私はレモンが苦手だ。
昔からずっと苦手だった、というわけではない。三年前のあの時以来、レモン味の何かを見るだけでも吐き気がするようになってしまったのだ。
……なんて話を友人達にすると、決まって笑われる。あの時ってなんだ、そんな名前のくせに、と。
思えば、あの人も同じような事を言っていた。あなたの名前と同じ、レモン味よ──そう言われる度に、幼い私は馬鹿にしないで、と腹を立て。しかしいつの間にか、そんな瞬間瞬間が好きだったことに気付いて。
──私の名前は
……閑話休題。
さっきから言っていたあの人──名前は、
ただ、思春期……というか幼さというのは恐ろしいもので。見境なく求婚するレベルには尻軽だった私は、勿論美緒さんにも堂々と愛の告白をした玉砕した。三時間くらい寝込んだ記憶がある。いやまあこれに関しては、結構本気ではあったんだけど。
そんなこんなで、美緒さんとまともに目も合わせられなくなって……三日くらいが経ったある日。
その日の私は寝不足だった。なんかやさぐれて11時くらいまで──今では当たり前だけど、この頃はもっと規則正しい生活をしていたから──起きてた記憶がある。
で、だ。寝不足であれば勿論、集中力もそれなりに低下するもので。赤信号ガン無視で迫ってくる黒塗りの高級車にも気付かず、私は横断歩道に足を踏み入れてしまった──!!
……ここまでくればもうオチはわかるだろう。今ここで──ましてや三年後に──長々と回想できているということは即ち、私は死ななかったということ。
高級車が止まった? そんな訳はない。私は後ろから突き飛ばされたのだ。
誰にって? そんなの言うまでもないだろう。そう、美緒さんである。誰かと遊びにでも行こうとしてたのか、淡い桜色の、可愛い服を着ていた。
あの人は最期に笑って、「よかった」と言って。
そして、私の眼の前で、赤い花びらを散らして消えた。
……なんてお洒落に言ってみたが、要するに轢かれて血を吐き出しながら死んだ、という話である。
もし、あそこで私がしっかり周りを見ていたら。勿論後悔したし、辛かった。なんならもう死んでやろうかとも思った。
でも、それは美緒さんが望んでいないと思ったから。あの時助けられた命で、私は今、こうして生きている。 ……とは言っても、自分のせいで人が死んだというのにこんなに淡白なのはおかしいだろう──と思う人も多いだろう。いや、寧ろ思わない人はいない筈……って言うのは多様性配慮に欠けるし。ここは思う人も思わない人も多いだろう、でもそれはあくまで私個人の意見であり実際の事実とは異なるので細かい所は個人個人の解釈に任せま──。
「ちょっとうっさい」
「あたっ」
叩かれた。酷い。親父にも殴られたことないのに。
……なんて、親父なんてもういないんだけど。
それを言うならお袋だってもういないだろって。笑え……ないか。こういうネタ、言ってる方は良くても、これ振られた方は本当に困るらしいから。何回かやらかしたことあるけど、毎回こっぴどく怒られてました。
とまあ、私には小さい頃までしか両親がいなかった。結果、こんなに人の死について興味のないナチュラルサイコロボットが生まれたって訳。
だから美緒さんが死んだ時も──ってのはある、のかもしれないんだけど。それよりももう一つ、大きな理由があって。
それは今、私の直ぐ隣で怠惰を極めている性悪美女──
「……今、失礼なこと考えただろ」
「なわけ」
考えました。許してください。言葉とは裏腹に私の体は自然に土下座の体勢を取る。
一体何故、私は家族でもない人と同棲することになってしまったのか。その顛末を語るには、数ヶ月前まで遡る必要がある──。
***
小学一年生で、父親。
小学三年生で、母親。
そして中学一年生で、初恋の相手。
