「あっ、髙橋サ〜ン」
午後四時三十分、木漏れ日の降り注ぐ、公園の遊歩道。そこに、どこか間の抜けた声が響き渡る。
高橋と呼ばれた少女は、声の主へと振り向いた。翡翠色の黒髪がふわりと風に舞い、柔和な微笑みが光を反射する。彼女を見つめる瞳が、僅かに揺れた。
「なにやってたの、こんな所で」
「見て下さい。あの木、少しだけ、
「こうやって見上げていたら、いつか木が私の手を握り返してくれるような……そして、私の知らないどこかへと連れて行ってくれるような。そんな気がするんです。まあ、木下さんにはわからないと思いますが」
「なんか煽られた気はするけど……ちょっと、私の理解の範疇にはない……かも」
「……木下さんは、
「そんなんじゃない……って言ったらそれはそれで失礼になるかもだけど。そんなんじゃないよ」
「そうですか……残念ですね」
え。と、美希は顔を傾げる。残念って、どういう事?
沙羅は美希へと顔を向ける。その微笑みはより一層深くなり、右手は彼女を誘うかのように差し伸べられる。
「私は、好きなんですけど」
風が吹き、木の葉が激しく音を立てる。砂埃や落葉が舞い散る中で、見開かれた目の中には、ただ一人、沙羅だけが映っていた。声が震えるのを感じながら、美希は一つ一つ、言葉を絞り出す。
「好きって……その、それは髙橋サンの事が、っていうので、いいんだよね……?」
「自分自身を好きになれるほど、私は大人じゃありませんよ」
沙羅は一歩、踏み出す。美希は一歩、後退る。
「えっと、その……」
「どうして皆から好かれるのか、どうして態々髪の毛を染めているのか、どうして私に構うのか……貴女は私にとって、わからないことばかりですから。興味を持つのも、当然。そうは思いませんか? それに、こんな沢山の質問、貴女にしかできませんしね」
顔を染め、口元を隠す様は、まるで意中の人と目を合わせた乙女のようだと、沙羅は静かに笑みを浮かべた。
「誂わないでよぉ……なんか思ってたのとは違うし……」
「いえいえ、案外可愛らしいところもあるんですね」
「案外て……」
彼女は一体、どんな表情を浮かべていたんだろう。沙羅は考える。恥ずかしがって、口元を緩めていたか。それとも、顔を赤らめながらも、表情自体は変わっていなかったか。或いは──。
「はいはい……もう行くよ、髙橋サン」
美希が遠ざかっていく。伸ばそうとした手を胸の前で抑え、沙羅もまた、彼女の元へ走り出していった。
***
翌日、美希は一人、屋上のドアに寄り掛かり、スマホの画面を眺めていた。そこに表示されているのは沙羅とのトーク画面。数分ほど前から、メッセージのトーク履歴を遡っては画面を更新し、溜息を吐く、という行動を、彼女は繰り返していた。
思えば、初めて沙羅と出会った時も、同じような状況だった気がする……と、肌寒さに体を震わせながら、美希は静かに目を閉じた。スマホを持っていない手から何か箱状の物体が落ち、誰もいない階段へと大きく音を響かせる。それでも彼女は動こうとしない。彼女の意識は既に、四ヶ月ほど前の記憶へと、潜り込んでいた。
沙羅と美希は高校一年生である。彼女等が通う高校は、一般的な学校と同じく、屋上への立ち入りが禁止されている。そのため、人目を憚らずに乳繰り合うカップルも、あーんしている最中で浮気相手からメールが来て気まずい空気になるカップルも、何者かから突き飛ばされて屋上から落下したのであろう死体も、この高校の敷地内で生まれることはないのだ。
つまり何が言いたいかと言うと、外に出れるという訳でもないのだから、夏は暑く、冬は寒い……そんな屋上へと続く階段に、態々屯するような痴呆はいない、ということである。
ただ一人を除いて。
一人では最早、屯とすら呼べない。階段の最上段に座り込むその背中に、何処となく哀愁を漂わせながら、少女──木下美希は、卵焼きを頬張っていた。
十月。暦の上では既に秋であるにも関わらず、真夏のような暑さが彼女を襲う。袖口で額の汗を拭いながら、美希は弁当の残りを口に詰め込んだ。
「あづい……」
こうも暑いと、ゲームに興じることすらできない。かと言って教室に戻る気も起きず、美希は只管にメッセージのトーク履歴を眺め続けていた。
「アイスの自販機……は、クラスのみんなが使ってるだろうし……あ゙〜、水筒くらい持ってくればよかったぁ〜」
