彼女はすごく、いい匂いがする ~「匂い」をテーマとした、ウマ娘の掌編連作~ 作:木下望太郎
トレーナー室に、こぽこぽと湯の沸く音だけが響く。
マンハッタンカフェがケトルを手に取り、注ぎ口の細いドリップ用ポットに湯を移す。そうして湯温を調整した後、コーヒーポットに載せたドリッパーへわずかに湯を落とす。細引きのコーヒー豆に湯が染み渡るのを待って、渦を巻くようにまた湯を注ぐ。
音もなく膨らんでいく細引きの粉を、静かに彼女は見ていた。
そんな彼女の背を、オレ――彼女のトレーナー――は静かに見ていた。いつもの位置で椅子に腰かけて。
「どんなにおいですか」
あまりに不意に、カフェがそう口を開き。
オレは、びく、と背を震わせた。
「……何?」
日の差し込む流し台に向かい、こちらに背を向けたまま彼女は言った。
「いいにおいがする、って、ウマ娘は。そんな話題があったそうですね、昨日は」
なぜ君がそんなこと知ってる、そう言いかけたとき。
オレの座る傍ら、別の椅子が音を立てた。乱暴に踏みつけるような騒音と共に、載せていたクッションが目に見えぬ何者かに踏みにじられる――足の形、蹄鉄の形を残して沈み込む――。
「その子が教えてくれましたから」
なるほど、昨日の飲み会、カフェのお友達も来ていたというわけだ。物言わぬ亡霊のお
オレは肩をすくめた。
「なんだ、来てると言ってくれればお酌をして差し上げたのに。ところで、代金はちゃんと払ったのかい?」
湯の滴るコーヒーポットを放ったまま、カフェはこちらに向き直る。わずかに寄った眉に険があった。
「どんなにおいですか」
「え?」
じ、と真っ直ぐに視線を向けた。
「どんなのですか、と聞いているんです。私の、においは」
オレはさすがに眉根を寄せた。
浮世離れした子とは言え、お年頃だ。体臭が変じゃないか気になるということだろうか?
笑顔を作って答えた。
「決まってるさ、コーヒーの匂いだよ。挽き立ての香り高い――」
カフェはこちらに歩み寄り、座っているオレを見下ろす。視線は全く揺るがない。
「それは当たり前です、今コーヒーを淹れてるんですから。私は、私のにおいを聞いてるんです」
そして身をかがめ。ずい、と頭を鼻先に突きつけた。
隣では急かすように、見えない足が何度もクッションを踏む。
カフェはなおも頭を、ぐい、と近づける。
ひどく濃いコーヒーのような純黒の髪。その下から、澄んだ目がオレを、貫くように見つめている。
しばし、無言でその目を見つめた。
カフェは目をそらさなかった。
椅子の上ではいら立ったように足音が鳴り、さらに鳴り、椅子が震える。めぎめぎと軋む音さえした。
オレは鼻をひくつかせることなく身を引いた。
「コーヒーベース」
「え?」
目を瞬かせる彼女を横目に、続けた。
「コーヒーベース、カフェオレベースとも言うが。水や牛乳で割るとすぐアイスコーヒーができるあれだ。ひどく濃縮されたコーヒー」
息をついて続けた。
「わざわざ嗅いでみるまでもないさ、君の匂いはそれだ。ひどく、
「……怖い?」
オレは首を横に振る。
「多分思ってる漢字が違うな。強い、と書いて、こわい、だ。す、と飲み下せるアイスコーヒーなんかじゃない、そのままではとても口にできないほど濃く、重く、混じりけがない。夜そのものよりいっそう暗い、どろり、と濃縮された黒。そんな、においだ」
未だ目を瞬かせる彼女に、オレは無言で肩をすくめた。
きっと、君に愛される奴は世界一の幸せ者だ。揺るがないその視線で一生見つめられる、一生分濃縮された君の想いを受け取る。濃く、重く、混じりけのない想いを。
その
そしてきっと――蹄鉄の跡が残るクッションを見ながら思う――、君を裏切る奴は世界一の不幸者だ。何しろ血に飢えた地獄の猟犬を二頭、いっぺんに敵に回す羽目になる。揺るぎないその視線で睨まれ、一生分濃縮された君らの想いを受け取る。濃く、重く、混じりけのない想いを。
その怖いにおいを、嫌というほど嗅ぐことになる。
カフェが無表情にまた目を瞬かせ、首をかしげるのが横目で見えた。
そして。彼女は無言のまま、オレの背に顔を埋めた。
すう、と息を吸う音の後、言った。
「乾いた冷房のにおい。氷と水道水のにおい。――トレーナーさんからは、喫茶店のにおいがします。日の当たるカフェじゃない、古い喫茶店のにおい」
それからまた息を吸い込み。わずかに、声の響きを低めた。
「……濃縮された甘苦い香り。鼻に引っかかる蒸気のような、ニコチンのエスプレッソ。……電子煙草の匂い」
前へ来ると腰に手を当て、オレを真っ直ぐに見下ろした。
「煙草。やめるって言ってましたよね」
オレは肩をすくめてみせた。
「何、根気はある方でね。今年四度目の禁煙に再挑戦し始めたところさ、ついさっきから」
真似るようにカフェは肩をすくめた。
「期待はしないでおきます」
そうしてまた、こちらに身を寄せ。すん、と、鼻を動かした。
「……トレーナーさんは、いいにおいがします」
「……どうも」
オレはまた肩をすくめた。
――世界一の幸せ者と、世界一の不幸者。
――前者はどうか知らんが、後者にはならないと誓いたいね。
そう胸の内でつぶやいて、彼女から、そっ、と身を離した。