ロ リ ナ パ テ ス   作:( 눈_눈)

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嫉賢 keyの場合、或いはケイの場合

 

 

物音ひとつさえも惜しむような、そんなひどく静かな夜だった。

 

昼間であれば誰かしらの足音がして、紙を捲る音がして、通信端末の通知音がして、あるいはあの人の笑い声が聞こえていたはずの場所に、今は空調の低い唸りだけが薄く沈んでいる。

 

窓の外に広がる灯りは遠く、ここだけが世界から切り離されているかのようだった。

 

私は、ゆっくりと目を開けた。

 

見慣れた天井。

見慣れた身体。

見慣れた手。

 

王女の、……アリスの身体は、眠りから起きたばかりで僅かに重い。

足を床へ下ろして、呼吸を整える。

 

そして、視線を横へ向けた。

 

ソファの上で、カサネが眠っている。

 

いつものように、ベッドではなくソファで。

けれどそれは、休息というより、限界を迎えた身体が、ようやくそこへ崩れ落ちただけのように見えた。

 

私は、しばらくその姿を見下ろしていた。

 

眠っていると、カサネはひどく幼く見えた。

驚くほど小さかった。

 

薄い肩。

毛布の下でかすかに上下する胸。

袖口から覗いた手首は、少し力を込めただけで折れてしまいそうに細く、白い肌には、消えきらない傷跡が淡く残っている。

 

いつの間にか真っ白になっていた長い髪が、ソファから零れるように広がっていた。

夜の光を吸って、雪のように白く、弱く。

触れれば指先から崩れてしまいそうなほど綺麗で、だからこそ、今は頼りない。

 

可憐、と呼ぶには痛ましすぎて、

儚い、と呼ぶには、彼女が積み上げてきたものが重すぎる。

 

それでも、眠っているカサネは、そう見えた。

 

誰かの願いを叶えるためだけに咲いて、摘まれることにも文句を言わない花のように。

 

そして、その花が今にも散りそうなことを、本人だけが当然のように受け入れているように見えた。

 

寝息はひどく浅い。

時折、胸の奥に何かが引っかかるように、僅かな苦しさを混ぜたように呼吸が乱れる。

 

長い髪が頬にかかっている。

その下の顔色は、夜の光のせいだけではなく青白い。

目元には薄い疲労が沈み、唇は乾いていて、指先には、拭いきれていない赤黒い跡が残っていた。

 

また無理をしたのだろう。

 

そう判断することに、もう確認はいらなかった。

 

この人は、いつだってそうだ。

 

救いを求める相手がいるのなら、それが自分を傷つけた相手だろうと、命さえも賭けて救い、そして当然のように笑ってみせる。

 

その過程で自分がどれほど傷ついても、死にかけても、そんな事はどうでもいいと言わんばかりに。

 

私は、それが不快だった。

 

理解できないわけではない。

むしろ、信念を理解してしまっているが故に、止めることができないのが不快だった。

 

この人は、アリスに言った。言って見せた。

 

自分のなりたいものは、自分で決めていいのだと。

 

生まれた意味も、与えられた役目も、世界が望む結末も。

そんなものに従わなくていいのだと。

なりたい自分を目指していいのだと。

 

その言葉を、私も聞いていた。見ていた。

 

その言葉ひとつで、アリスがどれほど救われたのかも、今は知っている。

 

だからこそ。

 

その言葉を与えた本人が、自分だけは死に向かう役目を、運命を、

自分で決めたのだから仕方ないと受け入れていることが、どうしようもなく腹立たしかった。

 

私はソファへ近づいた。

 

カサネは目を覚まさない。

手を伸ばし、白い首に指を添えた。

 

あまりにも細くて、これまでどれだけのものを背負ってきたのかと考えるより先に、これほど脆いものが誰かを守ろうとし続けていたことへの、彼女にこれだけ背負わせ続けてきた世界への苛立ちが喉元までせり上がった。

 

私は、その首に添える手に、力を込めた。

 

カサネのまぶたが震える。

 

最初は、息苦しさに気づいただけだった。

次に、何が起きているのかを理解しようとして、ぼんやりと目が開かれる。

 

