
「ありがとう、提供が早くて助かるわ」
「実は自分の夜食用に置いていたもので、お待たせせずにパッと出せるのがこれだったんです。別に何か作っても良かったのですが、夕食を抜いているチヒロさんをあまり待たせるのもよろしくないかと思いまして」
「なんだか悪いことしたね。よかったら一緒に食べない?」
「よろしいのですか? ではお言葉に甘えて。いただきます」
ナエがクロワッサンを食べ始めるのを見届けると、自分もクロワッサンを口に運ぶ。サクサクしたものを想像していたけど、そこまでしっかりとしたサクサク感はなくむしろしっとりとした口触り。表面がポロポロと零れることもなく、パソコンへの飛び散りを考えなくても良いのはありがたい。しかし、しっとりとした口触りの中でも感じられる香ばしさと表面の歯ざわりの良さが味わい深い。
一方のナエはと言うと、食べ方が下手なのかポロポロと表面を零していて緑のエプロンにはところどころ茶色のアクセントが付いていた。私の視線に気が付いたナエは恥ずかしそうに、食べるの下手なんですよね、と微笑んだ。
どうやらしっとりとした口触りのものなのは、そこを気にしてのことらしい。しかし、そこまで考えた上でこれなのだから、サクサクしたものを食べた時は一体どうなってしまうのか、緑のエプロンがほぼ茶色になるところを想像するとクスリと少し笑えてしまった。しっかりとしていて抜け目のなさそうなナエにも、こんな可愛らしい一面があったことを知れたのは少し嬉しい。目の前に居るのは等身大の少女なのだな、と改めて実感できた。
そんなことを思っていることを知らないナエは笑われたのが不服だったのか、少しむくれながら失礼なことを考える先輩にあげるクロワッサンはないです、と言いお皿を取り上げた。こういうところも可愛いなと思いながらも、手を合わせてごめんごめんと謝る。それでもまだ不満そうな顔をしていたけど、はぁと溜息を吐くとお皿をカウンターに戻した。
「チヒロさんだから許します。食べるのが下手なのはもうどうしようもないので……」
「本当にごめんね。笑うつもりはなかったんだけど」
「えぇ、ちゃんと分かっていますから大丈夫です。ちょっと困らせてみたかっただけですので、あまり気にしないでください」
ナエは先ほどまでの怒ったような表情はどこへやら、一転していたずらっぽい微笑みを浮かべる。策士だな、と思いつつ手元に戻ってきたクロワッサンをまた食べ始める。素朴な味わいなクロワッサンを食べる手は止まらず、気が付けばいつの間にか全て食べ終わっていた。
「そういえばセキュリティシステムはちゃんと動作してる?」
「えぇ、一週間ほど前はコタマさんがまた盗聴器を仕掛けていたのをシステムが看破してくれたので、密着しながら大声を出しておきました」
「前にコタマが急に耳を抑えて倒れたのってそれだったんだ……」
カフェラテを飲んで一息吐くと、ナエに導入したセキュリティシステムの状態を尋ねる。正常に動作しているかどうかを聞くつもりだったのに、コタマのやらかしを聞く羽目になった。あとで説教だな、と思いつつ使い勝手はどうか、とかそれ以外に変わったことはなかったか、などと色々質問をしていく。ナエからの返答は総じて十分に満足している、という回答だった。
「うちはしがない喫茶店ですからね。オンライン上に保存するような重要な情報もないですから、脅威らしい脅威と言えばコタマさんの盗聴ぐらいなものですし」
「それが大問題なんだけどね。よりにもよって私の同期が一番の脅威だって言われるのは、どんな顔すれば良いか分からないし」
「まぁ……笑えばいいんじゃないですかね。最近はシャーレの盗聴にご執心なようで、うちへ仕掛けてくることも少なくなったので私的には特に気にしていませんし。先生はご愁傷様といったところですが」
「色々と頭が痛いね……」
先生を盗聴する同期に、ハッキング──正確にはクラッキング──してユウカの体重を100kgにする後輩たち。後始末をするこっちの身にもなってほしいと少し、いやかなり思う。どうするべきか、などとあれこれ考えているとポケットに入れているスマホが震える。何かと思って確認するとモモトークの通知、それも先生からだった。
何事かと思って確認すれば、今まさに話していたこと──コタマがシャーレに盗聴器を仕掛けていた──が綴られている。取り敢えず、分かった、と返信をしてから一旦シャーレに向かうことにする。コタマもコタマだけど、何度も盗聴や別の生徒からは盗撮を受けたというシャーレのセキュリティも問題が山積みで、そのあたりの点検もしないといけない。
ナエに今からシャーレに行くことになったと告げ、クロワッサンのお礼を言って会計を済ませる。荷物をまとめて店を出ようとすると、ナエに呼び止められた。振り返るとその手にはカフェラテの入った紙コップが2つ握られていた。
「どうぞ、先生も恐らく働きづめでしょうから渡してあげてください。チヒロさんも一緒に一服してもらえれば」
「ありがとう。いくらになる?」
「いえ、こちらはサービスです。セキュリティシステムのメンテナンス代ということで」
「そういうことならありがたくいただくね。先生にも渡しておく」
「はい、先生によろしくお伝えください」
ナエからカフェラテを受け取ると店を出る。冷めないうちに早く行こう、とコタマへの説教の言葉を考えながらシャーレへ急いだ。