恐山をテーマにした短編ホラー小説です。

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恐山の呼び声

青森の奥地、恐山の地を訪れるのはこれが初めてだった。

日が傾きかけた午後、私、田嶋祐一は薄曇りの空の下、硫黄の匂いが漂う山道を歩いていた。子どものころから聞かされてきた恐山の話が頭をよぎる。死者と会話できるイタコの口寄せや、地獄のような荒涼とした景色――そのどれもがどこか現実味を欠いていた。だが、いざこの地に立つと、空気そのものが異様だった。

 

「田嶋さん、遅れてるよ!」

同行しているのは、友人の山崎だ。彼は地元の新聞記者で、取材と称してこの旅を計画した。

「すまん、少し足が重くてな」

足元は砂利と灰色の岩が混じった不安定な道だ。硫黄泉の小さな池が点在し、湯気をあげている。その湯気はただ熱いだけでなく、どこか死の香りを含んでいるように思えた。

 

やがて、恐山の境内が見えてきた。灰色と茶色の岩場が続き、大小さまざまな地蔵が並んでいる。苔むした地蔵や首が欠けたものもあり、その姿は寂しさを一層引き立てていた。風が吹くたび、どこからか鈴の音が響いてくる。その音色は不気味なほど澄んでいた。

 

「ここが恐山か……」

山崎が息を呑むように言う。だが私は、得体の知れない違和感を覚えていた。何かがこちらをじっと見ている。そんな感覚だった。

 

#### **呼び声**

 

イタコの儀式が始まるのは日が沈んだあとだという。私たちはその時間まで境内を散策しながら過ごすことにした。

「ほら、見てくれよ、この地蔵。手がすり減ってるな」

山崎が指差す先には、手を合わせた地蔵があった。その手は、無数の人々が触れたのだろう、磨耗していた。私はぼんやりとその地蔵を眺めていると、ふいに耳元で誰かの声が聞こえた。

 

「――助けて……」

 

声はかすかだった。振り返ると、誰もいない。山崎も聞こえなかったようで、興味深げに地蔵を観察している。

 

「今、何か聞こえなかったか?」

私が尋ねると、彼は首をかしげた。

「いや、何も。お前、疲れてるんじゃないか?」

 

だが、それは錯覚ではなかった。数歩進むごとに、声は徐々に大きく、はっきりと耳に届くようになってきた。

 

「祐一……助けて……」

 

背筋が凍る。声の主は明らかに、私の名前を呼んでいた。

 

#### **口寄せ**

 

日が沈むころ、イタコの儀式が始まった。小さな仏堂に集められた参拝者たちは、静まり返りながらその時を待っていた。やがて、年老いたイタコが現れる。目は白く濁り、杖をついた小柄な女性だった。

 

「祈りたい方は、名前を書いた紙をこちらへ」

山崎に促され、私は亡き母の名を書いて差し出した。心の奥で、あの奇妙な声が気になっていたが、深く考えまいとした。儀式が始まり、イタコの口から次々と死者の声が語られる。言葉は曖昧で、どれも一般的な慰めに過ぎないように思えた。

 

だが――。

私の順番が来た時、イタコは突然、震える声でこう言った。

 

「――田嶋祐一……お前もここに来るのか……?」

 

私は凍りついた。母ではなかった。その声は、私がこの旅の前に出会ったある人物――数年前に失踪した幼なじみの声だった。

 

「健一……?」

その名を口にした瞬間、イタコは突然、激しく震え始めた。彼女の白い目が私を睨みつける。

 

「お前は来るな!……戻れ……!戻れ……!」

 

#### **恐山の夜**

 

儀式は中断され、私は慌てて仏堂を後にした。山崎が追いかけてくる。

「おい、何があったんだよ?」

「わからない……だが、ここを出よう」

 

恐山の夜は不気味だった。月明かりすら弱々しく、地蔵の影が揺れているように見える。山道を急ぎ足で下る途中、また声が聞こえた。

 

「祐一……待って……」

 

振り返ると、薄闇の中に人影が見えた。それは健一だった――生きているころのままの姿で、私をじっと見ている。

 

「健一……お前、生きていたのか?」

声をかけると、彼はゆっくりと首を振った。そして、次の瞬間、彼の顔が崩れ落ちる。皮膚が裂け、黒い液体が滴り落ちていく。

 

「お前も来い……一緒に……」

 

恐怖に駆られた私は、山崎を引きずるようにして走り出した。後ろで何かが追いかけてくる気配がする。だが振り返る勇気はなかった。

 

#### **終わらない声**

 

山を下り、ようやく宿に戻ったときには、体中が汗でびっしょりだった。山崎は何も聞かず、ただ黙って私に水を差し出した。だが、安心したのもつかの間だった。

 

部屋の窓から、また声が聞こえる。

 

「祐一……まだ終わらない……」

 

その声は、恐山からずっとついてきたのだ。振り返ると、窓の外には無数の地蔵が立ち並び、その中の一つが、にやりと笑ったように見えた。

 

