ゲーム開発部の部室では、時計の針が刻む小さく規則的な音なんて、まるで聞こえないような喧騒が常に耳を揺らす。
そもそも時計が何処にあるのかも分からないくらいに、棚の上にも、机の下にも、壁際にも、ゲーム機やら脱ぎ捨てた洋服やら段ボールやら正体不明の機材やらが積み上げられていて。
代わりに聞こえるのは、古いゲーム機の冷却ファンが回る音と、時折鳴り響く、何度目かも分からないゲームオーバーの電子音。
それから、
「や、やっとクリアした……!」
長い戦いを終えたミドリの、掠れた声だった。
コントローラーを握ったまま、床へ崩れ落ちるように項垂れている。
ゲームを始めた時には綺麗に整っていたはずの髪は、今では随分乱れていて、目元には寝不足のような暗い影が濃く落ちていた。
その隣で、モモイが祈るように両手を組む。
「ど、どうだった……!?」
期待と不安。
瞳を輝かせながら、妹から返ってくる言葉を待っている。
ミドリは、すぐには答えなかった。
答えるだけの体力が残されていないのか。
或いは、姉妹としての情が、率直な感想を告げることを躊躇わせているのか。
沈黙だけが、やけに長く続く。
そんな中、ミドリと一緒にゲーム画面を見つめていたアリスが、何かを発見したように顔を上げた。
「アリス知っています!これは……」
モモイの表情が明るくなる。
ゲームを通して世界の全てを学んできた勇者が、今まさに自分の作った作品へ評価を下そうとしている。
ゴクリと息を飲み、モモイはその言葉を待つ。
「クソゲーですね!」
「ぐはっ!」
情け容赦のない一撃だった。
弾丸を受けた訳でもないのに、モモイは胸を押さえながら床へ倒れ込む。
その音に、部屋の隅に置かれていたソファの上で、白いものがもぞもぞと僅かに動いた。
毛布の隙間から零れていた長い髪が揺れる。
「まずさ、なんで氷河に足を踏み入れた瞬間死ぬの?」
「実際の氷河だって寒いじゃん? 何も装備してなかったら凍死するでしょ?」
倒れたままのモモイが、悪びれもせずに当然のことを説明するように片手を上げる。
「いくら寒くても即死はなくない!?」
「ミドリ、氷河に行ったことあるの!? 即死するかもじゃん!」
「……はぁ、百歩譲ってそれはいいとして、私の描いたイラストはどうしたの?」
そこでモモイが、分かりやすく視線を逸らした。
「……そ、それはDLCにしようと思って」
「依頼の時に言ってよ!!」
ミドリの怒鳴り声に、机の上で積み重なっていた空き箱が一つ落ちる。
ゲームをしている時なら兎も角、普段であれば大きな声を出すことの少ないミドリが、珍しく本気で怒っていた。
当然だろう。
何日もかけて描いたイラストが、完成したゲームには一枚たりとも使われておらず、それどころか追加料金を取るための材料にされようとしていたのだから。
部室の隅に近いソファから遠慮がちな声が聞こえる。
「で、でも実際……何が足りてなかったのかな?」
ユズの言葉に、モモイは勢いよく起き上がる。
先程まで床に倒れていたとは思えないほど、素早い復活だった。
「……アークティックアドベンチャーにはリサーチが足りてないんだ!」
「リサーチ……?」
「…そうと決まれば氷河に行こう!」
「えっ」
「雪が積もった平原、青くて透明な氷河、仲良く遊んでる白熊とペンギン……インスピレーションが湧いてくる光景だと思わない?」
両腕を広げ、モモイはまだ見ぬ氷の大地を思い描く。
その目は既に、ゲーム開発のための取材ではなく、雪原を駆け回る自分達の姿を見ているようで。
「……はぁ、お姉ちゃんが見てみたいだけでしょ……ていうか、白熊とペンギンは同じ地域に生息してないよ」
「……白熊は北極で、ペンギンは基本的に南半球だからね……」
そこで、ミドリとは別の声が、会話へ混ざった。
聞き慣れてきたけれど、まだこの部室にあって当然とまでは言えない声。
小さく、眠たげで。
それなのに、妙に耳に残るような、甘ったるい幼い声。