それだけではない。親戚、友人……檸檬は常に誰かを失っていた。最初こそ泣き喚き、悲嘆に暮れていた彼女も、いつしか人の死に慣れるようになっていった。
しかし、唯一例外だったのが美緒。両親以上に深く関わり合っていた存在の死に、檸檬の心は壊れてしまった。
檸檬は幾度となく自殺を試みた。しかし、それはどれも失敗に終わる。神の悪戯か、彼女はただ、誰かを見送る事しかできなかった。
「──美緒、さん」
檸檬には美緒の名前を呼ぶ癖があった。そうすればいつか、戻って来る──そんな夢を見ていたわけではない。しかし、名前を呼ぶことで少し彼女の心が軽くなることもまた、事実だった。
しかし今、この瞬間に美緒へ思いを馳せるのは、あまりにも愚策だった。彼女が立っているのは横断歩道の上。そして運の悪いことに、彼女のすぐ側には例によって信号無視の巨大トラックが迫っていたのだ。
──そっか。私も、死ぬんだ。
どこか他人事のように檸檬は考える。全力で走れば、まだ歩道まで戻ることはできる。しかし、彼女は動こうとしなかった。漸く、美緒に会いに行ける……彼女の心は、救われようとしていた。
しかし、その願いは叶わなかった。何者かが彼女の腕を掴み、歩道へと引っ張り込んだのだ。
「──大丈夫か!?」
焦りながら檸檬の安否を心配する声は、あの時の美緒とは程遠い。しかし檸檬にとっては、その姿がどこか、美緒と重なって見えた。
そのまま檸檬は声の主の胸で泣き、やがて体力の限界が訪れたのか、意識を手放す。檸檬を抱えた人物は、困ったようにその体を抱きかかえた。
「──あ、やっと目、醒ましたか」
それから何時間経ったのか。辺りが暗闇に包まれる中、漸く目を覚ました檸檬。彼女の目に最初に飛び込んできたのは、見知らぬ女性だった。そう。彼女は知人でもない者の膝で──ついでに言うならば公園のベンチで──眠りこけていたのである。
慌てて飛び起きようとする檸檬を、女性は「まあまあ」と嗜める。
「あんま無理に動かないほうが良いよ。どこ怪我してんのかもわかんないし」
「──美緒、さん」
「は?」
女性は顔を顰める。一度死んだ人間は戻ってこない。ましてや声も姿も似つかない彼女が、美緒であるなどということがあり得るだろうか。
よく考えれば、この人が美緒さんな訳が無い──檸檬は考え直し、そして謝罪する。
「……すいません、寝ぼけてました」
「おう、そうかい。んじゃ私はこれで」
膝をどけ、そのまま去ろうとした女性の腕を檸檬は掴む。女性に睨まれ、しどろもどろになりながらも彼女は手を離そうとしない。
「……なんだよ」
「いや、そのっ! ……お礼かなんか、したいなー……って」
そんな事、考えなくて良い。言葉には表さずとも、女性の表情はそう語っていた。
「だから、名前とか……教えて、くれませんか……?」
そんなのお断りだ、と言おうとした女性は踏みとどまる。檸檬の瞳にはこれでもかというほど涙が溜まっていた。真っ暗な公園で泣く少女と、その前に立つ成人の女。絵面だけ見れば完全に犯罪である。
「……ったよ! 私の名前は芽吹!! これでいいか!?」
「あ、私の名前は──」
「聞いとらんわ!」
まるで目の前で飼い主に餌を奪われた犬かのように暗い表情になる檸檬。その目には再び、大量の涙が溜まる。
「だぁぁぁもぉぉぉぉぉ!! 何!? 名前!!」
真っ暗な公園で叫ぶ成人と、その目の前で泣く少女。結局のところ犯罪にしか見えない。実は被害者は成人の方であると、一体何人が気付くことができるだろうか。
そんな外面も気にしない檸檬。彼女の顔はもう、見ていると元気が貰えるほどに喜色満面である。
「改めまして……私の名前は檸檬です!! よろしくお願いします!!」
芽吹の胃が強かに痛んだ。
……とは言ったものの、まさか本当にお礼をしに来るとは思っていなかった。
というのが、芽吹と、そして檸檬の感想だった。
