体育倉庫での小さな意気投合がきっかけで、二人は冬の間、交流するようになった。交流といっても、スグルは球児にしては自己主張の少ない、物静かな青年で、ほとんどはマリコが一方的に話しかけるだけだった。
二人は昼休みや放課後に好きな本、音楽、映画、色々な話をした。好みの多くは被らなかった。周囲が囃し立てることもあったが、部活に対する想いの重なりが、互いを尊重させ、その平行線を守らせていた。マリコはそう思っていた。
野球部もチアリーディング部も、冬季は春への準備期間であり、夏のように慌ただしくはないものの、部活動にどれだけ真摯に向き合えるか試される期間でもある。
マリコは憂いを断って練習に打ち込んだ。学園祭後の苦悩は一時の気の迷いに過ぎない、そう思えるようにさえなっていた。誰にも打ち明けられなかった悩みは、誰にも知られぬままにあった。
冬の終わり、期末試験が終わった日のことだった。新学期が始まるまで、会える機会は少ないと思ったマリコは、互いを鼓舞するために、スグルに話しかけた。
「休みが明ければ春だね」
「その休みの練習が、また辛いんだけどね」
スグルは困ったような顔で答える。彼はいつも、なんだか困ったような顔をしていた。マリコはそんな彼が嫌いではなかった。だから余計に、困らせてみたくなる。
「私は部活やめちゃおっかなあって考えてたの」
「そんな」
彼はのけぞり、ひっくり返りそうなくらいに驚いているように見えた。
マリコは気を良くして続ける。
「もともとチアを続けるつもりはなかったの。周りに勧められて、初めて会った友達も入って、でもやめちゃって」
「僕は、続けてもらいたいなあ」
天から見放されたように弱弱しい声でスグルはぼやいた。ぼやきが終わらないうちに、彼は自分の言葉の意味に遅れて気が付いたようだった。マリコも彼の意外な反応を見て驚く。
「あはは、冗談だよ。冗談」
悪い冗談だった。
触れたくない、いやな無言が二人の間を流れた。マリコはばつが悪くて何も言い出せず、かといって大仰に謝るのも憚られた。スグルは黙り込んでしまった。
そうして、このまま何も話せないままに終わってしまうのかとマリコが思い始めた時、スグルは意を決した様子で切り出した。
「春の選抜に出ることができたら、僕を応援して欲しいんだ」
頼まれなくても、その言葉をマリコは飲み込んだ。彼らしくない、言葉だった。何より、それは告白めいていて、茶化すことは許されないような気がした。
「私も、あなたを応援したい」
マリコの、嘘偽りない気持ちだった。
◇◇◇
スグルは思い詰めていた。
「続けてもらいたい」「僕を応援してほしい」
思わず出てしまった言葉が、彼を苦しめた。隠していた本音を自ら暴露してしまった。
あのソフトボールの後の会話もそうだった。本当は、嬉しかったのだ。マリコの声援を一身に浴びて、喜んでいた。その喜びが抑えられず、マリコに会いに行ったのだった。
ただ喜んでいる様子を悟られてはいけないと、彼の卑怯な部分はわきまえていた。他の男子と同じように見られたくないと。幸運にも、彼の作戦は功を奏した。鬼気迫る様子だったマリコは、彼の深刻そうな様子を見て、態度を和らげたのだから。
スグルは苦しんだ。交流のきっかけとなったあの体育倉庫での一件は、全くもって卑怯で俗悪さに満ちていた。彼は自身を汚らわしく思いつつも、マリコとの関係を断てなかった。そのままずるずると時が過ぎる中、マリコがチアを辞めてしまうかと思い、焦ったのだった。
「私も、あなたを応援したい」
マリコの返事が恐ろしかった。彼女はスグルの本音に気付いたはずだ、それなのに彼を突き放さなかった。だからこそ、とても恐ろしいものに感じられた。
マリコの言う「あなた」が言葉通りスグル本人だったとしたら、大会に出られなかった時の彼女は何を言うだろうか。どう反応するだろうか。
マリコの「応援したい」という気持ちは、スグルではなく、応援そのものに向いているのかもしれない。そうであれば彼が大会に出られなかったとしても、彼女は彼を見捨てたりはしないだろう。しかし、それでは、卑怯な成功に浸っていた彼の気持ちは満たされない。
懊悩に懊悩を重ねたスグルは、少なくとも春の選抜では絶対ベンチ入りしなければならないと結論付け、猛然と練習に励んだ。彼の手足は妄念に支配され、そのあまりに必死な様子に部員だけではなく監督やコーチも目を見張るほどだった。結果、彼はそれまでの彼自身の実力を追い抜いて、ベンチ入りを果たしたのだった。
スポーツは時に非情だ。特に、団体競技ともなれば。
春、スグルがマウンドに上がる前に、チームは敗退した。
そしてスグルはベンチから、応援席で飛び跳ねるマリコを確かに見たのだった。
彼女の声も、あの時と変わらなかった。ただ自分が応援の対象ではないだけだった。
スグルは自身を卑怯者だとなじることはあったが、自惚れ屋だと思ったことはなかった。だが、この喪失感は、マリコが自分のことを見ていないという耐えがたい痛みは、彼の自惚れを証明していた。自己嫌悪が彼を圧し潰した。
そして、スグルがマリコを避けるようになるまで、時間はかからなかった。
スグルは周囲に激しく叱責されながら、野球部を退部したそうだ。
思わず彼を呼び止めた時のことを、マリコはよく覚えている。
「正岡くん」
彼は憔悴しきっていた。困ったような愛嬌のある表情も、消え失せていた。
「夏、出られない」
つぶやくように彼は言った。
「そう、なんだ」
スグルの近況は既に知っていた。
だからといってマリコは、一人の選手に対して、残念だとは言えなかった。
マリコが言い淀んでいるうちに、スグルの目に、どろりとした暗い感情が走るのが見えた。
「きみは僕がいなくても平気なんだろう」
断定するようだった。彼は返事を求めていなかった。語気を荒げて、かつての奥手そうな彼の声音は微塵も感じられなかった。
「私は」
「気を遣って、僕を応援したいって言ってくれたんだろう」
スグルはマリコを遮って吐き捨てるように言うと、背を向ける。
「僕のことは気にしないで、頑張ってほしい」
彼の背は、慰めも同情も、何もかもを拒絶していた。
「私は、あの倉庫で話した時、チアをやめようと思っていたの」
マリコは彼をこれ以上追い詰めたくはなかった。
それでも、今言えなければ、もう二度と伝えられないと思い、言葉を紡ぐ。
「でも正岡くんのお陰で気付いた、応援ってくよくよ考えるものじゃないって、気持ちが伝われば良いんだって」
「だから、正岡くんを応援したかった」
振り向いた彼の表情を今でも忘れることができない。憔悴も困惑もない、まっさらな顔だった。
「青春だなあ」
はるかはさも感慨深そうに息をついた。
「マリコにそんな過去があったなんて」
「わざわざ語るまでもなかったことよ」
マリコは突き放すように言ったが、その顔は憑き物が落ちたようにどこか清々しげだ。
「でも」
「でも?」
「マリコのチアコスが見たい!」
「アンタ私の話本当に聞いてたの?それにコスって言ったわね!?」
結局、はるかの駄々に押し負けたマリコは鬼の形相でチア衣装を身に纏うことになった。