「……うわ!」
モモイが肩を跳ねさせ、声のした方を振り返る。
「……いつから起きてたの?」
ソファの上で、白い少女がのそのそと身体を起こしていた。
肩から滑り落ちた毛布を片手で引き寄せながら、もう片方の手で、寝癖のついた長い髪を適当にいじっている。
赤い瞳はまだ半分ほど閉じたままで、本人に起き上がる意思があるのかどうかすら怪しく見える。
……正確には、単純に身体を動かすのすらも難しい状態というだけなのだが。
シャーレに所属している生徒。
鶴喰カサネ。
本人曰く、シャーレの執務室は先生と当番の生徒がいる以上眠るには騒がしく、休憩室はカサネ目当ての来客が最近はとても多い。
その点、ゲーム開発部の部室は、多少騒がしいが、カサネを訪ねる者は随分と少ない。
故に最近は、何処からともなく現れて、部屋の隅で眠っていることが増えていた。
ゲームをする訳でもない。
開発を手伝う訳でもない。
ただ眠りに来て、時々会話へ混ざり、ちょっとしたアドバイスや困ったようなツッコミをしながらも眠り、そして気が済めばまた何処かへ帰っていく。
アリスやモモイなんかは時折抱き枕にするみたいに寝落ちしながら彼女に寄り添うことがあったり、丸一日眠るカサネが、放り投げられたクッションやら散乱した洗濯前の服やらにいつの間にか埋没してミドリとユズが顔を赤くすることがあったり、当然のように部室でキセルを吸うカサネをユウカが見つけかけて大騒ぎになりかけたりなどしたが。
今のところ、彼女とゲーム開発部との関係は、それだけだった。
「……アリスがクソゲーって宣言したあたりからかな?」
その隣でふと思い出したように、アリスは不思議そうに首を傾げたあと、ロッカーへ視線を向けた。
「……ユズ? ロッカーに隠れないで大丈夫ですか?」
「う、うん……この間ふたりで少しだけゲームしたから……大丈夫」
ユズが小さく頷く。
部室に初めて来てからというもの、カサネは人の懐へ強引に踏み込まないように気をつけているように見えた。
話しかけられなければ、平気で一日中誰とも話さずに過ごす。
その距離感が、ユズにとっては接しやすいものだったのかもしれない。
「……いつの間に……っていうかアリス、さりげなくユズにすごい失礼なことを……いや、その通りなんだけどさ……」
モモイは何か言いたげにカサネとユズを交互に見ていたが、すぐに諦めたように息を吐いた。
カサネは再びソファへ横になろうとして、少しだけ、止まる。
「……氷河に行くなら……安全には気をつけて、いつでも帰れるようにしてから行ってね。……先生か、セミナーかには声をかけた方がいいかな…」
先程までと変わらない、眠たげな声。
けれど、その声を聞いたミドリが、僅かに目を細めた。
ただの忠告にしては、言葉が妙に重かったような気がしたから。
実際に危険な目に遭った者が、何も知らない相手へ言い聞かせているような。
「……?」
モモイはそんな機微には気付かず、首を傾げる。
「……なんでですか…?」
「……うーん、……なんて言ったらいいかな……厄介な相手が居たから?」
「……え!? カサネは氷河に行ったことあるの!?」
「……厄介な相手……ですか?」
アリスも興味深そうに身を乗り出す。
二人の視線を受けて、カサネは少しだけ困ったように頬を掻いた。
「……あー…………私もこう見えて色々なところを冒険してたんだけどね、……ちょっと膝に………………というか身体中に矢を受けてしまってね……」
「身体中に!?」
「……教えてください! カサネはどんな冒険をしてきたんでしょうか……?」
アリスの瞳が、ゲームの中で新しいクエストを見つけた時のように輝く。
ほんの少しだけ考える。
何処までなら話してもいいのか。
何を話せば、ただの冒険譚として笑ってもらえるのか。
その答えは、簡単には見つからなかった。
けれども、なんとか本当のことを、冗談に聞こえるように。
