彼女はすごく、いい匂いがする  ~「匂い」をテーマとした、ウマ娘の掌編連作~   作:木下望太郎

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1話  赤い蜜、甘い毒  ――マルゼンスキーの匂い――

 

 彼女はすごく、いい匂いがする。僕の担当するマルゼンスキーは。そのことに今日、初めて気づいた。

 

 オーバーワークを避けて軽めの練習を終えた後。彼女の行きたがっていたイタリアン――マルゼンスキー言うところのイタ飯――へ向かうため、学園の駐車場で待ち合わせていたとき。

 

「メンゴメンゴ、待った~?」

 

「いや、僕も今――」

 来たところ、そう言いかけて僕の動きは止まった。

 

 緩やかに吹いた風が彼女の髪と私服のスカートを揺らし。僕の方へと運んだ、彼女の匂いを。

 香り、ではない。練習後に浴びたであろうシャワー、その時に使ったシャンプー――僕が使うようなものとは比べものにならない、上質なものであろうそれ――は、もちろん香ったが。

 絹のように滑らかなその香気の流れとは別、その奥から立ち昇っていた。彼女自身の匂いが。

 

 香水ではない、汗の残り香でもない。彼女のにおい。髪から肌からにじみ出る匂い。

 体温分のぬくもりと湿度を帯びたそれが、彼女の肌の感触を僕の鼻孔に残しながら、嗅覚の先、僕の脳へと触れていた。頭の奥、まさにその脳が痺れるような感覚と共に。

 

「? どうしたのトレーナー君、急に固まっちゃって」

 首をかしげるマルゼンスキー。波打つ髪が肩の向こうで揺れ、いっそうそれが匂い立つ。

 

 慌ててかぶりを振り、何でもない、とごまかしながら車の方へ向かう。彼女の愛車たるスーパーカー。思えば、乗せてもらうのは初めてだった。

 

 やたらと車高の低いその中へと、かがんで身を滑り込ませる。戦闘機のコックピットに入るみたいだと、そのときは無邪気に思ったが。

 違った、ドアを閉めた直後に分かった。

 

 密閉されたその中には、彼女の匂いが満ちていた。間近にいるマルゼンスキーの、その匂いが。

 居住性を考慮していないその狭い空間は、コックピットなんかじゃなかった。まるで巣穴だった、マルゼンスキーと二人きり、潜り込むのがやっとの巣穴。あるいは棺桶にも思えた、肩を寄せ合って入るダブルサイズの棺桶。

 その中に、彼女の匂いが満ちている。僕へ染み込ませようとするかのように、僕を芯まで染め上げようとするかのように。

 

 そのにおいは、たとえるにしても花の香りではない、清楚に香る花びらのそれではない。あるいは、その奥で(ねば)つくものの匂い。花びらの奥で花粉を待つものの匂い。

 また、あるいは。きっと食虫植物の中は、こんな匂いがするのかも知れない。酔わせるように虫を誘い、捕らえて二度と離さない粘膜。奥の奥まで引きずり込んで、命ごと溶ろかす甘い毒。

 

 マルゼンスキーは、そっと微笑む。

「緊張してるの? 初めてだから? 初めてのデートだから、それとも、初めての――」

 

 そして、僕の手を取った。

「ね、こんなに狭いと。お互い、心臓の音まで聞こえそうね」

 

 息を呑む僕に、彼女は身を寄せる。

甘やかな匂いの源は、生温かい体温と吐息と共に、耳元でささやいた。

「リラックスして……ね? 私に、まかせて」

 

 心臓の音が響く。その大音が言葉を思考を、僕の頭蓋(ずがい)の外へと押し出す。その音、心臓の音が彼女のものか僕のものか、それすらももう分からない。

 ただ、その音以上に。彼女の匂いが僕を満たす。

 

 それから。僕は彼女に全てをまかせて。とにかく、大変なことになった。

 

 

 

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