私の長い髪が蚊帳のように頬に垂れて、赤紫の光を宿した私の目を見た瞬間、カサネの瞳が揺れた。

 

驚愕。

困惑。

そして、理解。

 

そして、ようやく彼女は抵抗しようとした。

 

けれど、その腕はひどく鈍い。

私の手首を掴もうとした指は、力なく滑り、膝が動きかけて、しかしすぐに止まる。

身体の奥で何かを呼び起こそうとして、胸のあたりが痛みに詰まったように息が潰れた。

 

弱い。

 

これほどまでに。

 

この人は、こんな身体でまだ誰かの前に立とうとしている。誰かを救おうとしている。

 

そう考えた瞬間、指にさらに力が入った。

 

カサネの喉から、掠れた音が漏れる。

赤い瞳が苦しげに細まり、けれどそこに、恐怖は薄かった。

 

それがまた、私を苛立たせた。

 

死にたくないと足掻けばいい。

アリスの身体を勝手に使うなと怒ればいい。

どうして、と問い詰めればいい。

 

なのに、この人は苦しそうにしながらも、真っ直ぐに私を見ていた。

 

自分を殺そうとしている相手を、責めるためではなく。

何か理由があるのだろうと、考えるような目で。

 

その時だった。

 

机の上に置かれていたタブレットから、柔らかな紫の光が零れる。

 

微かな光だった。

けれど、次の瞬間にはそれが糸のように伸び、カサネの首へ絡みつくように広がった。

 

私の手を弾くのではなく、押し返すのでもなく。

首と指の間に入り込み、私の人だと言わんばかりに、そっと包むように守る。

 

…気持ちは分かるけれど、これ以上傷つけさせる訳にはいかない。

 

そんな意思だけが、静かに伝わってきた。

 

私はしばらく、その光を眺め、

やがて私は、ゆっくりと手を離す。

 

カサネは仰向けのまま、激しく咳き込むことすらできなかった。

玉のような汗を拭いもせず、喉を押さえ、息を吸おうとして、細く震える音だけを漏らす。

それでも、ようやく声が戻ると、最初に出た言葉は、…出る言葉はどうせ、

 

 

「……アリスに、…何か、あったの……?」

 

 

…途切れ途切れの声。

ひどく掠れているのに、そこに怒りは、ほんの少しだってない。

大声を出したくなるほどに、予想通り。

 

 

「……わたし…アリスを……傷つけるようなことを、…言っちゃったかな……?」

 

 

この状況で。

首を締められて。

死にかけて。

それでも最初に気にするのは、アリスのことなのか。

 

 

「……あなたは」

 

 

私は、ソファの上で馬乗りになったまま、カサネを見下ろした。

 

彼女の首には、紫の光がまだ薄く残っている。

守られている。

ようやく、今さらのように。

 

 

「……そんなに死にかけるまで他人に身を捧げて、何がしたいんですか?」

 

 

カサネの呼吸が、僅かに止まった。

本当に、残酷な話だ。その姿を見てこの人を好いた人は、止めるに止めれず、しかし胸を痛めるしかない。

 

私は続けた。

 

 

「諦めたように身辺整理をしている暇があるなら、……今からでも、少しでも延命する方法を探せばいいでしょう……!」

 

 

彼女の表情が、ほんの少しだけ歪んだ。

初めて、ようやく。

痛みを顕にするように。

 

 

「……そんなつもりじゃ」

 

 

「…私には、そう見えるんですよ!」

 

 

苛立ちのまま遮る。

声は冷たく、胸の奥のどこかがひどく落ち着かない。

なんで私は、こんなにも感情的になっているのだろう。

 

 

「……あなたは、アリスに言いましたね。自分のなりたいものは、自分で決めていいと」

 

 

カサネの瞳が、ゆっくりとこちらへ戻る。

 

 

「その言葉を、アリスは覚えています。大切にしています。……あなたが思うよりもずっとずっと、重く」

 

 

口にしてから、少しだけ失敗したと思ったが、取り消す気にはならなかった。

 

カサネの唇が震えた。

彼女は何も言わなかった。

私の下で、ただ、目を逸らせずにいる。

 

 

「最初のこれは、確認です」

 

 

自分の手を見る。

さっきまで彼女の首を締めていた手。

 