そもそも二人は元々知り合いだったわけでもない。何処に住んでいるのか、何時にどの道を通るのか……お互い、相手の事は何も知らない筈なのだ。
それでも再び出会ったのは、ある意味運命と言うべきだろうか。
「──何してんの、そこで」
「あなたこそ」
ここは公園。つい前日、芽吹が檸檬を介抱していた場所である。
しかし今。公園にいるのは、12歳以上は乗ってはいけないはずのブランコに腰掛ける女性と、それを睨む制服の少女。
これはこれで何らかの法に触れるのでは。檸檬は偶然──本当に偶然である、決して「もしかしたらあの人いるんじゃないかなー」などと期待して態々公園までやってきたわけではない──公園を通ってしまった数分前の自分を恨んだ。
これ、端から見たらただの不審者なのでは。芽吹は偶然──本当に偶然である、決して「もしかしたらあの子もう一回来るんじゃないかなー」などと期待して態々公園までやってきたわけではない──公園のブランコで休憩してしまった数十分前の自分を恨んだ。
似た者同士である。
「えーっと、取り敢えず……座る?」
「嫌です」
檸檬は即答した。溜息を吐きながら、芽吹はブランコから降りる。
……かくして
「……んで」
「はい」
檸檬と芽吹の間に妙な緊張が走る。尤も、今の状況で緊張しない方がおかしいのだが。
というのも、二人がいるのはカラオケの個室。成年と未成年が二人きりでいて、怪しまれない場所──それはもう、カラオケしかないだろう。
……という実に世間知らずを極めた意見によって、二人は密室空間に入ったわけである。
「これ、同性だったからまだマシとは言え……結構アウトじゃない?」
「でしょうね、知らない人と入ったら怪しい場所ランキングとかあったらトップ3には入ると思います」
なにはともあれ、と。
このまま密室空間について語っているだけでは何も始まらない。芽吹は早速本題に入る。
「私にはお礼がしたくて会いに来たわけ?」
「それは……多分、そうなんだと思います」
「多分?」
檸檬の煮えきらない態度。芽吹は顔に疑問符を浮かべる。
「なんとなく、会いたいなって」
恋人か。自然に動きかけた口を芽吹は抑える。檸檬といる時は、何故か古い友人と話しているときのような安心感を覚える。彼女自身、そんな自分が不思議だった。
「……あ、そう。私は別にお礼さえしてくれればいいんだけど」
「だったら……あれ、お礼って何するんでしょうかね?」
この期に及んで、檸檬は何をすればいいか考えていなかった。普段ならば成績や印象のため、事前に今後の状況を予測して動くというのに。芽吹といる時は、何故か忘れていた「素」の自分を思い出せる。彼女自身、そんな自分が不思議だった。
「普通になんでもいいんだけど……」
「……じゃああなたが考えてくださいよ。私は、なんでもしますから」
芽吹の表情が固まる。眼の前にいるのは、恐らくクラスの中で三番目には顔がいいであろう少女。その少女が今、何でもすると──。
「……犯罪だわバカタレ」
「なんでぇ!?」
結局この日もまた、何もせずに終わった。しかし、収穫がないかと言われれば、それは嘘になる。
「……美緒さん」
明かりのない自宅──正確に言うならば、叔母の家である──のベッドでスマホを見上げ、檸檬は美緒の名を呼ぶ。そのスマホの画面には、一つの連絡先が表示されていた。
『あの人』
あの人といると、何故か安心できる。
檸檬はスマホを置き、静かに目を閉じる。次に会う予定はもう取り付けた。後はもう、心配することはなにもない──。
「……で、遅れてきたってわけか」
「本当に申し訳ございませんでした」
それから一週間が経っただろうか。檸檬は最寄り駅のすぐ側で、芽吹に頭を下げていた──それはもう、美しい程の直角に。