或いは、冗談を話していると、自分自身にも言い聞かせるように。
「………ふふん、皆で力を合わせて、そりゃあもう色んな相手と戦ったよ? ……ひと噛みでビルを噛み砕く大蛇の化け物とか、無限に軍隊を呼ぶ引きこもりの機械とか、分身する奴に、よく分からない音楽家気取りの化け物に、闇から生まれた化け猫に……」
「……すごいです!」
アリスは一切を疑わなかった。
その全てを、存在するものとして受け入れた。
「……カサネも、勇者だったんですね!」
「……っ!」
その言葉が、痛かった訳ではない。
寧ろ、驚くほど温かくて。
だからこそ、どう受け取ればいいのか分からなかった。
カサネの唇が、小さく震える。
「……………いや、……私は……」
過去の光景が、瞼の裏へ浮かぶ。
助けられなかった人。
手を伸ばせなかった人。
それでも最後まで傍にいてくれた人。
自分を信じ、自分へ全てを預け、そして自分よりも先にいなくなってしまったアビドスの皆。
勇者なんて、そんな立派なものじゃない。
自分はただ、誰も失いたくなくて。
失うことに耐えられなくて。
最後には誰の言葉も聞かず、全てを一人で抱え込んだ、ただの臆病者だ。
「……私は勇者なんかじゃなかったよ。……最後には、全て自分一人で抱え込んで、結局、今になって……後悔ばかり……」
言葉にしてしまえば、もう笑えなかった。
「……だって、その皆こそが、……私の守りたいものだったから……だから……」
震える声で紡ぐ懺悔に、
しかしアリスは何も言わない。
言えなかったのかもしれない。
モモイも、ミドリも、ユズも。
誰一人として、軽々しく言葉を挟まなかった。
静かになった部室で、冷却ファンの回る音だけが目立つように聞こえる。
やがてアリスは、胸元へそっと手を置いた。
「……アリス、わかる気がします」
真っ直ぐに、カサネを見る。
「……あの時、自分が消えてしまうことよりも、皆を守れないことの方が、怖かったです」
カサネの赤い瞳が、僅かに揺れる。
自分が消えること。
大切な誰かを守れないこと。
それらを天秤に乗せるのはきっと間違っていて、けれど乗せなくてはならない時と言うのは往々にして存在してしまう。
「……勇者として正しいのかどうかは、分かりません。今も分からないです」
アリスの声に、迷いが混ざる。
けれど、その迷いは言葉を止めるためのものではなく、
自分の考えを確かめながら、一歩ずつ進むためのもの。
「……けれど、誰かを助けたいと願うことこそが、勇者の資格であるならば、」
そうして、確信する。
「……アリスは、やっぱりカサネのことを、勇者と呼びたいです」
ただアリスを見つめていた。
同じ顔。
同じ声。
けれど、自分を見つめている瞳だけは、確かに違う。
あの子ではない。
分かっている。
この子は、この世界で生きてきたアリスだ。
同じ相手として扱うことは、きっと失礼だ。
それなのに。
胸の奥に沈めていたものが、どうしようもなく揺れてしまう。
「……ふふっ……じゃあ先輩勇者だね」
沈黙を解いたのは、ミドリだった。
柔らかく笑いながら、アリスの言葉へ重ねる。
「……先輩?」
モモイは、カサネを上から下まで見つめた。
そして、少し悩んだあと。
「……私達の中でさえ一番小さいけど」
「で、でも……」
ユズが、慌てて言葉を探すように付け加えて。
「……一番物知りだし」
「では、決まりです!」
それから、アリスが嬉しそうに両手を上げた。
とても、ひたすらに、単純に、嬉しそうに
「……カサネ先輩!」
その呼び方を聞いた瞬間。
白昼夢みたいに、呼び起こされる景色。
顕現してしまった方舟と王女。
余波だけで死にかけるような無数の攻撃。
…そして、空の先、遥か遠くから聞こえてきた、もう二度と聞けないと思っていた声。
ほんの一瞬だけ。
本当に、ほんの一瞬だけ。
目の前の少女が、いつかの彼女と重なってしまって。
「…………あはは……」
「……いつぶりだろ……君に……そう呼ばれるの……」