階段に嘆きが木霊する。しまった、と、美希が気付いたのは、既に誰かが、踊り場の下で階段を登り始めた後だった。
もしその“誰か”が、クラスメイトだったら。絶対気まずい空気になるよなぁと、乾いた笑みを浮かべる美希。そしてその直後、彼女の目に映ったのは、風に靡く、美しい、翡翠色の髪だった。ふわりと舞ったそれは、美希の目には、とても美しいもののように映った。
「……おや、先客ですか」
髪の持ち主──沙羅は、その顔に微笑みを湛えながら、一段一段、美希の元へと歩み寄っていく。
「えっと……ごめんね、私は教室戻るから……」
「待って下さい」
そそくさと去ろうとした美希の腕を、沙羅は掴んだ。美希の顔が強張り、力の抜けた手から弁当が零れ落ちる。床に落ちる寸前に、沙羅の手はそれを掬い上げていた。
「そこまで驚かなくてもいいでしょう。どうです? 一人ぼっち同士、親睦を深めてみませんか?」
「……は?」
パン、と、乾いた音が響いた。
沙羅は目を見開く。彼女の手は、薄く赤色に染まっていた。
「あー、その、私はぼっちって訳じゃないから。そこは勘違いしないでほしいなー? って」
「おや、では何故このような場所に? 貴女は皆から好かれているんでしょう?」
「えっ」
今度は、美希が目を見開いた。この女、両極端すぎる。一人ぼっちか、人気者。その中間という考えが、頭の中にない──。
「皆から好かれながら、それでも一人を貫く。人間というのはやはり面白いものですね。私、貴女のことが気になります。どうです? ここは一つ、私と友情を育んでみては? 私も貴女に色々聞いてみたいですし」
美希は頭を抱えた。まさか学校の中で変質者に目をつけられるなどと、一体何処の誰が想像できただろうか。
「おや? 何か気になることでもありましたか?」
「……いや、夢ならよかったなって」
ハハハ、と笑い声を上げながら、沙羅は先程まで美希が座っていた場所に腰を下ろす。そしてそのすぐ隣の床を軽く叩き、美希を手招きする。
「はいはい、聞いてみたいこともありますし。座って下さい」
断ったら、面倒くさいことになる。本能的に理解してしまった美希は、人生の中で最も深い溜息を吐きながら、沙羅の隣に腰掛けた。
「……なんか、近くない?」
「あ、すみませんね。人間としては、やはり
「その、さっきから、えーっと、貴女が言ってる……」
「髙橋です」
「え、じゃあ、髙橋サンが言ってる、人間がうんたらって……どういう事?」
「あぁ、まだ説明してませんでしたね」
触れた手と手を、熱が伝う。
意識が飛ぶような感覚を覚えたと同時に、美希は、大樹が風に揺れるような、そんな幻想を見た。
「……実は私、森の精霊なんですよ」
かくして、精霊と人間の不思議な関係が、始まった。
「……木下さん。どうしたんです?」
「はぇっ?」
美希は目を覚ました。不思議そうに周りを見渡す彼女の顔を、沙羅は心配そうに覗き込む。
「もしかして私、立ったまま寝てた?」
「えぇ。もしかして、寝不足ですか?」
「うっそぉ……やっぱあんま寝れてなかったかなぁ……」
もういいですから、座りましょう。沙羅に従い、美希は彼女のすぐ隣に腰掛けた。
一週間に一度。それが、沙羅と美希の会う頻度。
森を守るためにこれ以上は外に出られないのだと、美希は知っていた。だからこそ、無理を言っては……会いたいと望みすぎては、駄目なのだろう、とも。
彼女は、自分自身が寝不足に陥った理由を知っている。簡単な話、沙羅と会うことが楽しみだったのだ。彼女の事を考えるだけで心が踊り、眠ることすらもままならなくなる。彼女は
「そう言えば、
「髙橋サンと初めて出会った時の夢、見てたんだ」
「あぁ、それは……災難でしたね」
「うん。やっぱり今見ても最悪な出会いだわ」
美希は主に、沙羅から質問される立場にある。その質問の内の一つが、
「んま、今はもう全然怒ってないけど。寧ろ仲良くしてくれてる分嬉しいから」
美希は弁当箱──因みに、沙羅の分と合わせて美希が二人分作っている。先程彼女が落とした箱状の物体というのは、まさにこれのことである──から少しだけ形の崩れた卵焼きを箸で摘む。その箸先が彼女の口の中に入ろうとする瞬間、何者かによって、卵焼きは奪われた。
「ぽぇ」
「……あいふぁわらずおいひいですね」
