家庭教師先の天才少女は俺にだけ心を開いているらしい 作:古野ジョン
今日は三回目の授業だ。夏凛は相変わらずのジャージ姿。和文英訳の指導ということで、参考書に載っているお題を読み上げる。
「『嘘も方便』という言葉がある。嘘は一般的に悪いこととされるが、時には有用であるという意味だ。要するに、何事にも例外がつきものなのである」
「長っ! しかもめんどっ!」
「青葉大学の和文英訳はこんなもんだ。まずはやってみろ」
「はーい……」
渋々といった感じの表情を見せる夏凛。だがその態度とは裏腹に、ペンはすらすらと動いている。夏凛が言うには「文系科目は好きじゃない」とのことだが、とてもそうは見えない。ぶつぶつと呟きながら、さらに文章を書き足していく。
「『方便』はuseful……? いやでも後で『有用』を訳すのに困るかな……」
着眼点も見事だ。この問題の要点の一つは「方便」の訳し方。出題者側もそこの捌き方に点数を高く割り当てているはずだ。ましてや医学部を受けるとなれば高得点勝負になるし、こういう問題で失点すれば一気に不利になる。夏凛にはしっかりとした地力を身に付けてもらわなければならない。
英訳で大事なことは英語の力ではない。むしろ日本語の運用能力がものを言う。いかに問題文を訳しやすい文章に変換し、それを英語に直すか。夏凛の読解能力が試されるというわけだ。
「出来ました! 自信作です!」
「よし、見せてみろ」
「はい!」
夏凛からノートを受け取った。まず「嘘も方便」だが、これは"Lies can be useful."と訳したようだな。直訳すれば「嘘も時には役に立つ」となるし、別に悪くはないな。後ろの文の「有用」は"……bring us benefits"と書いたのか。繰り返しを避けていてなかなか上手い。あいにく英語の細かい文法知識は分からないから、正確にニュアンスが伝わるのかは判断できないが、少なくとも大枠は外していないようだ。
「おおむね悪くないな。十点満点だったら七、八点は来るだろう」
「本当ですか!? さっすが夏凛ですね!」
「おいおい、それくらいで満足してもらっちゃ困るぞ」
「えっ?」
「その一、二点の失点で涙をのんだ奴をたくさん知っているんだ。一円に笑うものは……なんて言葉があるが、点数でも同じことだぞ」
「もうっ、夏凛は合格ラインをぶっちぎって圧倒的スコアで受かってみせますよ!」
「頼もしい奴だな。ま、その気概があるなら大丈夫だ」
この間は鍋を焦がしてしょんぼりしていたが、陽気なテンションを取り戻したみたいだ。もちろん、これが夏凛の素ではないことは分かっている。だが「元気に振る舞える」ということは振る舞うだけの元気があるということ。落ち込んでいるよりはよっぽど良い状況と言えるだろう。……なんだか、やけに横からの視線を感じる。
「じーっ……」
「ど、どうした夏凛?」
「ふゆせんせー、聞いていい?」
「何をだよ」
「夏凛に嘘ついたでしょ」
「えっ!?」
う、嘘!? 何のことだ!? 学歴詐称だの産地偽造だのはした覚えがないぞ!?
「ほらー! 絶対嘘ついてるでしょー!」
「ちょっ、誰だっていきなり疑われたらビックリするって!」
「もー、言い訳すると余計に怪しいですよ? ほら、早く埋めた場所を教えてください!」
「犯人じゃねえよ! 全身黒タイツじゃねえわ!」
「なんですかそれ?」
「もっとアニメ観ろ!」
ぎゃあぎゃあと騒いではいるが、未だになんのことか見当がつかない。夏凛とは会って三回目だし、今まで嘘をつくような場面すらなかった。むしろ本来の自分を露出していたまである。それなのに、いったいどういうことだ?
