二一五〇年、日本――寂れた町外れの小病院にて
その日の昼、灼けるような日差しのもと、ひと群れの人影が小さな病院へと押し寄せた。
先頭を行く男――中年の父親らしきその人影は、まるで凍てついた風の中を一人で歩かされているかのように、全身を小刻みに震わせながら進んでいた。
立夏、天空を暴君のように支配する太陽は、白光を滝のように容赦なく降らせていた。気温は二十六度を優に超えていたが、男の皮膚はその熱を一切感じ取れなかった。心は氷雨に何度も何度も叩かれるように、静かに、しかし確実に冷え切っていた。その冷たさは外から来るものではなく、胸の奥の、誰にも触れさせない場所から這い上がってくる類のものだった。
男は口を閉ざし、群れを引き連れて廊下を進む。無機質な白壁と蛍光灯の光に挟まれた、細く長い通路は、まるで現実と別の何かの境界線のように思えた。
一歩、一歩。まるで足元のタイルが抜け落ちるのではと怯えるかのように、小さな、恐る恐るの歩幅で。踏み出すたびに靴底が立てる音が、やけに大きく、やけに鮮明に、静寂の廊下に響いた。
「……ここだ」
男は、喉の奥から絞り出すようなかすれ声でそう言い、一枚の白い扉の前で立ち止まった。
誰もが息を呑んだ。音が消えた。ノブに添えた男の指は、細かく、細かく震えていた。それはこれほど長く生きてきて、これほど多くの別れを経てきてなお、人間の指というものが震えることをやめられないのだという、残酷な事実だった。
扉を押し開くと、薄暗い病室に柔らかな光が射し込んだ。
窓際のベッドに横たわる老父――かつての「父親」が、そこにいた。
老人の体は、まるで彫刻刀で削り取られたかのように痩せこけていた。骨ばった四肢は、力を込めずとも砕け散りそうなほど細く、皮膚は土の色に近い黄みを帯びて、皺の一本一本が深い溝のように刻まれていた。かつてあれほど大きく見えた手が、今はシーツの上に力なく置かれ、まるで枯れ木の枝のようだった。
病室には、止まりかけた歯車のようにかすかな呻き声だけが満ち、時計の秒針の音すら耳に痛かった。空気さえも重く、息を吸うたびに消毒液と老いと、別れの予感が肺に満ちてくるような気がした。
あの頃――「嘘はつくな」と厳しくも柔らかに教えてくれた、あの頼もしい祖父の姿は、いまや影法師のように淡く、儚く、ただそこに横たわるだけだった。
思い出の断片が、鼻の奥を鋭く刺す。あの日の声が、あの日の笑顔が、記憶の底から音もなく浮かび上がり、胸の奥に鈍く、熱い痛みが広がっていく。視界の端がにじみ、世界の輪郭がにじんだ。
「父さん……おじいちゃん、もう……」
少年の震える声が、病室の静寂に溶けた。溶けて、消えて、それでも空気の中にしばらく漂っているような、そういう声だった。
父は深く頷き、かすれた声で応じた。
「……大丈夫だ。最期まで、ここにいよう」
男は靴音を消し、静かに老父のもとへ歩み寄った。丸椅子に腰を下ろし、両手で慎重に、まるで今にも砕け散りそうな氷細工を慈しむ職人のように、祖父の骨ばった顔に触れた。その手の温かさが、老人の皮膚に伝わっているかどうかも、今はもうわからなかった。それでも触れずにいることは、できなかった。
そして――
老父のまぶたが、かすかに震えた。
乾ききった瞳が、重たそうに、ゆっくりと、しかし確かな意志を持って開く。
その視線は迷いなく、吸い寄せられるように、男たちを捉えた。
痩せた唇が、わずかに震えた。
声は出ていなかった。だが、確かに――そこには、笑みがあった。
来てくれたことへの、魂そのものの深い場所から、最後の力を振り絞って絞り出したような、深い、深い歓喜の笑みだった。それは美しかった。美しくて、だからこそ、胸が潰れそうだった。
父は、氷解する雪のように静かな笑みを返した。
その穏やかさに反して、足を止めた息子は、顔を伏せたまま、胸を灼かれるような悲しみに奥歯を噛みしめながら耐えていた。
親戚たちもまた、言葉の船を漕ぎ出すことができず、波打つ心を持て余したまま所在なげに立ち尽くしていた。一人は、背を向け、堰を切った川のように声を漏らして泣いていた。肩が揺れるたびに、あの重い沈黙がさらに深く、重くなっていくようだった。