何者か、と言っても、ここにいるのは美希と沙羅だけ。その卵焼きは、箸先ごと、沙羅の口の中に収まっていた。
刹那、静寂。
「髙橋サン……一応、箸はそっちにもあると思うんだけど……?」
「いえ、今日はこのような行動を取ることでどういった感情になるのか、知りたいと思ったので」
沙羅は美希の肩に頭を預け、全身の力を抜く。
「あぁ……これは、確かに」
「……タカハシ=サン?」
「いえ、何でも……木下さんも食べますか?」
彼女が箸で摘んだのはミートボール。一瞬、抵抗する素振りを見せながらも、美希は諦めたように口を開ける。その中に箸が押し込まれ、彼女は軽くえずいた。
「ちょっ……んな奥までやったら死んじゃうんだけどぉ……!?」
「どうです?
「なんだこのアホの子ぉ……」
「ところで、結局
「知らないほうが幸せなこともあるんだよ……」
もしこの場に誰かがいたならば、彼女等こそが“人目を憚らずに乳繰り合うカップル”であると確信しただろう。二人の昼食は、本鈴の鳴る数十秒前まで続いた。
沙羅と美希は放課後、必ずはしご橋公園──因みに“髙橋”というのははしご橋から思いついた名字らしい──に立ち寄る。しかし、立ち寄る、というのは美希だけの話。沙羅にとって、この公園に来ることは寧ろ、帰宅に近かった。
彼女ははしご橋公園に住んでいる。と言うよりも、この公園の中にある小さな山、それが彼女──森の精霊の住処だった。だったら森の精霊ではなく山の精霊ではないかと、美希は心の中で密かに思っている。
そもそも、彼女は最初、精霊の存在を信じなかった。美希が、自宅とはほぼ真逆の方向にあるこの公園に立ち寄るのにも、沙羅が精霊であることを証明する為……という理由が、元々はあったのだ。しかし今は、沙羅に会えない日でも、彼女は毎日のように此処に通っている。
「貴女自身の生活もあるんですから、無理して来る必要はないんですよ?」
「私も特にやることないからさ、暇潰ししたい、ってのもあるし。別に無理なんかしてないから、気にしなくてもいいよ」
それに……と、付け加えようとして、美希は口を結ぶ。
ここで「貴女ともっと、長く一緒にいたいから」と零してしまうことは簡単だ。しかし、それは森を守る使命を持った沙羅に、もっと会いに来てほしい……即ち、森を捨ててほしいと頼むことと同義なように、美希は感じていた。
もっと一緒にいたい。もっと
「……寧ろさ。髙橋サンは、うんざりしないの?」
「うんざり……ですか?」
「うん。私みたいなのとつるんでて、嫌じゃないのかなーって」
何処となく気まずい空気が流れる。互いの手が触れ、固く結ばれる。それは無言の答えであり、沙羅が美希の不安を和らげる際の行為でもあった。
「何か、辛いことがあったんですか」
「うん」
「だから、私が本当に貴女を好いているかどうか、不安になってしまったんですか」
「うん」
「よければ、何があったのか……教えて、くれますか?」
「……うん」
それは、一週間前の事だった。
「はいはい……もう行くよ、髙橋サン」
歩き出す美希の背中を、小走りに追いかける沙羅。そこまでは何も問題ではない。その直後の沙羅の言葉が、美希の心に大きく傷跡を残した。
「いやぁ、こうしてみると……私達が出会ってから、色んなことがありましたねぇ」
「えっ、どしたの急に。今生の別れ?」
「そういう訳ではないですが……でも、貴女に聞きたいようなことも、もうなくなってきてしまいましたし」
私としては、これからも一緒にいるつもりですが……その言葉を聞くこともなく、美希は蹲った。沙羅は血相を変えて美希に駆け寄る。
「大丈夫ですか!? 私、何か変なこと……」
「大丈夫、大丈夫だから」
だから、もう帰って。
その声は、か弱く。それでも沙羅は、足を引き摺って、沙羅から逃げるように歩き出す美希を、追いかけることが出来なかった。
「……やっぱり、あの時」
「私ね、わかんなくなっちゃった」
普段の間の抜けた態度とは違う。沙羅ですら知らなかった、美希のもう一つの側面……或いは、本当の彼女の姿が、そこにはあった。
「髙橋サンはさ。これからもずっと、私の側にいてくれる?」
「できる限りは、ですが」
人の形をしていようと、人の言葉を使っていようと。それでも、彼女は人間ではない。数分後に突然、二度と会えなくなる可能性も、決してあり得ない話ではない。