#### **訪問者**

 

それから数日間、私は恐山での体験を忘れられなかった。あの声、あの地蔵の笑み。それが夢なのか現実なのか、区別がつかなくなっていた。仕事も手につかず、ただ時間だけが過ぎていった。だが、恐怖は私の中で次第に形を変え、疑念へと変わりつつあった。

 

「本当にあれは……健一だったのか?」

 

彼が失踪したのは5年前、山奥に登山に出かけたきり消息を絶った。死体は見つからず、親族も諦めるしかなかったが、私は彼が死んだとは信じられなかった。だからこそ、恐山で彼の姿を見たとき、心のどこかで「確かめなければならない」と感じたのだ。

 

そして数日後、私は再び恐山への旅支度をしていた。山崎には連絡せず、一人で行くことにした。同行者がいることで、かえって迷惑をかけるかもしれない――そう考えたのだ。

 

恐山へ続く山道を歩きながら、私は奇妙な既視感を覚えた。前回と同じ道のはずなのに、景色が変わっているように思える。空気はどこか重たく、肌を刺すような冷たさがあった。

 

そして、また聞こえた。

 

「祐一……戻ってきたな……」

 

声はすぐ近くから聞こえたが、振り返っても誰もいない。恐怖心が湧き上がるが、それを必死に抑え込み、先へ進んだ。私は知りたかった。あの声の正体を。

 

#### **異界への扉**

 

再び恐山の境内にたどり着いたとき、辺りはすっかり暗くなっていた。日中の観光客の姿はなく、ただ静寂だけが広がっている。かつて見た地蔵たちが薄闇の中でぼんやりと浮かび上がり、私を見ているようだった。

 

そして、私は気づいた。境内の中央に、大きな岩がある。その岩には無数の小さな手形が刻まれており、不気味な光を放っていた。私はその岩に近づくと、突然足元がぐらりと揺れ、視界が暗転した。

 

気づいたときには、私は別の場所に立っていた。そこは恐山の荒涼とした景色とは異なり、濃い霧が立ち込める、どこまでも灰色の世界だった。足元には小石や骨のようなものが転がり、硫黄の匂いがさらに濃くなっている。

 

「ここは……どこだ?」

 

そのとき、再び声が聞こえた。

 

「祐一……こっちだ……」

 

声の主は、間違いなく健一だ。霧の中に彼の姿がぼんやりと見える。私は無意識に彼のほうへ歩き出した。

 

「お前は、ここで何をしているんだ?」

私が尋ねると、健一は振り返り、悲しげな表情を浮かべた。

 

「俺は……戻れなくなったんだ。お前が来るのを待っていた……」

「戻れないって、どういうことだ?」

 

健一は何も答えず、ただ手を差し伸べてくる。その手は白く冷たく、どこか透けて見える。

 

「こっちに来れば、全部わかる……」

 

#### **境界線**

 

私は迷った。健一についていくべきか、それとも引き返すべきか。しかし、そのとき背後から別の声が聞こえた。

 

「行ってはならぬぞ……戻れ……戻るのだ……」

 

振り返ると、一人のイタコが立っていた。彼女は以前私が見た老女とは異なり、若くもなく老いてもいない中年の女性だった。彼女は私を睨みつけ、険しい顔でこう言った。

 

「ここはまだ生きている者が入る場所ではない。戻るのだ!」

 

「でも、健一が――」

「健一はすでに死者だ。彼の言葉に耳を貸してはならぬ!」

 

その言葉を聞いた瞬間、健一の姿が激しく歪んだ。彼の顔が裂け、目が深い穴となり、口から黒い霧が噴き出す。その姿はかつての友人の面影を完全に失っていた。

 

「お前も、ここに……来い……」

 

私は恐怖で後ずさったが、足元が崩れるような感覚がした。イタコが私の腕をつかみ、力強く引き戻す。

 

「早く目を閉じて念じるのだ!ここはお前のいるべき場所ではない!」

 

#### **帰還**

 

イタコの声に従い、私は必死で「戻りたい」と念じた。すると、身体が急激に軽くなり、視界が真っ白になった。

 

気がつくと、私は恐山の境内に倒れていた。空には月が浮かび、冷たい風が頬を撫でている。あの灰色の異界はどこにもなく、地蔵たちは静かに佇んでいた。

 

イタコの姿もなく、私は一人だった。しかし、胸の奥には確信があった。あのイタコは、何か特別な存在だったのだろう。そして、恐山には生と死の境界が確かに存在するのだ、と。

 

恐山を離れる道すがら、私は再び声を聞いた。

 

「また会おう……」

 

振り返ると、そこには地蔵がひとつだけこちらを向いていた。その顔は、確かに健一の面影を宿していた。

 

 

#### **約束の地**

 

恐山からの帰路についたあとも、私は日常へ戻ることができなかった。健一の声が耳に残り、あの地蔵の笑みが目に焼き付いて離れない。そして何より、「また会おう」という最後の言葉が、私を再びこの現世へ縛り付けた。彼は何を意味していたのか?その答えを探さずにはいられなかった。