ボロボロの愛想笑いと一緒に、息を吐くように呟けば、アリスが不思議そうに瞬きをした。
「以前にも、アリスはカサネ先輩を先輩と呼んだのですか?」
「……さあ、どうだったかなぁ…」
カサネは曖昧に笑いながら、目を逸らした。
これ以上、聞かれないように。
これ以上、自分が何かを口にしてしまわないように。
その時。
タイミング良く、机の上に置かれていたアリスのスマートフォンが、低く震えた。
乱雑に積まれていたゲームソフトのケースへぶつかり、ぶぶぶ、とくぐもった音を立てながら、僅かに位置をずらしていく。
「……電話です!」
アリスが画面を覗き込む。
表示された名前を見た途端、その表情が明るくなった。
「先生です!」
「え、先生から?」
モモイが倒れたまま顔を上げる。
ミドリも、先程までの疲れを少しだけ忘れたように、アリスの手元を覗き込んだ。
「なんだか久しぶりだね」
「……うん」
ユズが小さく笑う。
アリスは迷うことなく通話に応じた。
「もしもし、先生!」
嬉しさを隠そうともしない、弾んだ声。
それとは対照的に、スマートフォンから聞こえてきた先生の声は、少しだけ遠かった。
雑音が混ざっている訳ではない。
通信環境が悪い訳でもない。
けれど、普段よりも僅かに低くて、何かを言葉にする前に、一度考えるような間があるような気がする。
『"こんにちは、アリス"』
「はい! アリスです!」
自分の名前を名乗るだけなのに、どうしてそれほど嬉しそうなのか。
モモイは笑いながら、アリスの肩へ顎を乗せようとして、ミドリに引き離されている。
「先生とお話しするのは、久しぶりな気がします!」
『"ごめんね。最近、少し忙しくて"』
「みんなも先生に会いたがっています!」
アリスはスマートフォンを掲げると、全員の顔が見えるように通話を映像へ切り替えた。
ミドリは乱れきった自分の髪を見て、一瞬だけ表情を引きつらせて、
ユズは画面に映らない場所へ退こうとして、しかしアリスに手を掴まれ、元の場所へ戻される。
そして。
画面の端に、ソファの上で毛布に包まれている白い少女が映り込んだ。
『"……あれ?"』
先生が瞬きをする。
『"カサネもいるの?"』
「……いますよ」
カサネは毛布から顔だけを出したまま、眠そうに答えた。
「……昼寝してました」
『"……えっと、なんでゲーム開発部の部室で?"』
「…最近の穴場スポットなんです」
先生は何か言いたげに口を開いたが、結局、諦めたように小さく笑った。
ゲーム開発部の面々も、既に似たような反応を何度か済ませている。
何故シャーレ所属の生徒が、わざわざミレニアムの一部室まで眠りに来るのか。
何故これほど騒がしい場所で眠れるのか。
そもそも、いつ入ってきているのか。
疑問は幾つもあったが、尋ねても大抵、「静かだから」とか「落ち着くから」とか、明らかに現状と矛盾した返答しか戻ってこない。
今ではもう、深く考えないことにしていた。
『"とにかく、みんなそこにいるんだね"』
「全員集合してるよ!」
モモイが画面へ大きく手を振って近況を報告するように告げた。
「新しく作ったゲームのテストをしてたんだ!」
『"そうなんだ。出来はどうだった?"』
「……………………楽しく作れました!」
数秒の無言の間を経て、アリスは胸を張った。
モモイが賛同を示すように頷き、
ミドリは何かを言おうとして、諦めたようにやめた。
ユズも困ったように視線を伏せる。
カサネは毛布の中から、僅かに顔を逸らした。
嘘ではない。
確かに、作る過程は楽しかったのだろう。
何一つ嘘は言っていない。
「それより先生」
アリスが、画面へ顔を近づけた。
「いつもと少し、声が違います」
その言葉に、部室の空気が僅かに変わった。
モモイの笑顔が止まる。
ユズは不安そうに、両手を胸元で握った。
カサネはまだ毛布に包まれたままで、けれど、半分ほど閉じられていた赤い瞳だけが、ゆっくりと開いていた。