だからこそ、沙羅は躊躇わない。例え残りが数分だったとしても、将又数十年だったとしても、最後まで美希の隣で立っていると……そう、言い切るのだ。
「……なんでだろう。嬉しいはずなのに、おかしいんだ」
すぐ隣に、大好きな友達がいる。喜びたいのに、喜べない。まるで、本当に求めているものは、それではないような──。
「木下さんが私のことをどう思っているかはわかりません。それでも、私は」
風が吹いた。
結ばれていた筈の手が宙に投げ出され、美希はバランスを崩す。そのまま尻餅をつく彼女を支えてくれる“誰か”は、もうそこにはいなかった。
「時間切れ、かぁ」
沙羅と美希の別れはいつも唐突にやってくる。風が吹き、枯葉が舞う。それが明けた先には、もう沙羅はいなくなっている。それが、彼女が人間ではないという証拠だと、美希は知っている。
何処か自然に包まれるような安心感を覚えながら、美希は立ち上がった。沙羅が帰った後の公園には、いつも優しさが溢れている。それはきっと、ただの勘違いではない。沙羅が私を包み込んでくれてるんだ……そう、美希は考えていた。
「そうでもしなきゃ、耐えられないじゃんか……」
もし、この関係の形が変わってしまったら。もし、沙羅が他の誰かに興味を持ってしまったら。考えれば考えるほど、美希の頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。吐き気にも似た感覚を覚えながら、彼女は再び、蹲った。
ただ、会いたい。最初は、それだけだった筈なのに。形を変えてしまった望みの、その形もわからないままに、彼女は一体──。
「……何が、欲しいんだろう」
***
「ここが、木下さんのクラス……ですね。全く、約束を破った木下さんが悪いんですからね……」
一週間後。沙羅は美希のクラスを覗き込んでいた。昼休みが始まり、既に二十分以上が経過している。四ヶ月ほどの付き合いの中で、美希が階段に来なかったのは、この日が初めてだった。
「あれ、なんか用? 誰か呼ぼっか?」
彼女の肩に手を置き、一人の女子生徒が話しかける。それが美希ではなかった事への落胆を、沙羅は微笑みで隠した。
「木下さんを呼んでほしいんですけど……」
「木下? えぇーっと、確か……」
あいつ今日来てたっけ。確か休みじゃなかったか? そんな会話が耳に入り、沙羅は顔を顰める。
「あの、できればなんですけど……」
「木下は多分休みだけど……他、誰か呼ぶ?」
「……どんな小さいことでも、普段の木下さんについて、
***
嘗て森林だった筈の其処は、既に黒く焼け焦げ、彼方此方から赤い光を漏れ出させている。その炎の中に、美希はいた。
何が欲しいのかわからない。何を求めているのかわからない。今はただ、一人になりたい。
沙羅の事が好きかと聞かれれば、美希は迷いなく、好きだと答えることができるだろう。しかし、それが沙羅でなければいけなかったかと言うと、そうではないように、彼女は感じていた。
種族も性別も性格も口調も、何もかも違う“誰か”。もしその誰かが、毎週のように、一緒に過ごしてくれたなら。
「……違う」
何かが足りない。
では、もしその誰かが、彼女の手を、握ってくれたなら。
「……違う」
まだ足りない。彼女が求めているものは、もっと、普段からされていて、特段珍しいという訳でもないような──。
一つだけ、心当たりがあった。
「そっ……かぁ」
顔を突き合わせれば浴びせられる質問の嵐。美希にしかできない……確かに、沙羅はそう言っていた筈。
自分だけが、求められている。もし求めている人が沙羅ではなかったとして、その事実は、変わらない訳で。
「こんな事なら……出会わなきゃ、よかった」
段々と温度が上がっていき、火の粉が飛び散り、枝だった筈の炭が美希の直ぐ側に落ちる。
此処ははしご橋公園、遊歩道から少し離れた森林の中。乾燥の所為か、煙草でも捨てられていたのか、将又そのどちらもか。沙羅と会わない為、美希が公園を訪れたその時──即ち、沙羅のいないタイミングで、火事は起こった。
逃げようと思えば逃げられた。しかし、美希はそれをしようとしなかった。それどころか、自ら火元へと向かっていった。
もしかしたら、此処で死のうと思ったのかもしれない。寧ろそうであってくれと、他ならぬ彼女自身が望んでいた。