「と、とにかく嘘ってなんのことなんだよ! 知らねえって!」
「ふっふーん、しらばっくれても無駄ですよー? ちゃんと証言を聞いたんですからねー?」
「しょ、証言?」
「はい、電話でしっかりと!」
電話? 夏凛に電話するような友人がいるとは聞いたことがないが。知り合い自体多くないといった趣旨の話をしていたし、ますます心当たりがない。いったい誰が夏凛にそんなことを――
「メイさんが教えてくれました!」
「アイツかあああああ!?」
メイの野郎!! そういえば知り合いだとか言ってやがったな! ちゃんと紹介料としてアイス奢ってやったのに! アイス返せ! 胃袋から返せ! もうアイツの脂肪になっているだろうけど返せ! ……って、あれ? 肝心の「嘘」の内容が未だ不明じゃないか。
「で、結局メイは何を言ったんだ?」
「えっ! っと、そのお……」
「?」
「言ったっていうか、厳密には言ってないというかあ……」
「なんだよそれ」
問い詰めた途端、今度は夏凛がもじもじとし始めた。机の上でボールペンをくるくると回し、どうにも視線が定まらない。うーん、改めて熟慮してみても、やはり出鱈目なことを口にした記憶はないな。むしろ夏凛が変なことを考えている可能性の方が高い気がする。しかし、それがいったい何なのか。天才夏凛様の脳内は分からんね。
「だからあ、先生が……」
「俺が何を言ったって?」
「えーと、あのですね……」
「言わないなら授業に戻るぞ」
「もおっ、せっかちさんはモテないんですよーっ!」
「俺がせっかちなんじゃなくて夏凛が引きのばしてんだよ」
「むー……」
「だから、何が嘘なんだよ」
「……」
夏凛はすっかり黙り込んでしまった。頭の回転が早いあまりに何かを早とちりしたのか、それとも言い出したはいいが途中で間違いに気づいたのか。まあ、あんまりこの状態のまま放置するのも可哀想だからな。そろそろ助け舟の出航といくか。
「夏凛、別に怒りはしないから言ってみろ。何か勘違いしたのか?」
「そ、そうじゃなくて」
「引っ込みがつかなくなったなら何も言わないでいい。誰にでも間違いはある」
「いえ、本当に違うんです。……ちょっと言うのが恥ずかしいというか」
「恥ずかしい?」
「そ、そこを繰り返さないでくださいっ!」
「恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい」
「嫌がらせですかっ!?」
顔を真っ赤にしてアワアワと手を振る夏凛。コイツにしては珍しい、年相応の可愛らしい反応だ。よっぽど恥ずかしいことなのか……? いやでも変な嘘をついた記憶もないし。マジで謎。助けてコ〇ン君!
「いいよいいよ。無理に言わないでいいから」
「でも――夏凛がスッキリしないんです!」
「じゃあ言え」
「変わり身が早いっ!?」
「ほら、吐けば楽になるぞ? 吐け吐け」
「刑事ドラマの真似ですかっ!?」
「いや、酔っ払った奴を介抱してる奴の真似」
「大学生! そういや大学生だった!」
「なんだと思ってたんだよ!?」
「暗い人」
「当たってるけど!」
くだらない話をしてばかりでいつまでも話が進まない! というか授業が進まない! 早く言え夏凛! 高い給料貰っているから申し訳ないんだよ! お母様になんて言ったらいいの!
「いーから、もう授業するぞ!」
「駄目です! 白状してください!」
「お前が何も言わないからこうなってんだよ!」
「あーっ、また『お前』って言った!」
「揚げ足取るな! 早くしろ!」
「あ~~~もうっ! だから!」
夏凛はとうとう覚悟を決めたようで、大きく息を吸った。何が出てくる? いったい何が――
「ふゆ先生、友達いないって言ってたじゃないですかっ!!」
「……へっ?」
そ、それが何だって? 友達がいないのは本当だぞ?
「だから! 友達いないって言ってたくせに!」
「な、何が言いたいんだよ」
「メイさんと友達なんじゃないですかあああ!」
「ええええーーっ!?」
メイという友人がありながら「友達がいない」と言っていたことにご立腹なのか!? 何に怒る要素がある!?