『"……分かる?"』
「はい」
『"…そっか"』
先生は少しだけ困ったように笑った。
いつもの笑顔だった。
生徒を安心させるための、柔らかな表情。
だからこそ、それが本心から出たものではないと、カサネには痛いほど分かってしまう。
『"みんなに、お願いしたいことがあるんだ"』
モモイが、隣にいるミドリを見る。
ミドリも僅かに眉を寄せた。
先生が生徒へ助けを求めること自体は、珍しいことではない。
けれど、これほど言いづらそうにするのは、珍しい。
先生は、ゆっくりと事情を説明した。
氷河で続いている調査。
遭遇した巨大な預言者。
その背後に存在する、アイン、ソフ、オウルと名乗る三人。
そして、あらゆる可能性を重ね合わせ、攻撃そのものを成立させなくする、多次元の障壁。
全てを理解するには、あまりにも突拍子がない話だった。
けれど、先生の声は冗談を言っていない。
画面の向こうに見える背景も、普段のシャーレではなかった。
冷たい金属の壁。
忙しなく動き回る人影。
遠くで点滅している、警告灯の赤い光。
それらが、今まさに何かが起きていることを証明している。
説明を聞きながら、カサネはゆっくりと身を乗り出して、毛布が肩からすこしだけ落ちる。
白い髪がソファの上から床へと流れた。
「……多次元解釈の、障壁……」
誰にも聞かせるつもりのない声。
それでも、隣にいたミドリには届いた。
「…カサネさん?」
「……ううん、…なんでもない」
カサネは眠たげに目元を擦りながら、言い聞かせるみたいに言う。
「……なんでもないよ」
眠気は、もうほとんど残っていない。
一通り話を聞いて最初に口を開いたのはミドリとモモイだった。
「氷?」
「河!」
ユズは一度周囲を見回してから、遠慮がちに。
「……探?」
最後にアリスが、両手を上げた。
「検です!」
「氷河探検だ!」
モモイが叫ぶ。
ほんの少しだけ。張り詰めていた空気が緩んだ。
「やったね、アリス! ちょうど氷河へ行こうって話してたところだよ!」
「はい! 素晴らしい偶然です!」
「お姉ちゃん……遊びに行くんじゃないんだよ」
ミドリが頭を抱えて、それからため息を吐きながらモモイの肩を両手で揺すって言う。
「先生の話、ちゃんと聞いてた? 巨大な変身怪獣がいて、その親玉が隠れてそうなところに行くために、アリスちゃんの力が必要になるかもしれないって……」
「分かってるってば」
ゆらゆらと揺すられながらも、寧ろモモイの声は少しだけ落ち着いている。
「でも、先生が困ってるんですよね?」
難しい理屈もない。
勝算も、合理的な根拠もない。
ただ困っている仲間がいる。
だから、助けに行く。
その単純な勇気を示すように、アリスが画面を見つめた。
「……先生」
「どうやって、そこへ向かえばいいですか?」
『"アリス"』
先生の表情が、分かりやすく曇る。
『"まだ行くと決めなくていいんだよ"』
「…先生は、アリスたちの仲間です」
迷いのない声。
言葉そのものが力を持つような、勇者の想い。
「仲間が大変な時には、一緒に戦うものです。パーティープレイの基本です」
『"……そう思ってくれるのは嬉しい。でも、これはゲームじゃないから…"』
「はい」
アリスは頷く。
「分かっています」
ほんの一瞬だけ。
アリスの表情に、過去の影が落ちた。
自分の力で、モモイを傷つけたこと。
自分の中にいたケイに身体を奪われたこと。
世界を滅ぼす王女として目覚めかけたこと。
ゲームと現実の違いを。
失敗した時に、誰かが本当に傷つくということを。
アリスはもう、知っている。
「アリス達の安全を保証できないかもしれないのですよね」
『"……うん"』
「それでも、アリスは行きたいです」
アリスの胸元に置かれた手が、強く握られる。
「困っている人がいるのなら、力になりたいです」
「アリスちゃん……」
ユズが、眩しいものを見るようにアリスを見つめた。
