家庭教師先の天才少女は俺にだけ心を開いているらしい 作:古野ジョン
「つまりだな、ここでaの条件に関して場合分けを見落とすとまずいわけだ」
「対数の底だから1以外の正の数……ってことですよね?」
「そういうこと。真数条件は覚えていても、案外こっちは忘れがちだ」
「へえー……」
さて、ベッドに座る父親にじっと観察されながら――俺は淡々と授業を進めていた。状況が状況だからか、夏凛もいつもより優等生だ。会話の最中にとぼけたりしないし、俺のことをおちょくったりもしない。
「場合分けさえ出来ればあとは解くだけだ。そこまで難しくはない」
「ちょっと計算が複雑ですよう」
「おま……夏凛なら出来るだろう?」
「もー、のせるのが上手いんですから」
「ははは」
普段と違って会話がぎこちない。いつもはもっと軽口を叩きあっているし、夏凛も(いい意味で)遠慮せずに質問してくるのだけど。この方が家庭教師としては助かるが、なんだか味気ないね。
「じゃあ次の問題だ。極限に関する問題だな」
「あー、これ難しかったです」
「夏凛が難しいなんて言うの、珍しいな」
「夏凛だって万能じゃありませーん!」
「そりゃそうだけどさ」
ぷりぷりと怒る夏凛。ようやく調子が出てきたな。後ろの父親もなんだかんだ言って何の苦情も申し立ててこないし。そりゃそうだよ、不埒なことなんて全くしていないんだもの。
「じゃあ説明していくよ。まずはかっこ一から」
「これは……無限大に発散するんですよね?」
「そうだ。だが夏凛の答案だと論証が甘いな」
「えーっ、このパー璧な解答がですかあ!?」
「今どきのJKがパー璧とか言うなよ」
「お父さんが使ってるからうつっちゃったんです!」
「えっ?」
思わず後ろを振り向いてみると、父親が気まずそうにごほんごほんと咳ばらいをしていた。……意外とお茶目だな。今どきのJKが使っているのは明らかに変だけど、あんな厳格そうな外科医が「パー璧」とか喋っててもおかしいじゃねえか! 「今日の手術はパー璧だったな」とか言ってるのだろうか? 手術室の看護師に変なあだ名をつけられているのではないか、と心配になった俺であった。
「ま、それはともかく。これだと点数は与えられないな」
「えー、そうですかあ?」
「まずここ、論理的につながりが薄い。採点者に伝わりにくいぞ」
「でもふゆ先生には伝わってるよね?」
「いや、伝わってないけど――」
「愛の力で♡」
「伝わってねえよ!」
「なんだと貴様!?」
「「ふえっ!!?」」
その時、パー璧親父がベッドから勢いよく立ち上がった。ドシンドシンと足音を立ててこちらに近寄り、俺の肩を引っ掴んで揺さぶってくる。
「娘からの愛とはどういうことだ!?」
「な、何もしてないですって! これはそのー……夏凛のジョークです!」
「ひっどーい! 夏凛とは遊びだったんですかあ!?」
「娘に何をしたんだ!?」
「何もしてませんって! というか火に油を注ぐな夏凛!」
「そもそもさっきから娘のことを呼び捨てにして! 馴れ馴れしいぞ貴様!」
「わー違います違います!! それは夏凛が最初に――」
「また呼び捨てにしたなっ!?」
「じゃあ呼び捨てやめます!」
「えー、なんでよ冬雪たんー!」
「『たん』だと貴様!?」
「火にガソリンを注ぐな! あとたん付けやめろや!」
俺たち三人の言葉が空気の波となり、夏凛の部屋を大きく揺らしている。ここが一軒家でなければ近所迷惑で警察に通報されていただろう。やはりこの娘にしてこの父親ありである。火がつくとやかましくなるのは同じというわけか。メンデルの遺伝法則がまたしても証明されてしまった。このお父さんは外科学から遺伝学に鞍替えしてみてはどうだろうか?
