なんだ。だったら、約束なんてしなくて、よかったかも。
え……どういうこと?
約束なんてしなくたって……あなた、きっと『おともだち』になってくれたでしょう?
……そう、だね。これからはずっと、一緒、なんだよね。
ええ、そうよ。だってわたしたちは、おともだちだもの。
アヤは涙を流しながら、目を見開いていた。エリーもまた、目を見開いていた。
「なん、で……?」
友達だって、言ったじゃない──。そんな恨み言が、エリーの鼓膜を刺激する。
「あ……や……」
「アヤ……って……」
エリーは震える自分の手を見つめる。そこには
付着していた、というよりは寧ろ、アヤの体から垂れ流されていた、と言ったほうが正しいか。転がっていたアヤの屍体は、いつの間にか、人の形を失っていた。
その足は六本あり、昆虫の複眼のような目が無数に蠢いている。黒光りする胴体には何かに殴られて凹んだ跡があり、そこからは血管や神経が飛び出している。しかし一番、エリーの目を引くのは、胴体側面にある穴──つまり、アヤの口だった。
針と言うにはあまりに大きい器官が、飛び出していた。それには
元々顔があったはずのところからは、紐のようなものが飛び出しています──。
紐のようなものとは何か。血管や神経ではないか。
まるで、体内に手を突っ込まれて、いろいろなものを引きずり出されたようでした──。
もし同じような状況を作るのなら。巨大な刃や針に、それこそ
顔の右側がなくなって、その真ん中から左目があった筈の場所に、大きな穴があるおじさんが言いました──。
この針を顔の右目に刺せば、全く同じ傷跡になるのではないか。
お腹からいろいろな臓器がはみ出したおじさんが言うと──。
間違いない。この世界にいる人間は、皆、アヤが。
では、私はなんだ? 何処に欠損がある訳でもない。アヤと全く同じ姿で、同じように過ごしていた。そして何より、彼女は私のことを「アヤ」と呼んでいた。考えも纏まらない内に、エリーは思わず、走り出していた。失われていた記憶が蘇っていく。
いつの間にか、景色は学校の裏山に変わっていた。彼女の記憶ではそこそこの距離があった筈だが、その間を走った記憶はない。この世界に来てから、ずっとそうだった。休憩がしたいと思えばパン屋が現れ、パン以外の食料を求めれば魚屋が現れ、店員ではない人間を望めば、警察官が現れる。彼女が何かを望む度に、それに合わせた店や施設、人間が現れているのだ。
また一つ、記憶が蘇る。あの学校は彼女の通う中学校だった。そして、彼女が走っている、裏山は。
「エリー!」
頂上まで辿り着き、彼女は思わず声を上げた。そこに倒れていたのは、根本から倒された一本の巨大な木。此処は、彼女が宇宙人と出会った場所だった。
しかし、彼女の目を引いたのは、倒木ではなく、寧ろそこら中に広げられている白い糸だった。
「何、これ……?」
倒木を中心に、何本もの木に掛かる糸。それはまるで、巨大な蜘蛛の巣のようだった。その中心には糸でぐるぐる巻きにされた物体がぶら下がっており、確かな存在感を放っている。
記憶が蘇っていく。恐る恐るエリーが触れると、それは地面に落下する。カサ、という乾いた音が響いた。
糸と糸の隙間から、中身が見えた。エリーは小さく悲鳴を上げる。中身はどうやら、人間のようだった。
否。それは既に人間ではなかった。眼窩から垂れ流された液体は乾き切り、風に揺られてはカサカサと音を鳴らす。宿主のいなくなった蛹のような──或いは、抜け殻のような。彼女は地面にへたり込む。
「わた、し……?」
違う。それはアヤだ。頭の中で声がする。アヤって誰だ。エリーって誰だ。エリーはわたしの名前だ、いや、この姿の名前だ。じゃあ私は一体誰なんだ。
アヤを殺したのは私だ、と思った。抱き締められる寸前、体が勝手に動き、彼女の胴体を貫いた。それは人間にできる所業ではない。火事場の馬鹿力、とはよく言うが、だとして、一介の少女でしかないエリーに人の身体を貫くほどの力はない。ただ、もしもエリーが、既に人間ではなかったとしたら。
屍体が地面に倒れた。見計らったかのように糸が溶けていき、その中身が姿を表す。果たして、中に詰め込まれていたのは、四肢があらぬ方向に曲がり、
一ノ瀬亜矢。それが、今は空っぽになってしまった少女の名前。蘇った記憶は新しい記憶を呼び、疑惑は確信へと変わっていく。
エリーとは、この体の名前──一ノ瀬亜矢が、この場所で出会った、宇宙人の名前だった。
「私が、亜矢で……アヤが、エリー……?」
此処で宇宙人と出会ったのは私だ。此処で宇宙人と出会ったのはエリーだ。私はどうして、エリーと、名乗って。
そもそも、思い返せば、可笑しい事は幾つもあった。エリー、もとい亜矢は、この世界で目覚めてからの記憶を辿る。
この姿。最初こそ自分の可愛さ云々と考えていた亜矢だったが、これは確かに、亜矢の出会った宇宙人が取っていた姿だった。また、この世界で過ごす時間が長くなる毎に、亜矢の食性は変わっていった。元々肉が好きではなかった筈の彼女は、寧ろ好んで肉を摂取していた。それに、パン屋や魚屋から香っていた『エリーが一番好きだったかもしれない匂い』は、食材の匂いではなく、寧ろ人間の血の匂いではなかったか。真っ当な人間が、飛び出した臓器やらを見て、本当に驚くだけで済むのか。
過去を思い出すに連れ、亜矢は、段々と自分の意識が遠のくのを感じた。
記憶の中。現実の世界、倒れた木のすぐ側で、アヤ──エリーは、亜矢を抱き締める。まるで母親のような温かさに、亜矢は体と心を委ねた。そう言えば、母親からは、いつも小麦のいい香りがしていたような気がする。
ふと、亜矢は全身、特に腹に違和感を覚えた。目をやれば、エリーは消えており、六本足の怪物が、巨大な針のような器官を亜矢の腹に突き刺している。これは自分がこの世界に来る直前の記憶なのだと、亜矢は直感的に察した。
だが、察したところで、最早何が変わるという訳でもない。体の内側が壊れるような、溶けるような感覚を味わいながら、亜矢は絶叫する。
糸によって四肢が折られ、そこから悪臭を放つ液体が飛び散る。液体に侵される寸前の脳で、亜矢はエリーの姿を思い出していた。
金色の髪の毛が、綺麗な女の子。しかしそれは、ただの擬態に過ぎない。その本当の姿──と、亜矢は思っている──は、六本足の、蜘蛛のような怪物。
蜘蛛は巣に掛かった獲物へと消化液を流し込み、溶けた中身を吸うようにして捕食する。いつか見た情報を思い出し、亜矢は、どうしようもないほどの悲しみを覚えていた。
確かに亜矢は、彼女を、エリーを、友達だと思っていた。しかしエリーから見た亜矢は、ただの餌でしかなかった。痛みとは違う理由で、涙が零れる。
友達だって、言ったじゃない──。
あの笑顔も、最期の涙も。全部全部、嘘でしかなかった。消化液に脳髄を灼かれながら、亜矢は絶叫ともつかぬ笑い声を上げる。
意識が途絶えるその瞬間まで、世界には、狂った笑い声が響いていた。