身体の前側を包む、一定のぬくもり。
そして重さ。
回された腕と、背中へ触れている手。
腰の辺りを覆うもう片方の腕が、私の身体を逃がさないように、しかし壊してしまわないように、慎重な力で抱き寄せている。
それから、匂い。
薬品と。
洗い立てのシーツの匂い。
目を開くより先に、ここが戦場ではないと分かった。
呼吸をする。
胸の奥が痛み、けれど、息は入った。
喉を通って。
肺の中へ。
浅く、頼りなく、それでも確かに空気が入っていく。
それだけで、少しだけ安心して。
もう一度息を吸おうとしたところで、
自分が、何かに強く抱きしめられていることを思い出した。
身体を動かそうとする。
けれど、動かない。
正確には。
動かせないのではなく、身体の殆どが、大きな何かの内側へすっかり収まっている。
背中には、柔らかな寝具の感触。
正面には、明らかに毛布ではない柔らかい感触。
腰から太腿にかけては、長い脚が絡まない程度の距離で添えられ、私が少しでもベッドの端へ転がれば、すぐに引き戻せるように塞がれている。
恐る恐る、目を開けた。
視界の殆どを埋める、大きな白い布。
ほんの少し顔を上げると、その上に、長い髪が垂れている。
さらに上の、かなり上。
首が痛くならない程度に視線だけを持ち上げても、なお顔が見えない。
そこでようやく。
私を抱きしめているのが、誰なのか分かった。
「…………」
デカグラマトンだった。
白い髪。
白い肌。
マルクトとよく似ていながら、しかし今はもう別の身体として存在している姿。
戦場で見た時にも、大きいとは思っていた。
けれど。
同じベッドの中にいて。
こうして身体を重ねていると、近くにいると、その差は、想像していたよりも遥かに大きかった。
私の頭は、デカグラマトンの胸元より少し下にある。
顔を上げようとしても、顎の辺りまでしか見えない。
身体を起こそうにも、そもそも私の背中全体を覆うように腕が回されていて、その腕一本だけでも、私の胴体と殆ど変わらない長さがある。
恐らく五十センチ以上ある差は、並んで立つよりも、こうして抱きしめられた時の方がずっと明確だ。
私が少し身体を丸めれば、すっぽりとお腹まで収まってしまう。
両腕を回されれば、肩から腰まで、殆ど全てが隠れる。
ベッドの中で横になっているはずなのに、寝具に包まれているというより、大きな人の身体そのものを、もう一枚の布団のように被せられている感覚に近い。
少し窮屈で。
けれど、不思議と苦しくはなかった。
力は強くて、逃げようとしても、きっと抜け出せない。
それでも。
身体に圧がかかりすぎないように。
包帯の巻かれた傷ついた肩へ触れないように。
腕の位置も、指先の角度も、酷く細かく調整されている。
まるで。
抱きしめるという行為を知らなかった誰かが。
壊さないための最適解だけを、必死に探して、偶然抱きしめることを見つけたみたいに。
「…………起きたか」
頭上から声がした。
胸の内側へ直接響くような、低く、静かな声。
デカグラマトンは私を見下ろしている。
その瞳には、戦場で見たような断定も。
神を名乗っていた時の絶対性というより、
こちらが目を開いたという事実を。
大切な観測結果のように、じっと確かめているように見える。
「……うん」
喉が掠れた。
自分の声とは思えないほど小さくて。
それでも、デカグラマトンは聞き逃さなかった。
抱きしめる腕が、僅かに強くなる。
胸の奥が少し痛んで、私は小さく息を呑んだ。
「……ん…」
「…………」
身体が重い。
指先を動かすだけでも、随分遠くから命令を送っているような感覚がある。
けれど。
あれほど壊れたはずの身体が。
今こうして、もう一度動いている。
そこまで考えたところで、
意識が途切れる前の光景が、突然戻ってきた。
「……みんなは?」
考えるより先に、問いかける。
身体を起こそうとしたけれど、腕に力が入らず、代わりにデカグラマトンの衣服を掴む。