だって、そうでなければ。態々何があるというわけでもない火元に残るなんて、そんな事をする理由は、一つしか。
「……毎週一回は会おうって、約束。した筈ですよね」
ただ、温かい。
ただ、優しい。
翡翠色の光が辺りに立ち込め、まるで真空に投げ出されたかのように、燃え盛っていたはずの炎が一瞬にして消える。
「死ぬつもりですか? 貴女は」
ふわりと、髪が風に舞う。美希は沙羅に抱き締められていた。
「髙橋、サン」
精一杯の力で彼女の胴を締め付けるその腕は、小刻みに震えている。胸に顔を埋めて怯える様はまるで、彼女を喪うことを、この世界の何よりも恐れているかのようで。
「……私が来ていなかったら、どうするつもりだったんです」
「別に、どうするも何も」
「じゃあ……貴女が死んでしまったら、私はどうすればよかったんですか……?」
まさかそんなにも好かれていたのかと、美希は場違いな事を考える。そしてその視界の端に、小さな苗木がある事に気付き、小さく声を上げた。
「髙橋サンはさ……私の事、そんなに好きなんだ」
「当たり前、でしょう……私は、ずっと」
風が吹く。
沙羅と美希の間に、とてつもなく広いような、でも実際は一メートルもないような、隙間が開く。
「やっぱり私、髙橋サンのこと、好きじゃないっぽいや」
沙羅の表情が凍った。体が芯から凍りつく感覚に、吐き気を覚えながら、美希は彼女に背を向ける。
「待って……くだ」
「ごめんね」
迷いはあった。
ずっと一緒にいたかった。ずっと沙羅の隣に立っていたかった。ずっと、ずっと、ずっと──。
でも、それは沙羅じゃなくてもいいから。こんな気持ちで、彼女の心を裏切りたくないから。
だからもう、沙羅とは会わない。
消防車が来ている。サイレンの音が煩い。誰にも見つからないように、誰にも会わないように、ただ只管に、走る。どれだけ理不尽でも、どれだけ不誠実でも、それでも、会わないほうがお互いのためになる。そう信じて、美希は沙羅から逃げ出した。
***
「……それで」
それから丁度一週間。自室で寝ていた筈の美希は、何故か薄暗い公園で両手両足を縛られていた。
「髙橋サン……遂に頭、おかしくなった……?」
それも紐だとか縄だとかではない。蔦で、である。森の精霊は伊達ではないなと、もとい、もっとまともな事にその力を使えよと、彼女は頭上を見上げた。
冷たい中にも、何処か哀しみを感じさせる瞳。その二つの瞳が、美希を見下ろしていた。
「こうでもしなければ、美希さんは来てくれなかったでしょうから」
「来てくれる……というか、誘拐してきたんでしょ」
まあいいんですよと、沙羅は美希の体を抱き締める。その全身が震えていることに、美希は気付いていなかった。それはきっと、彼女もまた、同じように震えていたからだろう。
二人の体が触れ、蔦が茂みの中へと還っていく。
「……せめて、お別れは言いたかったんです」
「お別、れ?」
「前の火事で、丁度私が住んでいた場所が焼けてしまいました。それを治すため、私はもっと力を使わなければいけません。その為には、こんな風に貴女に会いに来る時間も、なくさなきゃいけない」
元より、精霊たる彼女は、外の世界には出られない筈の存在。いつかは会えなくなるのだと、沙羅も美希も、知っていた。
「多分、数十年は出てこれないでしょうから……最後にどうしても、木下さんと会いたかったんです」
「でも私、髙橋サンのこと、好きじゃないって」
「それでも」
それでも私は、貴女が好きだから。
そう微笑んだ頬に流れた涙が、美希の心を溶かした。
「ごめっ、な、さ……」
「……え、なんで? あの、えっ、ちょっ」
美希の事を想っていたのは自分だけで、美希からは何とも想われていなかった。そう信じ切っていた沙羅は、突然泣き出した美希に困惑を隠せない。
「私、髙橋サンの事が好き……でもそれは、好き、じゃないから……!」
「えぇ……」
溜息を吐き、沙羅は美希の頭を掴む。そして、その顔同士を触れんばかりに近付かせた。
「……まだ時間はあります。だから」
温かい風が吹いた。その風は涙を飛ばし、二人を包み込む。
「……
☆☆☆☆
下の名前、教えてなかったはずだよね。だから知ってるのは、多分私のクラスまで来たから……で、合ってるよね? 他に何か、聞いたりした?