 

その日、私は不意に郵便受けに見慣れない封筒を見つけた。差出人の名前は書かれていない。ただ、封筒の中には一枚の紙が入っており、そこには短い言葉が記されていた。

 

**「約束の地で待つ」**

 

そして、その紙には恐山の地図が描かれていた。私は手が震えるのを抑えながら、その地図をじっと見つめた。そこに記されている場所は、私が前回訪れた恐山の境内とは異なる、さらに奥地のようだった。私は、恐山にまだ何か隠されているのだと直感した。そして、それを確かめるために、再び恐山を訪れることを決意した。

 

#### **孤独な探索**

 

冬が迫る青森の寒空の下、私は恐山に到着した。前回の旅で同行してくれた山崎には何も告げず、一人でやってきた。恐山の風景は前回と同じく荒涼としており、硫黄の匂いが鼻をついた。しかし、今回はより強い孤独感が胸を締め付ける。観光客の姿はなく、地蔵たちは不気味に私を見つめているようだった。

 

地図に記された場所は、境内をさらに奥へ進んだ先にあった。普通の参拝者が立ち入ることを許されていない場所なのだろう、道は荒れ果てており、苔むした石段が続いている。私は足を進めるたびに心臓が早鐘のように鳴るのを感じた。

 

そしてついに、地図に示された場所にたどり着いた。そこには大きな岩の門があり、その奥にはぽっかりと黒い洞窟が口を開けていた。洞窟の中からは、冷たい風とともにかすかな声が聞こえてくる。

 

「祐一……来たな……」

 

私はその声に導かれるように、洞窟の中へ足を踏み入れた。

 

#### **禁じられた場所**

 

洞窟の中は真っ暗だったが、奇妙なことに道筋がはっきりとわかる。まるで何かに導かれているようだった。進むにつれて、地面に無数の地蔵が並んでいることに気づいた。その地蔵たちはどれも異様なほどリアルで、まるで生きている人間を石に変えたかのように思えた。

 

やがて、洞窟の奥で明かりが見えた。そこには小さな祭壇があり、その中央には古びた鏡が置かれていた。鏡は暗い光を放ち、私の姿を映していたが――いや、それは私ではなかった。鏡に映っているのは、死んだはずの健一だった。

 

「健一!」

私は叫んだ。鏡の中の彼は微笑みながら口を開いた。

 

「祐一、お前が来るのを待っていた。俺はこの地に縛られている。お前だけが俺を解放できるんだ。」

 

「どういうことだ?俺に何をしろというんだ?」

 

「その鏡を壊してくれ……そうすれば、俺は自由になれる。そして、お前も……」

 

健一の言葉は途中で途切れた。洞窟全体が震え出し、地蔵たちが不気味な音を立てて動き始めた。私は鏡を見つめたまま、どうするべきか迷った。もし鏡を壊せば健一を救えるのか?だが、それと引き換えに何が起きるのか――それはわからなかった。

 

「早くしろ!」

健一の叫び声が響く。

 

#### **選択の瞬間**

 

私は鏡に手を伸ばした。しかし、その瞬間、背後からあのイタコの声が聞こえた。

 

「それに触れてはならない!」

 

振り返ると、前回私を救ってくれたあのイタコが立っていた。彼女の目は鋭く、私を睨みつけていた。

 

「それは死者の魂を封じるものだ。もし壊せば、この世とあの世の境が崩れる!」

「だが、健一が――」

「健一はすでに死者だ。お前がするべきことは、彼を忘れることだ!」

 

私は混乱していた。健一を救いたい気持ちと、イタコの言葉の意味との間で、心が引き裂かれそうだった。だが、健一の叫び声が次第に苦しみに満ちていく。

 

「頼む、祐一……俺を……!」

 

私は歯を食いしばり、鏡を手に取った。そして――。

 

#### **終焉**

 

私は鏡を地面に叩きつけた。鏡は粉々に砕け散り、洞窟全体が白い光に包まれた。光の中で、健一の姿が一瞬だけはっきりと見えた。

 

「ありがとう……」

 

彼はそう言って、笑顔を浮かべながら消えていった。

 

しかし、同時に洞窟全体が崩れ始めた。私は必死で出口に向かって走り出した。背後で岩が崩れ、轟音が響く中、かろうじて外に飛び出すことができた。

 

洞窟は完全に崩れ、その入り口は岩で覆われてしまった。私は膝から崩れ落ち、しばらくその場で震えていた。

 

#### **静寂**

 

それ以来、健一の声は聞こえなくなった。恐山も変わらずそこにあり、地蔵たちは静かに佇んでいる。しかし、私は時折思うのだ。あの選択は正しかったのか?健一を解放した代償として、何か恐ろしいものを解き放ってしまったのではないか、と。

 

恐山には、未だに多くの地蔵が並んでいる。その中のひとつが、今も私を見つめているように感じることがある。その微笑みが、あの日の健一に似ている気がしてならない。

 

 


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