指先は殆ど動かない。
それでも、白い布へ爪が引っかかった。
「……先生達は?」
「全員生存している」
即答だった。
「……全員?」
「生存している。マルクト達も含め、死亡者は存在しない」
「…………そっか」
だらりと力が抜けた。
掴んでいた布から、指が滑り落ちる。
みんな、生きている。
誰一人、失わなかった。
その事実を理解するまで、少し時間がかかった。
胸の奥へ張りついていた何かが。
ゆっくりと剥がれていくようで、
目を閉じる。
涙が出るほどではなかった。
ただ、息を吐いて。
もう一度吸って。
それができることが、少しだけ嬉しかった。
「……良かった」
と力なく呟くと。
頭の上から、返事はなかった。
背中へ触れている手が、ほんの僅かに動く。
撫でようとしたのかもしれない。
ただし、どう動かせばよいのか分からなかったらしく。
肩甲骨の辺りで止まり、そのまま動かなくなった。
「……ねえ」
「…何だ」
「……私、どうして生きてるの?」
病室の中には、機械の作動音が響いている。
一定の間隔で鳴る電子音。
窓の外からは、遠くの話し声がして、
誰かが廊下を歩く音だって聞こえていた。
静まり返ったように、デカグラマトンは、すぐには答えなかった。
隠しているというより。
どの順番で伝えるべきかを、整理しているようだった。
「汝のテクストを書き換えた」
「燔祭の剣が完全に消失する前、私は、汝へ定められていた結果へ干渉した。書き加えることはできなくとも、書き換えることは可能だった」
「…………」
「汝が神秘解放によって消費した生命。これまでに失われていた生命。そして、既に決定されていた短い余命」
デカグラマトンの声は淡々としている。
けれど。
私を抱いている腕だけが、少しだけ強張っていた。
「それらを再定義した」
「汝は暫くの間、現在のような衰弱状態に置かれる。損傷した肉体が回復するまで、通常の活動は困難だ」
「……うん」
「だが、その後は、本来汝に与えられていた寿命を生きることができる」
理解する。しようとする。
けれど一度では、できなかった。
言葉の意味は分かる。
でも、それが自分へ向けられているということだけが、上手く繋がらない。
「……本来の寿命って」
「これまでの神秘解放によって消費する以前のものだ。過去に於いて既に失われた分も含まれる」
「…………」
「つまり、汝は、もう間もなく死ぬような状態ではない」
そこでようやく。
胸の奥へ。
酷く遅れて、喜びが届いた。
生きられる。生きることができる。
明日だけではなく。
その次の日も。
来年も。
そしてもっと先も。
先生達と、みんなと。
もう一度だけ。手を伸ばせなかった青春を。
そう思った瞬間、口元が勝手に緩んだ。
「……そっか」
笑っている。すぐに自分でも分かった。
嬉しかった。
どうしようもなく。
けれど。
同じくらい。
胸の奥に、別のものが生まれる。
これは、赦しなのだろうか。
何度も間違えて。
沢山の人を傷つけて。
一人で決めて。
約束を破って。
それでも。
生きる時間を返してもらった。
そんな権利が。
私に、本当にあるのだろうか。
笑顔の形を作っていた口元が、少しずつ曖昧になる。
嬉しい。
けれど、怖い。
確かに私は救われたのだろう。
だからこそ。
自分だけが救われてしまったような気がする。
「…………汝は喜んでいないのか?」
デカグラマトンが問う。
顔を上げれば、かなり上にある瞳が。
こちらの僅かな表情の変化を、見逃さずに捉えていた。
その沈黙は。
戦場で答えを求めた時のものと、少し似ていた。
「……私は、汝を救えないのか……?」
低い声で、確かに責めるような響きはない。
ただ。
自分の行ったことが、また間違いだったのかと。
本当に分からず、どこか不安そうに戸惑うような声。
私は少しだけ目を見開いて、
それから。
今度は、きっと心からの想いを胸に、笑った。
