彼女はすごく、いい匂いがする ~「匂い」をテーマとした、ウマ娘の掌編連作~ 作:木下望太郎
僕――スーパークリーク担当、
さっきから何度も玄関の呼び鈴が鳴っている、それは分かるのだが。体が重い。それにも増して、ひどく熱を帯びた頭は鼓動が打つたびに痛み、肉体に指示を送ることを拒んでいる。
風邪だ。自分の体調管理もできていないなどと、なんていう怠慢だ。こんなことでクリークに、体調管理を徹底しろなどとよくも言ったものだ――そんなことを考えている間にも、呼び鈴は鳴り続けている。
何か配達でも頼んでいただろうか、そういえば少し前にも呼び鈴が鳴っていたが――1階エントランスを開けるための――、相手も確認せず開けてしまった。
いや、そんなことがあったかどうかも、
無理やり体を動かしてベッドから下り、ふらつく脚を引きずりながら玄関へと向かう。
ドアを開けると、大きな買い物袋を提げたクリークがいた。
「大丈夫ですか、お見舞いに――」
最後まで言わせずに、僕はドアを閉めようとしたが。
「ちょ、ちょっとトレーナーさん!? いきなり――」
外ではクリークがドアノブをつかみ、ドアを引き止めていた。
「何をしに来たんだ帰れ! 君にまで
僕は渾身の力を込め、両手でノブを引いていたが。踏ん張っていた足から力が抜け、半ば引き倒されるようにその場へ崩れ落ちた。
「トレーナーさん!? と、とにかく中に――」
クリークは買い物袋を提げたまま、僕を軽々と抱え上げ。辺りを見回すと、寝室へと僕を運んだ。
「クリーク……だめだ、すぐに帰るんだ……手洗い、うがいを、あぁ、菌が付着しているかもしれない、服を洗濯して君もシャワーを……とにかく、帰るんだ」
お姫様抱っこの形からベッドへ横たえられながら、僕はそう指示したが。
クリークは静かに首を横に振る。指を一つ立てて言った。
「めっ、です、トレーナーさん。私の心配はともかく、ご自分の心配もしなきゃダメです」
そうして、買い物袋の中身をベッドのそばに並べる。スポーツドリンクや経口補水液。ゼリー飲料やヨーグルトなどの食べやすいもの。体の汗を拭くウェットシート。
確かに、うちにはすぐ食べられるような買い置きの食料はなかった。あるとして水と栄養サプリメントぐらいだったし、買出しに行く体力もない。正直、こればかりは感謝する他ない。
「すまない、助かっ――」
ベッドから身を起こし、礼を言いかけたときに見えた。買い物袋の中、まだ出していない残り半分が。
そこには何冊かの絵本があった。ひらがなで書かれた、明らかに幼児向けの。それに、同じく幼児向けのおもちゃがいくつか。
なぜそんなものが。そう思ったとき、ふと頭をよぎる記憶があった。
ベッドに身を横たえ、息をついて笑う。
「ああ、そういえば……笑える噂を耳にしたよ。なんでも、スーパークリークは妙なウマ娘だそうだ。ウマ娘だろうとトレーナーだろうと、無理やり抱き上げてはおしゃぶりをくわえさせ、赤ちゃん言葉であやす『でちゅね遊び』がお好きだとかね。はは、とんだ冗談だ。いったいどこからこんな根も葉もない――」
僕の笑いをさえぎるようにクリークが口を挟む。ベッドの上から覆いかぶさるように、僕の目をのぞきこんで。
「トレーナーさん。……誰から、聞いたんです?」
クリークは、固くほほ笑んではいたが。瞬きもせず、探るように真っ直ぐ、僕の目を見据えていた。
僕の笑みがそこで固まる。背中にかいた汗は発熱によるものばかりでなく、冷たいものが混じっていた。
――今の、多分。やってる奴のリアクションだ、噂どおりのことを。
――そして、多分。弱って寝ている今の僕は。でちゅね遊びの、
