彼女はすごく、いい匂いがする  ~「匂い」をテーマとした、ウマ娘の掌編連作~   作:木下望太郎

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4話  濃く、重く、混じりけなく  ――マンハッタンカフェの匂い――

 

 トレーナー室に、こぽこぽと湯の沸く音だけが響く。

 

 マンハッタンカフェがケトルを手に取り、注ぎ口の細いドリップ用ポットに湯を移す。そうして湯温を調整した後、コーヒーポットに載せたドリッパーへわずかに湯を落とす。細引きのコーヒー豆に湯が染み渡るのを待って、渦を巻くようにまた湯を注ぐ。

 音もなく膨らんでいく細引きの粉を、静かに彼女は見ていた。

 

 そんな彼女の背を、オレ――彼女のトレーナー――は静かに見ていた。いつもの位置で椅子に腰かけて。

 

「どんなにおいですか」

 あまりに不意に、カフェがそう口を開き。

 

オレは、びく、と背を震わせた。

「……何?」

 

 日の差し込む流し台に向かい、こちらに背を向けたまま彼女は言った。

「いいにおいがする、って、ウマ娘は。そんな話題があったそうですね、昨日は」

 

 なぜ君がそんなこと知ってる、そう言いかけたとき。

 

 オレの座る傍ら、別の椅子が音を立てた。乱暴に踏みつけるような騒音と共に、載せていたクッションが目に見えぬ何者かに踏みにじられる――足の形、蹄鉄の形を残して沈み込む――。

 

「その子が教えてくれましたから」

 

 なるほど、昨日の飲み会、カフェのお友達も来ていたというわけだ。物言わぬ亡霊のお相伴(しょうばん)にあずかった、ということか。

 オレは肩をすくめた。

「なんだ、来てると言ってくれればお酌をして差し上げたのに。ところで、代金はちゃんと払ったのかい?」

 

 湯の滴るコーヒーポットを放ったまま、カフェはこちらに向き直る。わずかに寄った眉に険があった。

「どんなにおいですか」

 

「え?」

 

 じ、と真っ直ぐに視線を向けた。

「どんなのですか、と聞いているんです。私の、においは」

 

 オレはさすがに眉根を寄せた。

 浮世離れした子とは言え、お年頃だ。体臭が変じゃないか気になるということだろうか? 

 笑顔を作って答えた。

「決まってるさ、コーヒーの匂いだよ。挽き立ての香り高い――」

 

 カフェはこちらに歩み寄り、座っているオレを見下ろす。視線は全く揺るがない。

「それは当たり前です、今コーヒーを淹れてるんですから。私は、私のにおいを聞いてるんです」

 そして身をかがめ。ずい、と頭を鼻先に突きつけた。

 

 隣では急かすように、見えない足が何度もクッションを踏む。

 

 カフェはなおも頭を、ぐい、と近づける。

ひどく濃いコーヒーのような純黒の髪。その下から、澄んだ目がオレを、貫くように見つめている。

 

 しばし、無言でその目を見つめた。

 カフェは目をそらさなかった。

 椅子の上ではいら立ったように足音が鳴り、さらに鳴り、椅子が震える。めぎめぎと軋む音さえした。

 

 オレは鼻をひくつかせることなく身を引いた。

「コーヒーベース」

 

「え?」

 

 目を瞬かせる彼女を横目に、続けた。

「コーヒーベース、カフェオレベースとも言うが。水や牛乳で割るとすぐアイスコーヒーができるあれだ。ひどく濃縮されたコーヒー」

 息をついて続けた。

「わざわざ嗅いでみるまでもないさ、君の匂いはそれだ。ひどく、(こわ)いにおいだよ」

 

「……怖い?」

 

 オレは首を横に振る。

「多分思ってる漢字が違うな。強い、と書いて、こわい、だ。す、と飲み下せるアイスコーヒーなんかじゃない、そのままではとても口にできないほど濃く、重く、混じりけがない。夜そのものよりいっそう暗い、どろり、と濃縮された黒。そんな、においだ」

 

 未だ目を瞬かせる彼女に、オレは無言で肩をすくめた。

 きっと、君に愛される奴は世界一の幸せ者だ。揺るがないその視線で一生見つめられる、一生分濃縮された君の想いを受け取る。濃く、重く、混じりけのない想いを。

 その(こわ)い匂いを、胸一杯嗅ぐことになる。

 

 そしてきっと――蹄鉄の跡が残るクッションを見ながら思う――、君を裏切る奴は世界一の不幸者だ。何しろ血に飢えた地獄の猟犬を二頭、いっぺんに敵に回す羽目になる。揺るぎないその視線で睨まれ、一生分濃縮された君らの想いを受け取る。濃く、重く、混じりけのない想いを。

 その怖いにおいを、嫌というほど嗅ぐことになる。

 

 カフェが無表情にまた目を瞬かせ、首をかしげるのが横目で見えた。

 そして。彼女は無言のまま、オレの背に顔を埋めた。

 すう、と息を吸う音の後、言った。

「乾いた冷房のにおい。氷と水道水のにおい。――トレーナーさんからは、喫茶店のにおいがします。日の当たるカフェじゃない、古い喫茶店のにおい」

 

 それからまた息を吸い込み。わずかに、声の響きを低めた。

「……濃縮された甘苦い香り。鼻に引っかかる蒸気のような、ニコチンのエスプレッソ。……電子煙草の匂い」

 

 前へ来ると腰に手を当て、オレを真っ直ぐに見下ろした。

「煙草。やめるって言ってましたよね」

 

 オレは肩をすくめてみせた。

「何、根気はある方でね。今年四度目の禁煙に再挑戦し始めたところさ、ついさっきから」

 

 真似るようにカフェは肩をすくめた。

「期待はしないでおきます」

 そうしてまた、こちらに身を寄せ。すん、と、鼻を動かした。

「……トレーナーさんは、いいにおいがします」

 

「……どうも」

 オレはまた肩をすくめた。

 

 ――世界一の幸せ者と、世界一の不幸者。

 ――前者はどうか知らんが、後者にはならないと誓いたいね。

 

 そう胸の内でつぶやいて、彼女から、そっ、と身を離した。

 

 

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