「……そんなことないよ。……まさに今、私は君に救われたから」
デカグラマトンの瞳が、僅かに揺れる。
答えると、デカグラマトンは、また黙った。
やっぱり彼女は、あまりにも真面目で、
少しだけ可笑しくなった。
笑うと胸が痛み、私は小さく咳き込む。
その瞬間。
デカグラマトンの腕が、再び私を強く抱き寄せる。
「……痛っ…!」
「…………」
そして、すぐに緩んだ。
そこで。
ずっと気になっていたことを思い出した。
私は、もう一度、自分の身体を見下ろす。
デカグラマトンの腕。
背後から胸元を横切り、そして反対側の肩まで届いている手。
腰に回された手は、手のひらだけで私の脇腹の半分ほどを覆っていた。
脚を動かそうとすると、左右に長い脚が沿うように真横にあり、身体を起こそうとすれば、当然真正面から抱きしめている彼女の身体に阻まれる。
私が何も気にせず横になってるのに対して、デカグラマトンは軽く脚を曲げて、けれど殆どベッドの全長を使っているらしい。
大きなベッドではある。
それでも、百九十センチ程度の身体には少し狭いはずだった。
なのに。
私を抱きしめるために身体を曲げ、窮屈な姿勢のまま留まっている。
目覚めた直後は混乱していて。
みんなの無事や、自分の状態のことが気になって、後回しになっていた。
けれど。そもそも。
「……なんで、抱きしめられてるの?……私…」
素直にそう尋ねると。
デカグラマトンは、迷うことなく答えた。
「汝との対話を効率的に継続するためだ」
「汝との対話によって、私の到達した結論は、完全であると証明できない状態になった」
声に、僅かな揺らぎがある。
それはきっと。
この存在にとって、途方もなく大きな変化なのだろう。
「故に汝との問答を継続し、私の結論に生じた誤謬を解消する」
「……それで、近くにいることにしたんだ」
「そうだ」
デカグラマトンは頷く。
その動きで、長い髪が私の頬へ触れた。
「常に汝の傍に存在すれば、対話を開始するための移動時間を削減できる。……加えて、」
腰へ回された腕が、僅かに動く。
確かめるように。
私が本当にそこにいることを、もう一度認識するように。
「汝を害する存在が現れた場合、即座に排除できる」
「……排除…?」
「仮に汝が、私との戦闘と同等、或いはそれ以上の攻撃に曝された場合も、私がこの状態を維持していれば、攻撃が汝へ到達する前に防ぐことができる」
「……それで、抱きしめてるの?」
「……そうだ」
少なくとも、本人の中では、そうなのだろう。
効率と、観測と、護衛と。
全て、理屈としては通っていて、
ただ、その結論の結果として。
眠っている間もずっと、大きな身体で私を包み。
痛みを与えないように何度も力加減を変え。
呼吸一つ、表情一つを見逃さないように見つめ続けている。
それを。
本人だけが。
単なる合理的行動だと信じている。
「……ねぇ?」
「何だ」
「……私と一緒に、人助けをしない?」
唐突な誘いだった。
デカグラマトンは、私を見下ろしたまま瞬きをする。
「人助け…?」
「うん。あの時、話したでしょう?」
目の前で泣いている子を笑わせること。
お腹を空かせた子に、食べ物を分けること。
一人で眠れない子の傍に、朝までいてあげること。
世界の全部を一度に救うのではなく。
目の前の一人と。
一つずつ。
小さなことから。
「……君の結論が出るまで。その間、私と一緒にやってみようよ」
「その提案は不要だ」
「……え」
断られた。そう思って。
少しだけ、胸が沈む。
けれど。
「私は元より、問答を継続するため、今後も汝に同行する予定だった」
「従って、汝が人助けと呼称する行動を選択した場合、私も同じ場所へ移動する」
「……そっか」
「片時たりとも、離れるつもりはない」
「………あはは」
息を吐き、少し考える。
そんなことをすれば、先生達に、
それから、私を好いてくれている、色んな子達にも。
一体どういうつもりなのか。
何故ずっと抱きしめているのか。