その張り詰めた沈黙を、親戚の一人――叔父の出井炭門(でい たまど)が、わずかに身を乗り出して破った。
彼は、老父に向かい、喉の奥からかすれるような声を、ゆっくりと、大切に扱うように絞り出した。
「なぁ……覚えているかい。私のことを……炭門だよ」
その言葉は、ひとしずくの露が乾いた土に落ちるように、そっと、確かに病室に染み込んだ。
彼と老父は、夜毎に盃を重ね、たわいもない話で朝を迎えた戦友だった。笑い、怒り、泣き、また笑った、長い長い年月を共にした。
「君だけだよ。私みたいな頑固者を、素直に喋らせてくれたのは。」
懐かしむように笑う炭門の声が、まだ空気の中に残っているうちに、横から冷たく射抜くような声が遮った。
「……馬鹿いえ、喋らなかっただけだろ。」
吐き捨てるようなその声は、炭門の養子である少女――エリーだった。
かつて、家族の手で心を踏みにじられ、孤児院に預けられた彼女は、炭門に拾われ、新たな生活を始めることとなる。だが、心に刻まれた棘は容易には抜けず、引っ張れば引っ張るほど深く食い込む類のものだった。今なお彼女の言葉には、荒れた海のような激しさと、乾いた怒りと、その奥に隠した何かが、いつも滲んでいた。
「ケッ、くだらねぇ。何が看取りだよ」
エリーの吐き捨てる声は、病室の空気を震わせた。
「おい、エリー!」
炭門が眉を吊り上げる。しかし、父はそれをひと振りの手で静かに制した。その仕草には、言葉よりも重い、静かな、揺るぎない意志が宿っていた。
「いいんだよ、炭門。……気にすんな」
その声は、ひとつの山が長い長い風雪に耐え抜いたあとのように、重く、静かだった。怒りでも諦めでもない。ただ、別れを受け入れた者だけが持つことのできる、深い寂寞がそこにあった。
その時、父の背後に控えていた少年――熱希(あつき)が、小さな、か細い声で名を呼んだ。
「……父さん」
その瞳は、濁った泉の底から光を求めるように揺れていた。少年は、十七になっても、なお未熟な心のまま、迫る別れの重さに打ちひしがれ、どこに足をつければいいかもわからずにいた。
父親は、言葉なく、少年をそっと胸に抱き寄せた。
小さな肩が震え、押し殺された嗚咽が、胸板を何度も打った。
「……わかってるさ。お前は、じいちゃんのことが大好きだったもんな」
囁かれたその言葉は、少年の心の堰を音もなく崩した。
「……ねぇ父さん!姉貴のやつは、どうして来ないんだよ!」
少年は絶叫した。拳を握り締め、爪が掌に食い込むほどに。その拳を伝って、熱い雫がぽたぽたと膝を濡らした。来ない人間への怒りなのか、来てくれない悲しみなのか、自分でもわからないまま、ただ叫んだ。
父は、目を伏せ、苦く唇を噛みしめた。
「あいつのことは、もう気にするな。何度連絡しても、無駄だった。……あいつ、舞蔵(まいら)はな、じいちゃんを嫌っていたんだ。昔から、波長が合わなかった。……お前も見ただろう。じいちゃんの悪口を吐き散らして、あいつが家を飛び出したあの日を。」
「あぁ、憶えてる。嫌でも憶えてるさ!」
少年の体が、小さく跳ねるように震えた。拳をぎゅっと膝に押し付け、涙で濡れた顔を伏せた。その震える背中を、父親は黙って撫でた。まるで、冬枯れた木を優しく包む春風のように、ただ黙って撫で続けた。
父の胸の奥にもまた、燃え残った怒りの炭火があった。しかし、それを表に出すことはなかった。
なぜなら――
別れの場に、怒りは似合わない。
それだけは、彼が痛いほど知っていたからだ。
「やめろ、熱希。」
低く、炭門が言った。その声は、まるで刃を鞘に納める音のように、少年の荒ぶる感情をそっと包み込んだ。
「敵意を向けたところで、意味はねぇんだ。霧に向かって刀を振るうようなものだ。それに……君のおじいちゃんも、そんなことは望んではいないだろう。」
熱希の肩が、びくりと震えた。しかしそれは叱責ではなく、救いのようなものだった。怒りの行き場を誰かが静かに受け止めてくれた、そういう感触だった。
「私達にできることは一つだ。……親父を、お前にとってのじいちゃんを、穏やかな心で見送る。それだけだ。……そうだろ?」
その瞬間だった。
病室の空気が、ゆらりと水面のように震えた。誰もが一斉に、何かを感じ取り、目を細め、周囲を見回した。だが、そこには何もなかった。ただ、無音と、漂う予感だけがあった。