……うん。やっぱり、聞いちゃったか。薄々気付いてたとは思うけど……ほんとはね、私、人気者なんかじゃない。いっつも一人だし、多分、怪しがられてるとも思う。
やっぱりって……うん。確か、髙橋サンとはじめて会った時も。あの日も確か、すごい暑かったんだよね。そんなときでもずっと私は長袖だから、全員ってわけじゃないとは思うけど、怪しんでる人はいる……というか、色々聞かれたこともあるし。
いつだったかな。確かまだ6歳とかの頃だったかに、この森で植樹活動に参加したの。その時に一緒にやってた友達がいてね。名前は覚えてないんだけど、兎に角私以外の人と関わろうとしない子で。私がその子を紹介しようとしたら、すごい勢いで止められて……その時に、あなただけが、私の友達だから、あなただけと、一緒にいたいって。
多分これが始まりって言うわけじゃないと思う。でも私、その時には気付いてなかったけど、誰かから求められるっていうことが、どれだけ嬉しいかって、わかっちゃったんだ。
私だけを必要としてくれる。私がその子の全てになれる。本当は、そんな訳ないのに……そう思い込んで、私は色んな人に好かれるようにした。でも、私だけを求めるって……それって、ただの依存なんだよね。だから、その友達みたいな子は、一人も出てきてくれなかった。それどころか、詳しくは覚えてないけど、その友達も怒らせちゃって。いつの間にか絶交してて、もう会うこともできなくなってたんだ。
それから私は、もっと、もっと求めてくれる人を探すようになった。本当に欲張りだったから、いなくなった友達も帰って来て……なんて、ありもしないことも考えてた。
兎に角、誰かに求められたい。だから、いろんな手段を使った。仲良くもないのに相談に乗ってみたりだとか、虐められてた子を助ける振りをしてみたりだとか。最後には、気を引くために、手首まで切って。
まあある程度、予想は付くと思うけど。逆に嫌われちゃったんだ、私。八方美人だとか、ファッションメンヘラだとか、いっぱい言われて。だから、高校ではもう、同じ事は繰り返さない。その為に、誰とも関わらなかった。左腕も傷だらけだったから、極力誰にも見せないようにして。
誰かと関わったら、同じ事を繰り返す。わかってたから、もう人と関わらないって……今考えれば、そんなの、ただの逃げだったんだよね。そもそも、その頃は本当に自分が正義だったり、病んでたり……って思ってたから。
いつも一人じゃないって、嘘を吐いてたのも同じ。ただ腹が立ってただけだって思ってたけど、きっと、一つでも疑問を残せば、絶対に髙橋サンは離れないでいてくれる……そんな想いが、あったんだと思う。
兎に角、そうやって、本当に授業とかで必要じゃない限り、クラスメイトとも話さないようにして。ずっと一人で、今まで過ごしてきた。
……でもね。一人はやっぱり辛い。もう、逃げ出したいって。そう思ってた時に、髙橋サン……。貴女が、やってきたんだよ。
自分で蒔いた種とは言っても、本当に誰も私に見向きしてくれない。例え話しかけられたとしても、長袖がなんだかんだ……ってだけ。それでも、髙橋サンだけは違った。
私にしかできないって、言ってくれた。私の隣にいてくれた。私の事が好きだって言ってくれた。だから私は、髙橋サンのことが好きになったの。それがもし髙橋サンじゃなくても、きっと私は、その人の事を好きになってた。
髙橋サンは、危なかったら、泣いてくれるくらい……それくらい、私の事を好きでいてくれてるんだよね。でも、私は違う。私は自分を求めた“誰か”が好きなだけ。そうわかっちゃったから、もう髙橋サンとは関われないんだって、また逃げ出した。