ここまでの謝罪を見せられると思っていなかったのか、檸檬をなんとか窘めようとする芽吹。彼女は黒のテーパードパンツに白のタートルネックニット、そしてその上になんか合う色のジャケットを着ている。残念なことに、その色を表す程の語彙力は檸檬にはない。
そして対する檸檬は、純白のワンピースを纏っている。ありったけの夢をかき集めた、ということだろうか。
「わかったから……取り敢えず頭上げてくれ、マジで犯罪にしか見えない」
「すっごい外面気にしますね」
「燃やすぞ」
今ここに、立派な犯罪が成立した。しかし流石世間知らずの二人、周りからの視線も気にせず盛り上がる。
そこから30分、漸く移動を開始した檸檬たち。まず入ったのは小洒落た喫茶店だ。
「いやぁ、デートなんて初めてですよ」
「いやデートじゃねぇし……決めるんだろ? お礼」
そう、このデート──芽吹曰く、ただのお出かけ──の目的はただ一つ。檸檬から芽吹へのお礼を決めることである。
「ったく、なんで自分へのお礼なんか考えてやんなくちゃいけないんだか」
「まあまあそう言わず、こんな美少女とお出かけできるなんてまたとないチャンスですよ」
「……いやどうせ来週も誘ってくるんだろ?」
「え? 期待してるんですかぁ??」
うぜぇ。檸檬の態度はそれに尽きた。
……それも、当たり前といえば当たり前なのかもしれない。彼女はまともに人と関わったことがなかった。少しでも関わってしまえば、その相手は死んでしまうから。友人や家族が死んだのはただの偶然。そこに檸檬と関わったこととの因果関係は一切ない。
そうわかっていても、檸檬は人間関係を広げることができなかった。
「……あのなぁ、これ私だから許してるけど、普通の奴だったらもうとっくに縁切ってるぞ」
しかし、芽吹は違う。彼女となら、檸檬はこれからを歩んでいける気がしたのだ。
……それが友人に向ける感情かどうか、檸檬自身もまだわかっていないが。
「……あなたは、切らないでくれるんですね」
「ん? あぁ、私は寛大だからな、感謝しろ」
心なしか低くなった檸檬の声に、芽吹は何か悪いものを感じ取る。まるで、壊れる直前の玩具のようだ──彼女の首筋を、冷たい汗が伝う。
「……あ、ごめんなさい! ちょっとだけ不安になっちゃって」
明るい声で誤魔化す檸檬だったが、その顔に張り付いていたのは明らかに取り繕った笑顔。慌てたように机に置かれた水に手を伸ばす檸檬の手を、芽吹の手が優しく包み込む。
「……無理しなさんな。私もさっきまでのノリの方がいい」
果たして、その言葉に目を見開いた檸檬は。
「──ありがと、う」
恥ずかしそうに、しかしその顔には自然な笑みを浮かべて、頷いた。
結果、その日も「お礼」の内容は決まらなかった。
しかし、二人が過ごせるその時間は、尊いものだった──。
……というのが15回くらい続いた。
「──あのさぁ」
「ふぁい?」
思い出のカラオケルームで、檸檬はピザを頬張る。それに苦言を呈したのは芽吹。
「お礼の内容、決め忘れてない?」
「えへへ」
「えへへじゃねぇよ」
このやり取りも何回目だろうか。芽吹はこめかみを抑える。
「いやあのね? 勿論私だって楽しいよ? でも元々──」
「楽しんでくれてるんですね」
随分と都合のいい耳である。あのなぁ、と続けようとした芽吹は、しかし彼女の微笑みを見て口を結ぶ。態々幸せに水を刺すような趣味は彼女にはない。
しかし、何か納得できない。
「もはや目的と手段が逆転してるまでありますからね」
「新人の部下を叱る上司か己は」
彼女自身、檸檬と会うことを楽しみにしている節はある。だからこそわからない。知り合いだったわけでもない少女と、何故親しくなることができるのか。
「……まあいいや」
「どうしました?」
わからないまま、この関係を終わらせたくない……それが、芽吹の出したある種の答えだった。いつかわかればいい。だから、それまでは。
「……飴、いる?」
「え、なんすか急に。怖いんすけど」
