「はるか、なんでこんなものが家にあるの」
彼女の手には、黄色の布切れがぶら下がっている。
「そんなところにあったんだ!」
はるかは布切れを見て、目を輝かせた。
「マリコに着て欲しくて買っておいたの!」
マリコはもの言いたげな顔でじっとはるかを見つめる。
「いや、その資料!そう、ちょうど衣装が必要で」
「チアリーダーの出る時代劇なんて傾いているわね」
布切れの正体はチアユニフォームであった。次第に廃止されつつある、露出面積の大きな際どい衣装だ。
「着ないわよ」
「見たい~!マリコのチア姿が見たい!見せて見せて!」
はるかは幼児のように駄々をこねる。こうなるとマリコが折れるほかないのが常であったが、今日の彼女は頑なであった。
「だから着ないって」
「チアリーダーやってたって聞いたから買ったのに」
「だから嫌なのよ」
いつもであれば率先して声を上げているはずのマリコはとても静かだった。クラス対抗のソフトボールに興じる男子たちからも、お喋りに夢中な女子からも離れて、ひとり物思いに耽っている。
彼女の悩みの種は「応援」であった。応援するか否か、声を上げるか否か、ただそれだけのことで思い悩んでいた。今の彼女にとってこの問いは、「はい」か「いいえ」かの二者択一の問題ではなかった。部活に対する、あるいは、もっとそれ以上の何かに対する問いかけでもあった。
ほんの数日前までのマリコはそうではなかった。人一倍熱心に練習に励み、試合や大会に限らずとも率先して応援の声をあげ、活動そのものを顧みることはなかった。
現にチアリーディングの動作を叩きこまれた彼女の身体は今も、試合をただ黙って見ていることに激しく抵抗し、組んだ腕を解き、脚を弾ませようとしている。が、白球の行方とスコアをじっと目で追いかけながらも、彼女は衝動を抑え込んでいた。
彼女の理性がそれを拒否していた。担任不在の体育の授業で始まった無軌道な試合を応援する意義を見出せず、また意義がないにも関わらず応援している自分の姿を想像して、ひどく滑稽に思えてしまったのだった。
そして、そんな自分を誰も放っておいてくれないだろうという確信も、彼女の心中を苦々しいものへと歪めていた。
「マリコ、どうかしたの?」
声援の主の不在に気付いて、クラスメイトの女子たちが集まってくる。
「ううん、なんでも」
「応援しないの?いつもみたいに」
「どうだろう、もうすぐ終わるみたいだし」
「せっかくだから応援しようよ!」
何がせっかくなのだろうか、応援したければ勝手にすればいい。
「私ひとりでやっても誰も喜ばないでしょう」
「またまた、そんなこと言っちゃって。男子が最近何話してるか知ってる?」
「学園祭が終わってからずっと、もう二週間も経つのに、マリコの話ばっかり!」
だから何なのよ。
学園祭。事の発端は学園祭だった。
チアリーディング部は応援の華でありつつも、それはあくまで応援という枠の中であって、競技全体としては裏方の存在だ。そんなチア部が舞台の上で中心となって活躍する年に一度の機会が初冬に開催される学園祭だ。夏季の厳しい練習に耐え、チアリーディングの大会に向けて培われたバトンやアクロバティックな演技が全校生徒の前で遺憾なく発揮される。
もちろん、チアユニフォームの姿で。
学園祭でのマリコは一番目立つポジションではなかったが、彼女のクラスメイトを魅了するには十分だった。
ちやほやされてマリコもしばらくはいい気分だった。これまでの苦労が報われたような気がしたし、男子のみならず女子からも羨望の眼差しを受けるのは悪くなかった。一方で、そのような気持ちが大きくなれば大きくなるほど、チアリーディングが何なのかわからなくなった。
つまるところ、チアは目立ち過ぎるのだ。応援だけが目的なら、派手なパフォーマンスや露出の多い服装をする必要などない。裏方であるにも関わらず、場合によっては、あるいはほとんどの場合、選手よりも目立とうとする。
マリコは悩んだ。誰かを応援したいという気持ちと、自分が主役になりたいという気持ちは両立するのだろうか。それを両立させても良いのだろうか。チアそのものの在り方に対する疑問は、彼女自身の在り方にまで投射されていた。
「私だって、マリコのチアもう一回見たい!」「私も!」