父親――鈴太郎が祖父の方へ視線を戻し、あっと小さな悲鳴を洩らした。
「…………ありがとうなぁ……来てくれたんか……みんな……」
か細い声が、空気を震わせた。
祖父――蘭賀が、しゃべったのだ。
鈴太郎の胸に、溢れるものがあった。言葉にならなかった。ただただ涙が、温もりを持って頬を伝い、顎を伝い、服を濡らした。
その場にいた親戚の一人もまた、目を剥き、震える脚で祖父の傍らへ駆け寄った。
「鈴太郎……お前が……みんなを呼んでくれたんか……」
「あぁ……けど、娘は呼べなかった」
鈴太郎は、唇を噛み締めながら答えた。その一言に、どれほどの電話をかけ、どれほど待ち、どれほど諦めたかが、全部詰まっていた。
「そうか……残念じゃなぁ……あいつにも、また会いたかった……が……」
老父の声は、風に吹かれる枯葉のように、かすれ、か細く、一言一言が消えていきそうなほど薄かった。
「あの生意気なガキンチョにか?」
エリーが、場に似つかわしくない毒を吐いた。しかし祖父は、ふっと笑った。その笑いには、責めるものが何一つなかった。
「エリー、それは君も同じだろう」
老父の目尻に浮かんだ皺は、ただの老いではなく、かつての温かな日々を刻む地図のようだった。その地図を読めるのは、長い時間をともに生きてきた者だけだった。
彼は、笑った。
まるで、最期にほんの少しだけ、かつての"普通の暮らし"を取り戻したかのように。まるで今この瞬間だけが、死というものの外側にあるかのように。
「はっはっ……はぁ……なぁ、熱希」
「どうした……おじいちゃん」
熱希が小さく、引き寄せられるように身を乗り出す。
「大学に行くための勉強……頑張るんじゃぞ」
「まだちょっと早いよ。俺、まだ高校二年だぜ?」
熱希は苦笑したが、その笑いは胸の奥に迫る何かを誤魔化すためのもので、誰の目にも明らかだった。
「なぁに……そんときから……頑張るんじゃ……安心せぇ……努力は報われる。嘘じゃないぞ」
その声は、土の中に埋めた種が、芽吹く日を信じて語りかけるようだった。迷いがなかった。九十六年分の重さを持って、その言葉はまっすぐに少年へと届いた。
熱希は、何も言えなかった。嫌なのではない。ただただ――祖父を、心の底から愛していた。だからこそ、失うことが、恐ろしくて仕方なかった。怖くて怖くて、その恐ろしさが涙となって出てくることすら、今はできなかった。
「嫌だよ……いなくならないで……」
少年の叫びは、細い糸が切れる瞬間のように、痛々しかった。
「……そりゃ、無理な話じゃ。人は皆、死ぬ。運命にゃ逆らえん……」
祖父の手に触れる。
冷たい。
まるで、夜明け前の霜を触るように、冷たかった。温もりを探しても、もうそこにはない。それでも離せなかった。離したら、その冷たさが本当になってしまうような気がして、離せなかった。
理解したくなかった現実が、掌から滲み込んでくる。
熱希は、泣いた。
声を押し殺しながらも、全身を震わせて泣いた。どこにもぶつけようのない悲しみが、波のように何度も押し寄せた。
エリーもまた、何も言えなかった。喉元に、酸っぱく苦い味が広がり、思わず背を向けた。手が、無意識に震えた。言葉を持たない感情が、彼女の中で静かに暴れていた。
「エリー……。怖いよな」
炭門が呟いた。その声は低く、乾いていた。
彼の心にも、痛烈な記憶が蘇っていた。かつて、最愛の妻を看取ったあの日。同じ病室、同じ天井、同じ音。あの日と今日が、胸の中で重なって、一つになっていく。そこには、まだ十にもならぬほど幼かった頃のエリーもいた。あの日の彼女の小さな背中が、今の彼女の背中に重なった。
彼は、滲んだ視界を手の甲で静かに拭った。
「鈴太郎……みんなを……よろしくな……」
祖父の最後の言葉だった。
「……親父……わかったよ。そして……いずれ、俺もあんたのところに行く。そしたら、また、二人で駄弁ろうぜ……あんたが死んだ後、どんなことが起きたか……それから……」
そのとき、祖父の手が、ふっと冷たさを増した。
空気が止まり、世界が色を失った。窓に打ちつける風が、カタカタと寂しく鳴る。その音が、やけに遠く聞こえた。
「……最後くらい、全部、言わせろよ……」