「じゃあやっぱやめよ」
「ごめんなさいほしいです」
少しでも長く、一緒にいられるように。かつて
その飴を差し出した瞬間、檸檬の表情が明らかに険しくなったのだ。
「……レモン、嫌いだったか」
「そういうわけじゃないです」
口では否定するも、その態度はあからさまに不機嫌そうだった。ごめん、と謝ろうとした芽吹を、檸檬が遮る。
「その……あなたになら、言える気がするから……聞いてくれませんか?」
何を、とは言わない。しかし、その中に求めていた物があるような気がして、芽吹は勢いよく頷いた。
「……こんなこと、あんのか」
運命というのは、なんと不可思議な物か。いつかの公園で檸檬と別れた芽吹は、遥か彼方で輝く月を眺めて溜息を吐いた。
檸檬が語った内容を端的に纏めると。
自分のせいで、美緒という人物が死んだ。何度も後を追おうとし、何度も美緒に会おうとし。
……それでも、生きなければいけない気がして。その事故から3年もの間、生きてきた。生前、よく美緒に「死んではいけない」と言われていたらしい。
ただ、レモン味の何か──特に、美緒からよく貰っていた飴玉──を見る度に、美緒に責められているような気がして、再び死にたくなるのだと。
「──でも、あなたに貰ったやつなら……食べれる気がします」
そう言った彼女の行動は早かった。芽吹から飴をひったくり、それを口の中に放り投げる。
唖然とする芽吹を余所に、彼女は飴を舐め、そして。
「……美味しい」
そう呟いた彼女の頬には、涙が流れていた。
……さて、ここで。美緒とは、一体、どのような人物だったのか。
彼女は何よりも「姉」というものに憧れていた。その理由は一つ。彼女自身に姉がいたからだろう。
彼女の姉は、その名を
そして、美緒は「別れ」というものを恐れていた。その理由はというと、これまた芽吹が関係している。
美緒と芽吹は一時期、離れ離れになったことがある。美緒がまだ3歳の頃、大きな災害が起き、芽吹だけが学校に取り残されてしまったのだ。幸い美緒の家族は誰一人として死ななかったが、それは彼女にとって大きなトラウマなった。
その時からだ、美緒が「別れ」に執着するようになったのは。
何があっても、死んではいけない。絶対に生き続けなければならない。
ある種の歪みを持って育った美緒。周りの友人達が段々と彼女を恐れて距離を取る中、現れた──正確に言えば、美緒達が引っ越してきたわけだが──人物。それこそが檸檬だった。
檸檬は昔から体が弱かった。生まれた瞬間には既に呼吸をしておらず、彼女が最初に入れられたのは保育器だった程には。
美緒の姉への憧れ、そして異様なまでの別れへの執着。その矛先は、檸檬へと向かっていった。
そしてまた、芽吹も「姉」というものに執着していた。
少しでも、姉らしく。少しでも、美緒にとっての大人になれるように。その執着が落ち着いていた矢先のことである、美緒が檸檬を庇って死んだのは。
芽吹と檸檬との接点はなかったが、彼女は檸檬の話は美緒から聞いていた。曰く、不思議な名前をしているのだと。曰く、とても体が弱く、とても可愛らしい女の子なのだと。
名前こそ知らないが、大体どの家の子供かは想像がつく。彼女を庇って美緒が死んだと聞いた時、芽吹は檸檬を殺してしまおうかとさえ思った。
しかし、それは美緒が望まない。だからこそ、彼女はその衝動をずっと抑えてきていた。
……まさか、檸檬が美緒の言う「可愛らしい女の子」だったとは。聞き間違えだと思っていたが、確かに檸檬が初めて芽吹の顔を見た時も、美緒の名前を呼んでいた。
「……どうしよう、私」
いくらなんでも殺しはしない。彼女ももう成人だ。檸檬がわざと美緒を殺したわけではないことくらい理解できている、つもりだ。
しかし、それ以上に。
「あいつのこと、好きになっちまった……か?」
……本当に?