 

「もしかすると、抵抗しないんじゃないか。……最近のあなたを見ていると、そう思ってしまったんです」

 

 

「……ので、……そこは少しだけ…安心しましたけど……」

 

 

言葉にするほど、苛立ちが増していく。

こんなに腹立たしいのは、なぜだろう。

 

赤い瞳が、小さく揺れる。

責められた子どものように。

それでいて、責められて当然だとどこかで思っている人のように。

 

彼女の表情は、薄い硝子に似ていた。

この人はずっと疲れていたのだろう。

 

ずっと痛かったのだろう。

ずっと怖かったのだろう。

……或いはずっと、誰かに止めてほしかったのかもしれない。

 

けれど、それを認めることさえ、自分には許されないと思っていたのだろう。

 

だから今、私の言葉が届いた瞬間、カサネはひどく戸惑ったように見えた。

 

自分が傷ついていることを、初めて誰かに見つけられてしまったかのように。

 

 

「……ケイ、ちゃん」

 

 

カサネは苦しげに息を整えながら、震える腕をこちらへ伸ばした。

何をするつもりなのか、分からなかった。

 

私が退くより早く、その腕が背中へ回り、引き寄せられる。

 

抱きしめられていた。

というより、私が倒れ込み、カサネのことを被さるように抱き締めるような体勢になっていた。

 

力は弱い。

逃げようと思えば、簡単に逃げられてしまうような、脆い抱擁だ。

 

けれど、動けなかった。

 

カサネの肩が震えている。

呼吸が乱れている。

 

 

「……ごめん」

 

 

カサネは、泣いていた。

 

静かに。

けれど、堪えきれないみたいに、ぽろぽろと。

 

 

「……確かに、私が悪かった」

 

 

その声は、普段の彼女とは違って、

 

いつもみたいに冗談めかす余裕もなければ、

大人ぶる余裕もなくて、

先生代理として立っている時の、どこか安心させるような柔らかな響きもない。

 

 

「……少し、方法を探してみるよ。……もう少し、生きるための方法を」

 

 

私は、何も言わなかった。

 

カサネの手が、私の背を撫でる。

どう考えたって、さっき首を締めてきた相手にすることではない。

本当に、この人はどうかしている。

 

 

「でも」

 

 

「……この先、何が起きるかは……やっぱり、分からないから」

 

 

 

「…もし私に何かあった時は、アリスのこと、ゲーム開発部のみんなのこと……おねがいするね。……ケイ…」

 

 

 

呆れた。

 

本当に、心の底から呆れた。

 

せっかく生きる方法を探すと言ったその口で、もう自分がいなくなった後の話をしている。

 

 

「…私は」

 

 

私は、カサネの腕の中で声を出した。

 

 

「世界を滅ぼす役目を負った鍵なんですよ」

 

 

だから、託す相手を間違えている。

私は守る側ではない。

アリスとは違う。

わたしは勇者などではない。

あなたとアリスの夢を継ぐことは出来ない。

 

そう言うつもりだった。

 

けれど、カサネは不思議そうに瞬きをして、それからゆっくりと笑った。

 

涙で濡れた目元のまま。

首に赤い痕を残したまま。

それでも、あまりにも当たり前みたいに。

 

 

「そんなことないよ」

 

 

その言葉は、柔らかかった。

 

 

「君は、私を助けてくれたんだから」

 

 

助けた?

 

この状況を、そう呼ぶのか。

 

首を締めて、怒って、泣かせて。

そんなものを、この人は助けたと言うのか。

 

 

「……ケイは、アリスにも劣らない、立派な勇者だよ」

 

 

カサネの手が、私の頭に触れた。

受け止めるようでいて、託すようでいて、

なのに、どうしても心地よい手。

 

 

 

「…だって、誰かを助けたいと思う気持ちこそが……きっと、それこそが勇者の資格なんだから」

 

 

 

役目ではなく、願いを。

生まれではなく、選んだものを。

 

だからアリスは、この人を先輩勇者と呼ぶのだ。

 

ようやく理解した。

 

いや、本当はずっと前から分かっていたのかもしれない。

 

アリスの中から、何度も見ていた。

ずっと、見ていた。

 