鈴太郎が、嗚咽まじりに叫んだ。そして、亡骸にすがりつくように、泣いた。
「寂しいよぉ……寂しいよぉ……!!」
子どものように、壊れた人形のように、何度も何度も叫んだ。その叫びは誰にも止められなかった。止めようとする者もいなかった。それは、止めてはいけないものだった。
「………………」
「……なぁ、葉燐。……じいさんに、なにか言わなくてよかったのか?」
葉燐――エリーの恋人でもある彼は、ただ首を振った。
「言えませんでした……。彼を前にして、何を言えばいいか……わからなかったんです!」
涙が頬をつたう。彼もまた、祖父を心から慕っていた。慕っていたからこそ、言葉が出なかった。最後まで出なかった。それが今、胸に重く刺さっていた。
炭門は、無言で窓辺へ歩いた。カーテンを押しのけ、青く高い空を、ただ静かに見上げた。遠く、光の粒が舞うように見えた。
「……さようなら、蘭賀……また、駄弁るときが来るかもな」
そう呟き、静かに目を閉じた。その言葉には、悲しみも怒りも含まれていなかった。ただ、長い年月を生きた男が別の長い年月を生きた男へと送る、静かな、穏やかな別れだけがあった。
ーーーー
人は、死んでどうなるのだろうか。
これは誰もが一度は脳裏に浮かべる、答えなき問いだ。
仮説なら、掃いて捨てるほどある。天国、地獄、涅槃、輪廻、昇華、虚無。ある者は言った――「善を積めば天使が迎えに来る」と。またある者は叫んだ――「地獄には八つの層があり、その苦痛は千年に及ぶ」と。そのどれもが、もはや神話と噂と胡散の綯い交ぜでしかない。
だが、その中に一つ、妙に子どもじみていて、それでいて本質を突いた説がある。
――「別の存在に転生するんじゃないかな?」
それもまた、ただの推測に過ぎぬ。死後の世界は、結局のところ、"受け取った者にしか知り得ぬ秘密"なのだ。
人生とは積み木だ。幼き日より一つずつ重ねてきた記憶や経験という名のブロックが、最期の一息で音もなく崩れ去る。そして気づけば、見知らぬ床に立たされている。それが始まりだ。あるいは終わりだ。あるいはそのどちらでもない、何か別のものだ。
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「……まったく、死んでしもうたのぉ」
ぼやけた声が、墨を垂らしたような空間に響いた。輪郭のない闇の中、老いた男が一人、宙を彷徨っていた。
彼の名は蘭賀 真。享年九十六。
「もうちょいと長生きするつもりじゃったんじゃが……ん?」
足元もなければ、天井もない。見えるものはないのに、自分の存在だけはやけに確かだった。手がある。足もある。立っている。歩ける。それだけははっきりとわかった。
記憶をたぐる。最期の光景は、病室。家族のぬくもり。涙と、祈り。そして、静寂。それから先は、何もない。
「……死後の世界……ちゅうやつ、これかの?」
彼はぽつりと呟いた。それは漆黒の牢のようであり、羊水のように柔らかな闇でもあった。恐ろしいとも思えず、安心もできず、ただ在る、という状態だった。
「しっかし、真っ暗じゃのぉ……。まるで墨汁で世界そのものを塗りつぶされたような……どうも落ち着かんわい」
歩いても歩いても、音も感触もない。空間があるのかさえ不明だった。足を踏み出しているつもりなのに、前に進んでいるのかどうかも定かではない。それでも立ち止まるという選択肢が、なぜかなかった。
「これは……もしかして、地獄……?」
ぞくりと背筋に氷の棘が走った。だが次の瞬間、老いた魂はその疑念を怒りで豪快にかき消した。
「いやいやいや、あり得んわい!!儂がいつ嘘をついた!?名前に『真』があるんじゃぞ!?……そこはぁ、関係ないかもしれぬが、いやそれでも!真っすぐに生き、損ばかりしてきた人生じゃ!他人に流されず、酒の席でも口ごもらず、正直一直線で孤立したことも一度や二度じゃない!一生!それを貫き通してきたのじゃ!!」
彼は胸を張った――つもりだったが、実際に空間があるのかも怪しいので、ただの意気込みだけだった。それでも彼は確信していた。九十六年間、真っ直ぐに生きてきた自負だけは、闇の中でも揺るがなかった。