本当に、ごめんなさい。私は、私を好きでいてくれる貴女の気持ちを、裏切りたくなかった。こんな不純な気持ちで、貴女と関わるのは間違いだと思った。でもそれはきっと、ただの逃げだったんだと思う。私がそんな気持ちを持ってるって、認めたくなくて。貴女と会わなければ、気の所為だったって思えるんじゃないか、って。
……幻滅、したかな。というか、多分したよね。もういいんだ。私はもう、わかっちゃったから。どれだけ自分が不誠実で、どれだけ自分がみんなを不幸にするか。だから、髙橋サンは、私のことなんか気にしないで……精霊として、役目を全うしてほしい。それが多分、髙橋サンが一番幸せになれる未来だと思うから。
……私はいいの。もう、いっぱい幸せだった。これ以上の贅沢はしないよ。それに、例え誰か仲いい人ができても、髙橋サンと一緒にいる時以上には、幸せになれないだろうから。
だから、髙橋サン──。
☆☆☆☆
「……今まで、ありがとう」
美希は沙羅を押し退ける。しかしその体は微塵も動かず、逆に美希が地面に押し倒される。
「馬鹿ですか、貴女は……っ」
美希の頬の上に、涙が落ちる。この期に及んで尚、彼女は、何故沙羅が泣いているかを理解していなかった。
「今までとは、訳が違うの。数十年後、もし戻ってこれても、私と関わったらきっと、後悔するんだよ」
「後悔とか、なんだとか……勝手に私の気持ちを決めつけて、結局貴女は人の事なんて考えられてないじゃないですか!!」
声が出なかった。彼女に何を言えば良いのか、わからなかった。翡翠色の髪の毛が僅かに色彩を失っていき、制服の右の袖の中から、焼け爛れた肌が顔を覗かせる。
「髙橋サン、それ……!?」
「嘘、もう時間が……」
それが先週の火災の時に負った怪我であると、美希が理解するのに、そう時間はかからなかった。
「なんで……先週はなかったのに……」
「隠してたんですよ、今までは! でももう、力が……」
もうすぐ、沙羅は森へと還っていく。一度深い深呼吸をした彼女は、再び溢れかけていた美希の涙を拭い、寂しげに微笑んだ。
「……木下さん。貴女の気持ちを教えてください」
「だから、私は……」
「逃げないで」
光の消えかけた瞳に睨まれ、美希の喉から乾いた音がなる。状況を何も知らない者が見ても、死にかけているのだと一目でわかる程、沙羅の全身は枯れかけていた。
「逃げなんかじゃなくて、私はただ、髙橋サンに後悔してほしくないから……!」
「そんなことどうでもいい。後悔とか、幸せとか、聞いてません。貴女が……木下美希が、どうしたいか。私に、教えてほしいんです」
それでも、と言い返そうとする口を、彼女は人差し指で制する。
「……周りのことも、未来のことも、私のことも。今は何も、考えず。欲張りに、なってください」
人差し指が唇に触れ、同時に、翡翠色だった筈の髪が、段々と白く変色していく。もう一筋、涙が伝うのを感じながら、その唇は動き出した。
「わたし……変われてなかった。これからもきっと、また同じ事を繰り返す」
「いいんです、今は。逃げたって、変わらなくたって」
美希は立ち上がった。そしてその左腕を沙羅に差し出し、強引に彼女の右手を取る。
「……ねぇ、髙橋サン。私、貴女が知らないような何かを……持ってるのかな」
「えぇ……少なくとも、今の行動は本当に予想外でしたから」
長い髪が全て純白に染まる。生気を失っているはずのそれは、まるで羽根が舞っているかのように、とても美しく見えた。
「だったら。私が、髙橋サンの手を握り返して、髙橋サンも知らない何処かに、連れて行くから。だから……」
──私の隣に、いてほしい。
「……全く。よくもそんな事、覚えてましたね」
風が吹いた。
沙羅の姿が薄くなり、手の感覚が消えていく。
「私は貴女を呪います。そこまで言っておいて、数年経ったらもう忘れました……なんて、そんなのは絶対に、許しませんから」