カサネが傷を気にもせず笑うところ。

誰かの失敗を、自分の責任のように受け止めるところ。

悩める生徒を、知らず知らずのうちに導いているところ。

時折、胸を押さえて息を殺すところ。

それでも次の日には、また何でもない顔で生徒の前に立つところ。

 

歪で。

危うくて。

放っておけば、すぐに燃え尽きてしまう類のもの。

 

目を離せなかった。

なんでかは分からない。今でもだ。

 

戦う姿。足掻く姿。傷つく姿。

そして、それでも皆を救う姿。

その小さく、それでも大きい背中。

 

アリスが重く慕う理由も、

アリスが同学年でありながら先輩と呼ぶ理由も、理解していた気になっていただけだった。

 

そして今、私は、

それを理解し、そしてさらに別のものを、

…或いはアリスがひっそりと抱えるものと同じものを、抱え込んでしまった。

 

カサネは私を離すと、袖で雑に涙を拭った。

まだ顔色は悪い。

喉には赤い痕が残っている。

それでも、その表情から、さっきまであったような屍兵のような死相は、少しだけ薄まっているような気がした。

 

 

「……とりあえずは、明日サヤとカイに連絡してみようかな…」

 

 

私は、その顔を見ていた。

本当に、面倒な人だ。

 

死にかけているくせに。

託す相手を間違えるくせに。

わたしを勇者などと呼ぶくせに。

 

なのに、少しだけ救われたような気分になってしまう。

 

 

「……あなたが死んだら……わたしも死にますから…」

 

 

声にならないような声で小さく呟く。

 

カサネは全てを聞き取れなかったのか、私の腕の中で首を傾げただけだった。

 

私は、誤魔化すようにカサネの肩に顔を埋めながらため息をついた。

 

この感情を、本人に伝える気はなかった。

 

ただ、アリスがこの人を先輩勇者と呼ぶたびに胸の奥が騒いでいた理由を、私はもう、見て見ぬふりができなくなっている。

 

……全くもって認めたくないが、私は王女に、嫉妬しているのかもしれない。

 

王女に嫉妬する従者なんて、従者失格だろうに、きっとカサネは、そんなことないと笑うのだろう。

その想いの原因が誰なのかも知らずに。

 

結局のところ、もっと生き足掻いて欲しいというこの感情は、衝動は、

好きになってしまった相手に死んで欲しくないという、極めて短絡的で個人的な感情に過ぎないのだろう。

 

…わかっている。カサネだって望んで死のうとしてる訳じゃない。そうするしかなくて、最善を尽くし続けて、結果的に命を蝕まれているから、死後のことを気にかけているだけ。

それらをカサネのせいにするのは八つ当たりにも近しい。

 

…そんな私にさえ、彼女は託してみせる。

笑って、この先を導こうとする。

まるで、代理なんかじゃない本物の先生みたいに。

 

彼女が死後を考えているのは、まだ少し、受け入れられる気がしない。

今でも腹立たしいことに変わりはない。

 

けど私は、腹を立てながらも、それでも嬉しかったんだ。

 

理想を、想いを、そして夢を、託してくれたのが。

 

相変わらず肩に顔を埋めたまま、抱き締める手に力を込めた。

 

どうしようもないこの人と、

そして私の王女であり、今はライバルなのかもしれないアリスの見る夢を、きっと私は継いでみせよう。

 

心に決め、そして秘めたる想いのままに彼女を抱き締め直せば、この先に待ち受けるであろう、ハッピーエンド未満の未来を思っても、私は久しぶりに少しだけ笑うことが出来た。

 

腕の中にようやく捕らえた小さな先生の、弱々しい心音。

 

白い髪は私の髪と混ざりながら腕に零れ、柔らかな抱き心地と甘い匂いとは反するように、喉元に残った赤い痕だけが薄闇の中でひどく痛々しく見える。

 

窓の外に広がる夜空は、残酷なくらいに美しい。

物音ひとつを惜しむような、敢えて言うのならば、二人だけの夜。

共鳴するように混じって響く傷だらけの心音を、見比べれば見る影もないような欠けた姿を、今更になって惜しむように、何度も何度も抱き締めた。

 

静かだ。

 

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