それでも、歩く。感覚のないこの場所で、時間だけがひたすら過ぎていく。不思議なことに、疲れが一切ない。息も上がらず、膝も痛まない。生前あれほど悩まされた膝の痛みが、嘘のように消えていた。
「おぉ……これが死者の特権ちゅうやつかの……まるで青春じゃ……!」
彼はふと、スキップをしてみた。
すると、
カン
カシャーン。
甲高い金属音が響いた。
「……なんじゃ?今の音は?」
ぴたりと足を止めると、音も止んだ。
「さっきから……やたら目線が高い気がするし、なんか……重いぞ……?」
おそるおそる、自身の身体に視線を落とす。
朱に染まった甲冑。屈強な筋肉。異様に長い脚。かつての細く縮んだ自分の体はどこにもない。指一本一本が、生前の倍ほどの太さで、節くれだった老人のそれではなく、鍛え上げられた戦士のものだった。
鏡がなくてもわかる。これはもう"蘭賀真"ではない。
「なんじゃこれは!?わ、儂は一体どうなってしまっとるんじゃ…!?」
そのとき――
カラン。
前方に、何かが落ちた音。音のほうへ向かうと、そこには双頭の槍が横たわっていた。片端は扇のように広がっており、もう一方は龍の爪のように鋭かった。それは明らかに武器で、明らかに生者の道具で、明らかにここにあるべきではないはずのものだった。
「こ、こいつは……?武器なんぞ握ったこともないのに……」
握った瞬間、不思議な感覚が指先から脳へと一息に走る。まるで、生まれたときからこれを握っていたかのような馴染み。手のひらの形に合わさるように、柄がそこにある。記憶と現実の境が、ぼやけてゆく。
「おぉい、儂は……儂は一体どうなってしもうたんじゃ……!」
そのときだった。漆黒の闇が、真ん中から裂けるように、一筋の光が走った。眩く、鋭く、迷いのない光だった。
「光……!」
まるで雷が大地を割ったかのような、その眩しさに、彼は衝動的に走った。鎧が鳴る。足が地を蹴る。風が、あるはずのない空間を裂いて吹き抜けた。理解する前に、体が動いていた。この状況を理解したい。自分は何者になったのか。この奇妙な異界の出口は、どこにあるのか。考えながら走り、走りながら考えた。
そして――
彼は、光を抜けた。
目の前には、信じがたいほど蒼く、広く、底抜けに明るい空が広がっていた。雲ひとつない。それは美しかった。生前に見たどの空よりも、圧倒的に美しかった。
……が、足元には何もなかった。
視線を落とす。虚無のような大穴が、どこまでも広がっていた。黒い渦、重力を裏返したような歪み、音すら飲み込む深淵が、眼下に口を開けていた。
蘭賀真は、静かに――そして悟ったように呟いた。
「……あぁ、なるほどな……これは……地獄行きか」
そして叫んだ。
「ぬおおおおおぉぉぉおおお~~~~~~~!!!」
その魂の慟哭は、美しい空へと届くことなく、深淵の底へと吸い込まれていった。
ーーーーー
「ぬおおおおおおぉぉおぉぉ……!!」
叫びは、落下の衝撃とともに空気を引き裂いて消えた——かに思われたその瞬間、蘭賀真の意識が、ふっと浮かび上がるように覚醒した。
「……おぉ?」
彼は、濁った水面から頭を出すように、突如として現実に引き戻された。全身が跳ね起き、腕が無秩序に空を掻いた。その様はまるで溺れた者が呼吸を求めてもがくようだった。呼吸は浅く早く、鼓動は胸の内側で鉄球のように跳ね回っていた。
しかし、不思議なことに、体には何の痛みもない。打撲も擦過傷も、骨の軋みすら感じられぬ。落ちたはずなのだ。遥か上空から地の果てへと——なのに、今この身体は、何の異常もなく存在している。
「死んどるのに、また死ぬ……?いや、すでに死んでおるのじゃったな……」
自嘲気味な呟きが、鎧の中で小さく反響した。手を見下ろすと、そこにはやはりあの赤銅色の重厚な甲冑。そして、足元には禍々しき双頭槍が静かに横たわっていた。現実と非現実、夢と真実がないまぜになり、思考は濁流のように混乱していく。それでも彼は立っている。立っていることだけは確かだった。
ふと、彼は下を見た。
「……はら、こりゃ……」
地面までの距離は、ざっと三百メートルはあるだろうか。鈍色の空を背景に、瓦屋根の上に一人、蘭賀真は立っていた。傾斜は急で、雪の斜面よりも滑りやすそうに見える。足元に踏み外す余白はなく、一歩でも油断すれば、奈落が口を開けて待ち構えている。それは生前の自分なら見るだけで膝が笑ったような高さだった。