「な、なあ。それの何が問題なんだ?」
「大問題です! ふゆ先生が嘘をついていたんですから!」
「『友達がいない』は『few friends』であって『no friends』じゃねえから!」
「うるさいっ! いないって言ったんだからゼロ人だと思ってたんです!」
「日本語の解釈次第じゃねえか!」
「反論しないでくださいっ! 先生のバカ!」
「なんで!?」
夏凛はわーわーと文句ばかり叫び、俺の身体をポカポカと叩いてくる。別に痛くはないし、年下の駄々だと思えば可愛いものだが、それはそれとして。このままでは授業が進まないのでいい加減に落ち着いてもらわないと。
冷静に考えて、嘘をついたこと自体に文句を言っているわけではないだろう。というかそもそも嘘をついたつもりはない。メイ以外には友人と呼べる存在はないし、そんな交友関係だったら「友達がいない」と言うのが妥当である。夏凛だって本当はそう理解しているはずだ。とりあえずこのパンチングマシーンを止めなければ。
「夏凛、そろそろ身体に穴が開きそうだからやめてくれ」
「人のことを雨だれ扱いしないでくださいっ!」
「俺は石かよ! じゃなくて、落ち着いてくれ」
「……はい」
夏凛はようやくポカポカをやめ、電池の切れたロボットみたいにしゅんとしてしまった。本当に気分の上がり下がりが激しいな。八木山の遊園地に行けばジェットコースターとして買い取ってもらえるんじゃないか? ……っと、そうじゃなくて。
「なあ、嘘ついたことに怒ってるわけじゃないんだろ?」
「……ふん」
「メイと友達なのが悪いのか? アイツが嫌いとか?」
「別に嫌いじゃないです。……ちょっと変わってるとは思いますけど」
「俺もそう思うけど、お前が言うなよ」
「夏凛のどこが変わってるんですか!?」
「2Bのシャーペン芯を使ってるとこ」
「そんなに変じゃないでしょ!」
「で、何に怒ってるんだよ」
「……」
再び黙り込んでしまう夏凛。メイが直接的な原因ではない、と。堂々巡りの議論にも飽きてきた。
「俺に出来ることなら言ってくれよ。夏凛の勉強を邪魔する要素を取り除くのも仕事のうちだ」
「その……仕事じゃ嫌なんです」
「?」
「ふゆ先生、夏凛との関わりはお仕事なんですか?」
「まあ、そうだな」
給料貰ってるしな。
「それが嫌なんです。ふゆ先生には本当にいろいろ助けられましたから」
「おいおい、大げさだよ」
「いえっ、本当です! 先生が分かってないだけです!」
「そ、そうなのか?」
「はいっ!」
夏凛は自信満々に言った。まだ会って三回目。たしかに勉強も教えたし助言もしたが、そこまで感謝されるようなことは言っていないはず。それでも――夏凛は俺に助けられたというのか。不思議なこった。
「メイさんが先生と友達だって分かって、夏凛はモヤモヤしちゃったんです。なんかズルいなって」
「ズルい?」
「だって夏凛はいっぱい先生に本音を打ち明けたんですよ? それなのにただの生徒と家庭教師って……ちょっと寂しいです」
こちらから顔を逸らすようにして、夏凛はノートに視線を落とした。さっき「恥ずかしい」と言っていたのはこういうことか。俺と夏凛の関係はただの教師と生徒に過ぎなかった。だがそれでは不満だという。
「だからね、ふゆ先生」
「ああ」
夏凛がこちらに顔を向けたが、敢えてぶっきらぼうに返事する。ずっと孤独を抱えて生きてきたであろうコイツにとって、初めて発する言葉かもしれない。だからこそ耳を澄まそうと思ったのだ。要するに、夏凛が言いたかったのは――
「……友達になってください」
という、一言だったのだ。