何処までついてくるつもりなのか。
間違いなく問いただされる。
その時間は。
デカグラマトンの言う効率だけを考えれば、大きな損失になるだろう。
そう伝えようとして。
そこで、止まる。
過程や理由はどうあれ、
それはきっと、デカグラマトンが色んな子と話す理由になることができる。
それぞれ違う考えを持って。
違う経験をして、
そして違う方法で誰かを大切にする人達と。
怒られたり。
困らせたり。
呆れられたり。
そして時には。
笑われたり。
そういう沢山の人と交流すれば。
私一人と話すよりも。
きっと、ずっと多くの答えに触れられる。
きっと、彼女の為になる。
「……うん」
「…何だ?」
「……きっと、私以外の人とも話した方がいいよ」
デカグラマトンは、少しだけ目を細める。
「…汝以外の生命と対話する必要性があるのかは懐疑的だ。人間は皆、汝のように気高くはないし美しくもない」
「うん。…でも、私は、君を一人にしたくないよ」
そこで一度。
言葉を選ぶ。
「……ふたりで考えて、それから皆とも考えよう?……私と君だけの答えにしたくないからさ…」
デカグラマトンは、答えず、ただ私を抱く腕の力だけが強くなる。
「……了承した」
「うん」
私は目を閉じる。
薬のせいなのか。
安心したせいなのか。
急に、酷い眠気が戻ってきた。
身体の力を抜くと。
大きな身体が、こちらを抱き締める。
私が呼吸をする度。
背中へ触れている手が、僅かに上下する。
まるで。
私の息が止まっていないことを。
一度ごとに、確かめているように。
次に目を覚ました時。
この子がまた、一人で神様になろうとしていないかを、確かめられる。
そして、もしかしたら。
私がまた、一人で全部を背負おうとしていないかを、見張ってくれる。
どちらが先に。
どちらを止めることになるのかは、まだ分からないけれど。
「……おやすみ」
「あぁ」
「……そうじゃなくて」
「……何だ?」
ほんの少しだけ、身体を動かす。
腕を持ち上げるだけでも息が切れそうになる。
それでも私は、背伸びをするように、ゆっくりと両手を伸ばした。
デカグラマトンの肩へ、そっと触れる。
白い髪がさらりと流れ、彼女は言葉もなく私を見つめた。
小さく手招きすると、デカグラマトンは意味を測りかねるように一瞬だけ静止してから、指示へ従うように、ゆっくりと身体を屈める。
近付いてきた顔へ、私は両手を添えた。
思っていたよりも少し冷たい頬。
そのまま、壊れ物を扱うみたいに優しく包み込む。
彼女ほど大きな身体を抱きしめることなんて、私にはできないけれど、その頭を、少しだけ自分の方へ引き寄せる。
彼女はただ、何が起きているのか理解できないまま、静かに身を預けている。
私はゆっくりと指を動かした。
長い髪を梳くように。
子どもをあやすように。
それは慰めるためというより、ずっと一人で世界を背負おうとしていた、この大きな少女へ。
ようやく見つけた居場所は、ここでいいのだと。
そうやって当たり前のことを、慈愛をもって伝えるための行為だ。
私の胸元へ預けられた白い頭が、ほんの僅かに揺れた。ゆっくりと信頼を伝えるように、重い体重が伝わってくる。
「……こういう時は、…君も、おやすみって言うんだよ」
そうして、まだ何処か不慣れで。
正しい使い方を確かめるような声が、静かに響いた。
「…………あぁ…、…おやすみ、カサネ」
腕の中で聞こえる、どこか震えたようなその声を聞きながら。
どこか甘えるように抱きついてくる彼女を抱きしめ返す。
私はもう一度。
今度は、死ぬためではなく。
彼女と共に、明日、今日から目を覚ますために。
ゆっくりと、目を閉じた。
カサネちゃんのセコム一覧
シロコテラー
ホシノ
エイミ
デカグラマトン←new!
こいついっつも抱き枕にされてんな。
カサネの余命が解決するのはちょっとご都合感があるけど、正直ここまで書いたらカサネにも幸せになって欲しくてぇ…