雲の厚みに目を細めながら、彼は小さく唸った。
「むぅ……あそこに扉が見えるのぉ。屋根伝いに行くしかなさそうじゃが……問題は、どうやって……」
彼の視線の先には、隣接した屋根。そこには小さな木の扉がひっそりと口を開けていた。だが、その間には距離がある。屋根から屋根へ飛び移るには、槍では短すぎる。橋にもできぬ。思案したところで答えは出ない。答えが出ないなら、踏み出すしかない。
「まったく……あれだけ苦労して死んだというのに、ここでもまだ命を賭けねばならんとは」
溜息のような嘆きを洩らしつつ、彼は膝を屈めた。決意は、腹の底で一度きり大きく爆ぜた。
「ええい、ままよ!!とうっ!!」
重い鎧を纏った体が、瓦屋根を蹴って宙へと舞う。その跳躍は、まるで大砲の弾のように一直線に空間を突き抜けた。風が顔を叩き、鎧が鳴り、足元が消えた。
……が、次の瞬間、彼はある異変に気づく。
屋根が、通り過ぎた。
「……ん?待て待て、あれが……今飛び移ろうとした屋根じゃろ!?遠い!?」
眼下には地面が広がっていた。否、地面というより、黒土の皮を剥がされたような荒廃の大地。着地するにはまずい。彼の魂がそう叫んだ。だが、止まらない。身体は勢いに逆らえず、風を斬って一直線に落ちていく。次の瞬間、雷鳴のような衝撃音とともに、彼は地面と激突した——はずだった。
「ぬがぁっ!……いた……くない!?なんじゃ、これは?」
土煙がもわりと立ち昇る中、彼は驚愕とともに身を起こした。全身に走るはずの激痛はどこにもなく、鎧も割れていない。彼の体はまるで衝撃を無視する鉄の塊と化していた。生前の自分では考えられないほどの頑丈さだった。
「死んでもなお頑丈になるとは……おそろしきことじゃな」
これ以上考えても解は出ぬと、彼は館のほうへと戻ることにした。
が——
見上げた空に、異形の影が舞っていた。それは鳥でもなく、獣でもなく、何か忌まわしき別種の存在だった。赤く肥え太ったもの、白く痩せ細ったもの、いずれも飛行というよりは、空を這うように移動していた。羽ばたきもなく、風を蹴ることもなく。ただ静かに、滑るように、この世のものではない動きで宙を流れていた。
「……なんじゃ、ありゃあああ……」
肝が凍るような光景に、彼は無意識に身を屈めた。その動きは獣の本能に近かった。全身の筋肉が反射的に硬直し、呼吸すら浅く細くなる。目だけが、吸い寄せられるように上を追い続けた。
魔物たちは、明らかにどこかを目指している。迷いなく、一定の方向へと進み続けている。
「……行き先があるんじゃな?」
それは希望ではなく、興味でもなく、義務でもなかった。ただ、どうしても気になった。九十六年間、気になったものは見届けてきた。それは今さら変えられない性分だった。
気づけば彼は再び屋根へとよじ登り、足音を立てぬよう懸命に気を配りつつ、魔物たちの行く先を追いはじめた。だが、甲冑の金属は彼の意志を嘲笑うように鳴り続けた。
カン、ガシャン、ギィ……
「音が……音がうるさい!バレるじゃろうが!」
鎧に文句を言っても仕方がない。だが止められぬ。音を引きずりながら、それでも追った。
そして——魔物たちが突然動きを止めた。
岩陰へと身を滑り込ませた彼の目に映ったのは、広大な荒野の一角に整然と並ぶ、魔神たちの軍列だった。無数の異形が、まるで地獄の行軍のごとく、大地を揺るがすほどの圧で、ずらりと列をなしていた。その数は、見渡す限り途切れなかった。地平の果てまで続いているかのようだった。
彼は言葉を失った。
それはもはや「敵」という言葉では足りない。神話から滲み出た呪詛の化身の群れ。血と鉄、憎しみと怨嗟で形作られた異界の軍勢。生前に積み重ねてきた九十六年分のあらゆる経験が、目の前のものの異常さを告げていた。
「……ここは、地獄以上の何かじゃ……」
彼は、その目に映る異形の群れから一瞬たりとも視線を逸らさなかった。まるで一触即発の導火線に火が点いたかのような緊張感の中で、唐突に背後から静かな声が割って入る。
「どうした、ガラン。何か、見えるのか?……私には魔神の姿しか見えないけど…」
突如として背中に落ちるその声は、まるで冷たい鉄槌のように彼の意識を打ち据えた。誰だ――。ガランは驚愕と警戒のあまり、首が軋むほど勢いよく振り向いた。