彼女の頭の中を、一つの疑問がよぎる。
何故か、檸檬とだけは古い友人のように話せた。
──じゃあ、今まで私に友人なんていた?
彼女は友人、という存在に興味がない。高校のクラスメイトとは少しばかり話す程度、大学に入ってからは専らスマホを弄っており、誰かと遊びに行く、なんてことは一度たりともない。
檸檬は極端に「別れ」を恐れる。ある意味では執着している、とも言えるだろうか。
それは今まで、友人達や両親、そして美緒との別れがあったから。
檸檬は人との接し方がわからない。
それは今まで、まともに人と関わってこなかったから。
……そして何より、檸檬と芽吹は似た者同士で。
「──あぁ、漸くわかった」
これが、求めていた答えならば。
「
「……それ」
芽吹から檸檬を誘うのは、初めてのことだった。待ち合わせ場所は例によって、二人が初めて言葉を交わしたあの公園。
平日だった為か、制服のまま走ってきた檸檬とは対照的に、芽吹は彼女のイメージとは程遠い、可愛らしい服を着ていた。
……大人は着ないであろう、桜色のワンピース。檸檬にとっては、確かに見覚えのある格好。
「ほら、行くぞ」
「えっ……あ、はい」
似ている。
見た目が、雰囲気が、という訳では無い。しかし何故か、檸檬は咄嗟にそう思ってしまった。
「あ、そうだ。お前、身分証明書持ってるか?」
そんな檸檬には気付かず──或いは、無視しているのか──芽吹は歩き出す。第一、身分証明書が必要な施設とは一体。
「ちょっと待っ……」
檸檬が呼び止めようとしても芽吹は止まらない。もう諦めたのか、檸檬も黙って彼女に着いていった。
果たして、到着したのはネットカフェ。戸惑う檸檬を余所に、芽吹は手続きを進めていく。
「──身分証明証をお出しください」
「あ、はい。これです」
お前も出せ、と芽吹に催促され、学生証を出す檸檬。事前の説明がなかったから戸惑いこそしたものの、芽吹と二人きりというのもやぶさかではない。しかしその余裕も、次の瞬間には崩れることとなった。
芽吹の出した保険証に載っている彼女のフルネーム。その名字は、かつて檸檬を守った少女と同じもの。
「では、こちらのお部屋に──」
店員の声が檸檬の耳をすり抜けていく。まるで世界が突然ひっくり返されたかのような感覚。檸檬はただ、芽吹に着いていくことしかできなかった。
「──私、妹がいてさ」
個室の中に入った芽吹がまず始めたのは昔話だった。
……とだけ聞けば、まるで飲み会で過去の栄光を語る上司のように聞こえるかもしれない。しかしその声音から、自慢と言った類の話ではないのは明らかだ。
檸檬自身、その「妹」が誰なのか、皆目見当がつかない……というわけでもない。部屋の中には、只管に重い空気が流れる。
「なんて言うかな……依存体質って言うのかね? だからさ、いっつもおまじないっつって、いろんな奴に飴を渡してたんだよな。いつまでも一緒にいられますように……って。特に花言葉とか意識してたみたいでな、相手に合わせて味を変えてた」
「……レモン味」
大正解だ──その言葉とともに、芽吹が檸檬に差し出したのは一つの飴玉。つい先日と同じ状況に、芽吹は思わず笑みを零す。しかしその目には、一切の光は見えない……そう錯覚できるほどに、彼女の纏う雰囲気は異様なものだった。