クリークは優しく、優しくほほ笑む。
「大丈夫ですか、トレーナーさん? なんだか、震えているみたいですけど」
震えていた、確かに。風邪の
いけない、とにかく、逃げなければ、そうでなければ僕のためにも、彼女のためにも良くないことが――そう考えて身を起こし、ベッドから立ち上がりつつこの場を離れる算段を考えるも。
フル回転させているはずの脳は空転していた、熱のせいで。懸命に駆け出そうとしたはずの脚も同様だった。
体の全てがいうことを聞かず。ただ、棒のように倒れていった。ベッドの前の床へと向かって。
「ト、トレーナーさん!」
床へとぶち当たるはずだった、僕の顔は柔らかい何かに埋まっていた。体もまた柔らかく注意深く、抱き止められていた。クリークの丸みを帯びた手に。
「もう大丈夫。大丈夫ですよ、ね? よしよし」
その手が優しく僕をなでる。柔らかな手。
そして僕が顔を埋めているものは、もっと柔らかい。どこまでも沈み込むように、全て包み込むように。それは薄温かく、しかし、やわりとした弾力をかき分けた奥がわずかに冷たい。熱でほてった頬に額に、その温度が心地良い。沈み込むように、何もかも包まれ溶け込むかのように心地良い。
「ん……」
目をつむったまま声を漏らし、息を吸い込む。
彼女は、スーパークリークは。その胸はどこか、ミルクの匂いがした。
泣きたくなるような、いい匂いがした。
「んん……」
僕はうなって目を開けた。ベッドの上に横たわったままで。
ついさっきまでクリークに抱きかかえられていたような気がしたが。首を巡らすも、彼女の姿はどこにもなかった。
だが枕元には、彼女が持ってきてくれた飲み物などがある。確かに、彼女はここにいた。
不意にお腹が、ぐぅ、と鳴る。どうやら食欲が湧くほどには回復したようだ。額はほてっていたが、これまでほどではない。
キッチンへ入ると、薄甘い、いい匂いがした。火のついていないコンロの上、片手鍋の中にはお
再び鳴るお腹にうながされ、器に盛る。器からスプーン山盛りに取ったそれを口へと運んだ、そのとたん。
薄甘い香りが舌に口に鼻の奥に、僕の中に広がった。ミルクの香り。
ほんのりと甘く、だがほどよく塩気を利かせたそれは、滋養のあるミルク粥。
わずかに温もりの残るそれを、クリークの匂いがするそれを。僕は、何度も口に運んだ。体の全てで味わうように食べた、目をつむって。まるで赤ん坊が、母の乳房を吸うみたいに。
後日。回復した僕はマスクをつけ、練習場でクリークと向き合っていた。
「――説明したとおり次のレースまで日もない、みっちりといくぞ。だが……すまなかった」
深く頭を下げる。
「こんなときに体調管理できていなかったのは僕のミスだ、本当にすまなかっ――」
僕の言葉をさえぎるように、クリークが首を横に振る。
「そんな、いいんです。トレーナーさんはいつもよくして下さっています」
指を一つ立てて続けた。
「それに、こう言ったら変ですけど、ちょうど良かったんですよ。実家の託児所の買出しを頼まれていたところでしたから。トレーナーさんの分の買い出しも一緒にしちゃいました」
ああ、と思い当たる。買い物袋の中、絵本やおもちゃなんかは。託児所のために買ったものだったのか。なんだ、そうか。
思わず息をついた僕の前に、不意にクリークが顔を寄せる。つぶやくように低く言った。
「トレーナーさん。お熱があったのに、よく頑張りまちたね? ……いい子でちゅね」
固くほほ笑む彼女の目は、僕の目の奥を見据えていて。
彼女からはあの時と同じ、
僕は寒気を感じ、震えて。
――でも。
――どうしようもなく、どきどきしていた。