それは種だった。左手に握っていたその種を、沙羅は美希の左腕の傷跡に埋め込む。彼女は苦痛に顔を歪めるが、その直後にはすぐに寂しげな微笑みを浮かべた。
「……貴女が思っている以上に。私は、貴女の事が、好きです」
「髙橋サン、ごめ……」
いや、違うな、と。
「……ありがとう」
「感謝しているなら……次会った時は、私の名前を呼んで下さい。できれば呼び捨てで」
「あれ、そう言えば、下の名前教えてもらってなかったっけ」
「沙羅です。髙橋沙羅」
沙羅……その名前を口にした時には、もう彼女の姿はなく。
ただ温かい風が、美希の意識を奪っていった。
「……沙羅。いつか、きっと」
もう一度、貴女の、傷だらけの手を取って。
貴女の知らない世界を、貴女の知らない私を、見せてあげるから。
だから──。
☆☆☆☆
彼女には言っていませんが、普通、森の精霊……言うなれば、森の意思が、ここまでの自我を持つことも、意思を持つこともありません。でも、色々な事情があって、私は私として、存在することができました。
友達と一緒に植樹活動に参加した。確かに彼女は、そう言っていました。
でもあの時、彼女は一人で参加していたんです。友達なんて、どこにもいなかった。ではその友達は幽霊だの妖怪だの、そういった存在なのかと言うと、それも違います。
イマジナリーフレンド。誰にだって作り出せる、空想上の友達。彼女はその空想をサラちゃんと呼び、親しくしていました。
イマジナリーフレンドのサラ、苗木に灯った意思。それらが少しずつ混ざったのが、私。多少の不純物はあれど、私は、彼女の為に、彼女の都合のよいように作られた意思に過ぎません。
人の姿を取って、彼女を何年も何年も探し回って。そうしている内に、私は、色々な事を学んで……そして、少しずつ、自由に行動できる人間に、近くなっていきました。そして私は、彼女の為のお人形ではなく、髙橋沙羅として……一人の、精霊として。彼女を愛することを決めました。
きっと元は、この気持ちだって作り物だったのでしょう。でも、何年か経って、私は彼女を愛していることに気付きました。
彼女の全てが欲しい。彼女を全て、私のものにしてしまいたい。彼女の全てを認めて、私に溺れさせてしまいたい。ぐちゃぐちゃになって、壊れてしまうまで、愛し尽くしたい。
彼女が求められる事を望むなら、私は求める事を望む。あくまで私達は対極にいて、だからこそ、隣に立つことができるんです。
彼女には絶対に言えませんが……あの種は、所謂マーキングと一緒です。運命レベルで他者からの干渉を避け、私の所有物だと主張する為のもの。
こんなに歪んだ私を、彼女は受け入れてくれるでしょうか?
私は、待っています。彼女がいつか、私のことを、私のことだけを好いてくれるのを。例え何十人、何百人に求められても、他の誰でもない、私だけを選んでくれるのを。
……いや、違うかもしれません。
私はあくまで、一人ぼっちでどん底にいる彼女だったから、好きだったのかも。そんなの、私にもわかりません。だからそれを知るために、例え森を焼き尽くす事になっても、私は彼女の元に行かなきゃいけません。
今度会った時は、何を質問しましょうか。私は彼女の全てが知りたい。知る、ということは、相手の知識を所有することでもありますから。
でももし、もう何も知らなくてもいいくらい、体も心も何もかもが、私のものになっていたら。
そうしたら、もっと愛して、もっと私だけのものにして。そして、いつか。
『……植え付けちゃおうかな』
でも今は、外には出られないから。
彼女を想って、只管に待ちます。
いつか、再び。彼女の、傷だらけの手を取って。
未だ知らない、私だけの
エピローグ(蛇足)も後日投稿予定