「知ってるか? レモンの花言葉……あぁ、まあこの場合は木の方についた花言葉、らしいが」
「……ごめんなさい、わかりません」
「──『心からの思慕』だってさ」
檸檬は息を呑む。それが正しいのならば、美緒は。
「一時期、すっげぇ悩んでたんだよ……近所の可愛い子に恋しちゃった、って。まあ結局、最終的にはそいつのことを想って告白も断った、って言ってたけど。ほんっと、周りのことばっか気にしてさ。本当に好きなら、付き合えばいいってのに」
「ただ、私にはそれが本当に恋なのかどうかわからなかった。あいつ、結構分別がなくてな。人との関わり方は知らんし、なんなら私にまで好きになっちゃった、とか言ってきたことあるし」
「しかも結構過保護なところがあってな……特に自分より年下のやつには、本当の親なんじゃないかってくらい干渉しようとするし、これにも私は巻き込むし」
「……本当の言っちゃうとな、最初は、うざったく思ってた。あんな奴いなくなればいいのにって。でも、それでもお姉ちゃんになろうとして、漸くあいつが可愛く見えてきて……そんな矢先、あいつは例の可愛い子とやらを庇って死んだ」
檸檬は頷くことも、否定することもできない。芽吹が檸檬と美緒の関係に気がついてしまったように、彼女もまた、芽吹と美緒の関係に気がついてしまったからだ。
「あぁ、そんな顔すんなって。そうだなぁ、おい、お前──」
芽吹は檸檬の手を優しく握る。その結ばれた手はどちらも、小刻みに震えていた。
答えを聞きたいようで、怖いようで。
「──私のイメージ、教えてよ」
芽吹が出せる限り、最大限の甘い声。檸檬の脳裏に、檸檬の姿がよぎる。
「……変な人だと、思ってます。その、最初はちょっとだけ恨んでました。漸く死ねると思ったのに、邪魔するんだな……って」
「おいおい、随分な言い草だな」
その笑い声は、思いの外優しく。
「でも、臆病だなって……ずっと周りの事を気にしてて、その癖変なところで不器用で、常識もなくて」
少しでも、はっきりと。
「──ここまで言ったんだから、
檸檬は気付いてしまった。頭に浮かんだ、芽吹へのイメージ。それはどれも。
「正直。出会うまではかなり恨んでた」
何を、と。説明はいらない。二人だけがその意味を理解していれば、それでよかった。
「……人間関係も下手だし、距離感もおかしいし。その癖、別れってのを意識しすぎだし。
……まあ嫌いではないけど、と、小声で呟く。
思わず苦笑する檸檬。それにつられ、芽吹も口元に笑みを浮かべる。
思えば、お互いの名前を呼んだことは、これまで一度もなかった。
お互いの姿が、お互いの中で、美緒の姿に変わっていく。
「──そのイメージって」
「──そういうお前こそ」
──
***
──で、現在に至ると。
いやぁ、全く持って感動的なストーリー。これを映画館で放映したらもうみんな涙腺バッキバキになるね。主にあくびで。
取り敢えず、後日談……というほどのものではないとしても、あの後何があって、なんで私と芽吹さんが一緒にいるのかを、纏めておこうと思う。
端的に言うと、家族になりました、私達。
……ってだけ言うと、それはそれでだいぶ誤解されそうなものだけど。戸籍上では、私達の関係は親子っていうことになってる。まあ実際、どちらかというなら姉妹の方が近いかな?