そこに立っていたのは、漆黒のマントを纏い、口元に分厚い髭を蓄えた壮年の男だった。だが、ただの男ではない。その肉体には闇そのものが蛇のように巻きつき、まるでその存在が虚空から削り出されたかのような不気味な存在感を放っていた。そして彼は確かに、こう言ったのだ――「ガラン」と。
「それとも……怖気づいているのか?我ら魔神王直属の精鋭、『十戒』の一人たるお前が」
「じ、『十戒』、じゃと……?」
その名を耳にした瞬間、ガランの思考が砂嵐のように乱れた。まるで聞き慣れた言葉が、異世界の言語として再生されたかのような、理解と拒絶が入り混じった混沌。だが男は眉一つ動かさず、冷笑を浮かべた。
「……どうしたガラン。冗談を言うなど、お前らしくもない」
「冗談……ガラン……す、すまんが本当に、意味がわからんのじゃ……どういうことなんじゃ、一体――」
言い終える間もなく、男の掌が無言の刃のようにガランの口を塞いだ。その手から伝わるのは、警告ではなく――死の予感だった。
――それ以上言葉を漏らせば、自らの「戒禁」によって身体が蝕まれるぞ。
声すらないその忠告は、彼の中に根深く食い込んだ。「戒禁」――その意味もわからぬまま、口を噤むしかなかった。怒りでも困惑でもない。ただ、強制的に沈黙を強いられる重さだけがあった。
(戒禁……体を蝕む……?なんという理不尽……これは、呪いか?それとも契約か?)
一方で、男――モンスピートの内にも揺らぎが走っていた。目の前のガランが発している"空気"が、彼の知るそれとはどこか決定的に違っていたのだ。
(嘘をついたはずなのに、「真実」の戒禁が発動していない……まさか本当に――?)
その時、別の声が風を裂いた。疲れたように髪をかき上げながら現れたその女を、彼は視界の隅に認める。
「ぁ、デリエリ……」
デリエリ。そう口にした時、ガランの脳裏に既視感が灯った。それは親戚の少女――エリーに、あまりに酷似した輪郭、声音、気配だった。似すぎている。偶然の域を超えているほどに、似すぎていた。
(デリエリ……エリー……まさかそんな偶然が……いや、似すぎている……)
彼女は眉間に皺を寄せ、低く呟いた。
「……魔神たちを集めるのはいいが、こっちはあのメリオダスにアラクナとゼノを殺られた。十戒にはふたつの空席。しかも女神族側には、元・統率者のメリオダスがいる。勝ち目なんて、あるのか?」
「こうでもしなければ手遅れだ。数万に及ぶ我らの同胞が、次々と影も形もなく、忽然と姿を消している。……奴らは動いている。」
「だとしてもよぉ!!!」
その剣呑な声の隙間を縫って、ガランがぽつりと口を開いた。
「お、おぬし……もしかして、エリー……か?」
その瞬間、デリエリの顔に怒気が燃え上がった。だがモンスピートが腕を軽く伸ばし、彼女を静かに制した。
「待て、デリエリ。……少し話を聞いてくれ」
「……なんだ」
「おい、ガラン。一つ……嘘をついてくれ」
「嘘、じゃと……?」
「そうだ。ほんの、些細な嘘でいい。試してみたい」
嘘。それは彼の魂を貫く禁忌だった。彼の人生において、それは一滴の毒よりも厄介なもので、九十六年間、一度として妥協しなかったものだった。だが、今この場でそれを拒めば――目の前の女が怒声を浴びせ、魔神たちが牙を剥くやもしれぬ。
だが彼の選んだ答えは、九十六年分の人生と同じく、明快だった。
「そんなもん、つけるかーーっ!!!」
怒声が轟いた。乾いた大地すらびりびりと震わせるその咆哮に、二人は文字通り仰け反った。
「それよりもじゃ!儂の身に何が起こっておるんじゃ!?鎧は赤く、槍は不気味で、空は地獄の色!魔神などという連中が跳梁跋扈し、息を吸うことすら不快じゃ!……なぁ、教えてくれ!儂は、儂に何が起きておるんじゃ……っ」
叫びの果てには、幼子のような弱音が混ざっていた。デリエリは怒ることすら忘れ、唖然とした表情を浮かべた。モンスピートは口元の髭を弄りながら、静かに二度、頷いた。
「な?デリエリ、こういうことだ」
「……こいつ、まさか馬鹿なのか?」
「いや、馬鹿というより――『記憶が、消えてる』。それだけの話だ。」
