点滴の垂れる音が微かに聞こえる。普通心電図モニターの方が音が大きいから聞こえる訳が無いんだろうけど、何故か今日は感覚が鋭敏で聞き取る事ができた。
付きっ切りでいたら、そう言う事もあるのかもしれない。
ベッドに横たわる少年には、聞こえているのだろうか。
自分の命の砂が零れる音を、彼は聞いているのだろうか。
「先生、そろそろ休まれては?」
「ああ、ありがとうございます。じゃあもうちょっとだけここにいますね」
「そうですか……あまり無理しないでね」
僕を心配してだろうか、最初は看護師の顔をしていた彼女は、去り際に恋人の顔になっていた。或いはそれは、僕がこの子にかかりきりな事に不満だと言うアピールなのかもしれない。
考え過ぎか。だがこの子の容体が急変してからあまり時間が取れていないのも事実だ。今度何か埋め合わせをしないと。
もう夜も遅い。外には雪が降っていてさぞロマンチックなのだろう。だがどうしてもそう言う気分にはなれない。
何とはなしにそちらに目を向けていると、声をかけられた。
「先生……?」
「
「うん。先生何でここにいるの?」
「え?あー、恭弥くんが起きたら暇になるなと思ってさ」
「待ってたの?変なの」
「そう言うなって」
一日の大半を寝て過ごす彼の生活リズムは不安定で、こうやっていつ目を覚ますかは分からない。今みたいな時間に起きても周りの子達は寝てしまっているから、きっと寂しく感じるだろう。だからできるだけ待っている。それだけの事。
「先生あのね、夢見てたの」
「どんな夢?」
「前に友達と遊んだ時の夢。凄く久しぶりに遊べて楽しかった」
「そうかー。良かったね」
「うん、今度はほんとに遊びたいな」
「……そうだね」
この子は既に余命宣告されていて、もう一人で立つのも難しい。だけど治ったら何がしたい、どこに行きたいと僕に話してくれる。自分の命の事を知っているのか知らないのか、この子はまだ、この先も生きていけると考えている。
僕は、それが苦しい。
医者だからこそ、この子を近くで見てきたからこそ分かる。この子はもう長くない。
勿論親御さんには伝えてある。だからと言って彼が知っているとは限らないし、もしそうなら彼から将来への希望をいたずらに取り上げるべきではない。
故に、まだ話せずにいる。僕は大丈夫、すぐ良くなると嘘をつき続ける。
「
次の日、小児内科のお局として有名な看護師が話しかけてきた。
「はい、それが何か?」
特に接点も無かったから気のない返事をしてしまったが、お局は気にしていないようだった。
「いやね、前までそんな事無かったじゃない。なのに恭弥くんだけは違うなって、何か理由でもあるのかなって皆で話してたんですよ」
「そうなんですか……別に大した事じゃないですけどね」
そう、本当に大した事ではない。
「昔亡くなった弟に、何と言うか雰囲気が似てて、それで気になってしまったと言うか……」
「まあ、そうなんですね……弟さん好きだったんですね」
「……ええ」
本当はそこまで好きじゃなかった。ただ一つ、死に目に会えなかった事が気掛かりなだけ。
「先生の気持ちは分かりますけど……でもあまり入れ込み過ぎは良くないですよ?」
「……分かってますよ」
去って行く背中に、小さく投げかける。
そんな事、医者だから当然だ。僕はただ、あの子が亡くなるのを最後まで見届けたいだけ。
そしてその時は、意外と早く訪れた。
恭弥くんの体はもう限界で、今夜が峠だと僕は診断した。ご家族の方と話し合って、せめて苦しまない最後にしようと言う事になった。
薬を投与された恭弥くんは、さっきまでとは打って変わって穏やかな表情を浮かべていた。
親御さんがベッドの傍らで手を握っているのを、僕は後ろから眺めていた。最後まで一緒にいようとする、見慣れた家族の光景だ。
「先生……」
薄く目を開けた恭弥くんが僕を見ていた。
「なんだい?」
「体、全然痛くなくて、僕、もしかして治ったの?」
親御さんの方をちらりと見て、それから言葉を紡ぐ。
「ああ、そうだよ。もう大丈夫だ」
「ほんとに?また歩ける?また友達と遊べる?」
「うん、次に寝て起きた時にはね、すっかり大丈夫になってるよ」
「そうなんだ……ねえ先生、ちょっと耳貸して」
親御さんがいる方とは反対に回って、顔を近づける。
「ねえ、先生」
彼のか細い息が耳にかかる。
「先生、嘘つきだね……でもいつもありがとう」
心臓が止まった気がした。
恭弥くんは、今までと同じ様に笑っていた。
日を跨ぐ前に恭弥くんは亡くなった。11年の短い生涯の最期は、とても穏やかなものだったらしい。
僕はまた、彼の死に目に会えなかった。
気分が悪くなったと言い訳して病室を出た僕は、電話が鳴るまで誰もいない屋上で一人、フェンスにもたれて座っていた。
嘘つきだね、と言われた。
僕は恭弥くんの死を見届けるために、彼の傍にいた。言い換えれば誰よりも僕が、彼の死を望んでいたのかもしれない。
恭弥くんは、そんな僕の上っ面だけの言葉に気付いていた。
そして、いつもありがとうと言った。
こんな僕の言葉が、恭弥くんの生きる希望になってしまっていた。彼が希望を最期まで捨てなかったのは、僕の嘘で塗り固められた言葉のせいだ。
なんて、不誠実だったのだろう。
「神戸先生、大丈夫ですか?」
「はい?」
あれから半年が経った頃、またお局に声をかけられた。
「先生、最近担当になった子とずっと一緒にいて……前はそんな事無かったでしょう?無理とかされてないかなって」
「ああ、無理なんて全然」
無理なんてしてない。ただ自分のすべき事をやっているだけだ。
「先生ー!」
頭にニット帽を被った女の子がこちらに駆け寄ってきた。
「どうしたの?」
「はいこれ」
折り紙で作った箱だった。
「先生、いつもありがとー」
「凄いじゃん、ありがとう」
「ねえ先生、今日外に出て良いって言われたの」
「そうなんだ、良かったね」
「私、元気になってるって事かな?退院できるかな?」
「うん、きっと大丈夫だよ」
「そうだよね……またね、先生!」
「うん!またね」
女の子は来た時と同じ様に、元気に廊下を走って行った。振り返ると、お局が厳しい顔で僕を見ていた。
「先生、ああ言うのはあまり……」
「分かっていますよ、でも」
彼女は既に余命宣告されていて、もうそこまで長くないだろう。今日外出の許可が出たのも、そう言う事だ。
だけど。
「プラシーボって言うでしょう?治ると思っていたら実際に治る事だって、ありますよ」
「そんな、不確かな事……」
「それにですね」
僕は嘘をつく度、彼の顔を思い出す。最後まで希望を捨てなかった、彼の笑顔を。
「嘘でも希望を持たす事が、僕にできる最大限の責任の取り方なんです」
「はぁ……」
お局には僕の言葉の意味は理解できていないだろう。
別に理解されなくたって構わない。だけど僕は、あの日ありがとうと言ってくれた彼に、今度こそちゃんと向き合うと決めた、ただそれだけなのだから。
だから僕は、偽りの希望を与え続ける。きっと、この先一生。
それが彼の希望になった、僕の罰だ。