一人二人とあっという間にマリコの周りに人が集まり、目を輝かせてチアリーディングをして欲しいとせがむ。誰も彼女のらしくない様子を気にしない。それくらい、彼女が応援の中心にいるのは当たり前のことだった。彼女がそうなるように振る舞ってきたことも、事実だった。
「しょうがないわね」
「やった!みんな、マリコがチアやるって!」
元より、マリコも断る気はなかった。
チアリーディングは苛烈なスポーツだ。運動量だけではなく、政治的な意味でも。難易度の高い組体操やダンスには高い団結力が求められ、ポジション争いには巧拙以上に人間的関係性が重視される。
部活動にひたむきに打ち込む姿を見せ、愛想を振りまき、誰からも好かれるように努めなければならない。部員皆と仲良くならなければ、生き残ることはできない。そして部員以外からの評判も、重要だ。
クラスメイトがはしゃぐ様子を、マリコは冷ややかな目で見やる。彼女たちは、別にマリコのチアを見たいわけではない、退屈を凌ぎたいだけだ。しかし、誰かが他の部員に彼女のチア度を告げ口する可能性がある以上、彼女は断ることなどできなかった。
今度は理性が抑え込まれる番だった。バッターボックスにはクラスメイトで野球部員でもある正岡スグルが立っていた。際立って目立つ選手ではなかったが、来季はベンチ入りできるのではないかと言われる実力を持っている。各部活の主要な選手の名前を覚えることは必須事項だった。
彼だってクラス対抗のソフトボールなど身が入らないに違いない、そういった考えを振り払い、身体に任せる。
「レッツゴー二組!レッツゴー二組!ぜったい勝てる二組!二組!がんばれまさおかファイ、トー!がーんばれ!」
バトンもポンポンもないから、声と腕頼みだ。マリコが声を張り上げ腕を振り回すと、クラスメイトたちもおぼつかない手付きで真似を始める。繰り返すうちに、スグルは動じない様子でバットを振り抜いた。
砂袋を落としたような大きな鈍い音が響き、打ち上がったボールは綺麗な弧を描いてグラウンドの遠くの方まで飛んで行った。女子も男子も沸き立つ。
「うわあ、さすがマリコ!」
口々にマリコを称える声に、さすがでもなんでもないと、代わりに理性が答える。打ったのはスグルであってマリコではなく、またマリコが何もしなくとも、スグルは打っていたはずだ。先ほどまで考えていた滑稽さが余計に身に沁みた。想像した通りだった。
上機嫌なクラスメイトから離れたい一心でマリコは転がっていたソフトボールの道具を拾い上げると、重い足取りで体育倉庫に駆けて行った。
かび臭い倉庫で乱暴に道具を片付けていると、ドアを引く音が聞こえた。スグルだった。ぐちゃぐちゃのゼッケンでいっぱいになったカゴを抱えている。
マリコは一瞬身構えたが、彼のどこか思い詰めた様子に警戒を解いた。男子たちが向けてくる青い獣性を帯びた眼差しを彼は持っていなかった。
ゼッケンを一枚一枚丁寧に畳みながら、彼は何かを言おうとしてはやめる。マリコは彼が何を言い出すのか気になって手を止めた。
「さっきはごめん」
彼はつぶやくように言った。
「ごめんってどうして?」
「あんまりやりたくなかったんじゃないかな、って思って」
スグルは畳まれたゼッケンに視線を落としていて、まるで叱られている子供のようだった。曖昧な物言いがマリコには不思議だった。
「やる気がなさそうだった?」
「まさか。チアはすごく、よかったよ」
マリコの不安そうな声音をかき消すように、彼は大きな声を出した。
「やる気がなかったのは僕の方だ。でも応援されて、自分の名前を呼ばれて。頑張ろう、打ってやろうと思ったんだ」
マリコはにわかに頬が緩みそうになるのをこらえる。
「それは野球部としてのプライド?」
「そうかもしれない。実際、体育の授業なんかで打てなかったら、他の部員に何を言われるかわからないしね」
スグルは少し赤くなった頬をかきながら言う。
「だから、ありがとうって言いたかったんだけど、もしかしたら、僕と同じでやりたくなかったんじゃないかって」
「あはは」
マリコは笑った。思えば、チアを通して個人的に感謝されるのは、マリコにとって初めてのことであった。チアの在り方など、ありがとうという言葉があれば、それで十分だった。
「私こそ、ありがとう」