その言葉に、ガランは顔をモンスピートへと寄せ、「どういうことなんじゃあ……」と、泣き出しそうな声で問いかけた。
「……分からない。ただ、"ゴウセル"という者が関わっているかもしれない。理由も、目的も、すべて謎さ。……だが結論だけは確かだ。"君は、記憶喪失になっており、代わりとして別の存在の記憶が挿入されている。"――それが真実。」
モンスピートは芝居がかった動作でビシッと指を差す。だが、ガランはその軽薄な演出に納得できず、深く息を吐いて地面を睨みつけた。それから、やがてその視線が空へと向かう。
そこにいたのは、紫の巨躯を持つ化け物と、黒き風を纏って空を翔ける、ひとりの少女だった。その姿を見て、ガランは雷に打たれたように指を突き出した。
「あ……あやつは……舞蔵にそっくりじゃ!!!」
「まいら?誰だ、それは」
「儂が……うーんと、えーっと……し、死ぬ前におった孫娘じゃ。儂のことを……嫌っとった……」
「死ぬ前?」
「うん……。」
言葉を聞きながら、モンスピートは不思議な感覚に囚われた。記憶にないはずの名が、どこか心の奥に響く――既視感のような、予感のような、あるいはもっと深いところから来る何かのような。
「なんだ、この奇妙な感覚は……やれやれ、戦を前にしてこの騒ぎとは、気が滅入るねぇ……てか、今の感じを見るにそもそもさっきの、私のカッコよく決めた発言、割とから回っているんじゃないか?これは………。」
そのとき、メラスキュラとフラウドリンが現れた。モンスピートは即座に声をかけた。
「おい、二人とも。ガランの様子が変だ。何か、知っていることは?」
「ガラン様が?」
「ジジイがおかしいって……いつものことでしょう?」
「そうじゃないんだ。」
経緯を伝えると、二人は半信半疑ながら、ガランの口から「自分が誰なのかもわからん」と漏れた瞬間、すべてを察した。
「……戒禁が、発動していない!?それって……本当に記憶がないってこと?」
「記憶がない……いや、それもまた違う。儂にとっては"間違っている"のじゃ!」
「……言い方を濁すのは嫌いよ?」
「カッカッカ、それも儂の孫娘がよく言うセリフじゃったな」
「ふーん。……っ……!?孫娘?この私が、そんなものに似てるっての!?」
「うむ、そうじゃが……」
メラスキュラの顔から血の気が引いた。その場に崩れ落ちそうなほどの絶望が、彼女を覆った。これほどの衝撃を受けたのは、生まれて初めてかもしれなかった。
「信じたくない……こんな、冗談……」
「うむ、証拠はないが、儂の記憶では確かにそうだった。あやつは儂を嫌って家を出ていった。『あんな頑固なジジイはもううんざり』と言ってな。」
「あぁなーんだ。それならまだ……」
「しかし儂は、嫌っとらんかったぞ。むしろ……正直で真っ直ぐな儂のような者を理解してくれたら、と思っておったのじゃが……」
「いやぁぁっ!!!キモイっ!!!!」
悲鳴を上げるメラスキュラを、フラウドリンが静かに支える。ガランは無邪気な笑顔で彼に向き直る。すでに察したフラウドリンは、言葉を差し挟まない。冷や汗をかきながら中指を突き立てるメラスキュラに、ガランは陽気に手を振って返した。どこか滑稽で、どこか切実な、そのやりとりの果てに、混沌の風が再び吹き荒れようとしていた。
「しかし……モンスピート。あいつが記憶を失ってるってのは本当らしいな」
「そして、「真実」を言っているのも本当のようだ。そうでなければとっくに石になっているだろう。……さて、本題に入ろうか」
彼は皆を同胞の集まっている場所へと移動させ、話し始めた。
「よぉく聞いてくれ。今からとんでもない展開を作るよ。特にガラン」
「ん?儂?」
「君はよぉーく聞いてくれ。……酷かもだが、やらなきゃいけないことなんだ……」
「わかった。しかし酷とは一体どういうことなのじゃ……?」
「……今から、「聖戦」を始める……!!!!」
聖なる戦。響きはいいが、それを聞いたガランは嫌な予感がしてならなかった。想像をした。まず文字通りのことではないだろうということだけは確信できた。それを断言できる根拠は一つたりともないが、間違いないと、断言できた。九十六年間、嫌な予感だけは外れたことがなかった。だからこそ、今この感覚が、ただの勘で終わってほしいと、初めて思った。