「……アリスはまだ見習いですが、勇者ですから」
その言葉に。
カサネの指が、僅かに毛布を握った。
つい先程、自分へ向けられた言葉。
勇者。
まだ、どう受け止めればいいのかは分からない。
けれど、アリスがそうありたいと願っていることだけは、痛いほどに知っていて、それに救われている自分がいたのもよく覚えている。
『"もし、本当に危険になったら?"』
「その時は」
アリスは、ほんの少しだけ考えたあと。
「生徒へジョブチェンジして、安全な場所へ隠れます!」
と告げて、珍しく真剣に聞き入っていたモモイが、いつもの調子を取り戻すように噴き出した。
「それいいね!」
それを見て、ミドリも呆れながら、僅かに笑う。
「で、でも、逃げるって決めておくのは大事だと思う」
ユズも、小さく頷いた。
『"約束できる?"』
「はい!」
アリスは大きく頷く。
「勇者は、必ず約束を守ります!」
『"モモイも、ミドリも、ユズも"』
「もちろん!」
「……先生の指示には従います」
「わ、私も……ちゃんと逃げます」
三人の答えを聞いても。
先生の表情から、不安は消えなかった。
それでも、無理に止めようとはしない。
生徒の選択を、自分の心配だけで否定しない。
それが先生なのだと、カサネは知っている。
そして。
だからこそ。
「……先生」
カサネが呼びかけた。
画面の向こうで、先生がこちらを見る。
『"…カサネ?"』
「……私も行きます」
今度こそ。
部室から、完全に音が消えた。
モモイが目を丸くする。
ミドリも、聞き間違いではないかとカサネを見つめた。
ユズはどこか不安そうに、細い身体へ視線を向ける。
アリスだけは、驚きよりも先に嬉しそうな表情を浮かべた。
「カサネ先輩も、パーティーへ加入するのですか?」
「……うん」
『"待って、カサネ"』
先生の声が、僅かに強くなる。
『"今の話、ちゃんと聞いてた?"』
「……聞いてましたよ。…もちろん」
『"危険すぎるよ。そもそも今のカサネはーー"』
言葉が途切れる。
先生が何を言おうとしたのかは、分かった。
今の私は、死にかけという表現すらも、もしかしたら生ぬるいかもしれない。
最近は、もはや1日に1、2時間起きていることすらも難しい。
戦闘になれば、神秘解放なしではどこまで動けるのかも分からない。神秘解放で燃やせる寿命が残っているかも分からない。
それでも。
「……それでも」
カサネはソファから足を下ろした。
立ち上がろうとして、身体が僅かに揺れて、しかし、今度こそ自分の足で立つ。
「…きっと相手は、名もなき神の力を知っている相手でしょうから…」
『"…!?"』
先生の表情が変わる。
ただ、自分の掌を見る。
かつて浴びた光。
神秘を削り取るように再定義を強いられ、存在そのものを消し去られかけた力。
あの戦いを生き残ったことに、この世界でも意味を持たせられるのだとしたら。
「……似たようなものを、相手を、知ってます。戦ったことがあります。……だから、少しは役に立てるはずです」
『"…カサネ"』
「……それに、アリスだけに背負わせる訳にはいきませんから」
アリスが僅かに目を見開く。
その言葉の意味を問いかけるより先に、カサネは柔らかく笑った。
「……私は勇者じゃないかもしれないけど」
一度だけ、言葉に迷う。
けれど、つい先程もらった呼び名を。
自分から名乗るには、まだ少しだけ恥ずかしいそれを。
「……先輩、らしいですから」
アリスの表情が、ぱっと明るくなった。
「はい! カサネ先輩は、アリスの先輩勇者です!」
「……だから、違う場所で覚えたことを、少しくらい後輩に教えてから、……引退しないと…」
冗談めかした声。
恐らく、ゲーム開発部の皆には意味が分からない。
実際、モモイは首を傾げている。
ミドリも、何かを聞こうとして躊躇していた。
それでいい。
この世界の皆に、全てを話す必要はない。
先生は画面の向こうで、長い間何も言わなかった。
カサネの体調。