「とにかく! 娘さんとは何もありませんから!」
「そうか。……それならいいんだがな」
「えー、何もないなんて寂しいですよお……」
「思わせぶりな目をするんじゃない!」
平常運転の夏凛をいなしつつ、ようやく授業に戻った。世の中の父親ってのはこんなもんなのかね。娘が他の男とつるんでいるのがそんなに心配なのだろうか。少しは家庭教師というものを信頼してほしいものである。
父親という言葉を思うと、昔を懐かしむ気持ちが芽生えてくる。かつて俺の見ていた、憧れていた背中。母親に見送られて職場に向かうその姿はとても頼れるものだった。……だが、俺に残っている父親の記憶と言えばそれしかない。男は背中で語るもの、などという言葉があるが、その通りにしてくれなくたっていいじゃないかなあ。
「……ふゆ先生、どうしたんですか?」
「いや、なんでもない。それで、これを平方完成してだな」
夏凛の言葉にハッとして目を覚まし、再び数式に視線を落とす。昔にはもう戻れないし、今更帰ってもこない。俺に出来るのは立派な医者になって同じ目に遭う人間を減らすことだ。だから目の前のことを淡々とこなしていくしかないんだ。
式を変形し、グラフを書き、夏凛に説く。軽い言葉に装飾された重い質問に答え、さらに先の問題へと進んでいく。教える、答える、書く、教える、聞く、解く。その繰り返しに過ぎない。
「せんせー?」
「なんだ?」
「いつもより真面目ですね」
「俺はいつだって真面目だぞ」
「そうですけどー! なんか違うっていうかー!」
「へえ、そう見えるか」
「はい。何かあったんですか?」
「……何もないさ」
怪訝な顔をされてしまった。ちょっとセンチメンタルな気持ちになっていたみたいだな。いかんいかん、迷える受験生を導くはずの家庭教師がそんなことでは。もっとしゃんとしないと。などと思っていると、夏凛がペンをくるくると回し、俺の顔をじっと見ていることに気が付いた。
「ちょっといいですか?」
「今度はなんだよ」
「お客さんが来てますけど」
「へっ?」
後ろを振り向いてみると――いつの間にか父親が腕を組んで俺たちの後ろに立っていた。……まだ何もしてないんだが? 父親は俺と夏凛の間に置いてある問題集をしげしげと眺めている。
「ど、どうかしましたか?」
「その問題、どうしてそんな解き方をする?」
「えっ?」
「最初から逆数を取った方が結論に帰着するのが早い。なぜ娘にそう教えない?」
ええ~っ!? この親父、受験生だったのはとうの昔のはずだよな!? なんで分かるんだよ!?
「それはですね、逆数を取るというのは試験中に思いつくには無理な発想で……」
「うちの娘は優秀だ。それくらい思いつくだろう?」
「そ、そうかもしれませんけど! 発想力だけを頼っていては本番で大変ですから!」
「何を言う! うちの娘の頭を舐めるんじゃない!」
「舐めてませんって! むしろ高く評価してますから!」
「じゃあ私の言った通りに教えたまえ!」
「それとこれとは話が別ですってば!!」
「ちょっと、夏凛のために争わないでください!」
「お前はなんで嬉しそうなんだよ!?」
「一度言ってみたかったんです!!」
「娘のことを『お前』とは何事だ!?」
「さっきと言っていることが違うじゃないですかーっ!」
再び大乱闘うんたらブラザーズ状態である。だいたい父親は「見てるだけ」みたいなスタンスだったはずなのに話がちげえじゃねえか! どうしてこんなに突っかかって来るんだよ!
「ちょっと、いい加減に授業に戻りますから!」
「駄目だ! やはり貴様のような教師には任せられん!」
「えーっ! やだやだ、ふゆ先生がいいのー!」
「駄々をこねるんじゃない! この男の何がいいんだ!?」
「……夏凛の『初めて』の人だから?」
「なななな何だと!!?」
「火にトリニトロトルエンを注ぐな!!」
おい、「はじめて友達になった人」のことを「初めて」って言うんじゃねえ! 誤解しか生まねえ発言じゃねえか!
「貴様、やっぱり娘のことを不埒な手段で……!」
「違いますってば! 僕は無罪です!」
「許しておけん、覚悟――」
「お父さん!!」
次の瞬間、部屋中にパカンという音が響きわたった。殴られるのかと思って歯を食いしばっていたが、何も起こらないので不思議に思い、目を見開く。すると目の前に広がっていたのは――教科書の散乱した床に倒れる父親と、片手にスリッパを持った母親だった。……え?
「すいません先生、うちの主人が本当に……」
「いいいいや大丈夫ですよ?」
どちらかというとスリッパでこんなガタイの良い父親を気絶させたこの人の方が怖い。
「あの、どうしたんですか……?」
「二階が騒がしいから見に来てみたんです。そしたら案の定この人が……」
「ああ~……」
母親ははあとため息をついた。夏凛は我関せずといった感じですまし顔をしている。お前も関係あるだろうが。
「とにかく、この人は連れていきますから。ささ、授業を続けていただいて」
「ああ、お気遣いありがとうございます」
「それからですね、先生?」
「?」
「今日は夕食をご用意しておりますから。よければ召し上がってくださいね」
「え、いいんですか?」
「娘がお世話になっておりますから。では……」
そう言って、母親はずるずるとパー璧親父を引きずっていった。……いったいなんだったんだろう。
「いやー、まったく困ったお父さんです!」
「お前によく似ているよ」
「ええっ!? お父さんはパンツ被ってませんよ!?」
「当たり前だ!!」
……この娘にしてあの父親あり、である。