つまるところ、私は芽吹さんの養子になったってこと。今まで私の世話をしてくれたおばさんには申し訳なかったけど、美緒さんのお姉さんだって言ったら快諾してくれて。結果、私と芽吹さんは同じ屋根の下で暮らすことになった。
んで、だ。じゃあ姉妹になったからって言って今までよりすごく仲が良くなったかって言われると、それは違う。
なぜなら、私の中に芽吹さんはいないから。
そして、芽吹さんの中にも私はいないから。
結局、私は芽吹さんを通して美緒さんを見ていただけだったし、芽吹さんも、私を通して美緒さんを見ているだけだった、ってのがオチ。
あの人は私を見てくれない。だから性悪って呼んでるの──。なんて言いつつも、その理論で行ったら私も性悪ってことになっちゃうわけだけど。
二人が一緒に暮らす、これ以上ないほどのハッピーエンド。私と芽吹さんの物語は、ここでおしまい。
……だから、ここからはじまるのは私だけの物語。
勿論ね、
やっぱ文章ってすごいよ、本当も嘘も全部超えられるから。
これは流石に芽吹さんにも言ってないけど、美緒さんが死んだ時、ちょっとだけ喜んだ自分がいたんだ。気まずくて、振られたことが悔しくて、辛くて。
でも、時間が経って。もう二度と会えないって分かった時、自分がどれだけ酷いことを考えてたのか、漸くわかった。謝りたい、でももう二度と会えない……。それからはもう、どうにかして美緒さんに会おうかって悩んで。しかも、それが結構癖になっちゃって。
実はね。その癖、まだ続いてるんだ。
芽吹さんがいない時、こっそり首を吊ろうとしてみたり。死んじゃ駄目だって理解してても、どうしてもやめられなかった。
……まあ、つまりだ。
文面ではいくら元気でも、中身はちょっと違うってこともあるんだよってこと。
もし芽吹さんにそれがバレて。芽吹さんが、それを否定しなかったとしたら。
芽吹さんが、美緒さんじゃなくて、私を見ている……ってことなんだと思う。
でも、それじゃ駄目なんだ。
私も、芽吹さんも、美緒さんの
……それに、こんな私が誰かに見てもらえるなんてこと、あっちゃいけない筈だから。
芽吹さんのことを考えると辛い。この
でも、美緒さんの夢を見ている内は何も動かない。
何もしなくて良い。何も考えなくて良い。
それが私と、あの人の幸せ。
それに、私が好きになった人はみんないなくなっちゃうって、経験上わかってるしね。
久しぶりに色々と吐き出したからかな、なんだかよくわからないことになっちゃった。何度でも言うけど、やっぱ文章ってすごいよ。すごく凝った作品を作ることもできれば、こうやって相手の反応も気にしないでよくわからない話をうだうだ書き続けることもできるわけだし。だから、ここが一番本音を曝け出せる場所って言っても過言じゃない……のかな?
……うん、やっぱりここが一番かな。芽吹さんと比べるのも悪いけど、やっぱりこうして隠し事もしてたわけだし。それに文章の中でなら、私は最初から最後まで素を出せる。でも、勿論これ自体が私っていうわけじゃない。言い方を変えれば、文章が一番私の素を表せる場所? になるのかな。
くだらないギャグとか、通じるかどうかもわからないネタだとか……そんなのばっかり書いているのも私。こうやって、ただの自分語りをずっと書き連ねてるのも私。どっちも私で、どっちも私じゃない。
……話がだいぶ逸れちゃったけど、取り敢えず、私がみんなに伝えたいことは一つ。大切なものほど、すぐになくなっちゃうんだよってこと。できれば、みんなには後悔してほしくない。
じゃあ、今度こそ私の話はおしまい。私は多分、自分自身を変えられない。芽吹さんも、変えようとはしないと思う。
それでいいんだ。私達は変われない。変わらないから、この関係は続いていく。
いつまでも、
きっとあの人もそう思ってるって、信じてるから。
だから、私は。
だから、私も。
──だから私は、夢を見る。