これまでの無茶。
そして、行くと決めた時の彼女を止めることが、どれほど難しいか。
その全てを考えているようだった。
『"……絶対に、無茶はしないこと"』
「……はい」
『"体調が悪くなったら、すぐに言うこと"』
「……善処します」
『"…カサネ"』
「…………言います」
少しだけ強く呼ばれ、カサネは観念したように頷いた。
『"それから"』
先生は一度息を吸う。
『"いざと言う時、自分だけ残って、みんなを逃がそうとしないこと"』
カサネの笑顔が止まった。
何も言えない。
先生は、カサネが何をしようとするのか分かっている。
誰かが犠牲にならなければならなくなれば。
迷うことなく、自分がその場所に立つと。
『"カサネ……約束して"』
「…………」
目を逸らす。
けれど、逃げるように逸らした先に、アリスがいた。
真っ直ぐに、カサネを見つめている。
モモイも。
ミドリも。
ユズも。
まだ出会って、それほど長い時間が経った訳ではない。
時々現れて、勝手に眠って。
少しだけゲームをして。
時折、会話へ混ざる。
今の関係は、それだけだ。
けれど。
それだけの相手にさえ、心配そうな顔をさせている。させてしまっている。
「……………………約束…します」
ようやく。
カサネは、そう答えた。
先生はすぐには何も言わなかった。
ただ一度、確かめるようにカサネを見つめてから。
『"ありがとう"』
小さく笑った。
『"詳しい場所と移動手段は、モモトークで送るね"』
「了解!」
モモイが元気よく返事をする。
「氷河だー!」
「だから遊びじゃないってば!」
一気に騒がしさを取り戻した部室を見て、先生は少しだけ安心したように笑った。
そして最後に、思い出したように。
『"みんな、暖かい格好で来てね"』
と、それだけ伝えると通話が切れる。
スマートフォンの画面が暗くなり、再び古い冷却ファンの音が聞こえ始めた。
「よーし!」
モモイが両手を上げる。
「ゲーム開発部、氷河取材遠征の準備開始!」
「調査の協力でしょ!」
「両方やれば一石二鳥だよ!」
「……ゲーム機は持っていかなくてもいいよね?」
騒ぎ始めた三人を横目に、アリスがカサネの前へ立った。
それから、手を取って呼びかけるみたいに、真っ直ぐにこちらを見つめて、それから言うんだ。
「カサネ先輩」
「……うん?」
「カサネ先輩と一緒に冒険できて、アリスは嬉しいです!」
何の疑いもなく。
何の含みもなく。
ただ素直に、そう告げる。
耐えきれず、少しだけ目を細めた。
あの子ではない。
同じ顔をしていても。
同じ声をしていても。
この子は、この世界のアリスだ。
だから。
今度こそ、間違えないようにしなければならない。
「……うん」
「……私も楽しみだよ」
「はい!」
何とか笑って答えれば、アリスは嬉しそうに頷いてくれた。
…アビドスでの助力は、まだおおよその未来を知っている状態での助太刀だった。
けれどここからは、本当に予測できない未来が待っている。
少なくとも預言者であれば、前の世界で何度も退けたことはある。油断する訳では無いが、最悪全員を逃がす程度のことはきっとできるだろう。
今回の戦いの果てに、ただのひとりだって犠牲になることのないようにしなければならない。
もちろん私も含めてというのが理想なのは違いないが、それでも余命幾ばくもない私を捨てて、皆の命を助けることができるのなら、
その時は…
…約束を破る価値は、ある。
未だこちらをキラキラと見つめるアリスの頭を、座ったまま少しだけ背伸びして、そして優しく撫でて微笑んだ。
本質的に私は偽物に過ぎないのだろう。
それは、先生であることも。
そして、勇者であることも。
人を救い、世界を救う。
あまりに重い責務の果て、
心身諸共見る影もないくらい喰らい尽くされ、
それでも今度こそ、この世界を守って死のう。
偉大なる先達と、
無邪気な後輩に、
少しだけ身勝手な呪いを遺して。